2.加護のまじない
目覚めた、と思ったのに、辺りは真っ暗闇だった。
「……いま、夜?」
誰に問うわけでもなく、とても小さな声を出してみる。単純に、これは現実だという確証が欲しかった。帰ってきた声は思いの外しっかりと耳から入ってきて、おかげでようやく芯から目が覚めた。
「うで、が。」
目覚めたおかげで気付いたことがもう一つ。すぐ側で寝息を立てているグリオールと、私の身体に巻きついている彼の腕。わざわざそんなことで起こすわけにもいかないし、けれど喉が渇いているから水が欲しい。サイドテーブルの上に水差しはあるのだが、残念ながらそれはグリオールの身体の向こう側あるせいで、起き上がらないと取れない。
仕方ない、と気合を入れて、グリオールを起こさないよう慎重に彼の腕を外す作業に取り掛かろうとした時だ。
「姫様。どうかそのまま。」
「その声……リーザ?」
「はい。リーザにございます。どうか陛下はそのままに。この方がこれほど深くお眠りになられるのは初めてのことなのです。」
「そう、なの。」
突然現れたリーザにも、そして彼女の言葉にも、私は驚きの色を隠せなかった。そんな私とは反対にリーザはとても冷静だ。
これも王城勤めの侍女が成せる技なのだろうか。多分、起きたその瞬間はいなかったと思う。あの水差しについて考えてもぞもぞしている間に、彼女は音もなくこの部屋に入室し、私の側までやってきて耳打ちしているのだ。驚きすぎて喉が締まって大きな声も出せない。ここの侍女が素晴らしすぎるのか、それとも――?
私の思案顔を認めたリーザは、一瞬だけ闇に溶ける苦笑を漏らした。しかしすぐにその苦笑を引っ込め、真面目な顔で私に向かって頷く。
「そのお話はまた後日させていただきます。さあ、上体をお起こしさせていただきますよ。ゆっくりお飲み下さいませ。」
リーザの、侍女にしてはやけに逞しい手に支えられながら、私はほんの少し上体を起こして水を飲んだ。喉を潤す程度に飲むと、寝台に再び横たわる。
「ありがとう。ねえ、リーザ。私って、」
「姫様は姫様ですよ。力を認めたからといって、何が変わるわけでもございません。……そのお話も、また後日致しましょう。今はどうかお休み下さい。明日からきっと忙しくなりますから。」
――私って、これからどうなるのかしら。
そう問おうとした声は先んじて制された。また後日、と言われてしまえば、私はそれ以上強く言うことはできない。少しもやもやとした気持ちになりながらも、大人しく頷いておいた。
リーザも私の様子に満足そうに頷いてくれたから、きっとこれでよかったんだと思う。
「おやすみなさい、リーザ。」
「はい、おやすみなさいませ、姫様。」
ようやく暗闇に慣れてきた目は、リーザの微笑みを捉えた。けれどすぐにまた、目を閉じて意識を闇に落としたため、リーザの表情が見えたのは一瞬だった。
「……ルル。」
――守るから、側にいてくれ。
意識が完全に落ちる直前、グリオールの声が耳元で聞こえた気がした。けれどもう、意識が浮上することはなかった。
* * * * *
翌朝というべきか、今朝というべきか。それは昨夜目を覚ました時に日付が変わっていたか否かによるだろう。月の位置を確認していなかったから、結局私にはわからないのだが。確かに言えることは、今日は凍れる道化師ことウィルさんの研究室を訪問する日だということだ。
うんうん、と二度頷いてから、私は視界いっぱいに広がる整った顔を見やる。思わずジト目になってしまうのはどうかご容赦願いたい。だって。
「……ねえ、起きてるんでしょ。腕、解いて。」
ということなのである。グリオールがすでに起きていることは間違いない。だって、私に回されている腕は、絶妙な力加減で私を拘束している。全く苦しくはないが、全く動けない。こんな芸当は、さすがに起きていないと無理だろう。
「……もうちょっと。」
起きてないというアピールなのか、目は閉じられたままそんな返事が帰ってきた。ちなみにこの"もうちょっと"発言であるが、すでに三回目である。案外グリオールは寝起きが良くないのかもしれない。とにかく、私は三回目のもうちょっと発言にため息をつきそうになるのをなんとか堪えて妥協案を出してみることにした。
