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第9話 疑似裁きの門

 《M》という文字が、最初に画面へ浮かんだ時、マナはしばらく黙っていた。


 アリスの隠し工房は、夜明け前の青い光に沈んでいる。天井近くを走る記録遮断結界が低く唸り、作業台の上では複数の端末が同時に解析を続けていた。床には、ミナト区第七物流倉庫から回収した黒いタグ、破損したエス制御基板、ユニコーン・セキュリティの偽装ドローン部品、リリスの研究組織が使っていた記録結晶の欠片が並べられている。


 ファリスは、そのすべてを見ても、まだ現実感がなかった。


 難しい単語が多すぎる。


 疑似門。


 エイース抽出。


 名の剥奪。


 境界適合者。


 M-Protocol。


 それらが、自分の家と、ザックの死と、〈ホーム〉三番街の瓦礫に繋がっているということだけはわかる。


 わかるから、気持ちが悪かった。


 工具箱を膝に置き、胸元の記録タグを握る。


 タグは昨夜からずっと微かに震えている。ギン爺の名は一時的に安定した。だが、まだ他の名前がノイズとして流れ込んでくる。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 ザ――


 ザック。


 呼べる名と、呼ぶたびに胸が痛む名。


 それらが《M》という文字へ引き寄せられている。


 マナが端末の前で、低く言った。


「出た」


 カリンが壁にもたれたまま、目だけを動かす。


「何が?」


「M-Protocolの中枢位置」


 マナは画面を拡大した。


 そこには帝都エデンの地下構造図が映っている。ホウジュ区、ミナト区、旧再開発予定地、廃棄された排熱パイプ、企業所有地下倉庫、封鎖済み魔導炉補助路。その下に、さらに古い層があった。


 普通の地図には載らない層。


 女帝政府の公開図面にも出てこない層。


 そこに、小さな赤い点が灯っていた。


 〈ホーム〉三番街跡地、直下。


 ファリスは、息を止めた。


「……下?」


 声が掠れる。


「ホームの、下?」


 マナはファリスの顔を見て、すぐには答えなかった。


 その沈黙だけで、答えはわかった。


「ファリス」


 アリスがそばへ来る。


 金色の髪が、工房の青い光を受けて淡く揺れた。


「座っていてください」


「座ってる」


「立ち上がろうとしています」


 言われて、ファリスは自分が椅子から半分腰を浮かせていることに気づいた。


 座り直す。


 膝の上の工具箱が重い。


 ザックの工具箱。


 その下に、あれが眠っていた。


 ずっと。


 自分たちが排水漏れを直していた床の下に。


 ザックが《ちゃんとした店》のノートを書いていた机の下に。


 屋台の爺さんが焦げた合成卵を売っていた路地の下に。


 子どもたちが走り回っていた鉄板の小道の下に。


「じゃあ」


 ファリスは口元を押さえた。


「ホームが壊されたのって、住んでる人が邪魔だったからじゃなくて」


 マナは、きつく唇を結ぶ。


 カリンが代わりに言った。


「住民ごと使えるから、だね」


 ファリスの胃がひっくり返った。


 吐き気が上がってくる。


 彼女は工具箱を抱きしめ、必死にこらえた。


 住民が邪魔だったからではない。


 住民ごと実験に使えるから。


 〈ホーム〉三番街の曖昧な戸籍。行政記録の弱さ。名前を変えて暮らす人たち。夜間労働者。裏社会の連絡役。義体の不具合を抱えた者。身分を隠した者。企業から逃げた者。


 消しても、騒ぎが上に届きにくい人たち。


 名前を奪っても、最初から曖昧だったことにできる人たち。


 そのすべてが、都合がよかったのだ。


「ふざけんな」


 ファリスは呟いた。


 声が低く、震えていた。


「ふざけんなよ」


 鴉は工房の隅に立っていた。


 抑制布を巻かれた身体。まだ完全には治っていない。それでも、彼は動くと言い張り、マナとアリスを困らせている。


 彼は何も言わない。


 ただ、黒衣の端が静かに揺れていた。


 怒りか、痛みか。


 ファリスには、少しわかるようになってきた。


 マナは別の端末を立ち上げる。


「シンから回ってきたデータとも一致する。ユニコーン・セキュリティの都市再整備部門、マモンカンパニー残党の資金口座、リリスの研究組織。名義は分散してるけど、全部同じ地下施設に繋がってる」


