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第二十話 澄子への別れ

 夕方の川は、鈍い銀色をしていた。

 渉は土手の上の道に立っていた。

 澄子の勤める紡績工場の門から、橋のたもとへ続く川沿いの道。

 雪はまだ道の端に汚れた塊となって残り、足もとの土はぬかるんで冷たい。


 五時を知らせるサイレンが、風に乗って遠くから渡ってきた。

 しばらくすると、門から女工たちが出てきた。

 揃いの紺の上着にマフラーを巻き、三人四人と肩を寄せて笑いながら歩いてくる。

 その一番後ろに、澄子がいた。

 赤い手袋をはめている。

 彼女は渉に気づくと、足を止めた。

 それから少しだけ笑って、先を行く友人たちに何か言い、ひとり列を離れてこちらへ歩いてきた。


「待っててくれたの」

「はい」

「寒かったでしょう」

「そうでもありません」

 嘘だった。

 指先の感覚は半分なくなっていた。

 けれど澄子はそれを見抜いたように、ふふ、と息だけで笑った。

「歩きましょうか」

「はい」


 二人は並んで土手の道を歩き出した。

 川風が頬を切る。

 澄子の吐く息が白く流れて、渉の肩のあたりを過ぎていく。

 足音が二つ、湿った土を踏んで、少しずれたり揃ったりしながら続いた。

 渉は歩きながら、隣の横顔をそっと見ていた。

 見ないようにしていたのではない。

 見ておこうと思った。

 額から鼻筋へ降りる線。

 少し上を向いた鼻の先が寒さで赤くなっている。

 睫毛の影。

 耳たぶにかかる後れ毛。

 マフラーの結び目に収まりきらない髪が、風のたびに小さく揺れる。


 遺影の中の母は、いつも正面を向いていた。

 写真館の背景幕の前で、少し緊張した顔で笑っていた。

 けれど横顔の母を、渉は知らない。

 三歳の子供が見上げた母の顔は、きっともっと下から見た顔で、その記憶さえ霧の底に沈んでいる。

 だから、この横顔を焼きつけておきたかった。

 自分の記憶の中に、写真ではない母を一枚だけ持って帰るために。


「渉さん」

「はい」

「そんなにじっと見られると、歩きにくいんだけど」

「すみません」

「謝らなくていいの。・・変な顔してるかなって思っただけ」

「変じゃありません」


 澄子が横目でこちらを見た。

「今日は、どうしたの?」

「どうもしません」

「うそ。朝、一郎さんに会ったんでしょう」

 渉は足を止めかけて、止めなかった。

「聞いたんですか」

「ううん。でも、お昼過ぎに一郎さんが工場の前に来たの。門のところで、私を待ってたの。珍しいでしょう。あの人が、自分から会いに来るなんて」

「・・何か言っていましたか」

「何も。ただ、顔を見て、うなずいて、そのまま帰っていった」


 澄子は川のほうへ目をやった。

「でもね、あの人のうなずき方で、わかったの。ああ、何かが決まったんだなって」

 川面を、冬の鴨が二羽横切っていく。

 渉は黙って歩いた。

 胸の中で言葉が何度も形になりかけては崩れた。

 やがて、澄子が小さく言った。


「渉さんが、言ってくれたんでしょう」

「・・私は、ただ」

「ただ?」

「ただ、あの人にしか言えないことを、言いに行っただけです」

 澄子は何も返さなかった。


 橋の下をくぐるとき、頭上を自転車が渡って、鉄板の継ぎ目がかたんかたんと鳴った。

 その音が遠ざかるまで、二人とも黙っていた。

 橋の向こうに豆腐屋の軒灯がともっていた。

 夕方のラッパはもう鳴り終えたのか、店先では前掛けをした主人が桶の水を替えている。

