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竜王に捧げるエルグラス  作者: 深谷 蒼
第1章 花嫁候補編
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9.過去の夢


 ピチャ、と澄んだ水音がした。暗い闇だけの世界で何も見えないのに、私の耳に鮮明に響く雫の調べ。現実味のない空間に、これは夢なのだろうと推測する。そして重く私に問いかける、低く恐ろしい何者かの声。



 ――何、私が一体何をしたというの。どうして私には、何も、誰も、残されていないの。どうしてこの子は、私が失った全てのものを持っているの。



 私の声と同じ音色であるはずなのに、私がかつて一度も口に出したことのないような(おぞ)ましい色を持つその声に、私は語りかけずにはいられなかった。私は私自身の声を発していないと、気が狂いそうだった。



「私、貴女がとても恐ろしいわ。」


 ――何を馬鹿げたことを。私は貴女だというのに。


「貴女は私の呪いなの?」


 ――私は貴女。貴女は私。それ以外の何ものでもないわ。


「……。」



 確信めいた口調で述べるその声に、私はひどく困惑する。私は私なのに、この声の主は私だという。確かに、聞き慣れた私の声が低くなったものではあるけれど、それは私ではない。私の声帯が、この言葉を発しているわけではない。


 何も見えない世界で、私はそれを口に出さずに考えていた。しかし、その声は私の思考を丁寧に読み取っていく。



 ――ただの一度もない、などとはよく言ったものね。


「……何のこと。」


 ――この声も、私自身も、貴女が最初に生み出したのよ。忘れてしまったの、三年前を。


「!!」


 ――何もかも忘れて、どこにでもあるお伽話のお姫様みたいに、安穏に暮らしていくつもり? そんなことできやしないと分かっているくせに。



 そう、三年前。三年前からずっと、私の心はいつも不安定だった。あの大災害があって、領主様に拾われてからただ一度だけ、私は力を暴発させたことがあった。


 ただの言い訳にしかならないけれど、あの時の私はまだ未成熟な16歳で、色んなことを受け止めるには少し幼い年齢で。色んな思いを溜め込み続けて半年ほど、具体的には大災害があった冬が終わり春も終わったように見えて初夏が近づいてきた頃、私の心は爆発した。心の爆発に呼応するように、この力も爆発してしまった。



『ねえ、どうして貴女は私が失ったもの全てを持っているの。どうして私には何もなくて、貴女は全て持っているの。』



 私はあの時初めて、自分はこんな恐ろしい声を出せるのだと知った。極彩色のイエローのドレスを身に纏う可愛らしいシイラに、三年前の私は焦がれていた。


 失った地位を嘆いていたわけではない。テナの村では地位などないも同然で、それに不満を持ったこともなかったから、それがきっかけだったわけではない。


 私は寂しかった。苦しかった。そしてそれを癒してくれる人などいないと思っていた。様々な形の愛情をくれた、両親や友達や慕ってくれていた村の人々。あの時確かに幸せだったのに、私はそれを一夜で全て失ってしまった。生き残ったのは私だけで、当時の白雪の世界はまるであの惨状は私のせいだと言わんばかりに、私を追い詰めた。


 冬が過ぎて春が来ても、私は毎日あの白い世界の幻影に囚われていて。春が過ぎようとしていたあの年の初夏も、青空は私を責め立てた。どうしてお前だけ生き残ったのか、それはおかしいことではないのか、と。



『お姉様、私ね、本が好きなお姉様のために、栞を作ったのよ! ほらこれ、お姉様をイメージしてみたの。』



 低く唸るように呟いた声は、シイラには聞こえなかったらしい。シイラは今もあの頃も、性格がとてもよく出来ている。全てを失った三年前の私の心は今よりもずっと余裕がなくてどんどん醜く卑屈になっていったのに、対してシイラは非の打ち所がどこにもないのだ。彼女の美しく明るい心は、私に暗い影を落としていた。もちろん彼女の言葉も態度も悪意がないということはあの時の私ですら重々承知していた。


