7.孤独の終わり(グリオールside)
まだまだ甘やかしていたかったのに。と、俺は心の中で独りごちる。リーザの部下に言われて足早くルルの元へ向かえば、彼女は重圧に頭を抱えている様子だった。
それでも、なお前に進もうとしている彼女に改めて心をうたれた。もっと言うのであれば、ようやく俺に心を開ききって懐で泣くルルが、最高に愛おしかった。残念ながら、もっともっと甘やかす前に、俺だけのお姫様は甘えをしまい込んでしまったようだが。
「それでね、グリオール。聞いてほしいことがあるのよ。私が会場の外の庭園で聞いてしまった話を、耳に入れたくて。」
と、まあ、こんな様子である。月明かりの下、並んでソファーに腰掛けて話をする態勢を取っているわけだが、もう少し甘い雰囲気のままでもよかったのではないかと思わなくもない。
だが、俺が好きなのは、気丈に振る舞おうとする弱さと強さを兼ね備えたルルだから。こんな風に、自分の決めたことを精一杯やり通そうとしている様も、愛しく思う。そんな竜王を必死に支えようとするルルのおかげで、竜王たる俺はそう呼ばれるに相応しくなろうと足掻くことができるのだ。
「それで、その話というのは、アインハルツ帝国にこの国を攻めさせようとする内容のものだったの。高等魔術師と男爵と呼ばれていた男性、あと一人は一度も声を発していなくてわからなかったけれど、体格的に男性だと思うわ。」
ーーちょっと待て。
一生懸命、知り得たことを報告してくれるその姿勢は、竜王の立場から言うのであればありがたいというべきだろう。だが、俺はその報告を聞いてスゥと肝が冷える感覚を味わった。俺の肝が冷える瞬間は、そう、決まってルルが無茶をしようとするとき、あるいはしたときだ。
「魔術師の人は"主"がいるとも言っていたわ。戦争を起こそうだなんてそんなことーー「ルル。」」
情報量としては悪くない。魔術師が相手にいる中、これだけ聞き取れれば上等だ。だが。
俺は口早に言葉を紡ぐルルの話を遮った。顎を指でクイと持ち上げ、目を合わせる。美しいルルの金の目が、訝しげに揺れた。
「なあ、ルル。そんなことをして、君の身が危険だとは考えなかった?」
「……え?」
「そんな話、聞かれていただなんて知れたら、そいつらは君を生きては返さないだろう。何とかして君を処理しようと躍起になる。」
「分かってるわ。だから細心の注意を払って、気づかれそうになったらちゃんと引き上げたもの。」
俺は出そうになるため息を懸命に押し込めた。その分、肩が少し下がってしまうのは容赦してもらいたいところである。
俺がそのように肩を落としても、ルルは本気でわからないと言った風に首を傾げるから。彼女と同じ箇所に持つ刻印から流れてくる魔力は何ら平時と変わりなく、それがまた心を乱す。いつかこの心配が現実になったらと不安で堪らない。本当に、頼むから、もっと自身を大事にしてほしい。そんな一心で、俺はルルの両肩を少し強く掴み、彼女の目をしかと見据えて言った。
「ルル、君が心配なんだ。どうして君は自分を軽んじる。どうして君は……他者が君を必要としていることを、大切に思っていることを分かってくれない?」
懇願する声音になっているのが自分でもわかる。ルルはそんな俺を見て瞳を揺らがせた。彼女は少し顔を俯かせ、クッと何かを堪えるように唇を噛む。自分で自分を傷つけてほしくなくて、その唇に手を伸ばそうとする前に、ルルはその口を開いた。
「軽んじるってどういうこと。……私のどこが私を軽んじているの? 必要としてくれているって何。分かってくれないのはなぜと言われても……私は貴方が言っていることが分からないのだから分からないわ。」
目の前の少女は戸惑うような気配を見せる。驚くことに……どうやら本当に分からないらしい。俺に流れ込んでくる彼女の魔力も、戸惑うかのように揺らいでいる。
俺は驚きのあまりポーカーフェイスを忘れ、紫紺の目を目一杯開いて、呆けた顔でルルを見つめてしまった。ルルはそんな俺を見て、眉を下げて目をそらす。そうしながらも続けて口を開いた。
