↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/21

第十九話 一郎に頼む

 夜明け前から目が覚めていた。

 いや、眠っていなかったと言うほうが正しい。

 渉は一晩中、布団の上に座って障子の向こうが白んでいくのを見ていた。

 窓の木枠が闇の中から少しずつ輪郭を現し、やがて薄い鼠色になり、淡い青に変わっていく。

 その移ろいを、まばたきも忘れて見つめていた。


 階下で戸の開く音がした。

 キヨが起きたのだ。

 台所でかまどに火を入れる気配がして、しばらくすると薪の爆ぜる音と煙の匂いが階段を這い上がってきた。


 渉は縁側に出た。

 庭の雪は一晩で固く締まっていた。

 軒先からは長いつららが何本も下がり、朝の最初の光を受けて透きとおった刃のように光っている。

 柿の枯れ枝の雪はところどころ崩れて、黒い枝先が覗いていた。

 空は澄んでいた。

 東の端が薄い薔薇色に染まり、その上に淡い黄が重なり、さらに高みへ向かって青が深くなっていく。

 星が一つだけ、まだ消えずに残っていた。


 渉はそれを見上げて、長く息を吐いた。

 今日、一郎に会う。

 そう決めたのは昨夜だった。

 ことぶきで澄子に告げたあと、帰り道の暗がりで、足を止めたままひとつの考えに行き着いた。


 澄子に言っただけでは足りない。

 あの人に、私じゃない人が必要だと言った。

 けれどその人に、直接伝えなければ、本当の意味では何も終わらない。

 あの人が差し出されるべき相手の手に、自分の口から、ちゃんと渡さなければ。

 それができるのは、自分しかいなかった。


 朝食の卓袱台に、キヨは黙って白飯と味噌汁を並べた。

 渉は箸を取った。

 湯気の向こうでキヨが、漬物の小鉢をそっと押してよこした。

 大根の浅漬けだった。

 薄く切った断面が透きとおって、柚子の皮の匂いがした。


「今日は顔が違うね」

 キヨが言った。

 渉は顔を上げた。

「どう違いますか」

「うまく言えないけどね、腹を決めた顔をしてる」

 渉は茶碗を持ったまま、少し黙った。

「そうかもしれません」

「そうかい」


 キヨはそれ以上何も言わなかった。

 けれど、食べ終えた渉が立ち上がろうとしたとき、台所の奥から小さな包みを持ってきた。

「持ってきな」

 新聞紙に包まれた握り飯だった。

 まだ温かかった。

「昼に腹が減るだろう。人と話をするときはね、腹を満たしておくと、口が余計なことを言わずに済むんだよ」

 渉は包みを受け取った。

 掌に温もりが染みた。

「ありがとうございます」

「いいから行っといで」

 キヨは背を向けて、流しの水を出した。

 その背中が、朝の光の中で小さく丸まって見えた。


 工場は町の北のはずれにあった。

 商店街を抜け、橋を渡り、川沿いの道をしばらく歩いていくと、対岸に大きな煙突が見えてくる。

 近づくにつれて、鉄を打つ音や、機械の低い唸りが空気の底から這い上がってきた。

 冷たい空気に混じって、焦げた油と鉄の匂いが鼻を刺した。


 門は高い鉄柵だった。

 脇に守衛所が小さく建っていて、窓から年配の守衛が顔を出した。

 制帽の下の眉が太く、日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。


「何だい、見学かい」

「いえ、人に会いに来ました」

「誰に」

「河野一郎さんです」

 守衛は眉を上げた。

「一郎か、あいつなら今は旋盤のとこだ。昼まで出られんよ」

「待たせていただきます」

「昼のサイレンまで、まだ二時間はあるぞ」

「構いません」


 守衛は渉の顔をじろりと眺めた。

「あんた、一郎の友達かい」

 渉は少し間を置いた。

「・・はい」

「そうか。あいつにも友達がいたんだな」

 守衛は愉快そうに笑った。

「裏の川っぷちに広場がある。昼になったらみんなそこで弁当を食うから、そこで待ってな」

