第二十四話 無二 後編
日も暮れる頃にはロビーの混乱も収まったと、看護師が亜沙日の部屋に通達に来た。続けて、事情を知った市長の申請で亜沙日のためにカウンセラーが手配されたことを伝えると、その看護師は病室を去った。
一瞬の静寂を破る三回のノックの後に、未来がひょっこりと病室に顔を出した。
シャワーを浴びて直ぐ駆けつけたのか、腰まで伸びたポニーテールの先端は少し開いている。病室は空調が効いており、温かい。軽く汗をかいた未来はトレンチコートを脱ぎ、入口近くのコートハンガーにかけ、ゆとりのあるTシャツ一枚とジーンズといった真冬とは思えないほどにラフな格好をしている。
面会時間は過ぎたのに、なぜ自分は例外なのか知らない未来はどこか不思議そうな顔をしている。
亜沙日は市長や社長の配慮を察し、胸にこみ上げる想いを抑えるために、握りこぶしを胸に押し当てる。
「未来さん、忙しいんでしょ? お家で休まないと」
亜沙日の声は心配からか、普段よりも強い語気を孕んだものになる。
「ふふっ、お母さんみたい」
「実際……」言葉に詰まる。
未来に対して抱いていた羨望ですら、亜沙理の持つ母性が姿を変えたものかもしれない。今はただ、自分の姿をあの人に重ねてほしくない。そう考えた亜沙日は喉を鳴らし、何を言うべきか引き出せずにいる。
「……あの人が、私の前で泣いたから……」
唐突な言葉に亜沙日はあの人が誰のことか結びつかない。
「何の事?」
それを察した未来は、右目にかかる前髪を掻き分け、翠玉色に染まった瞳を露出させる。彼女の瞳孔は電球色の仄暗い病室を考慮してもなお大きく開いており、もう片方の真っ赤な瞳とともに、亜沙日の顔をじっと見つめた。
「あの時……一年前に会ったあの人は、今の亜沙日くんとそっくりで、きっと誰かのために泣いてたんだなって、思いだしてた」
「だから亜沙日くんも、みんなのために立ち向かったのかなって」
「……はあ」
未だ亜沙日は腑に落ちない様子だ。未来は語気を強め、彼の心にまっすぐ届くように、前のめりになって亜沙日の右手を握る。
「あのまま亜沙理さんが死んだら、みんな呪われたままだった」
「少なくとも私は、君に救われたんだよ」
もう一つの手も握り、その力は段々と強まる。
「だから今度は私の番。ゆっくりでもいいから」
「一緒に乗り越えよう」
未来の目は出会った頃のように真っ直ぐで、根拠も伴わず、それを裏付けるように一点の曇りもない。彼女の持つ真紅の虹彩をじっと見て、亜沙日は息を呑んだ。
かつて抱いた羨望が、果たして本物かどうかもわからない。ただ、これからの永劫を生きる自分にとって、たった一年半の彼女との日々が、この気持ちを確かなものに変えたかもしれない。この気持ちがルーツに根差した偽物だったなら、彼女が日頃の生活から与えてくれた真心が、文字通り、この想いを本物にしたかもしれない。
彼の中で答えは定まらなかった。新たなる問いも浮かばない。ただ一つの疑問が複雑に折り重なり、心にずっしりとのしかかる。亜沙日はそのこそばゆい重圧に耐えかね、思わず小さく呟いた。
「やっぱ……き……か?」
「……何か言った?」
無意識にこぼれ出た声が彼女に届いていないことに亜沙日はホッとするも、己の真意を確かめたことで浮き上がった疑問が一つだけ、彼の心に引っ掛かる。
「……亜沙理さん、どうしてるかなって」
「あの人は、大人しくお兄ちゃんについていったよ。なんだか……なんだか私の受け持つ患者さんみたいに……おとなしかった」
患者。
蘇生技術。
黒髪の少女。
封筒。
蘇生を拒絶する、緑の封筒。
即ち、死。
この世界における、本物の亡命。
自分が奪った、命。
亜沙日はロビーでの顛末を思い出し、大きく目を見開いた。
肩が上下に揺れ、荒くなった息を鎮めるために胸に強く手を押し付けた彼は、一年半前にはなかった感覚に動揺し、自身の変貌や、これまでに起きた事件が何一つ片付いていないことに気づく。
いくら自分の心が救われようとも、自分が与えた恐怖は消えない。
自分が生み出した被害者は、他ならぬ自分のせいで死因の恐怖を植え付けられている。彼の中で、身に覚えしかない自責の念が蘇る。
朝来亜沙理と、今の自分。何も違わないんだ。
自分は結局、自分は結局。
「俺が、彼女の心を折ったんだ。」
罪悪感に苛まれた亜沙日は、堰を切ったように語りだした。
「だれもおまえについてこれないんだよって」
「だけど、だから……放った言葉は、すぐに自分に返ってきた」
「さっき、色んな人が俺を見て怖がってた。俺が余計なことしなきゃ死なない人たちだった」
「ニュースを見ればさ、『俺』の顔が載ってる。もう街歩けねえよ。暇だ」
