第十三話 鳳凰宮ノ旋律
宦官の後に従い、いくつもの重い門をくぐり抜けた先に、その宮殿は鎮座していた。
後宮の最高権力者が住まう『鳳凰宮』。 清香宮の静けさとも、東宮の絢爛さとも違う、ここは圧倒的な「威厳」の空間だった。白磁の床は鏡のように磨き抜かれ、柱には金糸で刺繍された鳳凰の帳が幾重にも揺れている。一歩足を踏み入れるだけで、自分が極小の存在に思えてくるような、息の詰まるほどの格式の高さだった。
「皇后陛下、弦さまをお連れいたしました」
重厚な扉が開かれ、弦は室内へと一歩を進めた。 部屋から続く、開放的な庭に面した一角に、その二人はいた。
現皇后――国母たる彼女は、信じられないほど豪華な、目が眩むような刺繍が施された衣をまとっていた。その姿はまるで、生きた芸術品のようであり、同時に、近づく者を拒む冷たい壁のようでもある。 その皇后と対面するように座っていたのは、斎だった。二人の間には立派な碁盤が置かれており、どうやら外の空気を楽しみながら、優雅に囲碁を打っていたようだった。斎は昨日と変わらない、甘く端正な笑みを浮かべて弦を見つめている。
「よく来ましたね。さあ、こちらへ」
皇后が弦を迎え入れたその顔には、驚くほど穏やかで優しい微笑みが浮かんでいた。鈴の音のように優しく、包み込むような声。
「お目にかかります。それに斎様も……まさか」
「いや、勘違いしないで。男です。四芸とその子ら、そして競演合格者は特別なのでね」
「ふふ、そう緊張なさらないで。公主のところと、皇太子のところへ行ってきたのでしょう? 濃い味の宮殿ばかりで、さぞかし疲れましたね。さあ、甘い点心でも食べていきなさい」
侍女たちが手際よく、見たこともないほど繊細で美しい、花の形をした焼き菓子や、蜜の滴る果実の点心を、弦の前の円卓へと並べていった。湯気とともに、上品な甘い香りがふわりと広がる。
「ありがとうございます……。いただきます」
緊張で喉が干からびそうだった弦は、勧められるままに、小さな菓子を口に運んだ。サクッとした軽い食感のあと、じゅわりと上品な蜜の甘さが広がる。そのあまりの美味しさに、強張っていた肩の力が少しだけ抜けていく。
「美味しそうに食べるわね。安心したわ」
皇后は満足そうに目を細め、お茶を口に運んだ。
「あなたとは一度、ゆっくり話がしたかったの。斎から、『琴』の噂はたくさん聞いていたからね。人を癒やす音を奏でる、心優しい娘だと」
「そう……ですか?」
弦が驚いて視線を送ると、斎は悪戯っぽく微笑んで、手元の碁石をパチリと指先で弄んだ。
「嘘は言っていないよ。君の琴は、本当に特別だからね。僕が保証するよ、皇后陛下」
「ええ、斎がそこまで言うのだから間違いありませんね。弦、あの二人、私の腹から生まれた子ではないのです。だから、あの子たちとは本当の意味で親しくなりたいとも思わないし、そのつもりもありません。けれど、あなたのような真っ直ぐな子は、私は歓迎しますよ。もし何か辛いことがあれば、いつでも私を頼りなさい、信じなさい」
皇后の言葉は、どこまでも慈悲深く、まともな人間の温もりに満ちているように思えた。血の繋がらない我が子たちの狂気を見つめ、あえて距離を置いている、理性的でまともな大人。和楽公主や皇太子のような、裏に潜む明確な悪意の「音」は、この皇后からは聞こえない。 弦は、ようやくこの宮殿で、少しだけ救われたような気がしていた。
「それでは、失礼いたします」
お茶会が終わり、弦と斎は丁重に一礼して鳳凰宮を退出した。 後宮の外へ出ると、斎が自然な足取りで弦の隣に並び、一緒に歩き始めた。
その頃、弦たちが去った静まり返った鳳凰宮。