 カリンが眉を上げる。


「シンくん、よくこんなの拾ったねぇ」


「時雨堂経由。正確には、シグレさんが“こっちに回した方がいい”って判断したらしいわ」


 ファリスは聞き慣れない名前に顔を上げる。


「シグレ?」


「ホウジュ区の厄介ごとに時々首を突っ込む人」


 カリンが軽く言った。


「ボクの兄さまみたいな人。今回は名前だけ。本人が来ると話が大きくなりすぎるからね」


 マナは端末の隅に届いていた短いメッセージを表示した。


 《地下の記録は、記録じゃなくて呪いかもしれない。読むなら、読まれる覚悟をしろ》


 差出人名はない。


 ただ、カリンはそれを見て、小さく笑った。


「兄さまらしい嫌な助言」


 ルルトからも、別の情報が届いていた。


 夜間部の保護名簿へ侵入した回収班の通信経路。


 そこから辿った地下搬入口。


 旧封印施設へ繋がる保守路。


 メッセージは短い。


 《学校の廊下から、地下の門へ。救済の名簿を狩りに使う相手なら、次は記録そのものを餌にする。気をつけて》


 カリンは端末を閉じた。


「みんな親切だねぇ。すごく嫌な形で」


 ファリスは立ち上がった。


「行く」


 誰も驚かなかった。


 鴉だけが、わずかに視線を動かした。


「危険だ」


「説明は?」


 ファリスは即座に聞く。


 鴉は一拍置いて答えた。


「地下施設は、疑似裁きの門に近い構造を持つ。私の身体に刻まれた刑罰記録が反応する可能性がある。君の名も、タグで固定していても吸われる危険がある。エス化した住民もいる。リリスも、ゾルテも、いるかもしれない」


「わかった」


「それでも行くのか」


「行く」


 ファリスは工具箱を持ち上げた。


「ザックの名前がそこにあるなら、行く。ホームのみんなの名前が使われてるなら、行く。あたしの家の下でそんなもの動かしてたなら、あたしが見に行く」


 カリンが微笑む。


「いい顔になってきたね」


「褒めてる?」


「今回はちゃんと褒めてる」


 アリスが一歩前へ出た。


「わたくしも同行いたします。記録タグの安定化、および名の剥奪に対する一次防御が必要です」


「ボクも行くよ」


 カリンが大鎌を軽く肩に担ぐ。


「清掃案件としては最悪だけど、ここまで汚れてるなら掃除しがいがある」


 マナは端末を操作しながら言う。


「私は外から支援する。施設内に入ると通信が途切れる可能性が高いけど、行けるところまで誘導する。生体反応、結界の歪み、政府側の監視網、全部見ておく」


 鴉はファリスを見る。


 ファリスも見返した。


「置いていくな」


 彼が言うより先に、彼女が言った。


 鴉は静かに息を吐いた。


「置いていかない」


「うん」


「ただし、危険なら下がれ」


「説明したらね」


「する」


 短い約束。


 それだけで、ファリスは少しだけ歩ける気がした。


     *


 〈ホーム〉三番街跡地は、封鎖区域になっていた。


 白い仮設壁。


 ユニコーン・セキュリティの警告看板。


 女帝政府の再整備許可証。


 《危険区域につき立入禁止》


 《老朽化建築物撤去作業中》


 《安全確保のため無断侵入を禁ず》


 安全確保。


 ファリスはその文字を見るだけで、胃が熱くなった。


 仮設壁の向こうには、何もない。


 少なくとも、地上から見ればそうだった。


 つぎはぎの小屋も、屋台街も、ジャンクショップも、廃ビルも、ザックと暮らした家も、全部瓦礫として片づけられていた。整地用の重機が入り、焼け焦げた地面には白い防塵シートが被せられている。


