第九話 残響
父を見て、弦の喉が詰まった。
透真は少し沈黙してから、口を開いた。
「……なぜ競演に参加した?」
弦の眉がぴくりと動く。
「それが、最初の言葉なの?」
透真の視線がわずかに揺れた。
「君の安全を考えた上での言葉だ」
「安全?」
弦の声が強くなる。
「じゃあ、なぜ村は全焼したの」
透真は答えない。弦の呼吸が浅くなる。
「なぜ、一度も会いに来なかった」
胸の奥に押し込めていた感情が、音を立てて崩れていく。
「なぜ……母は……死んだ?」
最後の言葉だけ、うまく声にならなかった。
弦の目に涙が滲む。頬が熱い。
透真は明らかに動揺していた。何か言おうとして、言葉を失っている。
やがて彼は、ゆっくりと手を上げた。弦の肩に触れようとして――止める。
指先が空中で止まったまま、ゆっくりと下がっていった。会ったこともない娘に、軽々しく触れてはいけない。そんな迷いが見えた。
透真は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「……宮廷に入った以上、もう戻れない」
低い声で言った。
「これから先、誰も信じるな」
弦は唇を噛む。
「誰にも肩入れするな。中立でいろ」
冷たい、はずなのに。
なぜかその声の奥に、焦りのようなものが混じっていた。
「お前が配属される蘭氏には、話を通しておく」
また透真の右手が少しだけ動く。肩を叩こうとしたのだろう。だが結局、その手は袖の中で止まった。
「……じゃあ、またな」
透真は背を向けた。
灰色の袍が揺れ、静かに遠ざかっていく。
弦はその背中を見つめていた。
短すぎる再会だった。胸に残ったのは、空白だった。
――ごめんの一言もないのか。
父の言葉は、ほとんど耳に入っていなかった。
なぜあんなにも冷たいのか。
なぜ母を放っておいたのか。
なぜ、自分を見ようとしないのか。
理解できない。全部が、気に食わなかった。
弦はその場に立ち尽くした。身体から力が抜けていった。
精神が削られすぎたのか、視界がぼやける。
ふらつきながら階段へ足をかけた瞬間――
足を踏み外した。
「……っ」
身体が傾いた。
だが次の瞬間、強い手が腕を掴んだ。逞しく、熱のある手。
「おっと、危ないよ」
聞き覚えのある声だった。斎だ。
弦は息を呑む。
「……ありがとう」
斎は弦の腕を支えたまま、困ったように笑った。
「怪我したら大変だからね」
「帰ってなかったの?」
「話したくて待ってた」
そう言った後、少し気まずそうに目を逸らす。
「……というか、ずっと見てた。ごめん」
弦は思わずため息をついた。
斎は空気を変えるように、ぱっと笑った。
「改めて、おめでとう。そして――宮廷へようこそ」
その言葉に、弦は複雑そうな顔をした。
「疑問に思ったことがあるんだけど」
「うん?」
「前に、初迎宴で会おうって言ってたよね」
斎は瞬きをした。
「それって、わざと仕組んだの?
私が入宮できるように」
弦の目が細くなる。
「目的は何?」
斎は苦笑した。
「待って待って、それは誤解だよ」
軽く両手を上げる。
「僕に文武官を決める力なんてない。
でも……弦ちゃんが勝ち抜いたのは、完全に実力」
斎は真っ直ぐ弦を見た。
「というか、弦ちゃん強そうなんだよね。見たらわかる」
冗談っぽい口調だ。
けれど、その目は本気だった。
弦は黙った。
完全には納得していないが、少しだけ肩の力が抜けれた。
それを見た斎は、すぐに話題を変えた。
「他の四芸の子たちとは話して、どうだった?」
「仲良くなれそう……かな」
「透真様は?」
弦は疲れ切った顔で笑った。
「どうだったって?」
小さく息を吐いた。
「……まだ一日しか経ってないのに、一年過ごした気分」
斎は声を上げて笑った。
「ははっ、宮廷はそんなもんだよ」
笑い終えると、彼はふっと目を細めた。
「これから、もっと色んなことがある」
その声音は穏やかだった。
予言みたいだった。
「でも、弦ちゃんならきっと勝ち抜ける」
「勝ち抜ける……?」
すると斎が少しだけ身を寄せる。
「それから」
声が低くなる。
「さっき透真様、誰も信じるなって言ってたよね」
弦が視線を上げる。斎は微笑んだ。
「でも、僕を信じていいよ」
灯籠の火が揺れる。影が彼の目元を深く染めた。
「この宮廷で、僕が唯一の味方だから」
その声音は優しかった。けれどなぜか、逃げ道を塞がれるようにも聞こえた。
弦は返事ができなかった。
その時、遠くの回廊に黒い影が現れた。
斎の配下らしき男が、無言で頭を下げている。
斎は「ああ」と小さく返した。
「行かなきゃ」
彼はいつもの柔らかな笑みに戻る。
「じゃあ、これからよろしくね。弦ちゃん」
「ああ……よろしく」
斎は手を振り、闇の向こうへ消えていった。
残されたのは、弦ひとり。
弦は静かに歩き出す。ふと、背後を振り返った。
巨大な宮廷が、夜の中で静かに光っている。
提灯の灯りは綺麗だった。
けれど弦には、それが人を誘い込む鬼火のように見えた。
――ここは、火の海より複雑そうだ。
まだ、何も始まっていないのに。




