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生きる気がない人しか入れない店 ―あやかし食堂・本日の献立は後悔―  作者: 妙原奇天


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第1話 「入店条件」

その店に入れるのは、

死にたいと思ったことがある人間だけだ。


少なくとも、そういう人間にしか、

あの暖簾は見えない。


 


 夜だった。時間は分からない。スマホの画面を見れば出るはずなのに、見る動きが面倒で、腕が上がらなかった。歩いているときだけ、余計なことを考えないで済む。止まった瞬間に、頭の中に自分の声が戻ってくる。


 街はいつも通りだった。車道の白線は濡れて光り、コンビニの前に自転車が倒れたままになっている。酔った笑い声が遠くで弾けて、次の瞬間には消える。音量が小さいわけではない。届き方が薄い。耳に入っても、身体の内側で受け止めるところまで行かない。


 雨上がりの匂いがした。アスファルトの熱が一度冷めて、また少しだけ戻ってきた匂い。排水口のぬめりと、古い木材が湿った匂い。街灯の光が水たまりを白く染めて、踏めば足首に冷たさが跳ねる。


 帰る場所がないとは思っていなかった。鍵はある。布団もある。冷蔵庫もある。あそこに戻れば、朝になって、また同じ一日が始まる。


 帰る理由がない。そういう言葉が、喉の奥に引っかかった。吐き出すほど強いものでもない。飲み込むほどの水分もない。だからずっと引っかかっている。


 角を曲がると、路地が一本だけ暗かった。商店街の裏側。昼間は通り抜けの人がいるのに、今は誰もいない。シャッターの金属が雨で黒ずんで、貼り紙の端がめくれている。街の明かりがそこだけ避けているみたいに、奥が見えない。


 その奥に、暖色が滲んでいた。店の看板みたいな派手な光ではない。電球の色が、湿った空気に溶けて、輪郭を持たずに漂っているだけ。


 見つけてしまった。そう思った。


 足が向く。自分の意思より先に、身体が知っている道みたいに。路地に入ると、靴底が水を薄く押し広げる音だけが残る。外の車道の音が一段遠くなる。遠くなるのに、静かになるわけでもない。静けさの中に、細い音だけが残っていく。


 奥に、暖簾が掛かっていた。


 白地に黒い文字。読めるはずの距離なのに、意味だけが滑る。目が文字の形を追って、次の瞬間に、頭の中から内容が抜け落ちる。覚えようとしても、手のひらで水を掬うみたいに、間から落ちていく。


 暖簾の前で足が止まった。止まったのは慎重になったからじゃない。膝が、勝手に折れない程度に固まった。胃の奥が縮み、喉が乾いた。舌の裏が、紙みたいにざらつく。


 引き返せ、という感じではない。押し返されるというより、進む方向だけが消えている。そこに一歩を置けない。床がないみたいに、踏み出した先だけが薄い。


 指先が冷えた。夜風のせいじゃない。呼吸を吸い込んだとき、胸の内側が一拍遅れて縮む。


 息を吐いた。白くはならない。気温はそこまで低くない。なのに、吐いた息の行き先が分からなかった。


 どうでもいい。そう思った。


 連絡を返していないメッセージ。机の上の書類。冷えたご飯。洗っていない皿。明日の予定。全部、同じ重さで、同じ場所に積まれている。どれかを選ぶのが面倒で、どれも選ばないまま今日が終わった。


 消えたら楽かもしれない。


 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、暖簾の文字がひっかかった。


 本日の献立。


 四文字だけが、骨みたいに残る。他の文字は相変わらず逃げるのに、その四文字だけは、目に入って、胸のあたりまで落ちてきた。


 足が動いた。動いたのに、動かした感覚が薄い。自分の身体が前に出たのを、あとから追いかけるみたいに、暖簾が揺れた。


 


 中は狭かった。カウンターが一本。椅子は数脚。壁は木目で、どこかが少し削れている。古いけれど、掃除が行き届いている匂いがした。洗剤の匂いではない。熱と水で、油が落ちた匂い。台所の匂い。


 湯気が見えた。鍋から立つ湯気が、天井の換気扇に吸われていく。包丁の音が一定の間隔で続く。まな板に当たる乾いた音と、食材の柔らかさが混ざった音。聴いていると、脳の奥のざらつきが少しだけ均される。


