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第十八話 葛藤の頂点

 雪は日付が変わる前に止んだ。


 キヨの家に戻った渉は、濡れたコートを鴨居に掛けたまま二階へ上がり、布団にも入らず窓辺に座った。

 木枠のすりガラスの向こうが青白く光っていた。

 雲が切れて月が出たのだ。


 障子を開けて縁側に出た。

 庭は一面の雪だった。

 石灯籠の笠には丸い雪の帽子が乗り、柿の枯れ枝は一本ずつ白く縁取られている。

 物置の屋根も、沢庵の樽の蓋も、塀の上も、すべてが同じ柔らかな白に塗り込められていた。

 月明かりがその上に冷たい青を落として、庭全体がうっすらと発光しているように見えた。


 音がなかった。

 雪が世界の音を吸い取ってしまったようだった。

 遠くの犬の声も、風の音も、川の水音さえも聞こえない。

 自分の鼓動だけが耳の奥で鳴っていた。

 縁側の板は氷のように冷たかった。

 渉は膝を抱えて座り、息を吐いた。

 白い息が月の光の中でほどけていく。


 唇に指を当てた。

 まだ温もりがあった。

 それが錯覚だとわかっていても、指を離せなかった。


 背後で小さな音がした。

 障子がほんの少しだけ開いて、何かが置かれた。

 振り返ると、縁側の板の上に湯たんぽが一つ、布に包まれて置いてあった。

 キヨの姿はなかった。

 渉は湯たんぽを抱き寄せた。

 ゴムの匂いがして、熱がじんわりと腹に染みた。

 何も言わずに置いていくその気配が、胸にしみた。


 月を見上げた。

 細い月だった。

 今夜は雪の白に負けて薄くかすんでいる。

 けれど確かにそこにいた。

 三十五年前の十二月七日の夜にも、きっと同じ月がどこかにあったのだろう。


 渉は目を閉じた。

 澄子が好きだ。

 その言葉は、もう否定のしようがなかった。

 いつ始まったのかわからない。

 ことぶきの扉の前で初めて声をかけられたときか。

 石鹸の匂いに記憶が揺れたときか。

 子守唄を口ずさんでしまった夕暮れか。

 傷跡に触れた指の温度か。


 母として出会った。

 母だと知って、それでも一人の人として知ってしまった。

 本が好きで焼き芋を頬張って、母の編んだセーターを大事に着て、日記を毎晩書いて、右上を見ながら間を置いて話す人。

 その一つ一つを、渉は愛した。

 愛しているのだ、と、とうとう認めた。

 息子として愛している。

 それは間違いない。

 けれど胸の奥で燃えているものはそれだけではなかった。


 雪の上で唇を重ねたとき、渉は息子でも編集者でも三十八歳の男でもなかった。

 ただ一人の男として一人の女を抱いていた。

 その事実を、もう二度と偽れなかった。

 取り返しのつかない感情だった。

 渉は額を膝に押しつけた。

 吐き気がした。

 けれど吐き気の奥から、別のものが静かに浮かび上がってきた。


 ・・澄子を不幸にしたくないんだ。

 一郎の声だった。

 夕暮れの石段で、煙草の火を消しながら言った言葉。

 誰が相手でも変わらない。

 それだけは変わらない。

 その言葉が、論理よりも先に胸に刺さっていた。

 どれだけ理屈を並べても、どれだけ自分を責めても、渉の頭の中に最後まで残ったのはその一言だった。


 不幸にしたくない。

 自分の感情はどうなのか、と渉は問うた。

 この想いを貫いたら澄子は幸せになれるのか。

 答えは明らかだった。

 自分はこの時代の人間ではない。

 いつか帰らなければならない人間だ。

 澄子の隣に立ち続けることはできない。

 偽りの名前を名乗り、素性を隠し、三年後に生まれるはずの息子が目の前にいる、そんな関係に未来などない。

 そして、もし澄子が自分を選んだなら。


 渉は目を開けた。

 月が雪を照らしている。

 一郎は。

 あの不器用で誠実な男は、どうなる。

 二人が結ばれなければ自分は生まれない。

 それ以上に、あの男が澄子を愛していることは、疑いようがなかった。

 鯛焼きの紙袋を差し出す手。

「三人で食べるつもりで買った」と言ったときの耳の赤さ。

 万年筆の箱の裏に鉛筆で書いた拙い字。

 あの人から澄子を奪っていいはずがなかった。

 そして澄子を、傷つけたまま放っておいていいはずもなかった。


 渉は拳を握った。

 爪が掌に食い込んだ。

 決めなければならない、とキヨが言っていた。

 決めないでいるともっと怖いことになる、と。

 その意味が、いまようやくわかった。


 夜が白み始めるころ、遠くで豆腐屋のラッパが鳴った。

 ぷうー。

 渉はゆっくりと立ち上がった。

 足が凍えて感覚がなかった。

