第2節 7章 再会編Ⅲ
地面を伝う鮮血、飛沫を浴び、狂気と化した少年
その顔は淡々としていて、名状し難いオーラを醸し出している。
屋敷は暗く閑散としており、使用人の姿でさえ誰も見えなかった。
ゆっくりと話し声の方へ歩み寄る。
篠原はただ立ち尽くす少年の姿を捉えていた。
心臓の鼓動が跳ね上がるを越え、飛び出しそうなほど脈打ち、耳の鼓膜を押し上げる。
微かなドアの隙間の先に立つ怪鳥を模したような骨組みのマスクをつけていた。
今ここでバレてしまっては自分の命さえ危うい。しかし、今の篠原の心の中にそんな冷静さなど微塵も残っていなかった。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開け放っていく。
うちの黒い閃光が差し込み、篠原は赤黒い床の上に進んだ。
「げ...んじ..君?」
そう声をかけると、立ち尽くす少年がゆっくりとその相貌をこちらに向けてくる。
以前とは雲泥の差に感じられる圧迫感と、受ける鮮血が、ただならぬものであることを証明していた。
それでも篠原は腰に力が入らなくなりそうなのを抑え、相貌を見つめ返す。
ゲンジは自分の名前を呼ばれたことに困惑する。
最初はメイドが誰かが聞きつけてきたのかと思った。
その程度であれば殺さずとも姿を眩ませて仕舞えばいいと思えた。
だが今目の前に立つ女は自分の名前を呼んだのだ。
それほどに、自分の存在は知られているのか、あるいはこの国の反感を買っているのか...
少なくともその思考の片隅に篠原という女の存在はかけらも浮かび上がることはなかった。
突然、目の前から少年の姿が消える。先程までクッキリと見えていたその姿が溶けるように大気と混ざる。
篠原は突然の出来事に左右を見渡してたじろぐ。
幽霊でも見ていればよかったのかもしれないが、今目の前に立っていた人物は紛れもない人殺しでもあり、自分の見てきた一人の生徒の姿にも見えた。
その存在が突然に姿を消し、今煌々と光る部屋のどこにもその姿はない。
心臓が耳を押し上げ、血が止めどなく走っていく。
息が上がるほどに、篠原の視線が止めどなく動き続けた次の瞬間、ふと視線の切れ端に現れた黒い霧がめに飛び込んでくる。
瞬時に引き攣る顔を動かし、それを視界に捉えようとした瞬間、目の前で閃光が弾け飛ぶ。
火花が目の前で炸裂して地面まで落ちるに満たない僅かな間に、篠原の目は驚愕を捉える。
どこからどう見ても数年前、姿を眩ませた志乃源二そのものだった。
額に血を浴びても、怪鳥のマスクを付けていたとしても、その姿見た目までは変わることがなかった。
「何のつもりですか。」
初めて話したセリフはこの悲惨な状況に見合わない淡々とした声ではあるものの、より一層篠原の核心は強まる
「この女性は、殺してはいけないからね。
止めさせてもらった。
どうやら、アヴィズダー・オクレイマンは始末したようだね。」
源二らしき少年の右手からはどこからともなく鋭い黒の剣が伸び、それを目前で一本のナイフがその軌道を止めていた。
いつ動き出してもおかしくないその競り合いが解かれると、ゲンジは目の前に女なんていないかのように背後にいる人物に視線を向ける
篠原もそれに釣られて後ろを無理向くと、そこには自分の体躯よりふた周りも大きなカラスのようなマスクをつけた人物が立っていた。
「あなたは...」
しかし、その問いかけに応えることもなく目の前にいる少年は剣を虚空へと溶け込ませ、いつの間にかナイフも消えていた。
そしてそのままフォールンとゲンジは篠原の横を過ぎ、闇の中へと歩き出していく。
「ちょっと待ちなさい!」
少年の足が止まる。
「どうして、どうしてこんなこと...」
「お前に話す必要はない。女。」
ゲンジはそう淡々と答え、闇の中へと姿を消していったのだった。
帰還するまでの間フォールンとゲンジは先程までのことを話していた。
なぜ、あの女を殺してはならなかったのか、少年にとっては気がかりだったのだ。
「なぜあの女だけは殺してはならなかったんですか?」
「ん?まぁ色々と事情があるんだよ。」
「あれは俺のことを知ってたんですよ。」
「そうかい。でも問題は彼女がここにいるってことだ。」
ゲンジは怪訝な表情を見せる
「あの女性をここまで導いた人がいる。
君が殺した片割れ、あれはきっと連合小王国軍の人間だろう。
名前は知らないけど、紋章が連合小王国軍、義勇軍のものだった。
「そもそもなぜ、連合小王国軍はこんなにも早く救援に...」
「ゲンジ君、もしかしたら今回は僕たちの負けな気がしてきたよ。」
「負け?」
「剣聖に、その動向が掴まれてる可能性がある。
どうやってかはわからない。
もしかしたら、索敵能力に長けた魔法を使うものがいるのかもしれない。
とにかく、剣聖は他の魔法使いや兵士たちとは全くの別物。
何か僕たちの知らない魔法を使うことも考えておくべきだからね。」
暗闇に包まれる城壁の上、二人は振り返る。
指揮系統は完全に混乱に陥ったにも関わらず、さも誰かに命令されるかのようにいつものごとく働く。だが、虚構の街は静かに崩壊を迎えたのであった。
「戻ったよ。」
フォールンとゲンジが元いた場所に戻る頃には月が傾き、地平線が微かに赤みがかった頃だった。
木の上の枝に腰掛け、ぷらぷらと足を揺らしながら二人の帰りを待っていたエマはやはりどこか退屈そうな表情であくびを見せる素振りを見せていた
「随分と遅かったのぉ。」
「またまたぁ、これでも順調だったんだよ?」
「それで、首尾は?」
