第十六話 深まる時間と罪悪感
十二月二十九日の朝は霜が厚かった。
庭の石灯籠は白い綿帽子をかぶり、柿の枯れ枝には細かい氷の粒が付いて朝日を浴びていた。
渉が縁側の障子を開けると冷気が頬を刺した。
吐く息がそのまま凍って落ちてきそうだった。
台所からは炭の匂いがした。
キヨが七輪に炭をおこして網の上に切り餅を並べている。
餅はゆっくりと膨らみ、表面に薄い焦げ目がついた。
ぷくり、と一つが割れて白い湯気が立つ。
キヨは菜箸でひっくり返し、醤油を刷毛で塗って海苔を巻いた。
「ほら、焼けたよ」
皿に載った磯辺巻きを渉は受け取った。
熱くて指先がじんとした。
噛むと餅は伸びて香ばしい醤油の匂いが鼻に抜けた。
海苔のぱりぱりした歯ざわりと餅の柔らかさが口の中で混ざる。
「うまいです」
「毎年これだけは欠かさないんだよ。亭主が好きだったからね」
キヨは網の上の餅を見つめたまま言った。
その横顔に渉は何も返せなかった。
この町に来て一月近くが過ぎようとしている。
帰り方はわからないままだった。
それでも焦りはなかった。
朝は豆腐屋のラッパで目が覚め、薪を割り、キヨの飯を食べ、夕方になればことぶきへ行く。
その繰り返しがいつの間にか渉の一日の形になっていた。
これが続けばいい、と思う自分に気づくたびに、渉は胸の奥で小さく息を詰めた。
夕方、ことぶきの窓際の席に澄子は先に来ていた。
コートを脱いで赤いセーターの袖をまくり、何かを両手で包むようにして見つめている。
渉が近づくと慌てて顔を上げた。
「あ、渉さん」
「何を見ていたんですか」
「ええと」
澄子は少し迷ってから、テーブルの上にそっと置いた。
紺色の布張りの厚いノートだった。
その隣に細長い黒い箱が並んでいる。
蓋が開いていて、中に万年筆が一本、白い綿に包まれて収まっていた。
「昨日の夜にもらったんです、一郎さんに」
渉の胸が小さく鳴った。
「仕事納めの帰りに橋のところで待ってて、これ、って突き出されて。顔が真っ赤で、私が受け取ったらもう走って行っちゃったんです」
澄子は声を立てずに笑った。
渉は万年筆を見た。
黒い軸に金色の細い輪が入っている。
ペン先に刻まれた小さな文字がストーブの炎を映して光った。
「パイロットの細字なんですって。インクはブルーブラックだって、箱の裏にメモが入ってました」
澄子は箱の蓋の裏から折りたたんだ紙片を取り出した。
拙い鉛筆の字で、ほそじ、ぶるーぶらっく、と書かれている。
「一郎さんってこういうの全然詳しくないはずなんです。誰かに聞いたのかな」
渉は喉の奥が熱くなるのを感じた。
自分が教えたことを黙っていていいのかどうか、答えが出ないまま口が動いていた。
「いい選び方だと思います」
「そうですか」
「ええ。ブルーブラックは時間が経つと少し黒に近づいて落ち着いた色になります。長く書くものには向いています」
澄子は目を丸くした。
「渉さんも詳しいんですね」
「仕事柄です」
「そっか、編集のお仕事、って前に言ってましたもんね」
そう言ってから澄子はノートの表紙を指でなぞった。
「実は私、日記を書いてるんです」
渉は黙って頷いた。
知っていたとは言えなかった。
「小学生のころからずっと。毎晩寝る前に今日あったことを書くだけなんですけど、誰にも見せたことはなくて。一郎さんそれを知っててくれたのかなって」
「どうしてそう思うんですか」
「ことぶきで私がノートを広げてるのを何度か見られてて、何書いてるんだ、って聞かれたことがあるんです。そのときは笑ってごまかしたんですけど」
澄子は頬を染めて小さく笑った。
