第十話 泥と薬草
初迎宴の重苦しい熱気が、嘘のように遠ざかっていく。
大殿を後にした弦は、疲れ果てた足取りで歩いていた。頭の中では、父・透真の冷徹な横顔と、斎の「僕を信じていいよ」という甘く低い声がぐるぐると渦巻いている。
「――あの、弦様」
不意にボソリと声をかけられ、弦は足を止めた。 回廊の端で縮こまっていたのは、粗末な麻の服を着た、若い雑役の男だった。彼は競演の合格者である弦の、青緑の上質な袍を眩しそうに見つめながら、ペコペコと頭を下げる。
「太医院へのご案内を仰せつかっております。こちらへどうぞ……」
雑役の男はそれ以上何も喋らず、ただ黙々と前を歩いた。彼の手の甲には「走」という文字が淡く刻まれている。彼のように、芸の力量が小さく競演に勝てなかった者たちが、宮廷の膨大な雑務を支えているのだろう。
「ここでございます。……失礼いたします」
辿り着いたのは、背の高い白壁に囲まれた広大な敷地――宮廷の医療を預かる太医院だった。 弦が恐る恐る太医院の格子戸を開けると、中からぷんと苦い薬草の香りが漂ってくる。
「おや、やっと来たかい」
机で熱心に薬草の書物を読んでいた女性が、顔を上げた。 髪を無造作にまとめ、袖をまくり上げたその姿からは、いかにも仕事人といった気風の良さが感じられる。彼女こそが、この太医院を仕切る御医、蘭氏だった。
「初めまして、弦と申します。今日からこちらに配属されることになりました」
「知ってるよ。話は聞いてる。私は蘭。ここでは私がルールだから、しっかりついてきな。……それにしても、あんたがねぇ」
蘭氏は椅子から立ち上がると、弦の顔をじろじろと見つめ、それから不意に弦の手を取って、手のひらをまじまじと見た。
「なるほど、綺麗な手をしてる。競演での噂は聞いてるよ。『琴』の芸だってね。あんたの音楽は、ただ人を感動させるだけじゃない。人の気の乱れを整え、治療する力がある」
「え、治療、ですか……?」
「そうさ。音で傷を癒やす。私の医術とはまた違うアプローチだけどね。宮廷には心や体を病んだ奴がごまんといる。あんたの力が必要になるのさ。……おい、葵! いつまで外で油売ってんだい! 新入りが来たよ!」
蘭氏が窓の外に向かって怒鳴ると、ドタドタと慌ただしい足音が響き、一人の男性が飛び込んできた。 手には大きなシャベルを持ち、服は泥だらけ。しかし、その顔には人害のない、のんびりとした笑みが浮かんでいる。
「おっとっと、ごめんよ蘭! この子が新しい弦ちゃんだね。初めまして、僕は庭師の葵だよ」
「あんたねぇ、初対面の挨拶に泥だらけのシャベル持って顔出す奴があるかい。少しは自分の見た目を気にしなよ」
「えへへ、だって新しい薬草の芽が出そうだったからさ、嬉しくて。あ、弦ちゃん、よろしくね」
頭をかく葵の頭を、蘭氏が容赦なくペシッと叩く。
「痛っ!」
「へらへらしてんじゃないよ! まったく、この男は植物のことになるとこれだからね。あ、言っておくけど、私たちは夫婦さ。こいつがボケっと生やした薬草を、私が刈り取って薬にする。一応、仕事の相性は抜群ってわけ」
「ちょっと蘭、ボケっと生やしたって失礼だなあ。僕は毎日、愛情を込めて声をかけてるんだよ。『今日も綺麗だね』って」
「あんたが声をかけるべきなのは植物じゃなくて私だろうが!」
「ふふっ……」
二人のあまりに息の合った、テンポのいい掛け合いに、弦の口から思わず小さな笑い声が漏れた。 サバサバと突っ込む蘭氏と、天然でどこか抜けている葵。宮廷の冷徹な空気とは全く違う、温かい風がそこには吹いていた。
「あ、笑ってくれたね。よかった、初迎宴の後だからもっと顔が強張ってるかと思ったよ」
葵が優しく微笑む。その笑顔を見た瞬間、弦の胸の奥で、何かがパチンと弾けた。
――あ、この感じ。 懐かしい。あまりにも、懐かしい。 村の藁葺き屋根の家。風にざわめく葦の波。いつも煙管をくゆらせながら、くだらない話をして笑わせてくれた灰爺。病床で優しく微笑んでくれた母。 今まで張り詰めていた心の糸が、この夫婦の温もりに触れた途端、一気に解けてしまった。
「あ……」
視界が、急激に歪む。 止めようと思っても、大粒の涙が次から次へと溢れて、頬を伝い落ちた。
「お、おいおい!? どうしたんだい弦ちゃん!」
「あわわ、蘭、君が怒鳴るから弦ちゃんが泣いちゃったじゃないか!」
「私のせいにするんじゃないよ! 弦ちゃん、どこか痛むのかい? 初迎宴で何かされた?」
「ちがっ……違います……っ」
弦は首を振ったが、もう言葉にならなかった。弦は顔を覆い、その場にしゃがみ込んで、子供のように声を上げて号泣した。 村が火の海になったときも、巧之介の前でも、斎に脅されたときも、ずっと我慢していた。泣いてはいけない、強くあらねばと、自分に呪いをかけていた。けれど、ここでは、温かすぎて耐えられなかった。