「やっぱり、連合小王国だったよ。アヴィズダー・オクレイマンは殺したから、この国の指導者はいよいよ彼女一人になったね。」
「まだ他の貴族もおるだろうに。
まぁ殺したのであればよろしい。
帰るぞ。」
「その前に、エマ君。申し訳ないんだが急ぎツバキ君に知らせてくれ。剣聖に見つかったかもしれないと。」
「何?」
「いやね、僕の妄想ならそれでいいんだが、連合小王国がこの国のピラーを当てにしているのはわかるけど、それにしても何か僕らを伺ってるような、そんな戦い方だった。」
「ふむ、確かに...」
「それに、もう一つ。シノハラという女性を覚えているかい?」
「シノハラ...覚えているが、それがどうかしたのか?」
「彼女がいた。」
「何じゃと?」
「その、シノハラって女は誰なんですか?」
ゲンジが話を遮り、その女についてエマに聞くとその返答はキョトンとした表情で返される。
「お主一体何を?あぁ、そういうことか。
シノハラはお主の元いた世界の者じゃ。立場上では監督者じゃな。」
「監督者...」
「うーん、お主はたしか先生とか何とか言っておったかの。」
ゲンジはその言葉を聞いた途端、自分の手を見開く。
もしあの時、フォールンによって止められていなかったら、自分は自分にとって大事な人をこの手で葬るところだったのか。
そんな思考が脳裏を覆いつくす。
初めて、消失が怖い。そう思った。
「あーあ、言っちゃった。
まぁいいか、とにかくエマ君は帰国の手筈を整えて欲しいんだけど。」
「おう、構わないぞ。妾もいい加減ゆっくりとした暮らしがしたかったからの。」
一同は話しながらも各々の移動手段を用意する。
エマはぷかぷかと宙に浮きながらもどこからともなく大きな本を生み出す。
ゲンジはどこからともなく黒い馬が現れる。
「じゃあ妾はいくからの。
あとは頼んだ。」
「まかせてよ。
じゃあまた数日後に。」
「おう。」
そう言ってエマは本の上にその小さな手をかざすと、何かをぶつぶつと唱え始めた。
詠唱であることに間違いはないが、一字一句が早口言葉の如く紡がれ、聞き取ることも困難だった。
ゲンジはフォールンと共にカルマッタの丘へと足を向けるのであった。
「剣聖って、そんなに優秀なんですか?」
「優秀かどうかは知らないよ。でも、当然そう呼ばれるからには何かしらの特殊な能力があったりするもんさ。
特に剣聖は保護も手厚かったからね。今ではそれぞれがいいポストについてることも多いから、大きな後ろ盾だあってもおかしくない。
今回みたいに、一人で軍を動かせることだってできるってことだし、個人で軍を動かせたり、そういうふうに計らうことだってできる人間は数少ないからね。
それに目をつけられているだけで十分君を遠ざける理由にはなる。」
ゲンジは切り裂く風の中、その言葉を噛み締める。
結局自分に何ができたのか、何もできなかったのではないかという後悔の念と無力感を感じながら、朝に流れる心地よい風だけがゲンジの心を緩く締め付けていた。
「あの少女のことでも気にしているのかい?」
「アンリエッタ王女のことですか?」
「そうさ。随分と仲良くなったじゃないか。
だって最初のあの子見たかい?
亡霊のように両親の後を追って、惨めを通り越して哀れだったじゃないか。」
「そんなことないです。あれは、あれなりに両親を思ってのこと。
そもそも両親を奪ったのは俺だ。
少しでも力になってやりたかった。」
「やりたかった?」
その言葉の最中、ゲンジの脳裏にはアンリエッタを連れ出した日のことを思い出していた。
彼女なりに王女としての自覚を持ち、恐怖に立ち向かった。
自分にとってはただ当たり前のことだった。
邪魔な人間を殺すのに躊躇はない。
山賊が邪魔だったから殺したまで。
だがあの少女にとってはそれが初めての他人の死だった。
最初は身内、両親が死に、次は全く知らない他人がさも当然の理のように死に転がり、誰の木にも止まることもなく、また次のものが死ぬ。
それを誰もが咎めることも、叫ぶこともなく、ただ自分の目の前に立つ立場上の味方が全てを無に返していく。
死とは、殺されるとは、これほどに無力なのだろうか。
命とは、そんなにも粗末なものだろうか。
そんな疑問があの少女の心を蝕んでも少しも不思議ではなかった。
それでも彼女は、あるものの死と向き合った。
両親の死へ向き合い、女王としての自覚が少しずつ生まれた。
あの日の夜。アンリエッタの信頼を得た自分はそれを境に頼りにされるようになった。
城に行けば付き纏われ、自分の旦那になって欲しいと言われる。
最初は単なる戯言かと思っていたが、彼女の意思は固かった。
もしかしたら、自分を引き入れることでこの国を復刻させる。そんなことを思ってくれた方がまだ納得できたのかもしれない。
でも、それはやはり違った。
彼女は、女王である以前に一人の少女だった。
自分を救い出してくれた者を思うようになるとはよく言ったものだが、彼女のその幼稚性もまた、自分の感情に気付くことができない要因でもあった。
それは、恩義であって好感ではない。
アンリエッタはその幼さゆえに自分への思いを履き違えている。だからこそ自分は、それを否定してあげなければならない。
だがそれも少しすれば気も楽になる。
自分がこの国を去れば勝手に関係は消滅する。
自分は再び闇の底へと姿を隠し。
誰の目にも触れないまま、ペトラや芽亜利、エレーナとの日常を過ごすことができる。
「救って欲しいのは君の方だったりするんじゃないかな。」
「何のことですか。」