「分からないの。辛かったら辛いと、痛かったら痛いと、悲しければ悲しいと、そう言えと言われる。けれど、辛いってどこからが辛いの? 私、テナがなくなってからもうずっと、辛さが滲む日常を我慢しながら生きてきた。全てを失ったあの日よりもっと辛いことなんて、普通に生きていればそうそうないわ。痛みはどの程度から痛いと言えばいい? 私はずっと胸の痛みと戦ってきた。解決法を考えて、考えて、この力と共にずっと。それ以上の痛みなんて、感じたことはないわ。」
「ルル……。」
「少しの辛さでも口にせよ、というのなら、私は毎日辛いと言うしかない。けれど、それってどう考えても鬱陶しいでしょう? この日常を我慢してきたのだもの、私は大抵のことなら何とも思わなくなってしまった。みんなが言う辛いとは何? 痛みとはどういうものなの? どこからが、表に出していいところなの? ……そういうことが全部、分からなくなってしまったのよ。」
「……。」
告げられる言葉に、俺は絶句するしかなかった。それと同時に、悲しいと思った。だから俺はこれを言葉にする。分からない、いや、ある日を境に分からなくなってしまった、ルルのために。
「ルル、想像してみてほしい。君の大切な者がもうボロボロに傷ついて、あちこちから血を流しているとする。なのにその者は、痛みが分からないからと言って、針の上を何食わぬ顔で歩くんだ。針が刺さって痛いはずだし、身体に限界がきているからよろけて新たな傷を作る。それでも痛みがわからないと言って、傷を癒すことも休むこともしないで歩き続けるんだよ。」
「それはまた、すごい人ね……。」
驚くように、呆れたように言うそう彼女は、自分のことだとも分かっていない。本当に自覚がないようだ。辛いとはわかっているのに、口に出していいラインが分からないと言う。そして口には出せず堪えることに疲れたルルは、その辛さを分かっていないふりをするようになってしまった。分からなければ、理解しなけば、辛さも痛みも鈍るから。そうして、きっと自己防衛の誤魔化しは年月を経て本物になり、本当に、分からなくなってしまったのだろう。
「ではもう一つ。君の大切な者は、自身を平気で犠牲にしようとするんだ。誰かのためならばと、服飾品をやるだけでなく、君はその者を大切に思っているのに、その者は君を顧みないで、身体の一部分をそれぞれ差し出していく。やがてその者は最終的に、命まで易々と差し出してしまうんだ。もちろん、それはその者の良心の声に従っての行動なのだが。」
「……そうね、本人がやりたいのならそれは自由、と言いたいところだけど。少なくともその人を大切に思っていた私は気分がよくないわね。そう、悲しい……かな。私ではその人を思い止まらせる鎖にはなれなかったんだって、大切に思っていたのに、その人の中では私は酷く小さな存在でしかなかったのかと、思ってしまうわね。」
「そう、そういうことなんだよ、ルル。優しい君が俺や国を思って動いてくれるのは嬉しい。君は賢いから、確かにある程度のことは対応できるかもしれない。だが、だからと言ってそれが負担じゃないわけないだろう。平気だと言いながら、過度に心身を削って事を処理しようとする君を見ると俺は悲しい。そしてそのままではいつか来るであろう君の限界が恐ろしい。だから、自分を大切にしてほしいと言っているんだ。」
そこで、ルルの目がキラリと光った。分からないと途方に暮れていた瞳に宿った、理知的な光。彼女は嘆息しながら、自身の肩を掴む俺の手に、そっと自分の手を重ねた。
「……さっきの話は私の例えだったのね? 私が、私の身に何かあった時、私を大切に思ってくれている人たちがどう思うか考えていないから、その重みも知らないで危険に飛び込もうとするから、怒ってくれたのね……ありがとう。」
そういって、はにかむような、綺麗な笑みをルルは見せた。淡いライトブルーの髪がさらりと揺れ、金の目は甘く細められ、それが本当に驚くほどに綺麗で。
ーー愛おしい。
その思いが溢れて、俺は肩にかけていた手に少し力を加えてルルを懐に引き寄せて、努めて優しく抱きしめた。なんて、愛おしい。彼女はずっと、孤独だったのか。自分を大切に思ってくれる存在を認めないようにして、頼らないようにして、生きてきたのか。その存在を失ったその時に、あの日と同じ思いを味わいたくないからというのは容易に想像できる。