 湯気が白く立って、大豆の甘い匂いが川風にまじって流れてきた。


「ちょっと寄っていい?」

「はい」


 澄子は鞄から小銭入れを出して、油揚げを二枚買った。

 主人が経木に包んで新聞紙でくるくると巻く。

 そういえば彼女は、いつも買い物をするとき、受け取る手をいったん胸の前に引いて、大事そうに抱える癖があった。

 紙袋ではなく新聞紙の包みを抱いた彼女が、また歩き出す。


 橋のたもとには石の欄干がある。

 澄子はそこで立ち止まり、川のほうへ体を向けて、欄干に肘をのせた。

 渉も隣に並んだ。

 対岸の家々に、ひとつ、またひとつと灯りがともっていく。

 銭湯の煙突から煙が真っすぐに立ち上り、その向こうの空は紫がかった灰色に沈んでいた。


「ねえ、渉さん」

「はい」

「私ね、あの夜のこと、ずっと考えてたの」

 雪の夜のことだと、聞かなくてもわかった。

「責めてるんじゃないのよ。ただ、ああいうことって、あとからじわじわ来るでしょう。うれしいのと、苦しいのと、悪いことをしたような気持ちと、全部一度に」

「はい」

「でもね、一晩泣いたらね、不思議と、ちゃんと言えることがひとつだけ残ったの」


 澄子は欄干に置いた自分の赤い手袋を見ていた。

「あの時間のことは、後悔してない」

 渉は息を止めた。

「一郎さんに悪いと思う気持ちと、あの夜を後悔してない気持ちは、別々にあるの。両方あって、いいんだって、やっと思えた」

「澄子さん」

「だから渉さんも、自分を責めすぎないでね。私が言いたかったのは、それだけ」

 言い終えて、彼女は少し照れたように鼻の頭を指でこすった。

 その仕草が、胸の奥のいちばん柔らかいところに触れた。


 渉は欄干から手を離して、上着の内ポケットを探った。

「これを、お返しします」

 取り出したのは、白いハンカチだった。

 赤い糸で小さな花が刺繍されている。

 あの雪の夜、彼女が自分の涙を拭ってくれたものだ。

 澄子はそれを受け取り、掌の上でひろげた。

 洗って、丁寧にアイロンまであててあった。


「洗ってくれたの」

「はい。キヨさんに教わって」

「ふふ。きれいに仕上がってる」

 彼女は指で花の刺繍をなぞった。

「これね、小学校の家庭科で縫ったの。下手でしょう、ほら、ここの花びら、糸がたるんでる」

「いえ。上手です」

「お世辞でしょう」

「本当です。私は、この花がとても好きでした」

 過去形になったことに、渉は言ってから気づいた。

 澄子は一瞬、まばたきをした。

 何も言わずに、ハンカチをたたんで鞄にしまった。

 川の水音が、急に大きく聞こえた。


「・・あのね、澄子さん」

「うん」

「ひとつ、お伝えしておきたいことがあります」


 渉は欄干に両手を置き直した。

 川の向こうの灯りに視線を預けたまま、一語ずつ選ぶように話し始めた。

「年が明ける少し前に、一郎さんから頼まれたんです。あなたに贈り物をしたいから、選ぶのを手伝ってほしいと」

 澄子の肩が、わずかに動いた。

「あの人は何を買えばいいかわからなくて、何日も悩んでいました。腕時計も、スカーフも、ハンドバッグも、どれもあなたに似合わない気がすると言って。私に聞いてきたのは、本当に困り果てた末だったと思います」

「・・あの万年筆」

「はい」

「あれ、渉さんが選んでくれたの?」

「いえ。選んだのは、一郎さんです。私は、あなたが日記をつけていると聞いていたので、書くものはどうかと言っただけです。一本の万年筆と、青黒いインクと、分厚い大学ノート。それを買いに行ったのは、一郎さん自身です。店の前で一時間も迷っていましたから」