 奥に男が立っていた。背中が見える。エプロンを着けている。白い布ではなく、色の落ちた布。肩のあたりに小さな擦れがあり、紐が一度結び直されている。


 男は振り向かなかった。


「食う?」


 短い声。こちらを測る感じがない。確認でも誘いでもない。置いた、という言い方が近い。


「ここ……何ですか」


 言い終えたあと、自分の声が少し高く聞こえた。喉が乾いているせいか、言葉が軽い。軽いのに、口の中が重い。


 男は包丁を止めないまま言った。


「聞くなら帰れ」


 声は低い。怒っている感じでもない。言い切ったあと、空気が変わらない。変わらないから、言葉だけがこちらに残る。


「ここは答えを出す場所じゃない」


 答え。何の答えだろう、と反射的に考えた。考えた瞬間、頭の奥がざらついた。自分が答えを欲しがっていたことを、そこまで自覚していなかった。


 椅子に腰を下ろす。カウンターの木が、手のひらに少しだけ冷たい。冷たさが残っているのは、ついさっきまで水仕事をしていたからだろうか。木の目に沿って、指先が引っかかる。


 男が小鉢を置いた。音が小さい。皿が木に当たる音が、柔らかく沈む。陶器の縁に、かすかな欠けがある。そこに指を当てると、ざらっとする。


「今日は、これ」


 名札も説明もない。小鉢の中身は少ない。色も地味で、名前をつけるなら、困る。


 食べたくない、と思った。口の中の乾きが、食欲とは別の要求をしている。水なら飲みたい。でもここに、水は置かれていない。


 箸が置いてあった。箸袋はない。使い回しでもないのだろう。木の箸。先が少し細い。


 箸を持つ手が、少し遅れた。遅れたのは迷いではなく、手が自分のものじゃないみたいに感じたからだ。指の関節の曲がり方を、目で確認してから動かす。


 一口、口に入れる。


 味が分からない。分からない、というのは、舌が麻痺しているわけじゃない。甘いとか塩辛いとかの分類が、先に来ない。先に来たのは、言葉だった。


 言いそびれた言葉。


 口の中に、言葉の形が残る。発音しようとして喉の奥で止めた音。飲み込んでしまった返事。あのとき言わなかった一言が、舌の上に乗っている。噛むと、少しだけ苦い。苦いのに、嫌じゃない。嫌じゃないという判断をする前に、身体が次の一口を欲しがる。


 二口目で、指先が冷えた。夜風ではない。胸の奥が少しだけ締まる。息を吸う量が、勝手に減る。息を吐くときに、喉の奥に引っかかりが残る。


 映像は浮かばない。誰の顔も出ない。ただ、場面の端だけが出る。白い蛍光灯の光。机の角。自分の手の甲に乗った紙の感触。そこに書かれた文字を、読み終えたときの舌の乾き。


