第十二話 東宮ノ蠢く衣
清香宮を後にした弦は、次なる目的地――皇太子の住まう『東宮』へと向かっていた。
東宮へと続く回廊を進むにつれ、空気の色が変わっていく。
和楽公主の宮殿が「静謐な緑」だったとすれば、東宮は「絢爛たる黄金と朱」の世界だった。柱には見事な龍の彫刻が施され、中庭には見たこともない極彩色の花々が咲き乱れている。宮廷の次代を担う若き太陽の宮殿。表向きは、非の打ち所のない高貴さに満ちていた。
けれど、弦の耳には、その華やかさの底から、どこか調律の狂った楽器のような、不協和音の残響がかすかに聞こえる気がした。
「弦さま。お連れいたしました」
「入れ」
案内された大広間の扉が開いた瞬間、甘ったるい酒と、むせ返るような香の匂いが鼻を突いた。
広間の奥、幾重にも重なる豪奢な絹の座布団に、だらしなく身を横たえている一人の青年がいた。彼こそが、この国の皇太子である。
「お、やっと来たね、琴ちゃん」
寝そべったまま、ひらひらと手を振った。衣服の着こなしは着崩され、前髪の間から覗く瞳は、どこか焦点が定まらないようでいて、獲物を観察するような妖しい光を放っている。昨夜の初迎宴でも、その捉えどころのない遊び人風の佇まいは一際目立っていた。
「殿下にお目にかかります。弦にございます」
「固い固い。そんなに緊張しなくていいよ。……あぁ、それにしても今日は疲れたなぁ。午前中だけでね、君と同じく競演を勝ち抜いた男たち八人に会わされたんだよ。どいつもこいつも、私とは趣味が全く合わない退屈な奴らばかりさ。あんな連中と話すなんて、退屈で死んじゃいそうだった。……だけど、今は君に会えて、本当に嬉しいよ」
皇太子はむくりと起き上がると、音もなく弦に近づき、その顔を覗き込んだ。
「君のことは、昨日の宴のときから気になっていたんだ。ねえ、誰も知らない、私だけの秘密を教えてあげようか。君にだけは、僕の大切なコレクションを見せてあげる」
パチンと手を叩くと、部屋の奥を仕切っていた重い天鵝絨の幕が、左右に静かに開いた。
それを見た弦は、あまりの異様さに息を呑んだ。
幕の向こうの薄暗い空間には、何十着もの豪奢な女物の婚礼衣装が、天井からびっしりと吊り下がっていたのだ。
中身の人間はいない。それなのに、仕込まれた針金のせいで、まるで肉体があるかのようにふっくらと膨らんだ衣装たちが、微風に揺れてゆらゆらと蠢いている。まるで、首のない女たちが暗がりに佇んでいるかのような、悍ましい光景だった。
「ひっ……」
弦は思わず短く悲鳴を上げ、一歩身を引いた。
「皆、私のことを『女好きの遊び人』だって言うんだよね。でもね、違うんだよ。女の肉体なんてどうでもいい。私はね、服が好きなんだ。この最高級の絹が、女性の身体の曲線を包み込む、その境目。この色彩の重なり……こういうのが、たまらないんだよ」
うっとりと、吊るされた衣装の袖を指先でなぞった。その手つきは優雅でありながら、どこか狂気を孕んでいる。
「いま、佳恋との結婚の儀式の準備も進めていてね。そのために、最高の衣装を作らせている最中なんだ。あの衣装をまとった姿を想像するだけで、ゾクゾクするよ……。ねえ、君なら、私のこの気持ちが分かるだろう? 四芸の子である君なら」
皇太子は吊るされた首なき衣装の群れの中から、冷たい笑みを弦に向けた。
和楽公主の悪意は、刺すような鋭い氷のようだった。けれど、彼から感じるものは、底の知れない、悪霊の這い出る泥沼のようだ。
「……素晴らしい、お召し物ですね」
弦が声を震わせながらそう答えるのが精一杯だった。皇太子は満足したようにクスクスと笑うと、再び幕を閉じさせ、「またおいで」と弦を部屋から下がらせた。
弦が去った、静まり返った大広間。
皇太子はしばらく、弦が出て行った扉をじっと見つめていた。やがて彼はふっと鼻を鳴らし、部屋の奥にある、頑丈な鍵がかけられた大きな木箱の前へと歩み寄った。
彼が鍵を開け、愛おしそうに取り出したのは、何枚もの見事な掛け軸だった。
広げた絵には、先ほど弦に見せたものと同じ、色鮮やかな婚礼の衣装をまとった女性の姿が描かれていた。織物の質感、刺繍の一針一針までが、恐ろしいほどの執念で緻密に描き込まれている。
だが、その絵の女性の首から上には、目も、鼻も、口も、何一つ描かれていなかった。真っ白な皮膚だけが、のっぺりとそこに存在している。
皇太子は、その顔のない絵の頭部をそっと撫でた。
「……あは、やっぱりね」
口元が、歪に釣り上がる。
「あの琴から姉様の匂いがする……。清香宮のお茶の香りと、姉様のお気に入りの香料の匂いだ。くすくす、あの底意地の悪いお姉様のことだ、さぞかし可愛い新入りをいじめて楽しんだんだろうなぁ。ねえ、お姉様……」
顔のない婚礼衣装の絵を胸に抱きしめ、恍惚とした表情で呟いた。
「もうすぐ佳恋との婚儀だ。姉様はどんな顔をして、僕の最高の『作品』を見てくれるのかな……。本当に楽しみだよ」
東宮から這うようにして外へ出た弦は、激しく脈打つ胸を押さえた。
単純な「女好きの遊び人」なら、まだ対策のしようがあった。けれど、あの皇太子は違う。世間の噂という仮面を被り、もっと深い、暗い心の奥底に、何か恐ろしい企みや執念を隠している。
――あの人の心からは、和楽公主よりも、もっと複雑で、歪んだ音がする。
まるで、いくつもの嘘と狂気が幾重にも重なり合って、一つの怪物を形作っているかのような、おぞましい音。その音の余韻に、弦の身体はガタガタと震えが止まらなかった。
ようやく太医院へ戻ろうと足を速めた、その時。
「弦様とお見受けいたします」
「はい?」
不意に、目の前に影が立ちはだかった。
見上げると、それは絢爛な衣服をまとった高位の宦官だった。その冷徹な眼差しと、隙のない立ち振る舞いは、一目で宮廷の最高権力者に仕える者だと分かる。
「皇后陛下がお呼びでございます。ただちに鳳凰宮へお越しください」
「皇后陛下……ですか!?」
弦は息を呑んだ。
午前中に和楽公主、昼に皇太子。そして休む間もなく、今度は皇后からの呼び出し。
――いくら何でも、忙しすぎる……っ。
王都に来てまだ二日目だというのに、宮廷の巨大な渦が、容赦なく弦を飲み込もうとしていた。断る権利などない弦は、目の前が暗くなるような目眩を覚えながら、宦官の後に続くしかなかった。