「分かった、分かったわ。久しぶりのお休みなんだものね、グリオールはそのまま好きなだけ寝ていて? ウィルさんの所には私だけ……は無理よね、えっと、リーザと一緒に行ってくるから。」
どうだ。我ながらなかなかいい妥協案だ。リーザを巻き込む形になってしまうが、これならお互いの欲求を満たせるのではないか。
我ながらナイスな発想に、少しだけ目がキラキラしているかもしれない。どうだどうだ、という気持ちを込めて、グリオールの閉じられた目元を凝視する。
そんな私の視線が痛かったのか、グリオールは薄っすらと半目を開いた。ほんの少し潤んだようにみえる紫が私を捉える。そしてなぜか再び目を閉じたかと思うと、ため息をひとつ落とされた。な、なぜだ。
「全く、鈍いのか純粋なのか……。君が側にいなければ意味がないというのに。」
「え、なに?」
「いいや、なんでも。そろそろ起きるか、と言っただけだ。」
ため息と共に小さく紡がれた言葉は聞こえなかったし、どう考えても"そろそろ起きるか"なんて言ってなかったけれど、折角起きる気になったのならば今の内に起きてもらわねば。
スルリと思いの外あっさりと腕を解かれ、どこか寂しい気持ちになった。寂しい、というか、ずっと側にあった体温が遠のいて少し肌寒いというか。思わず、名残惜しげにグリオールを見てしまった。その視線に気づいたのか、彼は、目にかかる前髪を後ろに向けてかき上げ苦笑する。
「随分と心を開いてくれたようで俺としては嬉しいが。流石に四六時中くっついてるというわけにもいかないからな。……ああ、そうだ。」
いいことを思いついた、という顔をする彼を私は怪訝な顔で見つめた。無邪気な表情の彼は、何でもないことのように素肌を晒している私の左手を取った。
もうこの手は、私が望まない限り誰かを傷つけることはないだろうと分かっていても、やはりまだ触れられることに慣れていないために体が強張る。しかし、素肌から伝わる甘く切ない熱を感じ、人肌とは確かにこういうものだったと、遠い過去を思い出す自分がいて、それを自覚するとともに自然と力は抜けた。
――もう不安に溺れる必要はない。もう大丈夫。
そんな私の表情を読み取って、グリオールは嬉しそうに微笑む。
「ようやくあの手袋なしに触れることを許されたこの手には印をつけておかなければな。誰が見ても俺の姫だと分かるように。」
印という単語がとても気になったのに、その次にさらりと彼の口から滑り落ちてきた言葉たちに、私は頬に熱が集まるのを感じた。言わずもがな、私の顔は真っ赤な状態であろう。
「姫って……。グリオール、貴方って婚約者には随分と甘い言葉を囁く人なのね。……で、印って何のことかしら?」
「そうか? 言いたい言葉は他にもたくさんあるんだが。この程度で顔を赤くしているとこの先保たないかもしれないな?」
そう言ってグリオールはあんまり嬉しそうに微笑むものだから、私は口を慎んだ。にっこにっこしている彼に口で勝てる気がしない。仕方ないので、私は慌てて話の軌道修正をして、意地悪なグリオールの話を方向転換させることにした。
「もう、そんなことより! 印って何のことなの? きちんと説明して。」
「ああ、そうだった。まあ見ていてくれれば分かるだろうから、このままジッとしていてくれ。」
そう言うが早いか、グリオールは彼が手に取った私の左手の甲にそっと唇を落とした。羽根が触れるかのようなとても軽い口づけは、忠誠を誓う騎士が姫にするようなものではなく、古の魔法使いが子供にまじないを施すようなものだった。
「――っ!?」
私は驚くものの、目の前の光景に声が出ない。ただ目を見開き固まるだけだ。彼の口づけという行為にも驚いているが、無論それだけではここまで取り乱したりしない。赤面だけで十分だろう。