 箸が止まった。止まったのに、皿の上のものは減っている。


 男が言った。


「後悔」


 小鉢の名前をつけるみたいに、淡々と。


「料理……なんですか、それ」


 質問が下手だ。自分でも分かる。何を聞けばいいのか分からないまま、言葉だけが口を出る。出たあと、空気に吸われる。


「料理は料理」


 男が包丁を置いた。置き方が雑ではない。まな板の端に、刃が触れない位置に置く。指先が一瞬止まる。その止まり方が、考えたときの止まり方に見えた。


「食ったもんが、今のおまえの中身に触る。それだけ」


 それだけ、と言い切るのに、言い切りの勢いがない。説明でも言い訳でもない。事実を並べて終わった声。


 飲み込む。喉が鳴る音が小さくて、恥ずかしくなる。恥ずかしいと言えるほどの熱がないのに、首筋だけが少し熱い。


「生きろって言うんですか」


 自分で言いながら、言葉が薄いと感じた。誰かが言った言葉を、そのまま借りてきたみたいな言い方だ。いつから、自分の言葉がこうなったのか分からない。


 男はすぐ言った。


「言わない」


 言い方が短い。切り返しが速い。そこに余計な息が混ざらない。


「死ぬな、とも言わない」


 包丁の背を布巾で拭く。刃に触れない。手つきが慣れている。慣れている手つきは、妙に冷たく見える。


「ここで吐け」


 吐け、という単語が、急に身体に当たった。胃の奥が反射的に縮む。吐くものがあるのか分からないのに、縮む。


「吐いた分だけ軽くなる」


 軽くなる、という言葉は、慰めの口調ではなかった。医学的な説明でもない。ただ、確かめたことがあるみたいな言い方だった。


 俺は笑おうとして、口角がうまく動かなかった。唇が乾いている。笑うための水分が足りない。


「ここ、優しいんですね」


 皮肉のつもりで言った。つもりだけが先で、声は乾いたままだった。


「優しいって言葉、便利だな」


 男が言った。目は合わない。こっちを見るのを避けているわけでもなく、見る必要がないみたいだった。


「優しいって言えば、責任が薄くなる」


 責任。そこに触れられた瞬間、背中の筋肉が勝手に硬くなる。責任という言葉に、自分が反応することが腹立たしい。腹立たしいと名付ける前に、肩がこわばる。


 男は続けた。


「ここは台所だ」


 台所、という言い方が奇妙に現実的だった。異界でも霊でもなく、台所。油と水と火の場所。


「混ぜるな」


 何を、と聞き返す前に、男の手が鍋に移った。鍋の蓋を少しずらす。湯気が細く漏れ、出汁の匂いが一瞬だけ強くなる。匂いが強くなっただけで、胸の奥が少しだけ動いた。動いたのは空腹ではない。


「混ぜると、味が分からなくなる」


 分からなくなる。俺はさっき、味が分からなかった。分からなかったのに、口の中には言葉が残った。言葉だけが残る味。そんな味があるのか、と今さら思う。


 男が俺のほうを見る。初めて目が合った。


 黒目の中心が、こちらの顔ではなく、口元に落ちていた。俺が何を言うかを待っている目だ。慰める目でも、責める目でもない。言うなら言え、という目。


 俺は口を開いて、閉じた。質問が浮かぶ前に、喉が乾いた。乾きが先に出て、言葉が追いつかない。


「水……ないですか」


 出たのはそれだった。自分でも驚く。こんな場面で、水を求める。救いの言葉より、水。


 男は少しだけ口角を動かした。笑いではない。筋肉が動いただけ。


「ある」


 コップを出す。透明なガラス。水が注がれる音が、やけに大きい。飲むと、冷たさが喉を滑り落ちる。その冷たさが、胃に落ちてから少し遅れて、胸が楽になる。


 楽になる、という言葉を頭に置こうとしてやめた。置いた瞬間に、またここに意味を求めそうだった。


 水を飲み終えると、小鉢は空になっていた。空になった皿の底が見える。底の釉薬が少しだけムラになっている。そのムラが、どこか人の手の癖みたいに見えた。


「会計」


 言った瞬間、自分の声が店内に浮いた。ここで金の話をするのが間違いだと感じる。感じるのに、口が動いた。癖だ。何かを受け取ったら、払う。払えば、終わる。終われば、関わらずに済む。


「要らない」


 男は即答した。


「じゃあ、何を」


「手」


 男が顎でシンクを示す。シンクはカウンターの横。そこに皿が二枚、重なっている。鍋の蓋が置かれたままになっている。


「洗え」


 命令に近い。でも命令の熱がない。淡々と。だから逃げづらい。


「俺、客なんですけど」


 抗議のつもりで言う。つもりだけが先で、声は弱い。弱いと自覚した瞬間、喉の奥が熱くなる。熱くなるのに、泣くわけではない。涙が出るほどの水分がない。乾いた熱だけがある。


「客なら、食って帰れ」


 男が言う。


「食った」


「じゃあ、帰れ」


 帰れ、と言われて、立ち上がる。立ち上がった瞬間、足が少しだけふらつく。貧血ではない。自分の身体の重さを、急に思い出しただけだ。


 暖簾のほうへ行く。行こうとした足が止まる。止まったのはまた、身体のほうだった。


 暖簾が、見えない。


 さっきまで確かに揺れていた白い布が、入口にない。壁も扉も、ただの壁に見える。外へ出るための穴が消えている。


 息を吸う。吸った息が胸に入らない。入らないというより、入ったあとで、どこへ行けばいいか分からない感じがする。


「……帰れない」


 言った声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。情けない声。情けないと名付けた瞬間に、胃が少しだけ痛む。


「洗え」


 男が言った。言い方が変わらない。


「なんで」


 理由を聞きたいのに、理由という言葉に手が届かない。出るのは、なんで、という子どもみたいな音だけ。


 男は皿を一枚、俺の前に置いた。置くときの音が、さっきの小鉢より重い。水の付いた皿の裏が、木に吸い付く。


「金はいらない」


 もう一枚、皿が置かれる。


「手があるなら洗え」


 三枚目。俺の前に積まれる。積まれると、逃げ道が狭くなる。皿の白が、夜の中でやけに明るい。


 俺は反発しようとして、言葉が出ない。出ないのは説得されたからではない。洗わない、という選択肢を口にすると、喉の奥がざらつく。ざらつきが増える。


 シンクの前に立つ。蛇口をひねる。水が出る音が、店の中に広がる。水の音は現実的で、耳に引っかかる。流れ続ける音が、俺の頭の中の音を薄める。


 洗剤を出す。透明なボトル。押すと、ぷるんとした液がスポンジに出る。匂いが立つ。柑橘っぽい。人工的な匂い。なのに、ここではその人工的さが安心に近い。知っている匂いだから。


