第二十一話 二つの傘
雨は、みるみる強くなっていった。
最初は糸のようだった雨脚が、いつのまにか太い筋に変わっている。
板塀を叩き、トタン屋根を鳴らし、あちこちの軒先から水の落ちる音が重なりはじめた。
広い通りへ出た渉の髪から、顎から、冷たい雫が止まることなくしたたっていく。
ラジオの時報はとうに終わっていた。
どこかの家で窓の開く音がして、女の人が慌てた声で洗濯物を取り込んでいる。
自転車の男が背を丸め、水を跳ねあげながら渉の脇を駆け抜けていった。
傘。
ふいに、その一文字が頭に浮かんだ。
澄子は傘を持っていなかった。
夕方の橋のたもとで、彼女の手にあったのは赤い手袋と、新聞紙に包んだ油揚げだけだった。
もう家に着いている。
包みを台所に置いて、濡れずに済んでいる。
そうわかっていた。
けれど、わかっていることと足が動くことは、別のことだった。
気がつくと、渉は走り出していた。
あの夜と同じだ、と思った。
考えるより先に、体が動いている。
ただ今夜は、行き先に差し出せるものを、何も持っていなかった。
傘も、言葉も。
濡れた舗装が靴底で鳴る。
商店街の軒灯が滲んで、後ろへ流れていく。
シャッターを下ろした八百屋の前を過ぎ、肉屋の裸電球の下を過ぎ、息が上がってきたところで、橋が見えた。
渉は足をゆるめた。
何をしに来たのだろう。
傘も持たない手ぶらの男が、息を切らして、別れを告げたばかりの人を探している。
滑稽だった。
笑おうとして、うまく笑えなかった。
それでも橋のたもとまで来て、石の欄干に手をついた。
夕方、澄子が肘をのせていたのと、同じ場所だった。
濡れた掌に、石の冷たさが硬く食い込んだ。
川は黒く膨らんで、雨に打たれていた。
無数の小さな輪が水面に生まれては消える。
その向こう、対岸の土手道に、街灯が等間隔に黄色い輪を落としていた。
豆腐屋の軒灯はもう消えている。
そのひとつの輪のなかに、傘が二つあった。
一つは、骨の歪んだ黒い洋傘。
もう一つは、赤と緑の細かなチェック柄をした、小ぶりの傘。
雨に煙って、顔までは見えない。
けれど渉は、傘の下の肩の線だけで、二人が誰なのかわかってしまった。
わずかに前へ傾いだ、不器用な背中。
その隣を、少し弾むように進んでいく小さな影。
二人は並んで、ゆっくりと歩いていた。
一郎の歩幅は、いつもよりずっと小さかった。
工場への道を大股で行く人が、澄子の足に合わせて、一歩ごとに調子を揃えようとしている。
それだけのことが、渉の胸の奥の、いちばん柔らかい場所を押した。
二つの傘は、縁と縁が触れ合うほど寄っていた。
雨粒が互いの布の上で弾けて、細かな飛沫になって落ちていく。
やがて、黒い傘が、ふっと傾いた。
一郎が、ポケットの中に突っ込んでいた手を、おずおずと出した。
一度、彼女の手の甲をかすめて、引っ込める。
もう一度。
それから、あきらめたように下げる。
見ているほうが息を詰めてしまうような、ぎこちない往復だった。
三度目に、一郎の手が、澄子の手を握った。
握った、というより、掴んだ。
旋盤の前で鉄を掴むときの手つきで、赤い手袋ごと、ぎゅっと。
澄子の肩が跳ねた。
チェック柄の傘が大きく揺れて、溜まっていた雨水がひと筋こぼれ落ちる。
彼女は一郎のほうへ顔を向けた。
そのまま、しばらく動かなかった。
一郎は、まっすぐ前だけを見ていた。
耳のあたりが赤いのが、遠目にもわかる気がした。
鼻の頭に指をやろうとして、両手がふさがっていることに気づいたのだろう。
代わりに首をすくめて、傘の下で小さくなった。
その様子に、澄子が笑った。
聞こえるはずがなかった。
雨音と川音が、あたりの音を全部呑みこんでいるのに。
それでも渉には、確かに聞こえた。
目から先に笑って、そのあとから声がついてくる、あの笑い方が。
これから、まだ生まれていない自分を揺らすことになる声と、同じ温度の笑い声だった。
澄子は、握られた手を振りほどかなかった。
