1-19 ベルローズの言葉
(かなり……重たいわね)
ベルローズは水がたっぷりと入った桶を抱えながら心のなかで弱音を吐く。
ルシウスには帰ると告げたものの、やはり帰る気には到底なれなかったベルローズは午後3時をまわってもヴェリアンデ邸にいた。
そんな彼女が持っているつい先ほど井戸から汲んできた冷たい水に満たされた桶は、日常で重いものなどまったく持つことがないベルローズからしてみればまるでずっしりとした大きな石のようだ。
桶の重みでプルプルと震えるベルローズの細く白い腕のせいで、桶に入った水の水面はチャプチャプと揺れ、そのたびに窓から差し込む光をキラキラと四方八方へと反射していた。
廊下に水をこぼさないように気をつけながらベルローズは歩き続け、部屋の前まで辿り着くと一度桶を床において静かに扉を開ける。
自分が入れる隙間分だけ扉を開けたベルローズは桶を持ち直してさっと部屋のなかに入り、部屋のなかで再度桶を置いて扉を静かに閉めた。
桶をまた持ち直し、ルシウスが眠るベッドのそばのテーブルに近づいてそこに置く。
そしてルシウスの額にのせられた手拭いをゆっくりと手に取り、彼の額に浮かぶ汗を拭いてからできるだけ音を立てないように桶の水ですすぐ。
冷たい水をたっぷりと手拭いに含ませたベルローズは、手拭いを水中から出してできるだけ水面の近くでギューッと絞る。
思わず困惑してしまうほど力がないベルローズは何度も何度も手拭いを絞り直して、ようやく手拭いからあまり水が出てこなくなったことを確認してそれをルシウスの額にそっと置いた。
そうしてルシウスの額にのせる手拭いを直したベルローズはふーっと息を吐きながら椅子に腰掛けた。
(ほんと、私なにをしているのかしら)
椅子に座りながらテーブルに置かれた時計の秒針が動く様子をぼーっと眺めながらベルローズは心のなかで呟く。
ルシウスと距離を取りたいのであれば、彼に『帰ったほうが良い』と言われたときにそのまま帰宅していればよかったのだ。それなのに病人の彼をこの静まり返った屋敷に一人にして帰ることがどうしてもできなくて、ベルローズはこうしてヴェリアンデ邸に残ってしまっている。
彼に帰宅を促され、部屋を出たベルローズは使用人すらまったく見かけないこの屋敷のなかで5分ほど歩き回ってようやく一人の使用人を発見し、彼から桶と手拭いをもらって井戸の場所を教わった。
そうしてかれこれ3時間ほどずっとルシウスの額にのせる手拭いを綺麗にする作業を続けている。
ほんとうに少しずつではあるが苦しげな表情が和らいできたルシウスにほっと息をつくベルローズ。
薄暗い部屋のなかでまたしてもベルローズが船を漕ぎはじめたときに、横になっていたルシウスがおもむろに起き上がった。
「……ベルローズ? どうしてまだいる?」
ポスッと音がして彼の額から手拭いが掛け布団の上に落ちるが、ルシウスはそんなことには気づかず、ベッドの側の椅子に腰掛けるベルローズを目を見開きながら見た。
「……」
ベルローズはルシウスの疑問に黙り込む。
どうしてまだ残っているのか、だなんてベルローズにだってわからなかった。そんなベルローズの様子を正確に読み取ったのか、それとも違うふうに読み取ったのかはわからないがルシウスは、フッと鼻で笑った。
その笑いはベルローズからすると嘲笑されたような気もするし、苦笑されたような気もする。
じっとルシウスを見据えるベルローズを見つめ返しながら彼は口を開いた。
「馬鹿だね、ベルローズは。僕から離れようとしているのに、わざわざ残るなんて」
「…………お兄様に、頼まれましたから」
ふいっとルシウスから視線を外して俯いたベルローズは考え込んだ後、吐き出すように言うがルシウスは間髪を入れずに言葉を重ねる。
「レインに頼まれたらなんでもするの?」
「そういう、わけでは……」
ルシウスの質問にベルローズはなんとか答えを返そうとするが、言葉に詰まってしまう。
そんなベルローズを昏い瞳で見据えたルシウスは冷たく低い声音で言葉を発する。
「じゃぁ、なんで残った?」
その言葉に顔を上げたベルローズはルシウスのすべてを拒絶するような表情に思わず目を見開いた。
試されている……とベルローズは思った。
なにを、どう試されているのかはわからないが、なにかを試されていることだけがベルローズにはわかった。だから慎重に答えなくてはならない。乙女ゲーム終了後も生き残るために。
確かにそう思ったはずなのに、ベルローズは反射的に言葉を紡いでいた。
「あなたが一人だったから」
『余計なこと』を言ってしまったとベルローズは言葉を発した直後に後悔をした。
ベルローズの言葉が『余計なこと』であった証拠に大きく目を見開き少しの間ピシッと固まったルシウスは、なにも言わずに身体を動かしてベルローズに背を向けるように横たわる。
そんな彼の背中を見つめながら、ベルローズはこれ以上なにか言葉を発さないよう自分の口元をギュッと手で抑えたのだった。
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