第十七話 臨界点 キスの夜
一月六日の夕方、渉は川沿いで一郎に呼び止められた。
仕事始めの工場のサイレンが鳴り終えた直後だった。
川面には薄い氷が張りつめ、対岸の煙突から昇る煙は凍った空にまっすぐ刺さっている。
遊歩道の裸電球はまだ灯っていなかった。
西の空の最後の橙が、橋の鉄骨を鈍く染めていた。
「あんた」
背後から低い声がした。
渉は足を止めて振り返った。
紺色のジャンパーの一郎が、数歩離れたところに立っていた。
両手をポケットに入れたまま、肩だけがわずかに前へ傾いている。
作業帽の庇の下で、目が暗く光っていた。
「ちょっといいか」
「はい」
一郎は黙って川のほうへ歩き出した。
渉は半歩遅れてついていった。
二人は土手の石段に並んで腰を下ろした。
石は凍てついていて、座った途端に冷たさが骨まで通った。
しばらく言葉はなかった。
川の水音が足元で鳴っていた。
氷の下を流れる水は低く鈍く、何かをこらえているような音がした。
「澄子から聞いた」
一郎が前を向いたまま言った。
「大晦日に二人で寺へ行ったそうだな」
渉は息を止めた。
「すみません。一郎さんが来られないと聞いて」
「謝ることじゃない」
一郎は首を横に振った。
「怒ってるわけじゃないんだ。俺が泊まり番で行けなかっただけの話だ」
煙草を取り出して火をつけた。
マッチの炎が一瞬だけ横顔を照らす。
頬の線が固く、唇が結ばれていた。
煙がゆっくりと夕闇に溶けていく。
「ただ」
一郎は言葉を探すように間を置いた。
「あいつ、あの日の話を俺にするとき、すごく嬉しそうな顔をしたんだ」
渉の胸が締めつけられた。
「甘酒がおいしかったとか、星がきれいだったとか、鐘の音がずっと耳に残ってるとか。俺に話しながら、ずっと笑ってた」
一郎は煙を吐いた。
「それを見て思った。俺は一度もあんな顔をさせてやれたことがない」
「そんなことは」
「いや、いいんだ」
一郎は遮った。
「聞きたいのはひとつだけだ。あんた、澄子のことをどう思ってる」
まっすぐな問いだった。
飾りも探りもない、一本の棒のような言葉だった。
渉は口を開きかけて閉じた。
喉の奥に何かが詰まっていた。
友人です。
そう答えればいい。
十二月に同じ問いにそう答えた。
けれど今はその言葉が舌の上で灰のように崩れて、形にならなかった。
大切です、と言えば一郎を欺くことになる。
愛しています、と言えばすべてが壊れる。
「・・わかりません」
絞り出した声はかすれていた。
「わからない、か」
一郎は小さく息を吐いた。
「答えられないなら、それが答えなのかもしれないな」
その声には怒りも蔑みもなかった。
ただ静かな諦めに似た響きがあった。
渉は思わず顔を上げた。
「一郎さん」
「俺はな」
一郎は煙草の火を足元の石で押し消した。
「澄子を不幸にしたくないんだ。それだけは誰が相手でも変わらない」
その言葉は低く平らで、けれど岩のように重かった。
「俺は口が下手だ。気の利いたことも言えない。でも澄子が泣くのは見たくない。あいつが笑っていられるなら、俺じゃなくても構わないと思うときがある」
一郎はゆっくりと立ち上がった。
「だけど中途半端な気持ちで近づくやつは許さない。そのときは俺が相手になる」
それだけ言って、一郎は背を向けた。
前かがみの肩が夕闇に溶けていく。
渉は石段に座ったまま動けなかった。
澄子を不幸にしたくない。
その言葉が胸の中で何度も反響した。
それは父の言葉だった。
三十五年の時を超えて、自分に向かって投げられた、たったひとつの遺言のように聞こえた。
翌朝は七草だった。
キヨの家の台所では朝から包丁の音が小気味よく響いていた。
まな板の上に並んだ七草を、キヨが一束ずつ細かく刻んでいく。
せり、なずな、ごぎょう、はこべら。
青い匂いが湯気と一緒に立ちのぼった。
「七草なずな、唐土の鳥が、日本の土地に、渡らぬ先に」
キヨは包丁でまな板を叩きながら、低く歌うように唱えていた。
とんとん、と拍子が小さく響く。
「何ですか、それ」
「七草囃子だよ。子どもの頃、おっかさんがこうやって叩いてた」
キヨは笑った。
「悪い鳥を追い払うんだとさ。ほら食べな。胃もたれがなおるよ」