 しかしシイラの言葉は、その時どうしようもなく燻っていた私の激情を刺激してしまったのだ。シイラに悪意はないと分かっているのに、私の心はあの時黒く染まってしまった。――本を好きになったのは、この忌々しい力のせいなのに。子爵家にいた頃は、本なんて嗜み程度にしか読んでいなかったのに。ささやかだけれど幸せだったあの日々が壊れなければ、本なんて必要以上読まなかった。


 実のところ、そんなわけないのは心の奥で承知していた。確かにきっかけとして自分の力のことがあったかもしれないが、それでも私は本に魅了されていた。今も昔も、きちんと私の意思で、読みたいと思って本を読んでいるのだから。そんなこと分かっていたし、栞も、栞に秘められたシイラの純粋な好意も、私は嬉しかったはずなのだ。けれど、あの時の私の心は危うい所で均衡を保っていた。シイラの純粋で美しいその気持ちは、私の醜い心の均衡を崩すには十分すぎた。



『貴女は愛らしく清らかだわ。けれど私に親切を押し売らないで。私を可哀想だと思うのも、腫れ物に触るみたいに扱うのも、もういい加減にしてよ!!』



 その怒号と共に、透き通った音が耳に響いた。キーン、という耳鳴りに似た高い音と共に、辺りの気温が一瞬で下がる。それと同時に、私は私の身体中の皮膚という皮膚から、何かが流れ出るのを感じていた。今ならば、それが制御しきれなかった力なんだと分かる。シイラと私の二人がいた部屋は瞬きをするほどの刹那の間に氷で覆われてしまった。


 透明に少し青みが掛かった氷晶は冷たくて鋭い棘を持っていて、まるで私の心を具現化したようだと思った。どこを見渡しても白くて青くて透き通っているこの世界は、私に少し前の大災害を思い出させ、私は思わず胸を押さえて膝をつく。


 目の前に倒れている人がいた。極彩色のイエローのドレスを着た姫君は、もちろんシイラだ。私が慌てて駆け寄りシイラを抱き上げると、彼女の身体はとても冷たかった。意識はなくぐったりとしていて、私は恐怖に慄く。


 私はその時、寒さを全く感じていなかった。今でもそうなのだが、私はどうやら寒さを感じないらしいのだ。なのに人の体温が下がっていく様子は手に取るように分かる。だから冷たいという言葉を知っているし、意味もよく分かっている。


 シイラを腕にだいて、私よりも蒼白になってしまったその顔を見つめながら、私はまだそこでフリーズしていた。動こうとしていなかったのかそれとも単に動けなかったのか、それは今になっても答えの出ない問いだと知っている。しかし、シイラの手から、彼女が握っていたプレゼントの栞がヒラリと床に落ちた時、私は思い切り悲鳴をあげていた。


 知っていた。分かっていた。シイラは親切を押し売っていたのではないと。この栞は、彼女の純粋な好意だと分かっていたのに。そもそも先ほどの言葉を発した時、私の頭の中にいたのはシイラではなかった。シイラの代わりに頭の中に登場したのは、ここに来てからテナの唯一の生き残りとして、同情した目を向けながら私を見る者たち。彼らから向けられる初めての視線は私を辟易させていた。


 辛くて痛いがその傷を癒してしまいたいと思っているわけではない。癒すことはしないけれど、それでも少しずつ前に進みたいのに、色んな人の視線が、態度が、それを邪魔する。可哀想だと同情してなおその奥に覗かせる私の存在を疑問に思う瞳。どうしてお前だけ生きているのだ、と問いかける彼らの"優しさ"とかいうものに覆われた本音を確認するたび、私は戦慄した。


 恐ろしかった。そして私は外に出ることを徐々にやめた。そして家にいれば、気ままに過ごすシイラが嫌でも目に入ってきた。そういった目を向けられることなく、賢い領主の一人娘だと領地の民にたくさんの愛情を注がれながら、両親からも節度ある愛情を受け、真っ直ぐに育っていく美しい姫君。彼女に感情をぶつけるのはお門違いだと分かっていたけれど、私は私の嫉妬心を抑えられなかった。



