第十一話 清香宮ノ毒百合
小鳥のさえずりと、どこか香ばしい薬草の匂いで弦は目を覚ました。
昨夜あんなに泣いたのに、不思議と頭はすっきりしている。蘭から貰った「薬」のおかげだろうか。
ふと枕元を見ると、上質な絹で仕立てられた、真新しい薄緑色の衣が置かれていた。添えられた紙には、達筆な字で『今日はこれを着なさい』と書かれている。
弦がその衣に袖を通し、部屋の外へ出ると、太医院の中はすでに戦場のような騒ぎになっていた。医官や雑役が走り回り、薬草をすり潰す音が響いている。
「おはようございます」
「あ、起きたかい、弦ちゃん。おはよう」
泥だらけの手で薬草の束を抱えた葵が、のんびりと笑いかけてくれた。奥からは、何やら難しい顔で書類をめくっている蘭の姿が見える。
「あの、蘭さん。今日の私の仕事は……?」
弦が尋ねると、蘭は書類から顔を上げ、呆れたようにため息をついた。
「仕事? 今日から医士として働いてもらいたいけどねぇ、今日はそれどころじゃないよ。あんた、とんでもない人気者さ。朝からお呼び出しの札が二枚も届いてる。今日はまず、和楽公主。そのあと、皇太子殿下のところへ行きな」
蘭はそう言うと、弦の耳元に顔を近づけ、周囲に聞こえないような低い声で囁いた。
「……いいかい。相手は『宮廷の白き毒百合』とも囁かれるお方だ。何をされても、絶対に出されたものは口にするんじゃないよ」
弦はごくりと息を呑み、小さく頷いた。
蘭に見送られ、弦は下働きの案内のもと、和楽公主の住まう『清香宮』へと向かった。
清香宮の門をくぐった瞬間、弦の鼻腔を、きわめて濃厚で、それでいて清涼な「お茶」の香りがくすぐった。 大殿の絢爛豪華さとは違い、そこは一面、透き通るような緑の翡翠や、美しく磨かれた竹林で彩られた、静謐で優美な宮殿だった。一見すると、まるで俗世の汚れを知らない聖域のよう。
けれど、そのお茶の香りの奥に、弦の鼻はわずかな「苦み」を感じ取っていた。
「弦様。お連れいたしました」
案内が声をかけると、竹の御簾の奥から、鈴を転がすような美しい声が響いた。
「お入りなさい」
御簾をくぐると、そこには美しい茶器を前に、優雅に座る一人の美女がいた。
和楽公主国。最も高貴な美貌を持つ淑女。 彼女が弦を見て、ふっと優しげな微笑みを浮かべる。しかし、その目は一ミリも笑っていなかった。
「和楽公主にお目にかかります」
「あら、礼儀正しいわね。競演でのあなたの琴、本当に素晴らしかったわ。……それにしても、お顔の色が良いのね。宮廷の夜は寒くて、慣れない者は体調を崩しやすいというのに」
公主の言葉に、弦はかすかな違和感を覚えた。親切を装っているようで、冷たい観察の目が含まれている。
「お気遣い、ありがとうございます」
「遠路はるばる王都へ来て、いきなりこんな化け物地みた宮廷へ放り込まれて……怖くはなくて? 昨夜は、よく眠れたかしら」
公主は優雅な手つきでお茶を点て、弦の前に差し出した。差し出された茶碗の中には、まるで雨上がりの蓮の葉のように、瑞々しくも吸い込まれそうなほど深い緑の茶が満ちている。けれど、お茶の香りに混ざる微かな「苦み」の正体が、弦には本能的に恐ろしかった。蘭の『出されたものは口にするな』という言葉が頭の中で激しく警鐘を鳴らす。
「ありがとうございます。ですが、先ほど太医院で白湯をいただいたばかりですので、お茶は結構です」
「そう……。せっかくあなたのために点ててあげたのに。宮廷ではね、差し出された慈悲を無下にすると、命を縮めることになるのよ?」
公主は柔らかく微笑んだまま、静かに茶器を置いた。その微笑みの形は変わらないのに、瞳の奥の闇が、じわりと広がっていく。
「単刀直入に尋ねるわね。昨日の初迎宴のあと――あなた、律也様と何を話していたの?」
「……律也、様……?」
「とぼけないで。文官の律也様よ。あの方は、いずれ私と並び立つべき、特別なお方。四芸の『書』を継ぐ者として、あの素晴らしい才能も、そのお身体も、すべて私のものになるべきなの」
公主の声から、ふっと体温が消えた。冷徹な独占欲が、言葉の端々から溢れ出す。
「あなたも、同じ四芸の『琴』の子だから分かるでしょう? 四芸は、この国の権力の象徴。だからこそ、あなたのような外から来たばかりの小娘が、同じ四芸だからとあの方に気安く近づくこと自体、身の程知らずで不愉快なのよ。あの方の瞳に、あなたのような泥臭い娘を映すことすら許されないわ」
鋭い眼光が、弦を射抜く。
「あの方に近付く者はね、皆、いつの間にかいなくなってしまうのよ。病を患ったり、急に故郷へ帰りたくなったりしてね。……あなたも、そうなりたい?」
静かな、けれど逃げ場のない脅迫。優美な宮殿の空気が、まるで首を絞める鎖のように重く弦にのしかかる。この女の優しさに見えるものはすべて、底なしの悪意と支配欲を隠すための薄い皮一枚なのだと、弦は戦慄した。
「私は、励ましの言葉をいただいただけで、何も……」
怯える弦の反応を見て、公主はフッと満足そうに、けれど酷く冷淡な笑みを浮かべた。弦を完全に蛇蝎のように見下した目で、手元の扇をパチンと閉じる。
「……もういいわ。話すだけ時間の無駄ね。少し疲れたから、下がっていいわ」
「……っ、失礼いたします」
弦は深く一礼すると、逃げるように清香宮を後にした。 外の風を浴びて、ようやく呼吸ができた気がした。けれど、背中についた公主の視線の冷たさと、宮廷の持つ「血の通わない闇」の恐ろしさに、弦は身震いが止まらなかった。
弦が去った後の清香宮。
和楽公主は、弦が一度も手を触れなかった茶器を、冷たい目で見つめていた。
「ちっ……つまらない女」
先ほどまでの淑やかな声とは打って変わった、低く濁った声。
公主は茶器を乱暴に机に叩きつけると、背後に控えていた侍女に向かって、吐き捨てるように言った。
「ねえ、見た? あの泥臭い顔。四芸の子だか何だか知らないけれど、青緑の袍を着せられて、自分が本物の官吏にでもなったつもりかしら。ただの村上がりのくせに、律也様に笑いかけられたくらいで調子に乗って。本当に不愉快だわ。……昨日の下働き、本当に役立たずだわ。あんな小娘、今頃帰らぬ人になっているはずなのに」
公主は美しく整えられた爪を噛み、ふっと冷酷な笑みを浮かべた。
「……なるほどね。あの女、私の邪魔をするなんて。余計な解毒をしてくれたものだわ」
「公主様、次の手を……?」
侍女が怯えながら尋ねると、公主は立ち上がり、窓の外、皇太子の宮の方向を見据えた。
「焦ることはないわ。次はもっと、師でも解けないような毒を点ててあげる」
和楽公主の冷笑が、お茶の香る宮殿に、いつまでも不気味に響いていた。