私が驚いたのは、自分の手の甲の変化である。彼が口づけたその場所から、小さな魔法陣が浮かぶ。軽い口づけによってできた、私の皮膚と彼の皮膚とのほんの僅かな隙間に浮かぶその魔法陣は、彼の髪色と同じである深い夜色だった。
私の手の甲に収まる程度の大きさのそれは、ひときわ大きく濃紺の光を放つ。強い光に思わず私は目を眇めて顔を背けるが、グリオールは微動だにしない。魔力の影響か、ゆるく波打っている髪も気にしない様子で同じ姿勢を保っている。
魔法陣が強い光を放ったのはほんの数秒で、徐々に光を収めると、その魔法陣はスゥと私の肌に刻印された。少し観察してみると、でこぼこした様子はないから、刻印といっても肌と同化するもののようだが。いや、ひょっとしたら、皮膚の下に浮かび上がってるという表現の方が適切かもしれない。
「これは……? 何だか体が温かい……。」
そして気づいたことがもう一つ。グリオールの側で感じていた温かさが、左手から流れ込んでいるように感じる。私がそのことに驚いて小さく呟くのと同時に、グリオールは満足した様子で唇を離して寝台を降りた。立ち上がった彼を見上げる形で、私は彼に説明を求める視線を送る。
グリオールはとても優しい、蕩けるような紫の視線を私に向ける。口元に浮かぶ微笑は、愛する者を慈しむ時のそれのようでドキリとした。
「これで俺と君は繋がった。それはいわば、刻印を持つ者同士の魔力と魔力を繋ぐものだ。」
「魔力を繋ぐ……?」
「ああ。竜か、竜に近しい程の魔力を持つ者だけが使える魔法でな。対象者同士の間に魔力の通り道を作る魔法なんだ。」
得意げな様子で語るグリオールに、私はやはり彼は竜王なのだと思った。私は一応、珍しい氷の魔力を持っているが、満足に使えない時点で結局は宝の持ち腐れだ。その点彼はそれを己の思うままに使い熟す技術がある。私はグリオールの説明を聞いてもピンと来ないが、理論的にか感覚的にかはともかくとして、きちんとその魔法を扱うプロセスやイメージが彼の頭の中にはあるのだろう。
ポカーンとした顔をしながらも、私は素直に思ったことを口にした。
「凄いのね……。グリオールには私の魔力が流れているの?」
「もちろん。とても澄んでいる綺麗な魔力が流れてきている。これが君の魔力だろうな。」
そう言いながら、グリオールは恍惚とした表情で、何かを味わうかのように己の唇を一舐めした。
――どうしてこう、人が赤面するような文句をこんなにも思いつくのか。不意に、私の脳裏にパッとグレルさんが浮かんだ。性格は全く似てない、と思っていたが、さすがは従兄弟、似ているところは似ているようだ。
私はため息を押し殺して、先ほどから気になっていたことを問いかけた。
「私の魔力が流れているってことは、グリオールは私の魔力が使えるようになったということ?」
ちなみに、グリオールを主語にして問いかけたのは、私が彼の魔力を扱うことは不可能だからだ。
グリオールから流れ込んでくる魔力は確かに温かく、彼の生みの親である前王妃様の影響か、炎系統の魔力が特に強いことも何とか分かる。だが分かるのはそれまでだ。彼の魔力は炎系統以外にもいくつかの属性がごちゃ混ぜになっており、それ以上は判別できないし、理解できない魔力を扱えるわけがない。更に言わせていただくと、そもそもそんな複雑な魔力を扱えるほど私の技術は高くない。
グリオールもそこは得心してくれたようで、少しの苦笑を浮かべながら、首を横に振った。
「それは無理だ。その者の魔力はその者にしか扱えない。何せ魔力には、多かれ少なかれその魔力を持つ本人の癖のようなものがあるからな。俺たちの場合はどちらもその癖が強すぎて無理だ。」
「そうなの。じゃあこの魔法って、お互いの魔力を感じるためだけのものって解釈でいいのかしら?」
「基本はそうだな。魔力を感じることで、相手の身の危険度や居場所が分かる。だからこの魔法を"加護のまじない"と呼ぶ者もいるな。」
なるほど。つまり、生命線とも言える魔力の流れが途絶えればそれはおおよそ死を意味するようなものだから相手が今現在危険な状態にあるかどうかがわかるし、流れてくる魔力の方向や位置を辿れば相手の居場所が分かるということか。