少しの間をおいて、赤い手袋の指が、そっと曲がる。
一郎の大きな手を、握り返したように見えた。
二つの傘が、ひとつ寄った。
縁と縁が重なって、赤と緑の格子と黒い布が、街灯の下でひとつの丸い影のように並んだ。
渉は、欄干に手をついたまま、動けなかった。
あの手だ、と思った。
あの二つの手が、これから、自分を抱き上げ、肩に乗せ、転んで泣いている自分の手を取るのだ。
覚えていない。
何ひとつ覚えていない。
それでも、いま目の前で繋がれたあの手の中から、自分の三十八年は、もう始まっていた。
声に出さずに、渉は言った。
頼んだぞ。
ちゃんと生きてくれ。
晴れの日も、こんなふうに雨の日も、そうやって並んで歩いてくれ。
三年後に生まれてくる息子のために、今から愛を積んでおいてくれ。
あふれるくらい、いくら積んでも多すぎることはないから。
父と母の記憶をひとつも持たないまま歩いてきた道の下には、たぶん、ずっと、このひと冬の温もりが敷かれていた。
その先にある雨の夜のことは、考えないことにした。
変えられないから美しい。
いつか本の話のなかで口にした言葉が、こんな重さで戻ってくるとは思わなかった。
変えられないものの手前にある時間が、せめて、ただ温かいものであるように。
渉に祈れるのは、それだけだった。
二つの傘は、ゆっくりと遠ざかっていった。
街灯の輪をひとつ過ぎ、またひとつ過ぎるたびに、重なった影は小さくなって、やがて雨の幕の向こうで、赤と黒の滲みになって溶けた。
渉は、最後まで目を離さなかった。
頬を伝うものが涙なのか雨なのか、もう区別がつかなかった。
ただ、口もとだけが、ゆるんでいた。
笑っている、と気づいたのは、雨水が口の端に流れ込んだときだった。
キヨの家の戸を開けたとき、渉は、絞れるほど濡れていた。
上がり框の裸電球の下に、キヨが立っていた。
手ぬぐいを二枚、もう持っている。
帰ってくる刻限を知っていたような顔だった。
「傘も持たないで、まあ」
「すみません」
「謝ることはないよ。雨は、誰のせいでもないんだから」
手ぬぐいを渡すと、キヨは台所へ引っ込んでいった。
どこへ行っていたのかも、なぜずぶ濡れで笑っているのかも、何ひとつ尋ねなかった。
かまどの前に座らされて、濡れた髪を拭いた。
薪が静かに爆ぜる。
熾の赤い色が、頬を乾かしていく。
棚の上の古いラジオから、夜の天気予報が流れていた。
『・・あすは、夜のうちに雨が上がり、日中は穏やかな晴れとなるでしょう。ただし、朝晩は冷え込みが・・』
「上がるってさ」
鉄瓶を下ろしながら、キヨが言った。
「そうですか」
答えながら、渉は自分の胸の中を覗いた。
帰る時が近い。
そう感じたはずだった。
なのに、雨が上がると聞いて、どこかでほっとしている自分がいた。
まだ、ここにいられる。
そう思ってしまった。
その安堵は、ひどく後ろめたくて、ひどく正直だった。
布団に入ると、足もとに湯たんぽがあった。
厚い布にくるまれて、足の裏に、じんわりと熱が染みてくる。
いつ入れてくれたのか、渉にはわからない。
屋根を打つ雨の音を聞きながら、目を閉じた。
まぶたの裏で、二つの傘が、まだ寄り添って歩いていた。
雨音が消えていることに気づいて、目が覚めた。
障子の向こうが、うっすらと明るい。
軒先から落ちる雫の音だけが、ぽとり、ぽとりと、間遠に続いている。
渉は布団を抜け出し、音を立てないように縁側の戸を開けた。
空は、洗われたように澄んでいた。
庭の柿の枯れ枝に水滴が連なって、昇りかけた朝日を受け、小さな灯りを無数に吊るしたように光っている。
雪はほとんど雨に溶けて、黒い土が顔を出していた。
台所から、もう薪の匂いがしていた。
キヨに声をかけようかと迷って、やめた。
代わりに、卓袱台の上に、昨夜借りた手ぬぐいを畳んで置いた。
外へ出る。
どこへ行くという当てはなかった。
ただ、歩きたかった。
この町を、足の裏で覚えておきたかった。