『どうしたっ!! こ、これは……!?』



 大きな音を立てて凍てついた扉をこじ開け入ってきたのは、領主様と何名かの使用人たちだった。彼らは部屋の様子に一様に驚きの表情を浮かべた後、次に私の腕の中のシイラを確認して悲鳴や怒号をあげていた。


 そこからは目まぐるしくてあまりよく覚えていない。幸い私の体温でシイラは大事に至らなかったようだが、一週間暖かい場所で絶対安静とのことだったようだ。私はそれを、隔離された部屋で扉の向こうから中に響いてくる侍女の硬質な声によって、知ることができた。


 腫れ物を扱うように接していた使用人たちは、この一件から私に対する態度を改めた。冷ややかな態度を隠しもせず、あの大災害すらも私のせいだと思い込む者が増えた。けれど私はそれでいいと思っていた。落ち着いた私は自分がしたことの罪深さを分かっていたから、これは罰なのだと思っていたし、むしろもっと糾弾してくれればいいのにとも思っていた。


 そしてそれから一月後。私の部屋に領主様が訪れた。私は堂々と部屋に入ってきた領主様に思わず距離を取ってしまう。けれど逃げられるほどの部屋の広さはなく、結局私は領主様と対面することになってしまった。


 領主様は手に純白の手袋を持っていた。裾部分にレースがあしらわれ、ほんの少しだけ青みが掛かっているように見えるそれは、私に作られたものなのだと分かった。その色は、暴走してしまったあの時の部屋一面の色と一緒だったから。無言で差し出されるその手袋を、私は同じく無言で受け取り、そのまま身につける。


 私は元々白肌であったが、それよりも完全な白であるその手袋は、私の肌によく合っていたと思う。木枝のように青白く細長い私の手指がその手袋に隠されるのと同時に、私は違和感を感じた。


 私が私ではなくなったような感覚。今まであったものが、どこかに消えてしまったような感覚。私と周りを満たす空気の間にあった何かが、私の内へと押し込められるのを感じた。



『とてもよく似合っているね。』


『領主様、この手袋は何でしょうか?』


『王都で君のために作らせた。それは魔力を抑える、つまり君の力を抑えるためのものだよ。』



 なるほど、と私はただ頷いて、領主様から手元の手袋に視線を移す。確かに遮断されていると思った。いつも身体から流れ出ていた見えない何かが。しかし同時に気づいたことがあった。



『領主様、きっとこれでは不十分です。』


『どういうことか、聞いても?』


『はい。一番危険だった、流れの強かった手の部分の力は確かに封じられています。けれど、私のこの力は手からのみ放たれるものではなかったと記憶しています。全身から、というのでしょうか……私にも上手く説明できませんが。』



 領主様は一度目を瞑り、考えるような素振りをした。しばらくそのままで私の言葉を咀嚼した後、何か思いついたのか、目を開いて一つ頷き私を見る。私は無表情に、ただ背筋を伸ばして立っていた。もうその頃から、私の顔から屈託のない笑顔や優しい微笑みというものは消えていた。



『それでは君は力の制御を覚えなければならないね。君はまだ幼く、揺れる気持ちがあるのは承知しているが、それを抑える必要がありそうだ。気持ちを落ち着けていられれば、めったなことは起こらないだろう。出来るかい?』


『……はい。』



 領主様は私にそう言いつけ、私がそれに頷くと、これで話は終いだとばかりに部屋から出て行った。私はそのまま窓辺に歩みより、賑わう外の世界を見て思った。



 ――どうして、私が。



 今だに心の奥底に響いている恐ろしい声。いつも私は自分の声に怯えている。この囁きが私の心を揺らすのだ。この囁きが私の心から安定を奪っていく。


 この声に気づいてしまった時、私は誰とも距離を置こうと決めた。もう誰かが傷つく所を見たくない。腕の中で人が冷たくなっていくという経験を重ねるごとに、私の中で何かが変わっていく。私自身が冷たくなっていく感覚がある。悍ましいあの声に、心を乗っ取られていく気がする。


 心に怖気(おぞけ)が、身体には震えが戻ってきた時、私は大声で誰かに呼ばれた気がした。さらに身体が揺さぶられる感覚。私の意識が急激に浮上し出した所を見ると、やはりこれは夢か何かだったらしい。