白粥に刻んだ七草を散らした椀が卓袱台に置かれた。
渉は箸を取った。
優しい塩気と青菜のほろ苦さが舌に広がる。
熱が喉を通って胸の奥まで落ちていく。
その温かさが、ひどくこたえた。
この人はなぜこんなに優しいのだろう。
見知らぬ他人の自分を迎え入れて、飯を作って、風邪を気づかって。
そして自分は、その優しさに偽りの名前で応えている。
「あんた、昨日からひどい顔してるよ」
キヨが粥をすすりながら言った。
「眠れてないんだろう」
「すみません」
「謝ることじゃないって何度言わせるんだい」
キヨは箸を置いた。
「あんたが何を抱えてるのか知らないけどね。人間は自分で決めなきゃいけないときが来るもんだよ」
渉はキヨの顔を見た。
老婆は皺の刻まれた目で、静かに渉を見つめていた。
「決めるのは怖いけどね。決めないでいるともっと怖いことになる」
その言葉の意味を、渉はまだ理解できなかった。
夕方、ことぶきの扉を開けると窓際に澄子が座っていた。
赤いセーターの上に格子柄のコートを羽織り、両手でカップを包んでいる。
渉が入ると顔を上げて、いつもの笑顔を見せた。
けれどその笑みがほんの少しだけ硬い気がした。
「こんばんは」
「こんばんは」
渉は向かいの席に座った。
ビロードの座面が冷たかった。
「寒いですね」
「ええ。今夜は雪になるかもしれないって、ラジオで」
「そうですか」
会話が続かなかった。
マスターが静かにコーヒーを置いていく。
ストーブの炎が青く揺れた。
壁の時計の針が音を立てて進む。
澄子はカップを見つめたまま何かを言いかけては口を閉じた。
右上に視線が動く。
大事なことを言う前の間だった。
「あの」
「はい」
「今夜、散歩しませんか」
澄子は顔を上げた。
「川沿いを少しだけ」
渉の胸の奥で何かが小さく鳴った。
断るべきだ、と思った。
理性が静かに首を振っていた。
けれど口から出たのは違う言葉だった。
「ええ。行きましょう」
外に出ると空気が張りつめていた。
細かい雪がちらつき始めている。
街灯の光の中を白い粒が斜めに流れていく。
二人の足音が薄く積もった雪の上でさくりと鳴った。
商店街は静まり返っていた。
シャッターを下ろした店の軒先で、しめ飾りが風に揺れている。
羽子板を飾ったままの玩具屋の窓が、橙の灯りを雪に滲ませていた。
橋のたもとまで来たとき、澄子が足を止めた。
「ここを歩きましょう」
川沿いの遊歩道に降りる。
裸電球が点々と灯っている。
電球の周りで雪が光の粒になって舞っていた。
遊歩道の石畳は薄い白に覆われて、二人の足跡だけが黒く並んでいく。
川の水面は黒く、ところどころ薄氷が白く光っていた。
対岸の工場の窓は消えている。
煙突の先だけが夜の中に黒く立っていた。
どこかの家のラジオから、遠く、時報が聞こえた。
ぽ、ぽ、ぽ、ぽーん。
午後八時を告げる高い音が雪の夜に細く響いた。
「渉さん」
澄子が口を開いた。
「はい」
「私ね、最近よくわからなくなっちゃって」
澄子は前を向いたまま歩いていた。
マフラーに顔を半分うずめている。
吐く息が白く舞った。
「何がですか」
「自分の気持ちが」
渉の心臓が一度大きく鳴った。
「一郎さんは私にとって大事な人です。ずっと近くにいて、不器用だけど優しくて。ああいう人と一緒にいたら幸せになれるんだろうなって思います」
澄子は立ち止まった。
橋の欄干に薄い雪が積もっていた。
彼女はそこに手を置いて、白い粉を指でなぞった。
「でも渉さんといると」
言葉が途切れた。
雪の粒がマフラーの縁に降りて、溶けた。
「不思議なんです。あなたといると、すごく安心するの」
その声は小さく震えていた。
「昔から知ってるみたいな気がして。会ったばかりなのに、ずっと前からそばにいたみたいで」
渉は呼吸ができなかった。
「そんなはずないのに」
「澄子さん」
「そばにいたいと思う」
澄子は顔を上げた。
街灯の光を受けた瞳が潤んでいた。
睫毛に雪が一粒ついている。
頬は寒さと別のもので赤く染まっていた。
「それだけは、わかるんです」
渉は動けなかった。
止める理由はいくつもあった。
