1.美しき氷翼(グリオールside)
「ん……レ、オ……。」
可愛らしい寝息を立てながら、俺が市井に降りるときに使う名を夢現で呼ぶ、鈴の音のような声。
あまりの無防備さに苦笑するしかないが、それだけ信頼されているのだと思うとやはり嬉しい。ここはその信頼に応えて、彼女の安眠を見守るに留めておくべきだろう。
「レオ、か。」
そう呟きながら、俺にもたれかかって眠っているお姫様を起こさないよう抱き上げ、ゆっくり慎重に彼女を寝具に横たえる。それでも寝具にはスペースが余りあるが、そこに寝転がるのはもう少し後にしよう。まだこの寝顔を眺めていたい。
ちなみにこの部屋には今日だけはベッドとサイドテーブルしか置かれない決まりがあるため、お互いひとまずのところ今日は同じ寝台で就寝することを承知している。後日、ソファ等の部屋に必要な調度品が運ばれる予定だが、俺は別室を使う気もないし、彼女の側以外で寝る気もないとだけ言っておこう。
そして、レオという名のことだが、これはレイオールという自分が治める大陸の名から引っ張ってきている。この名はもとは獅子という意味があり、市井の者は男児に好んでこの名をつける。そのため珍しくもない名で、身分を隠すにはもってこいなのだ。だから出会ったばかりの頃の彼女や、他の人にはそう名乗っていた。
しかし俺は、他の誰かと間違う可能性のあるような名前ではなく、この世でたった一人、つまり俺しか持っていない唯一の名前を彼女に呼んでほしかった。自分でも子供じみた真似をしたとは思ったが、結果的にその名前を呼ばせることには成功した。ルルは起きている間なら、きちんとグリオールと呼んでくれる。
けれど意識がない間は、まだレオの存在の方が強いらしい。自分に嫉妬するというのも、何だか可笑しな話だ。そっと自らの手の甲で、ルルの頬を撫でる。彼女の寝顔は、思っていたよりもずっとあどけない。そんな彼女の頬は、どきりとするほど滑らかで柔らかかった。
「んんぅ……。」
ルルがふと漏らした声に、先ほどと同様の、いやそれよりもずっと苦味の強い苦笑を浮かべる。頬に触れたものにピクリと反応し、彼女は俺の手に擦り寄るように少しだけ身動ぎした。その際にこぼれ落ちるのは、あの悩ましい声だ。
――これは、キツいな。
まだ外が明るいのが幸いした。昼ならば、理性の色の方がずっと強い。これが夜ならもっと大変だっただろう。
そこまで考えたところで、何を考えているのかと自分に呆れ、それらを払うように軽く頭を振る。煩悩――といってもそこまであれこれ考えたつもりは自分にはないのだが――を振り払ったところで、サイドテーブルに置かれた彼女の手袋に目がいった。そう、今彼女の手は素肌を晒しているのだ。
「……心の臓が冷えることをしてくれたな。」
晒された真っ白い素肌を視界に入れながら、ふと昨日のことを思い出す。彼女は時々、危ういことをするのだ。そしてその自覚が彼女には欠けているように思う。
昨日、ルルは落ちた俺を追ってあの断崖を飛び降りた。しかも崖下に向かって地を蹴るとはどういうことか。あの時は、俺に翼があるといえどもさすがに肝が冷えた。その行動自体もそうだったが、どちらかといえばその行動を行う際に少しも躊躇いが見られなかったことの方が、俺から見れば危うく感じた。
もう一つ、過ぎたことを蒸し返すようだが、俺がルルの部屋に訪れ、しかしながら彼女が俺の本当の身分や姿に気づいたために逃げ出そうとした彼女を、この手で捉えたあの時もそうだ。
腕を引き抜こうとした彼女は、肩や肘等の関節が抜けることも厭ってはいなかった。俺は視覚聴力嗅覚さらに運動能力までもが人よりもずっと優れているから、彼女の腕に力が入った時、全てがスローモーションに見えていた。だから、彼女を拘束する手から咄嗟に力を抜くことができ、彼女に身体的な痛い思いはさせずに済んだ。突発的なことだったため、手袋だけは俺の手の内に残り、そのため結局は彼女を精神的に傷つけてしまったのだが。
とにかく、あの時の彼女には本当に遠慮も躊躇いもなかったのだ。迷う時間が少なすぎて、対応する側も一瞬の判断と、その判断を一瞬で行動に移す身体能力が求められる。人よりもずっと身体能力の優れた俺でさえ、彼女の手袋を手の内に残してしまう程度には対応しきれなかった。
あの時は相手が竜の血を持つ俺だから良かったようなものの、他の……例えば普通の人間相手になら、相手が変化に気づかないまま、あるいは気づいてもその相手がどうすることもできないまま、彼女は自分の肩を抜きながら拘束から抜け出たのだろう。その光景は想像するだけで心の臓が冷えて止まりそうになる。ルルにはもっと、自分自身の安全に頓着してほしい。自分を大切にしてほしい。
そんなことを考えながら、安らかな寝顔に再び意識を戻す。
ルルの意思は、純粋に透き通っていて、なおかつ強固なものだ。けれど同時に危うく儚いものにも思えてならない。例えばそう、氷水晶のような。強固に見えるけれど、強く叩けば一瞬で粉々になってしまう、そんな危うさ。
「ルル……。」