「見ててくれたんだなあって思ったら、なんか胸があったかくなっちゃって」
渉は何も言えなかった。
胸の奥で何かが静かにきしんだ。
あの人は確かに澄子を見ている。
それを嬉しそうに語る澄子の顔を渉は正面から見ていられなかった。
カップを持ち上げて湯気の向こうに視線を逃がした。
「渉さんのことも書いてるんですよ」
不意に澄子が言った。
渉は危うくカップを取り落とすところだった。
「僕のことを」
「はい。不思議な人だなって、毎日。何を書いてるかは内緒ですけど」
澄子はいたずらっぽく笑って万年筆の蓋を閉じた。
その笑顔を見ながら渉は思った。
この人は日記に自分のことを書いている。
それはこの先ずっとこの世界のどこかに残る、ということだった。
母の手で書かれた自分の名前がどこかに残る。
それが嬉しかった。
同時にその名前が偽りの姓であることが胸を刺した。
十二月三十一日。
町は朝から静かだった。
商店街の店はほとんどが戸を閉め、シャッターの代わりに板戸が降りている。
八百屋の前に積まれていた蜜柑箱は消え、魚屋の氷の跡だけが石畳に黒く残っていた。
ひっそりした通りを北風が吹き抜けていく。
夕方になると空がすっかり暗くなった。
澄子とは約束どおりキヨの家の前で待ち合わせた。
格子戸を開けると門の外に赤いマフラーが立っていた。
毛糸の帽子をかぶって手袋をはめ、両手に息を吹きかけている。
「一郎さんは来られないそうです」
澄子が言った。
「工場の炉の火を落とさないように、年越しは泊まり番なんですって。ほんと不器用な人で」
「そうですか」
「だから二人で行きましょう、甘酒もらいに」
澄子は笑って先に歩き出した。
町外れの寺へ向かう道は暗かった。
街灯は途切れ途切れでその間を星明かりが埋めている。
凍った土が靴の下でざくざくと鳴った。
すれ違う人はほとんどなく、遠くの家の窓の灯りだけが橙の点になって浮かんでいる。
「寒いですね」
「ええ」
「こんな夜に外を歩くの子どものころ以来かも」
澄子は空を見上げた。
「星がすごい」
渉も顔を上げた。
空いっぱいに星が瞬いていた。
天の川が白い帯になって頭上を横切っている。
オリオンが南の空に高く傾いて、その下で冬の大三角が冷たく光っていた。
「きれいですね」
「ほんとに」
二人はしばらく立ち止まって空を見ていた。
言葉はなかった。
けれど渉は気づいた。
この沈黙は何かで埋めなければならないものではなかった。
そこに澄子がいる、というだけで十分に満ち足りた静けさだった。
その事実が嬉しかった。
そしてそれが怖かった。
寺の境内にはたくさんの人が集まっていた。
境内の隅で焚き火が燃えている。
赤い炎が闇の中で揺れて人々の顔を照らした。
大きな鉄鍋が据えられていて白い湯気が立っている。
割烹着姿の女たちが紙コップに甘酒を注いで配っていた。
澄子が二つ受け取ってひとつを渉に差し出した。
「はい」
「ありがとうございます」
紙コップの熱が掌に染みた。
口をつけると濃厚な甘さが舌に広がった。
酒粕の香りと生姜のぴりりとした刺激が喉を温めながら降りていく。
「おいしい」
「ですよね。毎年楽しみなんです」
澄子は両手でコップを包んで目を細めた。
焚き火の炎がその頬を橙に染めている。
二人は境内の端の石段に並んで腰を下ろした。
鐘楼では僧侶が撞木の綱に手をかけて待っていた。
周りには順番を待つ人々が並んでいる。
寒さに足踏みしながら子どもが親の手を握っていた。
「一郎さんもここに来たらよかったのに」
澄子が呟いた。
渉の胸が鈍く痛んだ。
「ええ」
「渉さんは良かったですか、私と二人で」