あなたは母なのだ。
あなたの隣には父がいる。
自分はこの時代の人間ではない。
自分は偽りの名前を名乗っている。
あと六年であなたたちは命を失う。
理由は数え切れないほど積み上がっていた。
そのどれもが正しかった。
そのどれもが岩のように重かった。
けれど、その理由が言葉の形を取る前に、身体が先に動いていた。
一歩。
雪を踏む音がした。
澄子の肩に手が触れた。
マフラーの毛糸が指に触れて、その下の体温が掌に伝わった。
澄子が小さく息を吸った。
唇が重なった。
世界が止まった。
音が消えた。
雪の粒が空中で静止して見えた。
街灯の光が滲んで丸く広がり、すべての輪郭が溶けていった。
柔らかかった。
温かかった。
ほんの少し震えていた。
石鹸の匂いがした。
毛糸の匂いがした。
あの暗い部屋の記憶の匂い。
揺れる胸の鼓動。
子守唄の旋律。
傷跡を包んだ指の温度。
すべてが一度に胸へ流れ込んだ。
一秒か、二秒だった。
それが永遠にも思えた。
先に離れたのは渉だった。
体を引いた瞬間、冷たい空気が二人の間に流れ込んだ。
澄子は目を見開いたまま立ち尽くしていた。
唇がかすかに開いて、白い息が漏れた。
頬に涙が一筋伝っていた。
「・・ごめんなさい」
渉の声は自分でも信じられないほど掠れていた。
「すみません」
澄子は首を横に振った。
何も言わなかった。
雪が二人の間に降り続けた。
橋の下で川が低く鳴っていた。
渉は震える手を握りしめた。
何をしてしまったのだろう、と思った。
母に口づけた。
自分の母に。
吐き気がするほどの罪悪感と、それを凌駕する別の何かが胸の中で渦巻いていた。
後悔と歓喜と恐怖と愛おしさが区別のつかない塊になって喉元までせり上がってくる。
澄子は欄干に手をついた。
空を見上げて、ゆっくりと息を吐いた。
白い息が夜空に昇っていく。
雪が睫毛に降りて、涙と混ざって頬を流れた。
長い沈黙が続いた。
どこかで犬が一度だけ吠えた。
遠くの民家の窓の灯りが、雪の幕の向こうで橙の点になって揺れていた。
やがて澄子が口を開いた。
声は驚くほど穏やかだった。
「あなたのこと」
一度言葉を切って、唇を湿らせた。
「もっと、知りたかったな」
その言葉が雪の夜に落ちた。
渉の背筋を冷たいものが走った。
かったな。
過去形だった。
知りたい、ではなかった。
知りたかった。
もう終わったことのように、すでに手の届かないものを見るように、澄子は言った。
澄子は気づいているのだ、と渉は悟った。
この人は何も知らない。
何も聞いていない。
それでも渉の中にある何かに触れていた。
いつか終わりが来ることを、肌で感じ取っていた。
「澄子さん」
渉が呼んだ。
澄子は微笑んだ。
目から先に笑う、あの笑い方ではなかった。
口元だけがほんの少し持ち上がっただけの、泣き出す手前の顔だった。
「今夜は帰ります。送らなくて大丈夫」
「でも」
「ひとりで帰りたいの」
澄子はマフラーを巻き直して歩き出した。
数歩進んでから、立ち止まった。
「渉さん」
振り返らずに言った。
「ありがとう」
それだけを残して、澄子は雪の中を歩いていった。
赤いマフラーが街灯の輪の中を一つ、二つと通り抜け、橋の向こうの闇に消えていく。
薄い雪の上に小さな足跡だけが点々と残った。
渉は欄干に手をついたまま動けなかった。
積もった雪が掌の熱で溶けていく。
冷たい水が袖口へ伝った。
どれほどの時間が過ぎたのかわからない。
雪は音もなく降り続けていた。
足跡は降る雪に少しずつ埋もれ、やがて何も残らなくなった。
渉はようやく動き出した。
足が鉛のように重かった。
キヨの家へ向かう道は果てしなく長かった。
商店街のアーケードの下を過ぎるとき、閉じたシャッターの前で立ち止まった。
ガラスに自分の顔が映っていた。
蒼白だった。
目だけが赤かった。
渉は唇に指を当てた。
まだ温もりが残っているような気がした。
それは世界でいちばん美しいものであり、世界でいちばん許されないものだった。
どこかで除雪の準備をする人の声がした。
雪は夜通し降り続けるのだろう。
渉は雪の中へ歩き出した。
背中に白いものが積もっていった。