蘭氏と葵は顔を見合わせ、それから静かにシャベルを置いた。蘭氏はため息をつくと、しゃがみ込む弦の傍らにそっと寄り添い、その背中を大きくて温かい手で、ゆっくりとさすり始めた。
「……すいません、すいません……大丈夫、ですから……っ」
「謝るんじゃないよ。大丈夫なわけないだろう。あんた、まだ若いんだろ? こんな化け物屋敷みたいな宮廷にいきなり放り込まれて、平気な奴なんかいるもんですかい。いいかい、人間は誰しも泣くんだよ。泣きたい時に泣いた方が、人間らしいじゃないか。宮廷の奴らは皆、面を被って、涙の流し方すら忘れた化け物ばかりさ。あんたは、そのままでいい」
「蘭の言う通りだよ、弦ちゃん。ここは安全だからね」
葵もそっと、弦の頭を撫でてくれた。
そこへ、コンコン、と格子戸が叩かれた。 入ってきたのは、先ほど弦を案内してきた下働きの男だった。彼は泣き崩れている弦の姿に一瞬だけ視線を泳がせ、それから手際よく、盆に載ったお茶を弦の前に差し出した。
「お茶です。どうぞ……」
雑役の男は義務的に一礼すると、そそくさと去っていった。 それを見た蘭氏は、わずかに眉をひそめた。その目は、差し出されたお茶の湯気をじっと見つめている。 しかし、激しく泣いて喉が渇いていた弦は、何も気づかずにその器を手に取り、一気に飲み干してしまった。
「あ、弦ちゃん、ゆっくり飲んで」
葵が止めようとしたが、もう遅かった。お茶は弦の喉を通り抜けていく。蘭氏は何も言わず、弦が飲み干した空の器の底をじっと睨みつけていた。
しばらくしてようやく涙が止まった弦を、蘭氏は太医院の一角にある小さな部屋へと案内した。
「今日はいろいろあって疲れたろ。荷物を解いたら、すぐに横になりな。……あ、そうだ。これ、飲んどきな」
蘭は懐から小さな丸薬を一つ取り出し、弦の手のひらに握らせた。
「これは……?」
「疲れれた体にいい薬さ。宮廷の長旅と初迎宴で、あんたの気はすっかり擦り切れてる。これを飲んで寝れば、明日にはすっきりしてるさ」 「ありがとうございます、蘭さん……」
弦は言われた通り、その薬を口に含んで飲み込んだ。蘭は「よし」と満足そうに頷くと、「ゆっくり休みなよ」と言って部屋の扉を閉めた。
薄暗い部屋で、布団に入った弦は、天井を見つめていた。 蘭氏と葵の優しさは嬉しかった。けれど、自分の胸にある「琴」の文字を意識するたび、どうしても暗い影が心を支配する。
――私の音楽は、人を治療できる……。本当に、そうなのかな。
弦の手が、ぎゅっと布団を握りしめる。
――私のせいで……私の音のせいで、お母さんは死んじゃったのに。私は、人を殺すことしかできないかもしれないのに。
宮廷にいる限り、この「琴」の芸を使い続けなければならない。自分にはそんな奇跡のような治療なんてできない。また誰かを傷つけてしまうのではないか。 その不安と恐怖が、孤独な夜の闇の中で、弦の心をじわじわと蝕んでいく。けれど、先ほど蘭から貰った薬のせいだろうか、急激に心地よい眠気が這い上がってきた。弦はトラウマの恐怖を抱えたまま、泥のように眠った。
その頃、弦の部屋の外。
静まり返った太医院で、蘭氏と葵が顔を突き合わせていた。蘭氏はいつになく険しい表情で、弦が飲み干した茶器の匂いを嗅いでいる。
「さっきの男は?」
「もう自殺した。歯の中に毒があった。……蘭、さっきのお茶、やっぱり」
「ああ。わずかだけど、毒が入ってたね。本当にごくわずかさ。この宮廷の、日頃から毒に慣れてるような薄汚い奴なら、お腹を少し下す程度で済むくらいのね」
「でも、弦ちゃんは……」
「そうさ。あの子は、外の、それも自然豊かな村の出身だ。そんな綺麗な体で育った無垢な子に、この宮廷の毒に対する耐性なんてあるわけがない。もしそのままにしてたら、今頃内臓をやられて高熱でうなされてたよ」
「薬は?」
「渡したさ、特製の解毒剤。あの子の目の前でお茶を取り上げたら、余計な恐怖を与えるだろ? だから寝る前に飲ませた。明日の朝には毒は完全に消えてるさ。……まったく、初日からもう狙われるなんてねぇ」
葵はごくりと息を呑み、弦が眠る奥の部屋の扉を見つめた。
「一体、誰がそんなことを……」
蘭氏は冷めきったお茶を流しに捨てると、窓の外、はるか高くにそびえ立つある方向をじっと見つめた。その鋭い目には、怒りと、そしてどこか悲しみが混ざっている。
「私のところに、あんな見え透いた毒のお茶が届くなんてね……。宮廷で、私に医療を学んでいるあの子以外に、こんな真似ができる奴はいないわさ」
葵は溜め息をつき、肩を落とした。
「初日からこれじゃ、弦ちゃんのこの先が心配だな……」
蘭氏は腕を組み、不器用な優しさを滲ませながら、弦の部屋をもう一度見つめた。
「あの『透真』の娘だからね、何があってもおかしくはない。……でも、太医院にいる間は、意地でもあの子を守ってあげるさ」
暗闇に包まれた太医院の窓の外で、夜の風が冷たく吹き荒れていた。