不意の問いに渉は言葉に詰まった。
澄子は紙コップを見つめたまま続けた。
「変な意味じゃないんです。ただ私は嬉しいなって思っちゃって、それが一郎さんに悪いのかなって」
その声が小さく震えていた。
渉は唇を噛んだ。
答えなければならなかった。
けれど何と言えばいいのかわからなかった。
良かった、と言えばそれは一郎への裏切りになる。
良くなかった、と言えば嘘になる。
「澄子さんと一緒で良かったです」
渉は慎重に言葉を選んだ。
「でも一郎さんもきっと来たかったと思います」
「そうですよね」
澄子はふっと笑った。
「あの人そういう人ですもんね。言わないけど」
その笑顔には淡い寂しさが滲んでいた。
ごーん。
最初の鐘が鳴った。
深く長い響きが境内の空気を震わせて夜空へ昇っていく。
周囲の人々が一斉に静まり返った。
焚き火の薪が爆ぜる音だけが残った。
ごーん。
二つ目の鐘が続いた。
一つ、また一つと鐘は鳴り続ける。
人々が順番に綱を握って撞いていく。
除夜の鐘は百八つ。
人の煩悩の数だと渉は何かで読んだことがあった。
煩悩。
その言葉が胸の中に落ちて重く沈んだ。
自分には幾つあるのだろう、と渉は思った。
母を愛してしまった煩悩。
父に嫉妬した煩悩。
偽りの名を名乗り続ける煩悩。
この世界に留まりたいと願う煩悩。
一つ撞かれるたびにそれが洗われるようであり、また積み上がるようでもあった。
「渉さん」
澄子が呼んだ。
「はい」
「来年もこうして鐘を聞けたらいいですね」
渉は息を止めた。
来年、という言葉の重みが全身にのしかかった。
自分には来年がない、と思った。
いや、来年はあるのかもしれない。
けれど、それはこの町のこの夜ではない。
ここでの時間には終わりがあることを渉は知っていた。
そして、あと六年で目の前の人はいなくなる。
喉が焼けるように痛んだ。
「・・そうですね」
やっとそれだけ言った。
澄子は渉を見た。
その目が焚き火の光を映して揺れていた。
「渉さん」
「はい」
「泣いてますか」
「いえ、煙が」
「また煙」
澄子はくすりと笑った。
けれどその笑顔の奥に何かを案じる色があった。
「渉さんって時々すごく遠くを見てますよね。私がいるのに」
「すみません」
「謝らなくていいんです。ただ、その遠くのものを、いつか教えてくれたらいいなって思ってます」
渉は何も答えられなかった。
ごーん。
鐘が鳴った。
やがて百八つ目が撞かれると境内にざわめきが広がった。
年が明けたのだ。
「あけましておめでとうございます」
澄子が石段の上で居住まいを正して頭を下げた。
渉も慌てて頭を下げた。
「あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」
その言葉が胸に落ちた。
今年もよろしくお願いします、というそれだけの何気ない言葉が、渉にはどうしようもなく切なかった。
帰り道は星の下を二人で歩いた。
澄子は寒さに肩をすぼめて渉の半歩先を歩いている。
吐く息が白く夜空に溶けていく。
橋の手前で澄子が立ち止まった。
「ここまででいいです」
「送ります」
「ううん、今日はもう大丈夫。ありがとう」
澄子は振り返って小さく手を振った。
「また近いうちに」
「はい」
赤いマフラーが橋の向こうの暗がりへ消えていく。
渉はその後ろ姿を見送りながら、胸の中の重いものを持て余していた。
罪悪感だった。
父を裏切っている、と思った。
母を欺いている、とも思った。
愛してはならない人を愛している。
それを隠したまま、一郎の贈り物を褒め、澄子の笑顔を見つめている。