 澄子は欄干に置いた手を、口もとに当てた。

「あの人、お店の前で、一時間」

「はい。私が見ていました」

「・・だから、あんなに不器用な渡し方をしたのね。包みを差し出して、顔も見ないで、どうぞ、ってそれだけ」

 目の縁が赤くなっている。

 笑っているのか泣いているのか、渉にはもうわからなかった。


「澄子さん。あの人は、言葉が少ない人です。上手に気持ちを伝えられない人です。でもその万年筆は、あの人が何日も何日も、あなたの顔を思い浮かべながら悩んで決めた、あの人の言葉のすべてなんです」

 澄子は答えなかった。

 手の甲で、そっと目尻を拭った。

「それを知っていてほしかった。渡す人が、どれほどの思いで選んだのかを」

「・・ありがとう」

「いえ」

「ううん、ありがとう。知らないまま使うのと、知って使うのとでは、きっとインクの色まで違って見えるから」

 そう言って、彼女はまた鼻の頭に指をやった。


 渉は短く息を吸った。

 言うべきことは、もうひとつ残っていた。

「もうひとつ、いいですか」

「うん」

「あなたの日記のことです」

「日記?」

「以前、少しだけ見せてもらいました」

 澄子は目を丸くした。

「ああ。ことぶきで、あなたが置き忘れたことがありました。ほんの数行、目に入ってしまったんです」

 それは嘘ではなかった。

 彼女がノートを開いていたのを、確かに渉は覗き見ていた。


「ごめんなさい。盗み見るつもりはなかったんです」

「いいのよ。ひどいことは書いてなかったでしょう」

「はい。・・ただ、それを読んで、思いました」

 渉は澄子のほうを向いた。

 真正面から彼女の目を見た。

「あなたは、書く人になれます」

「え」

「私は、本を作る仕事をしています。毎日、たくさんの文章を読みます。だから少しだけ、わかるんです。言葉の選び方、季節の切り取り方、人を見る目。あなたの文章には、ほかの誰にもない温度がある」

