第3話 「怒りの汁物」
その店に入れるのは、
死にたいと思ったことがある人間だけだ。
少なくとも、そういう人間にしか、
あの暖簾は見えない。
朝、目が覚めたとき、枕元にそれがあった。
透明な樹脂の中に、安っぽい飾り。金属の輪。小さなキーホルダー。昨夜、ポケットに入れたはずのものが、枕元に転がっている。
寝返りを打った拍子に出たのかもしれない。そう思って手を伸ばした。指先が触れた瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。水が欲しい。今すぐ。起き抜けの乾きとは違う。焦げた匂いを吸い込んだときの乾きに近い。
俺は手を引っ込めた。
部屋はいつもの部屋だ。六畳。薄いカーテン。机の上に未開封の郵便物。床に脱いだ靴下。現実は並んでいる。並んでいるから、安心するはずなのに、安心が遅れてくる。
その遅れの間に、夢の音が戻ってきた。
怒声だった。
男の声。低くて、割れていて、言葉の内容が聞き取れない。怒鳴っている。怒鳴り声の向こうで、何かが倒れる音。ガラスじゃない。木がぶつかる音。床板が鳴る音。狭い部屋で、壁が近い音。
俺は夢の中で、そこにいた。
見えていないのに、いる。視界がなく、音だけが詰まってくる。自分の呼吸が早くなる。呼吸が早いのに、空気が足りない。口の中が乾く。乾いた口の中に、鉄の味がした。
起きた俺の身体は汗をかいていた。背中が冷える。シャツが肌に張り付く。現実の冷えなのに、夢の匂いが残る。湿った木と、古い布の匂い。甘い柔軟剤じゃない。誰かの生活が詰まった匂い。
俺はベッドの端に座った。足の裏がフローリングに触れる。冷たい。冷たいのが現実だと教える。でも冷たい現実の上に、夢の音が薄く残っている。
これは俺の記憶じゃない。
そう思った。思った瞬間、喉が詰まる。詰まると、言葉が出ない。出ないから、深呼吸をする。吸うと胸が痛い。痛いのに、吐くと少しだけ楽になる。
キーホルダーを見た。何も変わっていない。透明で、安っぽくて、可愛いふりをしている。ふりをしているものほど、信用できない。
俺はそれをポケットに入れた。ポケットに入れると、硬さが布越しに残る。残る硬さが、夢の音と繋がっている気がして、指先が冷えた。
仕事の時間は、いつも通りに進んだ。
パソコンの画面。メール。資料。会議。相槌。笑いの練習。全部が滑る。滑るのに、止まらない。止まらないから、今日もやれる。
昼休みに同僚が言った。
「真白、顔色悪いぞ。寝てない?」
「寝たよ」
俺は答えた。寝た。確かに寝た。寝たのに、起きた。
「最近さ、疲れてるなら休めよ」
「うん」
うん、と言うと会話が終わる。終わると助かる。助かるのに、胸の奥が薄いまま残る。薄いまま残るものが、夜になると重くなる。
夕方、俺のスーツの内側が少し湿った。汗が乾かない。冷房の風が当たる場所だけ冷える。冷えると、夢の背中の冷えを思い出す。思い出した瞬間、喉が乾く。
帰り道、俺は路地のほうへ向かっていた。
向かうつもりはなかった。つもりはないのに、足がそこへ向かう。吸われる、という言い方が一番近い。誰かに引っ張られているわけじゃない。自分の中の薄い場所が、そこにだけ濃いものを探しに行く。
路地は今日も暗い。奥に暖色が滲む。暖色の滲みが、昨日よりも近く見える。近く見えるのは、俺が近いからだ。
暖簾が見えた。
白い布。黒い文字。文字は滑る。でも入口は分かる。分かることが、もう当たり前になりかけている。
俺は暖簾をくぐった。
「来たか」
店主の声。低い。短い。今日は最初からこちらを見た。見たのは俺の顔じゃない。俺のポケットだ。視線がそこに落ちる。
俺はポケットの中の硬さを感じた。感じた瞬間、喉が乾く。
「返す」
俺は言って、キーホルダーを出した。出すと、部屋の空気が少しだけ軽くなる気がした。気がしただけで、実際の重さは変わらない。
店主はそれを見て、指先が止まった。包丁を持っていた手が一瞬止まる。止まってから、包丁を置く。置く音が小さい。小さい音が怒っているときの音だと、俺は思った。思っただけで、確かめようがない。
「混ぜるなって言っただろ」
店主が言った。声は上がらない。上がらないから、刺さる。
「落とし物だろ。放っておくのもどうかと」
俺は言った。言い終えたあと、言葉が自分のものじゃないみたいに聞こえる。正しさを借りてきた声。借りてきた声は薄い。薄い声ほど、反論されると崩れる。
「善意は混ざる」
店主が言った。
「混ざると戻らない」
戻らない。俺は朝の夢を思い出した。怒声。壁の近い音。鉄の味。俺の記憶じゃないはずのものが、俺の喉に残っている。