 教えられた道を回りこむと、工場の裏手に出た。


 川に面した細長い空き地だった。

 枯れ草が雪を割って顔を出し、その向こうを川がゆっくりと流れている。

 空き地の端には、資材の木箱や鉄管が無造作に積まれていた。

 その上に、冬の弱い日が斜めに落ちている。


 渉は鉄管の山の脇の木箱に腰を下ろした。

 工場の中から、重い機械の音が絶え間なく響いていた。

 がしゃん、がしゃんという金属の叩く音。

 ぎいぃ、という長い軋み。

 ときどき、誰かの怒鳴り声が混じる。

 その音の全部が、かつて父が毎日聞いていたものなのだと思うと、胸の奥がじんと熱くなった。


 煙突の先から白い煙がまっすぐ昇っていた。

 冬の空の青に、その白がくっきりと映えた。

 渉は膝の上で手を組んで、その煙の行方を目で追った。


 どれほどの時間が過ぎたか、わからなかった。

 川面が日差しを受けて鈍く光っていた。

 氷の薄いところで、水の流れがちらちらと動いた。


 正午の少し前、工場から長いサイレンが鳴り渡った。

 うううううう。

 低く尾を引く音が空を震わせ、川面に波紋を広げるように消えていく。

 途端に、工場の裏口から作業着姿の男たちがぞろぞろと出てきた。

 手には弁当箱や風呂敷包みを提げている。

 あちこちで笑い声が上がり、煙草に火をつける音がした。

 男たちは日の当たる木箱や鉄管に思い思いに腰を下ろし、弁当の蓋を開けた。

 その中に、紺色のジャンパーの肩があった。

 一郎は、出口のところで足を止めた。

 渉に気づいた。

 一瞬、その表情がほんの少しだけ動いた。

 それから何も言わずに、ゆっくりと近づいてきた。


 作業帽を脱ぐ。

 額に汗の筋が光っていた。

 油の染みた手の甲に、銀色の細かい削り屑がいくつも付いている。

「・・あんたか」

「突然すみません」

 渉は立ち上がって、頭を下げた。

「少しだけ、お時間をいただけますか」

 一郎は黙って頷いた。


 二人は川のほうへ少し歩いて、日当たりのいい木箱の上に並んで座った。

 一郎は風呂敷包みを膝の上で解いた。

 中から出てきたのは、アルミの弁当箱だった。

 角がへこんで、蓋の縁に使い込んだ傷が無数に走っている。

 蓋を開けると、ぎっしりと詰まった白飯の真ん中に、赤い梅干しがひとつ。

 いわゆる日の丸弁当だった。

 おかずは卵焼きと、沢庵が三切れ。

 それだけだった。

 けれど、箸を持つ一郎の手つきが、どこか丁寧で、渉は思わず見入った。


「食わないのか」

 一郎が言った。

「あ、私は、これを」

 渉はキヨの握り飯の包みを出した。

「そうか」

 一郎は短く言って、弁当に箸をつけた。


 しばらく、二人は黙って食べた。

 川の水音と、遠くの機械の音と、男たちのざわめきが、空き地の上を流れていった。

 渉は握り飯を一口かじった。

 塩がほどよく効いて、中から鮭が出てきた。

 涙の出そうな味だった。

 食べ終えて、渉は包みを丁寧に畳んだ。


「一郎さん」

「何だ」

「お話ししたいことがあります」

 一郎は箸を止めた。

「聞こう」


 渉は膝の上で手を握りしめた。

 喉が、からからに乾いていた。

「昨日、澄子さんに会いました」

「ああ」

「その前の晩、私は、澄子さんに」

 言葉が途切れた。

 口に出せば、取り返しがつかない。

 けれど言わなければ、何も始まらない。

 渉は深く息を吸った。


「澄子さんに、してはならないことをしました」

 一郎の箸が、弁当箱の上で止まった。

「それは」

「口づけをしました」


 空気が凍った。

 川の水音が、やけに大きく聞こえた。

 一郎はゆっくりと箸を弁当箱の上に置いた。

 カチリ、と小さな音がした。

 それから、膝の上の拳が、ぎゅっと握られるのを、渉は横目で見た。

 節の太い指が白くなるほど、固く。