だから言えない。言いたいことはたくさんあるのに、彼女を壊してしまいそうで。ルルは、無償の愛で大切にされることを怖がるから。愛してるというその言葉も、たくさん口に出して伝えたいのに、それができない。決定的な言葉は彼女の琴線にきっと触れてしまう。きっとまだ、時期ではない。だから今は態度で示すしかない。
ルルへの愛を明確に自覚したのは、やはり彼女の翼を見たときだろうか。ドクリと心の臓が大きく鼓動したのを覚えている。
彼女からしてみれば危機的な状況だったはずのあの時、彼女は確かに俺に微笑んで、口を開いたのだ。
『――――。――――――――。』
音は聞き取れなかった。唇を読むこともできたのだが、俺としたことが、あの時は彼女の微笑みに目を奪われていた。とろけるように甘く、こちらが錯覚してしまいそうな程の慈愛に溢れたあの笑み。その時、理性が落ちた。竜としての本能が彼女を伴侶にと体の内から叫んだ。
そして、ルルが発した言葉を言い終わったであろう刹那のことである。
彼女の背から空間に一つの大きな魔法陣が現れ、そこから一対の氷の翼が生まれた。さすがの俺もそれには目を見開いた。透き通る青みの強い乳翠色の魔法陣は翼が生まれたところで消えてしまっていたが、そこに書かれていた文字は、俺ですら解読できないものだった。俺は普通の魔術師が知っている古代語だけでなく、竜言語も知っているというのに。その文字はどれにも相当しなかった。
しかし、その文字には確かに覚えがあった。あの時はわからなかったが、冷静な今ならわかる。あれは、ルルと王都に来る間にただ一度だけ見た、あの本に刻印されていた文字だ。もちろん、ほんの一部分であるが。場面としては、丁度開かないらしいページの手前の挿絵――少女が崖から落ちる場面が描かれている――の部分に相当する。
ルルはどうやらその魔法陣に気づいていなかったようで、ただ現れた翼に涙していた。そのあと俺は彼女を抱きかかえて安全な崖上まで飛んだ。その時には理性が戻ってきていたが、既に手遅れで。もう自分ではどうしようもないくらい、彼女を愛しく感じていた。胸に収まってる彼女を、永遠にそのままにしておきたいと思ってしまったほどに。
「だから、」
万が一にもルルに聞かれることがないよう、本当に微かな声を俺は漏らす。小さなその音は、甘い優しさとほんの少しの苦さを含んでいた。
「君の不安の一つが解消されて嬉しいのも事実だが、俺としては君は覚醒しない方が都合が良かったかもしれないな。」
そうすれば、ルルを保護という名目で誰の目にも届かない所に囲えるから。そうすれば、彼女が俺無しでいられなくなるよう、どろどろに甘やかしてやっただろうに。まあ、彼女はそれを望まないだろうから本気でやるつもりはないが。……今の所は。
ルルはきっと知らない。竜王を賢君だと思っている彼女は夢にも思わないかもしれない。実のところ、俺もなかなか歪んでいるのだ。表に出さないだけで。理性で抑えているだけで。竜の剥き出しの恋情は、竜である俺から見ても、はっきり言ってかなりしつこい。
俺は、ルルの翼はルルの心のようで美しいと思った。けれど当の本人は、自分は醜いだの歪んでるだのと言っている。しかし正直なところ、人なんてそんなものだろう。もちろん竜であると同時に人でもある俺もそうだ。むしろルルがそこを気にするということは、彼女が美しい心を持っていて、穢れに染まりきれない何よりの証拠なのではないか。
ルルのことを考えただけで、口元に笑みが浮かぶ。締まりのない顔をしていることは百も承知だが、今は見咎める者もいないから良しとしよう。眠る彼女の頬を撫ぜていた手をそっと離し、彼女の陽の光に煌めいている淡いライトブルーの髪にその手を滑らせた。心が解されるようなその感触に、思わず秘めていた嫉妬が漏れてしまう。
「明日も本当は、あの魔術師のところに行かせたくないのだが。」
本音を言うと、まず魔術自体を教えたくない。ずっと俺だけに守られて、俺だけに依存していればいいと思う。けれど彼女は自分の足できちんと立って俺の隣に立つことを望むから。氷の魔術においてこの世で最も腕の立つウィル・ボナードに彼女の面倒をみてもらうことにする。他の男の元に預けるのはかなり抵抗があるのだが、そこは理性でねじ伏せた。それが彼女の願いを叶えることに繋がるのならばそれでいい。
そう考えながらルルの細く柔らかな髪を堪能する手を止め、寝台に潜り込む。己の腕を彼女の身体に巻きつけ、ゆるく抱きしめたところでそっと目を閉じる。
まだ陽は高い。やらなければならないことも山積みだ。けれど。
100年だ。100年もの間、休憩なしでここまでやってきた。その内のほんの一時だけ休んだって、きっと罰は当たるまい。
俺よりも少し冷たいルルの身体に、俺の体温が流れ込んで行くのを感じながら、意識は深く沈んでいく。その全ての感覚に、俺は胸の奥底で温かな幸せと安らぎを感じた。
――ルルの、氷魔法。それはきっと、また彼女自身を惑わすのだろう。
俺の前でだけ感情を豊かに表すルルが、何もない真っ暗闇の意識の中に鮮明に浮かんだ。だから俺は彼女に向かってそっと両腕を伸ばす。ルルは頬を赤らめて大人しく俺の腕の中に収まった。
……俺の前だけ。その事実に俺は満たされ、ゆるりと口角を上げた。