「戻らないって、どういう」
「そのまま」
店主が言い切る。言い切りが短い。短いから余白が残る。余白に、俺の想像が入り込む。入り込むと、胃が痛い。
俺はキーホルダーをカウンターに置いた。置いた瞬間、手のひらの中の硬さが消える。消えると、指先が少しだけ軽い。
店主が言った。
「分けろ」
「なにを」
「全部」
全部。俺は笑いそうになって、笑えなかった。笑うと軽くなるはずなのに、軽くなるのが怖い。軽くなると、空く。空くと、何が入るか分からない。
暖簾が揺れた。
客が入ってきた。
中年の女性だった。髪はまとめている。コートの襟がきちんとしている。靴も手入れされている。丁寧に生きている人の外側をしているのに、指先だけが硬い。指がこわばっている。コートのボタンを外す動きが、少し遅い。
「こんばんは」
女性は丁寧語で言った。丁寧語は柔らかいはずなのに、語尾が硬い。硬い語尾は、刃を隠すときの形だ。
店主は言った。
「食う?」
「お願いします」
女性は椅子に座った。背筋が伸びている。伸びている背筋が、固い。固い背筋は休めない背中だ。
俺は女性の手を見る。手の甲に血管が浮いている。浮いている血管が冷たい色をしている。冷えている。冬じゃないのに冷えている。冷えは体温じゃないところから来る。
「お疲れですか」
俺はそう聞きかけて、口を閉じた。聞き方が違う。違うのに、何が違うのか言えない。言えないまま、喉が乾く。
女性は俺を見た。見た目は穏やかだ。目尻も下がっている。なのに、目の奥が動かない。動かない目は、誰かをずっと見続けた目だ。
「いいえ」
女性はそう言った。いいえ、と言い切る声が硬い。硬い声は、余計なものが削ぎ落とされている。
店主が鍋を火にかけた。湯気が立つ。湯気の匂いが鼻に入る。味噌でも醤油でもない。出汁の匂い。出汁の匂いは、家の匂いに近い。近いから、逆に逃げ場がなくなる。
女性の喉が動いた。唾を飲み込む動き。飲み込む動きが短い。短いと、我慢が見える。見えるのに、言葉にはならない。
「今日は」
女性が言った。
「怒ってはいけない日でした」
怒ってはいけない、という言い方が妙に具体的だった。誰かに言われた言い方だ。自分で決めたルールじゃない。外から押しつけられたルールだ。
「怒ってはいけないって、誰が」
俺が言いかけて、また止まる。止まると、喉が詰まる。詰まると、言葉が薄くなる。薄い言葉はこの店で浮く。
女性は続けた。
「怒ると、空気が悪くなるから」
空気。俺は会議室を思い出した。空気が止まる瞬間。誰も気にしないふりをする瞬間。気にしないふりをするほど、空気は誰かの首に巻きつく。
「空気が悪くなると」
女性が言った。
「私が悪いことになる」
悪いことになる、と言ったとき、女性の指先が少しだけ震えた。震えは小さい。小さいから、余計に目立つ。震えを押さえようとして、指が膝の上で握られる。握られると、関節が白くなる。
店主が器を出した。汁物の器。陶器。縁が厚い。持つと熱が伝わるやつだ。
器がカウンターに置かれる音が、少しだけ重い。
「怒りの汁物」
店主が言った。
名前が直球すぎて、俺は息を吐いた。吐いた息が短い。短い息は、驚きか、拒否か、どちらかだ。どちらなのか分からない。
女性は器を見た。湯気が立っている。湯気が目に沁みる。俺の目も少しだけ痛い。痛いのに、涙が出るわけじゃない。目の表面が熱いだけだ。
女性が器に手を添える。指先がまだ冷たい。冷たい指が熱い器に触れると、反射で離しそうになる。離さない。離さないのがこの人の癖だと感じた。癖は言葉にならないところで残る。
女性は一口飲んだ。
最初の一口のあと、喉が一度止まった。止まった喉が、震えた。震えは声になる前で止まる。止まったまま、鼻の奥が少しだけ赤くなる。赤くなるのは見えないのに、そういう感じがする。自分の鼻の奥が熱くなったときの感覚が、相手の顔の動きと重なる。
女性は二口目を飲んで、口を閉じた。
閉じた口の端が少しだけ引きつる。引きつると、頬の筋肉が硬くなる。硬くなるのに、眉は動かない。動かない眉が、抑えているものの大きさを出す。
女性の喉がもう一度震えた。
震えが、今度は胸まで降りる。降りた震えが、肩を小さく揺らす。揺れはほとんど見えない。見えないのに、器の湯気が揺れる。湯気は正直だ。
女性の手が器の縁を強く掴んだ。掴んだ指の関節が白くなる。白くなると、指先の冷たさが戻る。冷たさが戻ると、握りがさらに強くなる。
女性は声を出さない。出さないのに、喉が勝手に震えている。震えが止まらない。