その彼女に、君を大切に思っている者がいるということを、ようやっと理解してもらえた。ようやく、そこまで来れた。
「ルル、分かってくれてとても嬉しい。俺がどれだけ喜んでいるか、君に分かってもらえるだろうか。」
少し震える自分の声が情けないが、愛おしい人の心を、自分が少しずつ溶かしているという実感が湧いてきて、どうにもならない。魂が、歓喜しているのだ。
そんな俺に、腕の中の存在はクスリと吐息を漏らした。しかし直後、彼女はされるがままに横にたらしていた腕を持ち上げ、俺の背に回す。そして、注意を引くかのように、可愛らしい腕に力を込めた。
「……ねぇグリオール、約束して。」
静かな部屋に心地よく響くルルの音色。そこに懇願の色を感じ取った俺は彼女の背を撫でて、話の先を促した。
「貴方も、同じなのよ。いなくなったら、私は悲しい。絶対にいなくならないで。……わたしを、またしろいせかいに、ひとりぼっちにするなんてこと、しないで。」
今度こそ、もう一生、大切に思う存在を持てなくなるから。そんな酷いことを私にしないでと、そうルルは続けた。
背中に回された手がカタカタと震えている。震えながら、ルルの側以外にどこにも行く気がないという俺を行かせまいとするように、ルルの腕には力がこもった。だから俺はルルの望みに応えるべく、俺の腕にも少しだけ力を込めた。
「約束しよう。俺は絶対に君をひとりにしない。君がどこにいても必ず見つけて側にいるし、そもそも俺はかなり頑丈だ。だから絶対に君より先にはいなくならないし、君が俺から離れられないよう、お望み通り俺に縛り付けてあげよう。」
……少し竜の本性が出てしまった。普段多くを望まないルルの、心からの懇願だったから、つい熱が入ってしまう。最後の粘着質な一言に、引かれていないだろうか。
そう思ってルルを見下ろすと、彼女はとても嬉しそうに微笑んでいた。今まで見たことがないくらい、本当に幸せそうな、心から喜びを表すような、そんな微笑み。凍てついた大地の氷が溶け、一斉に萌える春が芽吹くような。
そこで俺は気づいた。出会った時に感じた、あの複雑な色が、彼女の瞳から失せている。何かに向かって必死に手を伸ばしていたあの頃の彼女を、俺は儚くて美しいと思った。雪が溶けるように消えてしまいそうで、定命の者の儚さを見た。だが今は、あの頃よりもより美しい光を、絶望の予感に打ち勝って希望を受け入れる強さを、その目に宿している。
あの頃、結局彼女が何を思って手を伸ばしていたのか、何を渇望していたのか、正確には分からない。それは彼女にしか分からないことだろう。けれど思うに、彼女はあの惨劇の日、雪の中の途方もない道を、たった一人で歩き続ける孤独を味わったのではないか。そして、本当の意味で歩み寄る覚悟を決めたルルは、もうひとりじゃない。
ーーそれでは、その愛しい番を守るために、俺は最善を尽くすとしよう。
そう決意して、ルルの額に口付けを落とす。見る間に真っ赤になるルルを見て、俺の頬は緩んだ。ルルの手触りのいい髪を堪能しつつ頭を撫でながら、俺は言う。
「君に言いたいことも、したいこともたくさんある。さっさと厄介ごとを片付けて、正式な婚姻の儀をしよう。ーー愛しているよ、ルル。」
そう言って、はたと気づく。ついするりと溢れてしまった愛の言葉。どうやら限界だったようだ。愛しいと思う気持ちは日に日に大きくなっていく。いくらルルが怯えるからといっても、こちらももう限界だった。
怯えるか、と少し身構えながらルルの様子をうかがうと、彼女は目を潤ませて震えていた。けれど、俺は他人の感情の機微に疎い方ではないからわかる。……受け入れて、嬉しいと思ってくれるのか。
俺は心が満たされていくのを感じていた。ルルの髪をそっと梳き、慈しむ。
返事はまだいらない。彼女の素直な反応だけで充分というものだ。言いたくなったら、彼女も言ってくれればいい。以前、彼女も自分の気持ちは言えるようになったら伝えてくれると言っていた。ならば、いくらでも待とう。時間はたっぷりある。
明日になったら、二人の婚儀のためにも、厄介ごとに取り掛かることにしよう。今はもう少し、このまま。
「グリオール……本当に、ありがとう。」
透明で心地よいその音色に、俺の中の黒い竜はゆるりと尻尾を振っていた。