 殴られる、と、渉は思った。

 殴られて当然だと思った。

 むしろ、殴られたかった。

 それは父の拳だった。

 三十五年の間、一度も受けることのなかった父の拳だった。

 けれど、拳は上がらなかった。

 一郎は川のほうを見つめたまま、じっと動かなかった。

 長い沈黙だった。

 工場の機械の音も、男たちの笑い声も、遠のいていく。


「・・そうか」

 一郎が、ようやく口を開いた。

 その声は、驚くほど低く、静かだった。

「澄子から、聞いた」

 渉は顔を上げた。

「あいつ、泣いてたよ。昨日の夕方、俺のところへ来て」

「澄子さんが」

「ああ。何も言わなかった。ただ、泣いてた。俺は何も聞かなかった」

 一郎は拳をゆっくり開いた。

「ただ、あいつが、あんたのことを話すときの顔を、俺はずっと見てきた」

 渉は息を詰めた。

「大晦日の話をするとき。万年筆を使うとき。あんたの名前を口にするとき。ああいう顔は、俺には見せない」

「一郎さん」

「いや、わかってる」

 一郎は首を横に振った。

「あいつは、あんたに惹かれてる。俺には、それがわかる」

 その言葉が、鋭く渉の胸を刺した。

 一郎は、まっすぐに渉を見た。

「それから、もうひとつ聞いた。あんたが、いつか遠くへ行く人だと」

「はい」

「本当か」

「本当です」

 渉は目を逸らさずに答えた。

「そう遠くない日に、私は行かなければなりません。どこへ、とは、説明できません」


 一郎はしばらく渉の目を見つめていた。

 それから、ふっと息を吐いた。

「・・あんた、不思議な男だな」

「よく言われます」

「怒る気になれないんだ」

 一郎は空を見上げた。

「あんたが、あいつに何をしたか、わかってる。普通なら、殴り倒してる」

「殴ってください」

 渉は言った。

 一郎は、渉を見た。

「殴られる覚悟で来ました」

「馬鹿言え」

 一郎は笑った。

 ほんの少しだけ、唇の端を持ち上げて。

「殴ったって、何も変わらん。あんたが悪い人間じゃないことくらい、俺にもわかる」


 渉の目頭が熱くなった。

「あんたを見てると」

 一郎は、ぽつりと言った。

「不思議と、他人の気がしないんだ」

 渉の心臓が、大きく跳ねた。

「初めて会ったときから、そうだった。どこかで会ったような、ずっと前から知ってるような。こんな話をする間柄じゃないのにな」

 一郎は鼻の頭を人差し指で一度だけ触った。

 その仕草を、渉は、もう目を逸らさずに見ていた。


「一郎さん」

 渉は居ずまいを正した。

「お願いがあります」

「何だ」

「聞いてください」

 渉は深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。

 川の向こうの煙突から、白い煙がまっすぐ昇っていた。

「私は、澄子さんのことが、好きです」

 その言葉を、声に出した瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。

 一郎は、黙って聞いていた。

「会ったばかりのころから、ずっと、惹かれていました。笑う顔も、話し方も、何もかも、大切だと思いました」

 渉の声が震えた。


「でも」

 喉が詰まった。

 それでも言葉を継いだ。

「あなたのほうが、澄子さんに必要だと思います」

 一郎の瞳が、わずかに揺れた。

「私は、この町に、ずっといられません。澄子さんを幸せにしたくても、その資格がない。でも、あなたには、それができる」

「俺には、何もできない」

 一郎は首を振った。

「口も下手で、気の利いたことも言えない。あいつを笑わせてやることもできない」

「そんなことはありません」

 渉は強く言った。

「あなたは、万年筆を選ぶために、何日も悩んだ人です」

 一郎の目が見開かれた。

 そして、その言葉の意味に、気づいたように、渉をじっと見つめた。


「あれは」