そのどれもが偽りではなかった。
けれど全てが偽りでもあった。
渉は夜空を見上げた。
新しい年の最初の星が、冷たく瞬いていた。
一月一日の朝は晴れていた。
空は澄んだ青で、屋根瓦の霜がきらきらと光っている。
路地では子どもたちが凧を揚げていた。
四角い和凧が風を受けて高く舞い上がる。
糸の先で小さな手が一生懸命に引っ張っている。
「渉、年賀状が来てるよ」
キヨが玄関から声をかけた。
渉は縁側から立ち上がった。
キヨの手には数枚の葉書が握られていた。
そのうち一枚を差し出して「あんた宛てだ」と言った。
渉は受け取った。
葉書の表には丁寧な字で宛名が書かれていた。
桐島、渉、様
その文字を見た瞬間、渉の呼吸が止まった。
青みがかった黒いインクの丸みのある字だった。
一画一画をゆっくり書いたことがわかる筆跡。
名前の下に高橋キヨ方、と添えられていた。
裏を返した。
赤い松と朝日の絵が刷られた簡素な年賀葉書だった。
その余白に同じインクの字が並んでいる。
賀正
昨年はお世話になりました
今年もどうぞよろしくお願いします
佐々木澄子
そしてその横に小さな字で一行だけ添えてあった。
またことぶきで
渉は葉書を握りしめた。
指先が震えていた。
ブルーブラックのインクだった。
一郎が贈ったあの万年筆で書かれた字だ。
澄子は一郎の贈り物を使って、自分に年賀状を書いてくれたのだ。
その事実が渉の胸を深くえぐった。
桐島渉。
それは偽りの名前だった。
母の手がその偽りの名を丁寧に書いてくれた。
何も知らずに。
何の疑いもなく。
渉は縁側に座り込んだ。
涙が葉書の上に落ちた。
ブルーブラックの文字が滲んで青い花のように広がった。
慌てて袖で拭ったがもう遅かった。
「あんた、どうしたんだい」
キヨが背後から声をかけた。
「何でもありません」
「何でもない顔じゃないよ」
「大丈夫です」
キヨは黙って渉の隣に腰を下ろした。
しばらく二人で庭を見ていた。
凧が青空に高く舞っている。
風を受けて小さく揺れている。
「あんたね」
キヨが静かに言った。
「何があったか知らないけど、生きてれば誰だって人に言えないことの一つや二つあるもんだ」
渉は顔を上げた。
「あたしも若いころは随分と嘘をついたよ。亭主にも親にもね」
キヨは遠くを見たまま笑った。
「でも嘘をついてるってことを自分がちゃんと知ってるうちは大丈夫なんだよ。本当に悪いのは自分の嘘に気づかなくなることさ」
渉は葉書を見つめた。
知っている。
自分は嘘をついていることを知っている。
それが救いなのか呪いなのかはわからなかった。
「ありがとうございます」
「礼はいらないよ。お雑煮が冷めちまうから早く来な」
キヨは立ち上がって台所へ向かった。
渉は葉書を大切に胸ポケットにしまった。
その夜、二階の部屋で、渉は布団の中に潜りながら天井を見つめていた。
この感情に名前をつけてはいけない、と思った。
愛している、という言葉を胸の中で形にしてはならない。
それを言葉にした瞬間、全てが取り返しのつかない形に固まってしまう。
それでも消えなかった。
母として愛している、のか、一人の女性として愛している、のか。
どちらであっても許されないのだと渉は知っていた。
窓の外では新年の風が柿の枯れ枝を揺らしていた。
かさかさと乾いた音が静かな夜に溶けていく。
渉は胸ポケットから葉書を取り出して、暗闇の中で指先でなぞった。
インクの凹凸がかすかに指に触れた。
またことぶきで、と書かれた文字の上で、渉の指が止まった。
明日も、会える。
その確かな予感が、渉の胸に、痛みと同じ重さで灯っていた。




