第八話 はじめまして
宴は夜更けにようやく終わった。
人々は席を立ち、皇帝を先頭にゆっくりと大殿を後にした。
皇后は穏やかな微笑みを浮かべながら去り、皇太子は佳恋を連れて笑顔で退出していく。
文武官たちも次々と殿を出てゆく。
透真は誰とも言葉を交わさず、弦の方を一度も見ずにまっすぐ歩いて去った。
その背中を、弦はただ黙って見つめていた。
胸の「琴」の文字が、鈍く疼く。
――会いたくなかったのに。
でも、会いたかったのかもしれない。
殿内が静かになった頃、一人の文官が弦の席に近づいてきた。
肩幅が広く、がたいの良い男。白黒はっきりした表情で、規則正しい歩き方だった。
彼は弦の前に立った。
「君が、四芸・透真様の噂の娘だな」
低く落ち着いた声。
弦が驚いて顔を上げると、彼は続けた。
「はじめまして、律也だ。同じ四芸の子として、よろしく。
父親と同じ役場ではないが……頑張れよ。何か困ったことがあれば、言ってくれ」
それだけ言い残し、律也は背を向けて去っていった。
弦は彼の広い背中を見送りながら、ぼんやりと思った。
(とても……母親に似ている)
落ち着いていて、穏やかで、どこか優しい。
心の音が、静かで安定している気がした。
「……ありがとうございます」
遅れて呟いた言葉は、もう届かなかった。
その瞬間、弦は不意に視線を感じた。
背筋がぞわっと寒くなるような、刺々しい視線。
ゆっくりと振り向くと、公主・優那が殿の出口近くに立っていた。
彼女は弦と律也のやり取りを、冷たく鋭い目でじっと見つめていた。
その目に、嫉妬のような暗い感情が混じっているのがはっきりとわかった。
弦は思わず胸を押さえた。
(……嫌な目)
優那はすぐに視線を逸らし、早歩きで殿を出て行った。
弦が小さくため息をついた瞬間、今度は別の手に腕を掴まれた。
「律也って本当面白くないよね。ねえ、弦ちゃんって呼んでいい?」
明るい声。
振り返ると、彩珂が立っていた。
絵筆のように細い指で弦の腕を掴み、にこにこと笑っている。
「あたし、彩珂。同じ四芸の子として、よろしくねー」
彩珂は少し考え方が外れていて、自由奔放だった。
変わり者と見られることも多いが、どこか勇敢さを感じさせる笑顔だった。
周囲の何人かの文武官が、小声で囁き合うのが聞こえた。
「うわ、あの子に声かけられたよ……」
「可哀想な新人だな」
弦は肩を少し縮めた。
彩珂は弦の顔を覗き込み、甘い声で誘った。
「ねえ、せっかくだからあたしの部屋においでよ。
お茶飲んで、ゆっくりお話しましょう?
あたし、人の本当の顔、絵に描くと見えてくるんだよね。弦ちゃんの顔、描いてみたいの」
弦が少し戸惑っていると、彩珂はさらに声を潜めて言った。
「大丈夫、変なことしないから。……たぶん」
そのとき、穏やかだが低い声が割り込んできた。
「話の途中で申し訳ない。
娘と少し話す時間が欲しいんだが、いいかな?」
透真だった。
彩珂は目を丸くした後、すぐに明るい笑顔になった。
「あー、親子水入らずってやつですね! 了解です〜。
じゃあ弦ちゃん、また後でね。楽しみにしてるから!」
彩珂は弦に向かって小さく手を振り、軽やかな足取りで去っていった。




