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気付けば、だらりと重力に素直に引かれたドアチェーン越し、薄く開いたままの隙間の向こうに居た目玉と爪のお化けは、跡形もなく消えていた。
ほぅと息を吐いて、弥生はゆっくりと立ち上がろうとする。
だが、膝に力が入らず、弥生は立ち上がるのを諦めた。
とても身体が重い。
訳もなく涙が頬を滑り落ちる。
ボロボロと伝い落ちて、玄関に幾つもの丸い染みが描かれた。
それでやっと怖かったのだ…恐ろしかったのだと、思い至る。
身が竦み、麻痺していた感情が戻ると同時に、痛覚も戻って来たらしい。
頬にチリとした痛みを感じる。
そっと痛む部分を指で擦れば、指先が赤く染まった。
どうやら女性の爪先が当たるか何かしていたらしい。
滲む程度の流血だが、薄っすらと指先に広がる血の赤さに、恐怖と怯え、そして訳の分からない憤りも加わって、弥生はその場に泣き崩れた。
翌朝、弥生は散々だった。
頭痛もだるさも酷くて、思わず仕事を休んでしまいたいと思う位だったが、昨晩の意味不明な突撃を考えると、家にいる方がストレスになりそうだ。
昨夜はあの後、呆けたように泣き続けていると、チェーンのかかったままのドアの隙間から、声を掛けられた。
ビクンと大きく跳ねて怯える様に、声の主は慌てたらしい。
あの目玉お化けと違い、心配するような…少女の柔らかな声に、やっと焦点が定まった。
相手の顔を視認した途端、ごっそりと力が抜け落ちる。
まだ若い彼女は403号室の住人で、現在高校生だ。
さっき目玉お化けを撃退してくれたのは、どうやら彼女の父親らしい。
ちょっと『そちら系の御職業で?』と、尋ねてしまいたくなるような強面の男性だが、本人は至って温厚だ。
聞けば彼女――名を森魚 知子と言う女子高生が、あの狂ったような女性の暴れっぷりに、父親を嗾けてくれたらしい。
ちなみに父親の名前は森魚 将太と言い、弥生同様、5階の新住人からの挨拶はなかったので、顔も何も知らない派である。
冷静に考えれば、あんな化け物相手へ、如何に強面とは言え、穏やか且つ小心者な父親を嗾けるなんて、危険だと思うのだが、正直言うと助かった。
まだ高校生な彼女とその父親に、迷惑を掛けるのは心苦しいが、あんなの弥生一人の手には負えない。
話を聞いていると、404号室の川原が、今日から不在なのだそうだ。
その川原夫妻が出かける時に丁度出くわし、知子も気を付けるように言われたらしい。
そこへ常軌を逸した声が、あまりにもタイムリーに飛び込んできて、家で休んでいた父親に怒鳴って貰ったのだそうだ。
落ち着いてからにでも、御礼に伺わなければ……。
何にせよ、昨晩は森魚父娘のおかげで助かった。
その後の事はあまり記憶に残っていないが、無意識に普段通りの事はしていたのだろう。風呂に入って着替えて就寝……ただ、頭は爆発していた。
髪を乾かさずに寝てしまったのだろう。
昨夜は本当に精魂尽き果てていた事が、ありありと見てとれる。鏡の中に自分に、深い溜息が零れ落ちた。
疲れ切った身体に鞭打つ事になるが、家にいるより仕事に出た方が心の平穏は保てる。
弥生はいつも通りの準備をし始めた。
ぴょんぴょんと跳ねまくっている髪を、梳って一つに結ぶ。自由奔放な毛先と格闘する気力はない。
昨夜つけられた頬のひっかき傷が、妙に目立つ。
手当をして、今日は化粧は程々にする。日焼け止めの方を丁寧にした方が良さそうだ。
傷そのままでも目立つので、どうせなら…と絆創膏も貼った。
食欲もないので、少し砂糖を多めにしたコーヒーを淹れる。
熱いコーヒーが身体中に染みわたるようだ。
ホッと息を吐き、スーツに着替え、鞄を手にしようとした所で、あのチラシが目に入った。
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