目の端に水分が溜まる。でも溜まる前に、瞬きで押し戻す。押し戻す動きが、怒鳴る代わりの動きに見えた。
俺は見ているだけだった。見ているだけなのに、胃が痛くなる。胃の痛みは同情じゃない。自分の内側が反応している痛みだ。
店主が言った。
「出たな」
女性は頷く。頷く動きが小さい。小さい動きで、器の湯気が揺れる。
「出したら、戻るんですか」
女性の声は丁寧語のままだ。ままなのに、声が少し擦れている。喉が震えたあとだからだ。
「戻らない」
店主が言った。
また戻らない。戻らないが今日の言葉だ。戻らないと言われるたびに、俺の胸の薄い場所が少しずつ濃くなる。濃くなると、息が浅くなる。
「怒りって」
俺は言って、止まる。言い方が分からない。怒りを語ると説教になる。説教にすると、俺が楽になる。見ている相手は楽にならない。だから止める。
女性が言った。
「怒りは、声にすると、私のものになる」
私のもの。言い方が刺さる。声にしないと、自分のものにならない。声にすると、自分のものになる。自分のものになると、責任が乗る。責任が乗ると、悪いことになる。
女性は器を置いた。置くとき、手が少し震えた。震えが、器の縁に当たって小さな音を立てる。カツ、と音がする。その音が、怒鳴れなかった音の代わりみたいに残る。
店主が言った。
「持って帰るな」
女性が少しだけ首を傾ける。
「何を」
「怒りを」
店主の言葉は短い。短いのに、逃げられない。女性の肩がほんの少しだけ落ちる。落ちた肩は、楽になった肩ではない。荷物の置き場を間違えた肩だ。
俺の胃がまた痛んだ。痛みが強くなる。強くなる痛みが、夢の怒声と繋がりそうになる。繋がりそうになるのが怖くて、俺は水を飲んだ。水は冷たい。冷たいのに、痛みは消えない。痛みは胃の奥で居座る。
店主が俺に器を差し出した。
「おまえも一口」
俺は息を止めた。止めた息が胸に溜まる。溜まると、喉が熱くなる。熱くなるのに、声は出ない。
「いらない」
俺は言った。言い方が硬い。硬い言い方は、拒否の形だ。拒否の形を作らないと、飲んでしまいそうだった。
器から立つ湯気が鼻に入る。鼻の奥が熱い。熱いと、喉がさらに乾く。乾くと、唾を飲み込む。飲み込むと、喉が鳴る。喉が鳴る音が、店内ではやけに大きい。
俺は目を逸らした。逸らした先で、店主の指先が止まる。止まった指先が器を引っ込める。引っ込める動きが、引き下がりではなく、切り替えに見える。
「匂いだけでいい」
店主が言った。
俺は言い返せない。匂いはもう入っている。入っている匂いが、喉を熱くする。熱くするものが、俺の中にもある怒りを探し始める。
怒りがある。あるのに、どこに向ければいいか分からない。向ける先が分からない怒りは、胃の奥で腐る。腐ると、夢になる。夢になると、俺のものじゃない怒声が俺の喉に残る。
女性が席を立った。丁寧に頭を下げる。丁寧さが、まだ固い。固い丁寧さは鎧だ。
「ありがとうございました」
女性はそう言って、暖簾へ向かった。背中はまっすぐ。まっすぐなのに、足取りが少しだけ重い。重い足取りは、怒りを置いてきた足取りじゃない。怒りの置き方を知らない足取りだ。
女性が暖簾をくぐると、店内の湯気が少しだけ揺れた。揺れた湯気が、俺の鼻の奥に刺さる。刺さると、目が熱い。熱いのに、涙は出ない。出ないから、目の奥が乾く。
店主が言った。
「皿」
俺は皿を洗い始めた。洗剤の匂いがする。柑橘っぽい人工の匂い。人工の匂いは現実だ。現実は人工で出来ている。そう思うと、少しだけ楽になる。楽になるのに、湯気の匂いが消えない。
皿を拭いて、店を出た。
外の路地は冷たい。冷たいのに、俺のシャツの内側が少し湿っている。汗じゃない湿り。湯気の湿りに近い。
歩きながら、俺は自分の服の袖を嗅いだ。
匂いが残っていた。
汁物の匂い。出汁と、熱と、何か焦げに近い匂い。家の台所の匂いに似ているのに、家よりも濃い匂い。濃い匂いは、離れない。
駅へ向かう途中、すれ違った男が言った。
「味噌? いい匂いっすね」
男は何気なく言った。俺のほうを見てもいない。見てもいないのに、匂いだけが届いている。届く匂いが、現実に触れている。
俺は返事をしなかった。返事をすると、匂いが俺の生活に混ざる。混ざると戻らない。
電車に乗る。車内は暖かい。暖かいのに、俺の袖の匂いは冷たい。冷たい匂いが、さっきの女性の喉の震えと繋がりそうになる。繋がりそうになると、胃がまた痛む。
俺は窓に映る自分の顔を見た。顔はいつも通りだ。いつも通りの顔が、匂いだけをまとっている。
俺はその匂いを、家まで持って帰る。
持って帰ってしまう。




