1-20 彼の過去
少し暗いです。
ルシウス・ヴェリアンデは生まれた瞬間から……いや、母親の腹に宿った瞬間から父親に望まれない子どもだった。
彼の母親は商家の娘で行儀見習いとしてヴェリアンデ家に奉公をしていた。
そんな母親は年の近いヴェリアンデ家次期当主__ルシウスの父親にあたる__に一目惚れして、何年もの間思いを募らせていた。
それでも母親は一介の使用人であり、加えて商家の生まれとはいえ平民だった。
平民と貴族家の次期当主が結ばれるなんて天地がひっくり返ってもありえない……母親はずっとそう思っていた。
しかしそんな失恋覚悟の彼女の片思いに転機が訪れたのは、彼が夜会で酒を飲んで酔っぱらって帰宅した真夜中のことだった。
その日は彼の両親である当時の当主夫妻は屋敷を留守にしていて、使用人たちはルシウスの母親に彼が帰宅するのを待っているよう託して眠りについていた。
だから彼女以外、誰にも彼の行動を止められる人間はいなかったのだ。
ルシウスの母親は体格や容姿の色合いだけで言ったら、当時の彼の恋人と酷似していた。そんな彼女を酔っぱらっていたせいで自分の恋人だと勘違いした彼は彼女と夜を過ごし、彼女にとっては幸運なことにその一夜で彼女は彼の子どもを授かった。
翌朝になって『昨夜のことはなかったことにしてほしい』と懇願する彼に頷いた彼女は荷物をまとめて男性禁制の修道院に向かった。
きっとそれは彼からすれば好都合であり、だからこそ彼は彼女を放置したのだろう。
3ヶ月後、『貴方の子どもです』と泣き腫らした彼女が帰って来るなど夢にも思わずに。
結婚どころかまだ婚約もしていない彼に突然子どもができたとなれば、一家は大騒ぎになる。しかも相手は平民の元使用人。
彼女がわざわざ男性禁制の修道院に入ったのは、このときのためだった。修道院のシスターから3ヶ月間一度も男性と接していないことを証言してもらった彼女はお腹の子どもが正真正銘彼の息子であることを証明した。彼女がずっと彼に想いを寄せてきたことから彼女はあの夜まで男を知らなかったというのも有力な証拠となった。
当時ヴェリアンデ家の当主夫妻だった彼の両親は真面目で誠実な人で、『平民とはいえ手を出してしまったのならば責任を持つべきだ』と彼に告げる。
そうして身分違いの恋をしていた彼女は、彼と結婚することになったのだ。
彼女はもちろん彼に恋人がいることを知っていた。それも相手が貴族令嬢だということも。
だが、だとしてももう結婚してしまったのだから少しずつ彼が自分を愛してくれるに違いないと疑わなかった。その自信は自分が彼の子どもを授かっているのだから、ということからもきていたに違いない。
けれど彼が彼女を愛することはなく、彼は両親が亡くなり当主になったあとは彼女にありったけの自由を認めたうえで外に愛人を持つようになった。子どもさえ生まれれば彼もこちらを見てくれると信じていた彼女だが、彼は子どもすら愛することがなかった。
貴族社会では『平民の侯爵夫人』と囁かれ、社交界に馴染むことがまったくできなかったルシウスの母親は、ルシウスが生まれてもなにも変わらない状況にとうとう壊れてしまった。
夫との仲を取り持つという彼女が勝手に与えた役割を果たさなかったルシウスを憎むようになり、ルシウスに虐待を繰り返すようになった。その一方夫に対してはいまだに希望を捨てることができず、二ヶ月に一度ほど夫が帰宅するときは甘い声を出して彼にすり寄った。現在でも彼女は夫に酷く執着しているのだ。
父親である当主はルシウスを恨んではいなかったが、関心がなかったので彼女の虐待を見て見ぬふりをした。彼女がルシウスに暴力を振るったり食事を与えなかったりして他家の人間に虐待の事実を知られてしまうようであれば止めたのだろうが、彼女は陰湿なことに精神的な虐待をした。
ルシウスの父親は彼の母親に己の仕事の補佐をしている人間以外の使用人の雇用を任せたので、使用人たちはクビにされないためにルシウスに関わらなくなった。そうしてルシウスは周りの人間から話しかけられることなく、たまに母親によって罵詈雑言を向けられながら育ったのだった。
「俺がルシウスと初めて会ったときは、あいつは6歳ぐらいだったけど全く喋らない子どもだった……話しかけられることがまったくなかったから、ずっと自分は『話すことができない存在』なんだと思っていたと本人が言っていたよ」
「……」
夕方頃にフェルメナース邸に戻ったベルローズは、兄のレインにヴェリアンデ邸での出来事を話し、レインは困惑した表情のベルローズにルシウスの過去をかいつまんで話した。
その話の内容があまりにも残酷で、ベルローズは真っ青になりながら口元を抑える。ローテーブルの上に置かれたティーカップのなかの紅茶は冷え切っていた。
レインの話によると、ルシウスが暴力を振るわれることは少ないらしいが今日のように母親の気が立っているときは一発殴られることもあるそうだ。
それでも他家の人間がいるときは少し落ち着くらしいが、今日はまったく落ち着いていなかった。それをベルローズがレインに話すと、嫌悪感をあらわにした表情で「それは珍しいな」と呟いた。
「ごめんなさい、お兄様。私、多分なんの役にも立たなかったわ……むしろ彼女を怒らせてしまった」
か細い声で小柄な身体を小さく震わせながら言ったベルローズに、レインは眉尻を下げて微笑んだ。
彼はベルローズの頭にぽんっと手をおいて、左右に動かしながら口を開いた。
「いいんだ、お前は悪くないから」
レインの優しい声に思わずベルローズは泣きそうになる。それをぐっとこらえてベルローズは窓の外を見る。
すっかり日が暮れて真っ暗な景色のさきに、今もルシウスがあの静まり返った屋敷で一人で寝ているのだと思うと、ベルローズはなぜかぎゅーっと胃を締めつけられるような心地になった。
「明日は俺が様子を見に行くから……」
レインの言葉を遠くに聞きながら、ベルローズは窓の外を見つめ続けたのだった。
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