広間の奥から、美しくもどこか哀切に満ちた歌声が響いていた。 先ほどまで斎と囲碁を打っていた庭を眺めながら、皇后が一人、静かに歌を口ずさんでいるのだ。その旋律は、どこか古風で、胸を締め付けられるような切なさを孕んでいた。
歌い終えた皇后は、手元のお茶を見つめたまま、背後に控える古参の侍女に声をかけた。
「……今日の歌はどうかしら、寂」
「今日も、大変素晴らしい歌声でございました」
古参の侍女が深く頭を下げると、その横にいた、宮廷に上がったばかりの若い新人の侍女が、純粋な疑問を堪えきれずに小さな声を漏らした。
「あの……お訊ねしてもよろしいでしょうか。皇后陛下は、なぜ毎日、欠かさず同じ歌を歌われるのですか……?」
「これ、何を不躾なことを!」
古参の侍女が色をなして叱りつけようとしたが、皇后は穏やかに手を挙げてそれを制した。
「良いのよ、寂。……これはね、故人に捧げる歌なのよ」
皇后は遠い目をして、誰もいない虚空を見つめた。その豪華な衣装の重みが、彼女の孤独を際立たせるように。
「同じ歌を、毎日同じように歌った方が……天にいるあの人へ、真っ直ぐに届くでしょう?」
優しく微笑む皇后の横顔。しかし、その瞳の奥には、決して誰も立ち入らせない、冷たく深い情念の闇が揺らめいていた。
一方太医院へと続く道を、弦と斎の足音が規則正しく刻んでいく。
「疲れただろう、一日に三つの謁見もあって」
斎が気遣うように笑いかけてくる。
「いえ……和楽公主様や、皇太子殿下とは違って、本当に優しくてまともな方で……。少し、ホッとしました」
弦が正直な感想を口にすると、斎は一瞬、歩みを止めることなく、ふっと目を細めた。その横顔には、いつもの甘い微笑みとは違う、どこか冷徹な光がよぎる。
「……まとも、か。そうだね。あの御方はいつだって誰にでも優しい、完璧な国母さ」
斎はそれ以上、皇后のことに深くは触れず、話題を変えた。
「それより、東宮はどうだった? 俊の奴、何か無礼な真似はしなかったかい?」
「え、あ……いえ、無礼というか、その……」
弦は、あの幕の奥に隠されていた異常な光景、そして、今日会った三人の皇族たちのことを思い返し、胸元を押さえた。
「……なんだか、不思議だよね。和楽公主様も、皇太子殿下も……そして、皇后陛下も。私の耳には……お三人とも、何か、不穏な音がするんですよね」
弦が何気なく漏らした、音への直感。 その言葉が出た瞬間、斎の進む足が、ピタリと止まった。
弦が振り返ると、斎は回廊の中央で立ち尽くし、信じられないものを見たかのように、目を見開いて弦を凝視していた。その美しい瞳の奥で、恐ろしいほどの速度で計算が弾き出されていく。
ーーお三人とも、不穏な音、だと?
歪みも、狂気も、冷徹さも。この村から来たばかりの娘は、たった一日でそのすべてを『音』として聞き取ってしまったのだ。
斎の脳裏に、冷酷な盤面が浮かび上がる。
ーーーーあのドロドロとした真実、宮廷の『核』にある歪み。それは、僕も長い間かけて知った話だ。だが、今、この何も知らないはずの娘が、その深淵の音を掴みかけている……!
弦の持つ異能の価値、そして彼女がもたらすであろう宮廷への波紋の大きさを察知した瞬間、斎の口元に、酷く冷徹で、獲物を定めるような妖しい笑みが浮かんだ。
「斎……?」
「ごめん、弦ちゃん! 急に、どうしても外せない用事を思い出した。今日はここまでだ、太医院へは一人で戻れるね!」
「え? あ、うん、それは大丈夫だけど……」
「ありがとう、君はやっぱり、僕の最高の幸運の女神だ!」
斎はそれだけ言い残すと、いつもの余裕ある足取りからは想像もつかないほどの速さで、身を翻して駆け去っていった。
一人残された弦は、自分の言った何が彼をあそこまで動かしたのか分からず、大医院に帰ろうとした。