道のあちこちに、昨夜の雨が置いていった水たまりが残っている。
どれも小さな鏡のように、朝の空を映していた。
靴の先でそっとまたぐと、青い空の切れはしが、ゆらりと揺れた。
どこかの拡声器から、ピアノの音が流れてきた。
町内放送のラジオ体操だった。
冬の朝でも欠かさず広場に集まる年寄りたちがいるのだろう。
伴奏に合わせて、張りのある男の声が号令をかけている。
冷えた空気のなかを、その調べは思いがけないほど遠くまで届いた。
商店街の入口で、牛乳配達の自転車とすれ違った。
荷台の木箱で瓶が触れ合って、かちゃかちゃと乾いた音を立てる。
青年が片手を上げて、「おはようさん」と言った。
顔見知りになった覚えはなかった。
けれどひと月近くのあいだに、渉はこの町の朝の風景のなかに、ほんの少しだけ紛れこんでいたらしい。
「おはようございます」
そう返した声が、自分でも意外なほど、自然だった。
豆腐屋では、主人がもう釜の前に立っていた。
立ちのぼる湯気に、大豆の甘い匂いがまじる。
昨日の夕方、澄子が油揚げを買った店だった。
肉屋は威勢のいい音を立ててシャッターを巻き上げ、八百屋の店先では、おかみさんが蜜柑の木箱を積み上げている。
橙色の山に、朝日が斜めに当たって、そこだけ小さな火がともったように見えた。
ひとつひとつを、目に焼きつけるように歩いた。
電柱の手書きの広告看板も、錆びた郵便ポストも、軒下の赤電話の色も。
このなかのいくつかは、三十八年後には、もうどこにもない。
それを知っているのは自分だけだと思うと、すべてが尊くて、少しだけ寂しかった。
珈琲ことぶきの前に出たのは、歩きはじめてどれほど経ってからだったか。
シャッターは半分だけ上がっていた。
ガラス戸の向こうにぼんやりと灯りがともり、中から、ごり、ごり、と豆を挽く音がしている。
古いコーヒーミルの、規則正しい、低い音だった。
渉は、庇の下に入って、立ち止まった。
昨夜の雨を溜めた庇の縁から、雫が落ちて、足もとの水たまりに小さな輪をつくっている。
最初の夜も、ここだった。
見知らぬ町の、見知らぬ雨のなかで、行き場をなくして立っていた自分。
コンビニの明かりも、スマートフォンもない闇のなかで、街灯の色がやけに黄色く見えたこと。
先に雨宿りしていた若い女の人が、びしょ濡れの自分に、声をかけてくれたこと。
「びしょ濡れじゃないですか」
赤みのセーターを着て、前髪の濡れた人だった。
どちらから、と尋ねられて、想像できないくらい遠くから、と答えた。
あれは嘘ではなかった。
本当に、想像もできないくらい遠くから、自分は来たのだ。
変な人、と笑われたのに、不思議と少しも傷つかなかった。
あの夜、この庇の下で始まったものが、昨日、橋のたもとでひとつの区切りを迎えた。
そして昨夜、雨の土手道で、あの人は、あるべき人の隣を歩いていた。
ガラス戸の向こうで、人影が動いた。
マスターだった。
看板を出そうとして扉に手をかけ、庇の下に立つ渉に気づいて、手を止めた。
目が合った。
マスターは何も言わなかった。
ほんのわずかに顎を引いただけで、それから、何も見なかったような顔で、奥へ戻っていった。
やがて、豆を挽く音が、また聞こえはじめた。
その静けさが、ありがたかった。
ガラス戸の隙間から、コーヒーの香りが流れてくる。
煙草と、焙煎した豆と、古い木の匂い。
この先、どこかでこの匂いを嗅ぐたびに、きっと自分は、今朝のこの庇の下へ戻っていくのだろう。
渉は、そう思った。
やがて、庇の縁から落ちる雫の間隔が、少しずつ開いてきた。
朝日が高くなって、軒の水が乾きはじめている。
渉は、庇の下から、一歩、光のなかへ踏み出した。
足もとの水たまりに、澄んだ青い空が映っていた。
靴の先が触れて、空が砕け、また静かにひとつに戻っていく。
どこへ行くのか、決めていたわけではなかった。
けれど気がつくと、足は、商店街の突き当たりのほうへ・・あの交差点のほうへ、向いていた。