「教えたのは私です。でも、選ぼうと思ったのは、あなたです。あの人の日記を見てくれていたのは、あなただけでした」

 一郎は唇を結んで、視線を落とした。

「澄子さんが泣いたとき、あなたのところへ行ったのは、何故だと思いますか」

 渉は静かに続けた。

「あなたのそばなら、泣いても大丈夫だと、わかっているからです」

 一郎の肩が、かすかに震えた。

「信じてください」

 渉は言った。

「うまく説明できません。理由を話すことは、どうしてもできません。でも」

 涙が、頬を伝って落ちた。

「あなたが、澄子さんのそばにいるべきだということが、私には、わかるんです」

 その言葉を最後に、渉は何も言えなくなった。

 涙が止まらなかった。

 これほど声を震わせたことはなかった。

 これほど、誰かに、何かを託したいと願ったことも。


 川の水音が、静かに響いた。

 煙突の煙が、風に揺れて、ゆっくりと形を変えた。

 一郎は、長い間、黙っていた。

 弁当箱の蓋が、ぱたんと閉じられた。

 その音が、空き地の空気の中に、はっきりと響いた。

 一郎は、風呂敷で弁当箱を包み始めた。

 ゆっくりと、丁寧に、四隅を揃えて、結び目を作った。

 その手つきは、迷いも怒りも感じさせなかった。

 結び終えて、一郎は膝の上に包みを置いたまま、空を見上げた。


「・・まあ」

 低い声が、ぽつりと落ちた。

「そういうもんだろ」

 渉の呼吸が止まった。

 その言葉が、耳に届いた瞬間、渉の中で、何かが決壊した。

 父の声だった。

 あの夜、ことぶきで聞いた、語尾を落とす言い方。

 息を吐くように、諦めとも慰めともつかない、不思議な温度の声。

 三十五年間、自分が無意識に口にしてきた言葉を、いま、父が、父の声で、自分に向けて言っている。


 目の奥が焼けた。

 視界が滲んで、一郎の姿がぼやけた。

 渉は顔を覆った。

 声を殺そうとしたが、肩が勝手に揺れた。

「・・おい」

 一郎が、戸惑ったように言った。

「泣くな、そんなに」

「すみません」

「何で泣くんだ」

「わかりません」

 渉は、嗚咽の合間に言った。

「でも、その言葉が」

「言葉?」

「いえ、何でもありません」

 渉は、袖で乱暴に顔を拭った。

 一郎は、不思議そうに渉を見つめていた。


 それから、ふっと息をついて、立ち上がった。

「あんたは、本当に、わけのわからん男だ」

 けれど、その声には、優しい響きがあった。

「澄子のことは」

 一郎は、作業帽をかぶった。

「俺に任せろ」

 その言葉は、短く、揺るぎなかった。

 渉は顔を上げた。

 一郎は、まっすぐに渉を見ていた。

 切れ長の目の奥に、深い、静かな決意が宿っていた。

「あいつを不幸にはしない。何があっても」

 渉は、唇を噛んで、頷いた。

「お願いします」

「ああ」


 一郎は、背を向けた。

 前かがみの肩が、ゆっくりと、工場のほうへ遠ざかっていく。

 昼休みの終わりを告げるサイレンが、もう一度鳴った。

 ううううう。

 男たちが、弁当を片づけて、立ち上がり始める。

 一郎の背中は、男たちの群れの中に、紛れていった。

 途中で、一度だけ、立ち止まった。

 振り返りはしなかった。

 ただ、肩の線が、ほんの少し、揺れた。

 それから、裏口の暗がりへ、消えていった。


 渉は、その場に立ち尽くしていた。

 頬を伝った涙が、冷たい風に、乾いていく。

 頼んだぞ。

 声に出さずに、渉は言った。

 三年後に生まれる息子のために、あなたたちが、六年の間、どうか、幸せでいてください。

 その祈りは、誰にも届かない、

 かすかな息のように、冬の空気の中へ、溶けていった。


 川の向こうの煙突から、白い煙が、まっすぐ、まっすぐ、青い空へ昇っていた。

 渉は、その煙を、いつまでも、見送っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。