「で、彼女は暇だったから、ただただ暇だったから、あんな事件を起こしていったと思ったら……」
「そんなことで、本当に失われる命があるんだったら……!」
「……俺も入るべきなんだよ……」
「もう一つの太陽に」
作り笑いを浮かべた亜沙日の瞳からは、大粒の涙があふれた。次第に恐怖に苛まれる彼の顔色は、日頃の快活さを忘れさせるほどに、
暗い。
「……俺は……いや……こ、こん……こんどは……お、おれが……!あのひと、みたいに、な、なるんじゃ……ないかって……! けど……もう……おれは……! もう……!」
「わたしは……!! もう……!!」
「う……う……あああ……!」
臓器から一滴ずつ絞り出したかのような泣き声。
真っ白なシーツと、それを握り締める白い肌を、涙が濡らす。
未来は、その泣き声、泣き顔に既視感があった。
「亜沙日くん……やっぱり……」
「そっくりだ……あの人と……」
彼女は自身の母に一矢報いる方法を思いつき、亜沙日の側に座った。
「……だったら……ずっと私がそばにいるよ。私も不死だ。きっと」
「昔、川に流されて、孤児院に帰ったら三日経ってた。ね? それっぽいでしょ?」
呆然と涙を流し、未来の声に耳を傾ける亜沙日。
「だからきっと、お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、ゆ……死なないよ」
「死なないから、ずっと罪と向き合い続けることになるかもしれない」
「けど、だからこそ、四人でずっと楽しいことをしよう! そうすれば絶対退屈なんてしないから、私がさせないから!」
愛する人の言葉を好意的に解釈するならば、不死者が共にいることで、途方もないモラトリアムも孤独とすらも向き合えるということか。連綿と続く駆け引きが交錯するこの世界で、只耐え忍ぶことを平和と呼ぶのなら、不死身の友愛は最高の特権であり、才能だ。
だからこそ、孤独を選んだ亜沙理はああなったんだ。自分はそうなりたくない。いや、この人はそれをさせてくれないのか。それはそれで、かつて孤独だった自分が否定されたような気がする。亜沙理の記憶が思考に侵食してくる。
どっちを選べばいいんだ。どっちが本物なんだ。記憶からくる衝動か、未来から示された約束か。どっちも欲しくてたまらない。そういえばリーダーが言ってたな。現実も幻想も大事だって。この場合どっちがどっちだ。そういえば未来さんのTシャツ姿って珍しいな、Tシャツといえば部屋が散らかったまんまだな。どうしよう。何も、何一つ片付いていない。罪ってどう償えばいいんだ。何から始めればいいんだ。結局俺は何がしたいんだよ。
存在理由なんてどうでもいい。ただ生きていくしかないのなら、俺は今、ここで何をすれば良いんだよ。
混濁する思考回路は冷たいトーンで、只泣いていなさいと信号を発した。
「そ、そんなこと言われても、も、もうなんもわかんないよぉ……!」
「ほら、もう泣かないよ。おばちゃんが抱っこしてあげるから」
「いやだぁ……恥ずいぃ……」
小川のような髪を振り回し、拒絶する亜沙日を半ば強引にその胸に抱きよせる未来。
不死がもたらす呪いに苦しむ甥の姿を見て、彼女の胸中に輝かしい金髪を持つ侑里の後ろ姿が脳裏をかすめる。
自身のエゴが、彼女の人生を踏みにじってしまった。そう悟った未来は恐怖から目を瞑り、亜沙日の嗚咽だけを感じ取っていた。
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数十分後。気持ちの落ち着いた亜沙日は泣いている姿を見られたことと、年甲斐もなく人の胸元で泣いたことを恥じたのか、照れて真っ赤に染まった顔をごまかすように、いつものようにおどけてみせる。
「プロのカウンセリング染みました」
「体張ってるからね」
「なんか……社長のハグを思い出した」
「そっち?!」
「おばちゃんありがとう!」
「おばちゃんはやめて!」
すっかり明るさを取り戻した亜沙日の声を聴いて安堵した未来は、腰掛けていたベッドから降り、トレンチコートを羽織る。
外は肌寒いだろう。疲れもある。それでも、距離のある帰路を想像しても未来は少しも億劫さを感じなかった。
亜沙日がいつか帰ってくる家を片付けて、侑里と待つ。もう、自分たちの暮らしを妨げるものは何一つない。待っているのは無限の安寧と、責務と、享楽。
未来はゆっくりと口角を上げ、
「……亜沙日くん。早く、早く元気になって戻ってきてね。待ってるから……ね?」
と優しく囁いた。
「うん! ありがとう。未来さん」
元気よく返事をした亜沙日の顔つきは、小川のような髪をした母と全く同じものであったが、明るい笑顔と、涙の跡は彼だけの物だと、未来は定義した。