 人の暮らしがあった場所ではなく、工事予定地。


 そういう顔に変えられていた。


 ファリスは仮設壁の隙間から中を見て、しばらく動けなかった。


 ここに家があった。


 ここにザックの机があった。


 ここに天井から水が落ちていた。


 ここで朝、合成パンを食べた。


 ここで、ザックが笑った。


 地面は、もう平らだった。


 カリンがファリスの横へ立つ。


「行ける?」


「行く」


「それは聞いてない。行けるかどうか」


 ファリスは工具箱の取っ手を握る。


「……行けるようにする」


 カリンは何も言わず、仮設壁の影へ手を当てた。


 黒い符が浮かぶ。


 女帝政府の簡易封鎖結界とユニコーン社の企業警備術式が絡み合っている。普通に破れば警報が鳴る。


 アリスが横から細い記録針を差し込んだ。


「三十秒だけ、巡回記録を書き換えます」


「アリスちゃん、手慣れてるねぇ」


「マナ様に叱られない範囲でございます」


「つまり、ばれなきゃいい範囲?」


「解釈に幅があります」


 カリンは笑い、結界の隙間を開いた。


 一行は封鎖区域へ入る。


 地面にはまだ焦げた匂いが残っていた。


 ファリスは足を止めそうになる。


 鴉が隣に来た。


 何も言わない。


 ただ、少しだけ歩幅を合わせた。


 それで十分だった。


 マナの声が通信機から聞こえる。


『地下搬入口は、旧排熱パイプの管理孔。ファリスの家があった場所から南に二十メートル。……ごめん』


「謝らないで」


 ファリスは言った。


「マナが壊したわけじゃない」


『そうだけど』


「謝るなら、あとで手伝って」


『何を?』


「名前を取り返すの」


 通信の向こうで、マナが少し黙った。


『わかった。全力で手伝う』


 管理孔は、瓦礫の下に隠されていた。


 ザックならすぐ気づいただろう。地面の一部だけ、排水勾配が違う。そこに薄い鉄板が埋められている。ファリスは工具箱を開き、ザックのレンチでボルトを外した。


 錆びている。


 でも、回る。


 ザックが手元で言う気がした。


 固いネジは力じゃなくて角度だ。


 ファリスは歯を食いしばって角度を調整する。


 ボルトが外れた。


 鉄板を持ち上げると、地下へ続く梯子が現れた。


 暗い。


 下から、冷たい空気が上がってくる。


 排熱パイプの匂いではない。


 古い封印と、機械油と、血に似た記録液の匂い。


 ファリスは一度だけ地上を見た。


 何もない平らな土地。


 そこへ背を向ける。


「行こう」


 彼女は言った。


     *


 地下施設は、帝都のものではなかった。


 少なくとも、今の帝都エデンの様式ではない。


 壁は黒い石と白い金属でできている。表面には読めない文字が走り、ところどころに企業製のケーブルが雑に這わせられていた。古い封印室を無理やり再起動し、そこへユニコーン社の機材を接続している。そんな印象だった。