 けれど胸の奥では、何かが静かに決まっていた。


 夕方の五時前、渉はことぶきの扉を押した。

 鈴の音が店内に響いた。

 窓際の席にはまだ誰もいなかった。

 壁の時計は四時五十分を指している。

 ストーブの炎が青く揺れ、サイフォンの湯が静かに泡立っていた。

「いらっしゃい」

 マスターがいつもの低い声で言った。

「早いですね」

「ええ」


 渉は窓際の席に座った。

 窓の外では雪かきをした跡が路地の端に積み上げられていた。

 子どもたちが雪を丸めて小さな雪だるまを作っている。

 炭で目をつけ、蜜柑の皮で口を作った素朴な顔だった。

 街灯はまだ点いていない。


 マスターが何も言わずにコーヒーを運んできた。

 湯気が立ち昇る。

 その隣に小さな皿が置かれた。

 渉は目を上げた。

 皿の上に角砂糖が二つ載っていた。

「寒い日は甘いほうがいい」

 マスターはそれだけ言ってカウンターに戻っていった。

 渉は胸が熱くなって、深く頭を下げた。

 コーヒーに角砂糖を落とすと、小さな泡が浮かんで消えた。

 ひと口含むと、苦みの奥に優しい甘さが広がった。


 からん、と鈴が鳴った。

 渉は顔を上げた。

 澄子が立っていた。

 格子柄のコートを着て、赤いマフラーを首に巻いている。

 頬は寒さで赤く、目の下に薄い影があった。

 眠れていないのだとすぐにわかった。


「こんばんは」

 澄子が言った。

「こんばんは」

 渉は立ち上がろうとして、やめた。

 澄子はゆっくりと歩いてきて、向かいの席に座った。

 コートを椅子の背に掛ける仕草がいつもより遅かった。

 マスターが黙ってカップを置いた。

 二人の間に沈黙が落ちた。

 窓の外で、子どもたちの笑い声が遠くなっていく。


「昨日は」

 渉が口を開いた。

「ごめんなさい」

 澄子は顔を上げた。

「すみませんでした」

 渉は深く頭を下げた。

「あんなことをしてしまって」

「やめてください」

 澄子の声は静かだった。

「謝らないでください」

 渉は顔を上げた。

 澄子はカップを両手で包んで、湯気の向こうから渉を見つめていた。


「私」

 澄子は少し間を置いた。

「後悔してないです」

 その言葉が胸に突き刺さった。

「昨日からずっと考えてました。どうしたらいいのか、何がいけないのか。でもどう考えても、後悔はなかったんです」

 澄子の目が潤んだ。

「だから謝らないでください」

 渉は何も言えなかった。

「謝られたら」

 澄子は小さく笑った。

「楽だったかもしれない。間違いだったって言ってもらえたら、きっと諦められたのに」

「澄子さん」

「でも渉さんはそうは言わない。そうでしょう」


 渉は唇を噛んだ。

 その通りだった。

 間違いだった、とは言えなかった。

 あの瞬間は、渉の人生で最も真実に近い一瞬だった。

 けれどいま言わなければならないことがあった。

 渉は深く息を吸った。

 胸の中の言葉を一つずつ確かめるように、ゆっくりと口を開いた。


「澄子さん」

 声が震えそうになるのを抑えた。

「お願いがあります」

「はい」

「聞いてください」

 澄子は頷いた。

 渉は膝の上で拳を握りしめた。

 これまで「僕」と言ってきた。

 この町で出会った人たちに、澄子に、いつも「僕」と言っていた。

 けれどその一語がどうしても出てこなかった。

 距離を置く言葉が必要だった。


「私は」

 その一人称が舌の上に硬く落ちた。

 澄子の目がわずかに揺れた。

 呼び方が変わったことに気づいた。


「私は、あなたのことを大切に思っています」

 渉は一語ずつ置くように言った。

「この町に来てから、あなたに会えたことは私の人生で一番の幸運でした。それは本当です」

 澄子は黙って聞いていた。

「でも」

 喉が焼けるように熱かった。

「あなたには、私じゃない人が必要だと思っています」


 言ってしまった。

 その言葉が空気の中に落ちて、静かに広がった。

 ストーブの炎が音を立てて爆ぜた。

 澄子は動かなかった。

 睫毛が震えて、唇がかすかに開いた。

 けれど声は出なかった。

 長い、長い沈黙だった。

 壁の時計の針が秒を刻む音が耳に響いた。

 窓の外の街灯が、ぽっ、と点いた。

 橙の光が澄子の頬を照らした。

 その頬に涙が一筋伝って、顎から落ちた。


「・・どうして」

 やがて澄子が言った。

 その声は細く震えていた。

「私じゃだめですか」

「そうではありません」

「それとも」

 澄子は涙を拭いもせずに続けた。

「私は渉さんにとってそういう人じゃないですか」

「違います」

 渉は思わず声を強めた。

