第二話 旅道ノ侠客
灰爺の昔話が、弦の胸に何度も蘇っていた。
王都は輝かしい場所だ。提灯が宝石のようにきらめき、夜でも昼のように明るい。
危険だが、美しい。炎のように。
村が焼け落ちた今、そこしか行き場がなかった。
弦は歩き続けた。
足は痛み、腹は激しく空き、胸の「琴」の文字はくすんだまま鈍く疼いていた。
村人の死を糧に、前へ進むことだけを考えた。何日経ったか、もう覚えていない。
朝の光が差し込む頃、ようやく小さな宿に辿り着いた。
宿の女将は皺だらけの優しい顔で迎えてくれた。
「お嬢ちゃん、長い旅だったねえ。顔色が悪いよ」
弦は部屋を取ったが、座った瞬間、視界がぐらりと揺れた。お腹が空きすぎて、倒れそうだった。
女将が温かい団子を差し出してきた。
「早よお食べ。温かいうちに」
弦は涙ぐみながら受け取り、礼を言った。
「ありがとう……ございます」
ベンチに腰を下ろし、甘い団子を頰張る。
温かさが体に染み渡った瞬間、疲れが一気に噴き出し、弦はそのまま眠り込んでしまった。
目が覚めると、外はすでに夜だった。
宿の広間から、男たちの笑い声と酒の匂いが漂ってくる。
「三年に一度の宮廷競演だぞ! 庶民でも文武官になれるらしい」
「街中がお祭りみたいになるってよ」
弦は耳を澄ませた。王都で、そんな機会があるなんて。
ふと、隣の席に男がどっかりと腰を下ろした。
埃まみれの粗末な旅装。侠客だ。
だが腰に下げた紫の玉佩だけが、月光を浴びて妖しく輝いていた。
綺麗すぎて、場違いなほどだった。
男は酒をぐいっと煽り、ぶっきらぼうに言った。
「馬鹿馬鹿しい話だな。普通の暮らしが一番幸せだっての、誰も気づかねえのか」
弦は小さく答えた。
「まあ、夢があっていいじゃないですか」
侠客は弦をじろりと見据え、目を細めた。
「おい嬢ちゃん。お前は競演に行かねえのか?」
「行きませんね」
少しの沈黙の後、弦の胸に村の炎と灰爺の最期がよぎった。
「それに……芸がなくたって、生きていけますし」
侠客は酒盃を置き、しばらく黙り込んだ。
それから、くっと喉を鳴らして笑った。
「はっ、面白いな。お前みたいなのは初めてだぜ」
「何か変なこと、言いましたか?」
「いや、何もよ。……で、これからどこへ行く気だ?」
「王都に行きます」
侠客は目を丸くし、腹を抱えて大笑いした。
「おいおい、さっき興味ねえって言ってたじゃねえか!」
「別に競演のためじゃありません。ただ、見てみたいだけ。それから、他の村で暮らすつもりですよ」
侠客の表情が少し曇った。
「ふん……。だがよ、王都に入っちまったら、簡単には出られねえ気がするぜ。お前みたいなのが」
心配そうな声に、弦は戸惑った。
侠客は酒をもう一口煽り、続けた。
「俺の行き先は王都を通過するだけだ。馬なら早ぇし、道中も退屈しねえ。乗せてやるよ。遠慮すんな」
弦は部屋に戻り、布団に横になった。
この侠客、荒くれ者のような服装なのに、心の音がとても穏やかだった。
まるで見透かされているような、不思議な気分になった。
朝、宿の代金を払おうとすると、女将が首を振った。
「もう払ってもらってるよ。あの侠客の旦那が」
侠客はまんじゅうまで持ってきてくれた。
二人は馬に乗り、王都への道を進んだ。
馬の背で、侠客がぶっきらぼうに切り出した。
「昨日、芸なしで生きたいって言ってたな。なんでだ? その歳でこれほど強い芸の才を持ってりゃ、普通は目立ちてえと思うもんだが」
「なぜ強いって思うのですか?」
侠客は答えた。
「俺の芸が『気』だ。人を見るだけで、芸の力量がわかる。隠せねえよ。お前の力量は先天的だ。膨大すぎて、一緒にいると背筋がぞわっとするぜ」
弦は胸の「琴」の文字を思い、苦笑した。
「この国の多くの人にとって、芸は祝福でしょう。でも、私にとっては呪いでしかないんです」
侠客は頷いた。
「そうか、残念だな。まあ、芸が呪いってのは、俺も大賛成だぜ」
それから小声で付け加えた。「俺の芸だって、呪いだ」
弦はそっと尋ねた。
「なぜ、こんなに優しくしてくれるのですか?」
侠客は少し黙り、深く息を吐いた。
「俺にはな、嬢ちゃんと同じくらいの歳の息子がいた。そして妻も。そばにいてやれなくて、ずっと後悔してんだよ……その禊みてえなもんかな」
声が少し震えていた。
「二人とも王都にいてな……今も生きてるかわからねえ」
弦は静かに言った。
「見つけたら、教えますね」
侠客は肩を落とし、苦笑した。
「ありがとよ。でも、逆に見つけて欲しくねえな。お前が望まねえ道に進むことになるかもよ」
弦は苦笑した。
「おじさんの言葉、理解するのに本当に苦労するよ」
二人は小さく笑い合った。
馬の蹄の音が、静かな道に響いた。
やがて、王都の大きな門が見えてきた。
侠客は弦に銭を渡した。
「話してくれた礼だ。そういえば、自己紹介してなかった。巧之介だ」
「弦です」
「弦ちゃん、気をつけな。また会う日が来る気がするぜ。またな」
「またね」
弦は王都の門をくぐった。
まだ知らなかった。
王都に入ることは、飛んで火に入る夏の虫に等しいことを。