「やだ、そんな」

「本当です。お世辞ではありません。あなたの書くものを、いつか誰かが読みたいと思う日が、きっと来ます」

 澄子は声を出して笑った。


「どうしたの、渉さん。さっきから、おかしなことばっかり」

「おかしいですか」

「うん。急にお礼を言ったり、褒めたり。なんだか、遺言みたい」

 渉の胸が、小さく軋んだ。

「・・そうかもしれません」

「やだ、冗談よ」

「冗談でも、いいです。聞いてくれただけで」

 澄子は笑いを収めて、じっと渉を見た。

 長い間、見ていた。

 彼女の目の奥に、何かが浮かんで、沈んで、また浮かんだ。

 そしてやがて、静かな声で言った。


「ねえ。・・なんだか、お別れみたいな言い方ね」

 川風が二人の間を通り抜けた。

 渉は笑ってみせた。

 うまく笑えたかどうか、自信はなかった。

「そんなことないですよ」

 それが嘘であることを、澄子はたぶんわかっていた。

 けれど彼女は、それ以上追わなかった。

 ただ川面に視線を戻して、しばらく何も言わなかった。

 対岸の灯りが、水の上に細く長く伸びて揺れている。


「澄子さん」

「なあに」

「あなたは、幸せになりますよ」

 彼女が振り向いた。

「なにそれ、急に」

 笑っていた。

 目から先に笑う、あの笑い方だった。

 それは、あの子守唄を口ずさんでくれた夜の笑顔と同じ種類のものだった。

 ふん、ふ、ふふーん。

 三歳の自分を揺らしてくれた、温かい声。


「占い師みたい」

「そうかもしれません」

「当たるかしら」

「当たります。私が保証します」

「渉さんが保証するなら、安心ね」

 澄子は笑いながら言った。

 そのまま、ふと真顔になって、続けた。


「私も、ひとつ言っていい?」

「はい」

「あなたに会えて、よかったと思ってる」

 渉は目を閉じた。

 閉じなければ、涙があふれそうだった。

「・・私も」

 声が震えた。

「私もです。本当に、会えてよかった」

 しばらく、どちらも動かなかった。


 やがて澄子が、ほんの少し背伸びをして、ごく軽く、渉の腕に手を置いた。

 赤い手袋の感触が、上着越しに伝わった。

「元気でね」

「はい」

「ちゃんと、ごはん食べてね」

「はい」

「風邪、ひかないでね」

「はい」

「それから・・」

 澄子は言いかけて、口を閉じた。

 鼻の頭に指を持っていきかけて、やめた。


「ううん。やっぱり、いい。言わない」

「・・はい」

 彼女は一歩下がって、渉に向かって小さく頭を下げた。

「それじゃあ、また」

 また、という言葉が、胸に刺さった。

 その「また」は、もう二度とない「また」だった。

 それを知っているのは、この世でただ一人、渉だけだった。

「はい。また」

 渉は答えた。


 澄子は背を向けて歩き出した。

 橋を渡り、土手を降り、豆腐屋の軒灯の前を過ぎる。

 新聞紙に包んだ油揚げを胸に抱えて、少し前かがみに歩く後ろ姿。

 途中で一度だけ、振り返りかけた。

 けれど彼女は、肩のあたりで止まって、前を向いた。

 それでいい、と渉は思った。

 振り返らないでくれて、ありがとう。


 その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、渉は動かなかった。

 最後の足音が消えたあとも、しばらく橋の上に立っていた。

 どれほどの時間が過ぎたのか、わからない。

 ふと気づくと、彼は橋を離れて、路地に入っていた。

 狭い路地だった。

 両側に板塀が続き、その上に洗濯物の竿が突き出している。

 どこかの家から、ラジオの音が漏れていた。

 ちょうど七時のニュースの時報が鳴って、アナウンサーの落ち着いた声が何かを読み上げている。


 渉は板塀に背をつけた。

 そのまま、ずるずると体が下がっていった。

 膝を抱えた。

 声は出さなかった。

 出してはいけない気がした。

 歯を食いしばって、喉の奥で嗚咽を殺した。

 肩だけが小刻みに震えた。

 三十八年生きて、こんなふうに泣いたことはなかった。


 母に会いたいと思って生きてきた。

 会えたのに、母と呼べなかった。

 母だと知りながら、女として愛しかけた。

 そしてたった今、その人に、さよならを言った。

 嘘をついて。

 未来のことを何も話さないまま。

 それでも、あの人は笑ってくれた。

 渉は袖で顔をぬぐった。

 ぬぐってもぬぐっても、涙は止まらなかった。


 ぽつり、と頬に冷たいものが落ちた。

 涙ではなかった。

 見上げると、路地の上に切り取られた細い空から、雨が降り始めていた。

 最初は一粒ずつだった。

 それがやがて細い糸になり、板塀を濡らし、軒先の瓦を打ち、路地の土を黒く染めていった。


 ラジオの声に、雨音が混じる。

 渉はゆっくりと立ち上がった。

 路地を抜けて、広い通りに出る。

 濡れた舗装路に、街灯の光が長く伸びて映っていた。

 車のヘッドライトが過ぎるたびに、水面が白く割れて、また元に戻る。


 その光景を、渉は知っていた。

 三十八年後の十二月七日。

 両親の命日。

 あの夜に、自分が立っていた交差点。

 雨に濡れた道。

 反射する街灯。

 遠くに続く赤い信号。

 同じだった。

 あまりにも、同じだった。


 渉は立ち尽くした。

 雨は静かに、しかし確かに強まっていく。

 髪が濡れ、襟もとから冷たい水が背中へ流れ込んだ。

 近い、と思った。

 理由はわからない。

 ただ体の奥で、何かが静かに、時計の針を進めはじめている気がした。


 帰る時が、近い。

 渉は濡れた通りの先を見つめた。

 その向こうに、光の滲んだ街灯が、ひとつ、またひとつと点っていく。

 点いた、と心の中でつぶやいた。

 かつて澄子と並んでことぶきの窓から眺めた、あの灯りのように。


 けれど今は、隣に誰もいなかった。

 雨の音だけが、静かに彼を包んでいた。

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