ふむふむ、と徐々にこの印の意味が理解できてきた私の横で、突然グリオールは思いついたように声をあげた。
「ああそうだ、言い忘れていたが、相手の魔力を使うことはできないが、相手の中にある自分の魔力は当人がそれを遠隔操作で、しかも他人の体を介して使えるほどの技術があるならば使うことができるぞ。」
「えっ? じゃあそれって……。」
「もちろん、相手に危害が及ばないものに限定されるがな。というか相手に自分の魔法で危害を加えようとしても、結局は自分の魔力で中和されてしまうから無意味だということだ。」
「よかった。確かに、言われてみれば自分の魔力と魔力がぶつかるなんておかしな話よね。」
それでは、今のところ私はこの印に関して気をつける必要はないということだ。そんな素晴らしい技術は持っていないから、グリオールの体を介して魔法を使うことなどできない。むしろまず魔法が使えない。自分の翼を出すだけで精一杯だし、それすらももう一度できるかどうか怪しいものだ。だから私はひとまず、好きなだけこの不思議な温かさを楽しんでいられるということでいいだろう。
うんうん、と頷いているうちに、グリオールは着替えのためか、別室へと続く扉へ向かって歩き出した。それに私もそろそろ着替えなければと我に返り、寝台から大急ぎで降りる。
グリオールは扉の取っ手を捻り、ガチャリと少しの音を立てて扉を開けた。私は彼の後ろ姿を見守っていたのだが、不意に彼は肩越しに振り返ると、長い指先をテーブルの上に向ける。指し示す先にあるのは、ストーレンス公爵家の紋章の入った純白の手袋。
「そうだ、言い忘れていたが、その手袋は今まで通りしていてくれ。昨夜のうちに呪は解いておいたから。君の手に直接触れるのは俺だけ……とはいかないな、まあリーザも良しとするか。とにかく、それで十分だ。」
「!?」
少し目を細めて口の端を引き上げているグリオールの紫の瞳は、捕食者のそれのように見えた。否、それよりももっとずっと深い何かを宿しているようにも感じられるが、私にはやはりそこまでは分からない。だから私はこの言葉をどう受け取ったらいいのか、ひどく混乱した。
しかしながら、今では大切なものとなったこの贈り物の手袋をずっとつけていられるのは純粋に嬉しい。この手袋も、ようやく普通の手袋に戻ることができて、肩の荷を降ろしているに違いない。
戸惑いと嬉しさが混ざって、感情の中にはこういうなんとも言えない気持ちもあったのだと、私は新しい発見に胸を疼かせた。
そんな内面の変化を追うのに忙しい私を一瞥して、いつもの優しい笑みを浮かべる。そして次の瞬間には、その優しい笑みに少しの冗談の気を混じらせた明るい笑みを浮かべた。
「では、また用意が出来た頃に会おう。今回はまあ、王とその妃が行くといってもお忍びみたいなものだから、気負わなくて済む服装にするといい。話の内容は、おそらく気負うものばかりだろうからな。そんな時に重苦しい服なんて着ていたら余計気が滅入る。」
これからのことを的確に表現しつつも、明るい空気を崩さないで私を励ましてくれるグリオールは流石だと思う。
その言葉を私に残して、グリオールは今度こそ別室へと姿を消した。それと同時に、彼が出て行ったのと別の扉からすぐさまリーザが姿を現す。本当に、有能な侍女だ。彼女自身の話はいつ聞こうか。きっと今は……。
「姫様、お寝坊が過ぎましたね。……本日は陛下とお出かけなされるとのことですのに、お寝坊だなんて!! ささ、姫様お覚悟の方はもちろん宜しいですね?」
そう言って黒い笑みを浮かべるリーザを前にして、私は口の端が引きつるのを感じた。
彼女にも聞きたいことはたくさんある。けれど今じゃない。絶対に今聞いてはならない。これは私の本能に近い部分が告げていた。
「お、お手柔らかにお願いします……。」
ここは素直に従うべきが得策とみた私は、言っても無駄だと知りつつも、自身の気休めのためにそう一言言い置いて、全身から脱力したのだった。