 スポンジで皿をこする。泡が立つ。泡が立つと、皿の表面の滑りが変わる。指先が滑って、陶器の冷たさが皮膚に伝わる。冷たい。冷たいのに、指先だけが熱い。水に触れているのに、熱い。血が動いている証拠みたいに。


 皿の縁の欠けに指が引っかかる。小さく痛い。痛い、と頭が言う前に、指が勝手に引く。血は出ない。出ないけれど、そこに線が残る。


「痛い?」


 男が言った。


 俺は振り向かない。振り向くと、ここにいる理由が増えそうだった。理由が増えるのが嫌だ。増えると、また選ばなきゃいけなくなる。


「平気です」


 平気、という言葉も便利だ。さっきの優しいと同じくらい。便利だから口が勝手に使う。


「平気なら続けろ」


 男はそう言って、また台所の奥へ戻った。鍋の蓋が少し動く音がする。火の音。小さく、ぶつぶつと煮える音。湯気の匂いが強くなる。味の匂い。味を思い出す匂い。


 皿を洗い終え、すすぐ。泡が流れ落ちるとき、皿の表面が一瞬だけ透き通って見える。透き通って見えるのは水の膜があるからだ。膜があると、世界の輪郭が少しだけ柔らかくなる。


 皿を伏せて置く。水滴が落ちる音が、一定の間隔で続く。その音が、心臓の音に似ている気がして、似ていると気づいた瞬間に、背中が少しだけ寒くなる。


 終わった、と言いたくなる。でも終わったと言うと、帰らなきゃいけない。帰らなきゃいけないと、明日が戻ってくる。戻ってきたら、また理由を探すことになる。


 俺はタオルで手を拭いた。布が指の間の水を吸う。吸われると、指の皮膚が少しだけ突っ張る。突っ張りが、存在を強くする。


「終わりました」


 言った。言うしかない。


 男は一度だけ、俺の手元を見た。皿の伏せ方。水の切れ具合。見て、すぐ視線を戻す。


「帰れ」


 同じ言葉なのに、さっきより重い。重いのに、押しつける感じがない。重い物を置いただけ。


 俺は入口のほうを見る。そこに、暖簾が戻っている。白い布が、さっきより少しだけ汚れて見える。汚れているわけじゃない。俺の目が、細部を見るようになっただけだ。


 暖簾の文字を見ようとする。やっぱり滑る。滑るけれど、四文字だけが残る。


 本日の献立。


 その下に、別の文字がある気がする。ある気がするのに、読めない。目が追うと、意味が逃げる。逃げるのに、そこに何かがあるという感覚だけが残る。釣り糸の先に何かがかかったまま、姿だけが見えないみたいに。


 暖簾をくぐる前に、俺は振り返った。


「あなたは」


 名前を聞くつもりだった。ここが何かを聞くつもりだった。何でこんな店をやっているのか聞くつもりだった。


 言葉が続かない。続かないのは、喉の乾きではない。質問が形になる前に、答えを受け取る覚悟が足りない。


 男は包丁を持ったまま、こちらを見ないで言った。


「聞くなら帰れ」


 同じ言葉。さっきと同じ。違うのは、俺のほうだ。俺の中で、その言葉が少しだけ沈んだ。沈んだ先に、何かが触れた。触れたものが何か分からないから、息が浅くなる。


「また見える夜が来る」


 男はそう言った。


 まるで予言みたいなのに、口調は予言じゃない。ただの確認みたいだった。天気の話みたいに。


 暖簾をくぐる。外の湿った空気が頬に触れる。街の音が戻る。車の走行音、信号の電子音、遠くの笑い声。戻るのに、身体の内側の薄さは戻らない。薄さの中に、台所の匂いだけが残る。


 路地を出るとき、振り返った。

 そこに店があるはずの場所は、ただの壁だった。


 白い暖簾も、暖色の滲みも、ない。


 俺はその場で立ち尽くし、ポケットの中のスマホを握った。画面は見ない。握るだけ。握ると、機械の角が手のひらに当たって痛い。痛いのに、離せない。


 次の夜、俺はまたここを探す。

 探すつもりがなくても、見つけてしまう。


 そういう確信だけが、指先に残っていた。

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