「そうじゃない。あなたはだめなんかじゃない」

「じゃあどうして」

「私は」

 渉は言葉を探した。

 真実を話すことはできなかった。

 あなたは母だとも、あなたの隣にいる人が父だとも言えなかった。

 それでも、嘘ではない言葉を差し出さなければならなかった。


「私には、あなたの隣にいる資格がないんです」

 澄子の目が見開かれた。

「この町に、私はずっといられません」

「ずっと、って」

「いつか遠くへ行かなければならない日が来ます。それがいつかは私にもわかりません。でも必ず来る」

 澄子は息を呑んだ。

「だから、いま、あなたの心を連れていくわけにはいかない」

 渉は拳を開いて、掌を見つめた。


「そして」

 一度言葉を切った。

「あなたを不幸にしたくないと、心の底から思っている人が、すぐ近くにいます」

 澄子の肩がびくりと揺れた。

 その人が誰か、澄子にはすぐにわかったのだろう。

 目が揺れて、唇が結ばれて、澄子は視線を落とした。


「・・一郎さん」

 小さな呟きだった。

 渉は答えなかった。

 けれど沈黙が肯定の代わりになった。

 澄子はしばらくカップの中のコーヒーを見つめていた。

 湯気はもう消えかかっていた。


「渉さんは」

 澄子が低い声で言った。

「ずるいです」

「はい」

「そんなふうに言われたら、怒ることもできない」

 渉は何も言えなかった。

「私が泣いても、渉さんは最後まで優しいままで、でも絶対に手を握ってはくれないんですよね」

「・・はい」

「それが一番つらい」

 澄子は小さく笑った。

 涙が頬を伝ったまま、くしゃりと笑った。

 目から先に笑う、あの笑い方に、少しだけ似ていた。

「わかってます」

 澄子は鼻をすすった。

「渉さんは遠くから来た人だって、最初に言ってましたもんね。想像できないくらい遠くから、って」


 渉の胸が詰まった。

 あの最初の夜の言葉を、澄子は覚えていた。

「だからきっと、いつかいなくなっちゃうんだろうなって、心のどこかでずっと思ってました」

「澄子さん」

「謝らないでください」

 澄子は涙を拭った。

「渉さんは悪くない。私が勝手に好きになっただけだから」

 その言葉が鋭い刃のように渉の胸を貫いた。

 好き、という言葉が初めて澄子の口から出た。

 それは受け取ることも、返すこともできない言葉だった。


 渉は唇を噛んで、涙をこらえた。

 けれど堪えきれずに、一粒が頬を伝った。

「渉さん」

 澄子が驚いて顔を上げた。

「泣かないでください」

「すみません」

「どうして渉さんが泣くんですか」

「わかりません」

 渉は袖で顔を拭った。

「でも」

 声がかすれた。

「あなたが泣いているのを見るのが、世界で一番つらいんです」

 澄子はしばらく渉を見つめていた。

 やがてふっと息を吐いて、小さく首を振った。

「変な人」

 その言葉は、いつもの優しさを取り戻していた。

「泣いてる私より泣いてる人が目の前にいたら、泣けなくなっちゃう」


 澄子は鞄からハンカチを取り出した。

 白い綿のハンカチに、赤い糸で小さな花が刺繍されていた。

 それを渉に差し出した。

「使ってください」

 渉は震える手で受け取った。

 洗い立ての石鹸の匂いがした。

 その匂いが、また胸の奥の深い場所を揺らした。

「ありがとうございます」

「いいえ」

 澄子は窓の外を見た。

 街灯の灯りの中を、残り雪が風に流れていた。


「今夜は」

 澄子が言った。

「もう少しここにいてもいいですか。何も話さなくていいから」

「はい」

「一杯だけ飲んで、帰ります」

 渉は頷いた。

 マスターが何も言わずに新しいコーヒーを二つ運んできた。

 湯気がゆっくりと立ち昇った。


 二人は並んで窓の外を見た。

 雪をかぶった路地が橙の街灯に照らされていた。

 子どもたちが作った小さな雪だるまが、炭の目で二人を見つめていた。

 壁の時計の針の音が、ゆっくりと響いた。

 ストーブの炎が青く揺れた。


 渉は思った。

 これが最後の穏やかな夕暮れかもしれない、と。

 初めてその言葉を口にした自分の唇が、まだかすかに震えていた。

 あなたには、私じゃない人が必要だと思っています。

 それは澄子を手放す言葉だった。

 そして同時に、一郎に澄子を託す言葉だった。


 渉は膝の上で、澄子のハンカチを握りしめた。

 これでいいのだ、と何度も心の中で繰り返した。

 けれど胸の奥では、何かが静かに、取り返しのつかない形で、壊れていく音がしていた。

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