 少し安堵して、その浮上の流れに身を任せていると、辺りが真っ白になる直前に、あの声が響いてきた。



 ――過去にも自らの罪にも向き合わないで、ただ嘆いて逃げるだけの貴女は、見ていてとても苛々するわ。



 吐き捨てるような低く恐ろしいその声は、私の心を確実に抉った。私はその声に返答することをせず、逃げるように現実へと戻って行った。






* * * * *




「姫様、姫様、大丈夫ですか?」


「リーザ……。ええ、大丈夫よ。おはよう。」


「はい、おはようございます。」



 目を開くと、朝日に透ける赤髪が飛び込んできた。同じ色をした瞳は、心配の気持ちを含んで揺れている。身体はジットリと汗ばんでいた。悪い汗をかいてしまったらしく、とても気持ちが悪い。爽やかな朝とは言い難かった。


 寝台の側に控えるリーザは、私の様子に少し安心したように吐息を漏らした後、私に向かって申し訳なさそうに謝罪を始めた。



「申し訳ございません。定刻になっても起きていらっしゃらなかったので、お起こしに伺いましたら、魘される声が聞こえてきましたもので、無礼を承知で強引にお起こし申し上げました。」


「いいえ、むしろ起こしてくれてありがとう。今日はレオとの約束の日よね? 時間は大丈夫かしら。」


「ええ、まだ大丈夫ですよ。さあ、簡単に湯浴みをして、嫌なお汗を洗い流してしまいましょ。準備はそれからです。」



 リーザは微笑んで、寝台から起き上がる私に力を貸してくれた。侍女にしては少し細めの体つきであるのに、思ったよりリーザの力は強く、おかげで私はあまり自分の力を使うことなく起き上がることができた。



「ありがとう、リーザ。」


「そんなにお礼を言われるのも不思議な感じがします。侍女として当然の役目ですから、あまりお気になさらないで下さい。」



 そう言ってリーザは明るく微笑む。このやり取りの後、私はリーザによって手早く、しかし丁寧に身支度を整えられた。そのことに、やはり少し寝過ぎていたのだと悟る。


 それでも全ての準備を終えて、鏡の中の私を改めて見た時、素直に完成度が高いと思った。急ぎであっただろうにも関わらず、目の前の私はいつも通り抜かりなく仕上げられているのだから驚きである。そのことに私は感嘆しながら、リーザは腕利きの侍女だと褒めたら、彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。それを見た私は、少し波立っていた心が凪いでいくのを感じていた。


 朝日に照らされる室内で、私はそっと目を瞑る。先ほどの夢の内容はハッキリと覚えていた。私は私と名乗る声が言っていたことについて考える。


 咎める彼女の言葉は耳に痛い。嘆いて逃げて拒絶する、という行動を今まで続けてきた私は、実のところ自分でも愚かだという自覚はあった。自覚があっても、それらを克服した理想の自分になることが出来ない。努力するには、この力がいつまでも邪魔をする。もし夢の彼女がこれを聞いたら、いつまで甘えているのかと言いそうだ。もちろん私も、このままでいていいなどとは思っていない。


 今日、魔術師の方に会えば、何かが変わるだろうか。私はそっと目を開きながらそう思う。私の揺らぐ瞳は何かを見据えることはなく、ただ地面へと投げられていた。何も見ようとしないこの瞳は確かに逃げている。けれど向き合うこと、見つめることは、どうしても怖いと感じてしまうのだ。全ての人が皆、様々な自分の恐怖に屈することなく在れというのは、なかなかに難しい命題だと思う。


 刹那、耳に届いた軽いノックの音に、私は考えることを放棄して立ち上がった。客人を迎える姿勢を取って、開かれるだろう扉を見つめる。



 ――これからのことをどうするかは、今日を過ごした後にしよう。



 これも逃げなのかもしれないと思いつつ、私はその思考を頭の隅に押しやった。そして扉が開き、その奥の夕焼け色が見えた瞬間、私は優しくて綺麗なその色から目を逸らすように、深く深く頭を下げて、淑女の礼を取るのだった。




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