 カリンが顔をしかめる。


「趣味が悪いねぇ。古い神殿に安物の配線をガムテープで貼ったみたい」


「実際、それに近い構造です」


 アリスが淡々と言う。


「ソエル由来の隔離施設跡に、企業製制御装置が後付けされています。記録核の損傷を補うため、外部電源とエイース抽出槽を接続しています」


「説明が怖い」


 ファリスが呟く。


「申し訳ございません」


「謝らなくていい。怖いのは施設」


 通路の両側には、古い扉が並んでいた。


 封印室。


 観測室。


 収容室。


 審問室。


 読めない古文字の下に、企業製の新しいラベルが貼られている。


 《検体保管》


 《記録分離》


 《エイース抽出槽》


 《人格転写準備室》


 《M-Protocol 中枢連絡路》


 ファリスは、ラベルを読むたびに気分が悪くなった。


 人間のための場所ではない。


 いや、人間を扱うための場所だ。


 人間を、人間ではない形で。


 最初の部屋には、破損した記録核が並んでいた。


 黒い結晶。


 白い結晶。


 赤く濁った石。


 どれもどこかが欠けている。


 その横には企業製の機械人形の残骸があった。腕だけ。頭部だけ。胸部の記録槽だけ。何かを転写しようとして失敗した跡。


 ファリスはアリスを見る。


 アリスは無表情だった。


 けれど、指先がほんの少しだけ固くなっていた。


「大丈夫?」


 ファリスが聞く。


 アリスは一拍置いて答えた。


「機能に問題はございません」


「そうじゃなくて」


「……少し、不快です」


「うん」


 ファリスはうなずいた。


「それでいいと思う」


 アリスはファリスを見た。


 そして、小さく頷いた。


「はい」


 次の部屋には、名札があった。


 名札。


 ただし、名前は書かれていない。


 透明な板に管理番号だけが刻まれ、横に人間の記録片が封入されている。声、顔、血液情報、生活履歴、行政記録、購買履歴、通話ログ。名前だけが黒く塗り潰されている。


 ファリスの記録タグが震えた。


 彼女は棚に近づく。


 アリスが警戒してついてくる。


「触れないでください」


「見るだけ」


 ファリスは板の一つを覗き込んだ。


 黒い塗り潰しの下に、かすかに文字が見える。


 トモ。


 知っている。


 ザックが壊れた暖房端末を直した相手だ。


 別の板。


 ユリ。


 夜間労働から帰ってくると、よくファリスに余った菓子をくれた人。


 別の板。


 ミナ。


 名前しか知らない。でも、三番街の給水場で何度か会った。


 ファリスは喉を押さえた。


 呼べる。


 でも、呼ぶとタグが痛い。


 アリスがそっと記録タグへ手を添える。


「ファリス様。無理に全員を呼ばないでください。名の残響に引かれます」


「でも、ここにいる」


「はい」


「みんな、ここに使われてる」


「はい」


 アリスの声は静かだった。


「だからこそ、あなた様まで剥がされてはいけません」


 ファリスは唇を噛んだ。


 悔しい。


 全員の名を呼びたい。


 でも、呼べない。


 自分の名前を保たなければ、誰も呼べなくなる。


 それが、今の自分の限界だった。


 奥の端末に、実験ログが残っていた。


 カリンが警戒し、アリスが端末を開く。


 マナの声が通信越しに入る。


『データ吸い上げる。……うわ、ひどい。住民記録を素材別に分類してる。行政記録が弱い者、血縁関係が曖昧な者、機械技術のある者、境界適合反応の近親者……』


 ファリスの耳が、その言葉を拾った。


「近親者?」


 アリスの手が止まる。


 画面に、一つのログが開いた。


 《ZACK》


 ファリスの呼吸が止まった。


 英字で書かれた名前。


 ザック。


 生体年齢推定十七。


 職能:修理、違法端末改造、重機制御系統への外部侵入実績あり。


 境界適合者FARISとの生活接触年数、長。


 役割:環境固定因子。


 備考:対象FARISの名と生活記録を安定化させる日常錨として機能。


 処理:現場戦闘にてエイース抽出。工具箱および携行部品に記録残響一部残留。


 ファリスは、画面へ手を伸ばしかけた。


 アリスが止めない。


 カリンも止めない。


 鴉だけが、一歩近づいた。


 ファリスは画面に触れた。


 冷たい。


 ザックの名前は、そこにあった。


 でも、それは兄の名前ではなかった。


 実験の項目だった。


 生活を支えた兄。


 排水漏れを直そうとした兄。


 《ちゃんとした店》を持つと言った兄。


 そのすべてが、環境固定因子という言葉に縮められている。


「人を」


 ファリスの声が震える。


「人を、部品みたいに書くな」


 カリンが低く言う。


「リリスらしいね」


 鴉の黒衣が静かに広がる。


 殺気ではない。


 怒りだった。


 アリスは画面を記録しながら、静かに言った。


「このログは保存します。ザック様が、ただの実験項目ではなかった証拠として」


 ファリスは涙をこぼさなかった。


 今泣くと、歩けなくなる。


 だから、工具箱を抱きしめる。


「兄貴」


 彼女は小さく呟いた。


「見つけたよ」


 返事はない。


 でも、工具箱の中で、レンチがかすかに鳴った。


     *


 中枢へ近づくほど、鴉の様子が悪くなった。


 黒衣の輪郭が乱れる。


 足取りが鈍る。


 抑制布の縫い込まれた文字が、白く焼けるように光る。


 ファリスは何度も振り返った。


「鴉」


「進め」


「説明」


 鴉は、少し息を整えてから言った。


「門に近い。私の中の刑罰記録が反応している」


「刑罰記録って」


「裁きの門への恐怖。名を剥がされた時の命令。ラエル刑を受けた者は、門に逆らえないよう刻まれている」


 ファリスは奥歯を噛んだ。


 ゾルテの言葉を思い出す。


 裁きの門を恐れぬラエルなどいない。


 鴉はずっと、それを身体の中に入れられている。


 強いのに。


 人間ではないのに。


 それでも、門の前では震えるように作られている。


 通路の先に、大きな扉があった。


 黒い石で作られた扉。


 中央に、白い円環の紋。


 アリスが解析する。


「記録審問室。旧施設における裁定記録保管区画と思われます」


 鴉の身体が止まった。


 ファリスは彼を見る。


「ここ?」


 鴉は答えない。


 カリンが静かに言う。


「開けるよ?」


 鴉は、かすかに頷いた。


 カリンが大鎌の柄で扉の封印を叩き、アリスが記録タグを差し込む。古い扉が重い音を立てて開いた。


 中は、裁判所のようだった。


 円形の部屋。


 中央に立つ黒い台。


 周囲に並ぶ空席。


 天井から垂れる白い鎖。


 壁には、無数の記録板が埋め込まれている。


 その一枚が、鴉の接近に反応して光った。


 アズェル。


 その名が浮かぶ。


 次の瞬間、黒く欠ける。


 鴉の膝が崩れかけた。


 ファリスが支えようとする。


 鴉はかろうじて踏みとどまった。


 アリスが記録板を読み上げる。


「対象名……欠損。旧名、アズェルと推定。所属記録、抹消。罪状欄……」


 そこで、アリスの声が止まった。


 ファリスは記録板を覗き込む。


 罪状欄。


 空白。


 何も書かれていない。


 判決欄。


 ラエル刑。


 名の欄。


 黒い欠損。


 ファリスは眉をひそめた。


「何これ」


 誰も答えない。


 ファリスはもう一度見る。


 罪状欄は空白。


 判決だけがある。


 名は剥がされている。


 罰だけが残っている。


「何をしたか書いてないのに、罪人って決まってるの?」


 その言葉が、審問室に響いた。


 鴉の黒衣が、静かに揺れる。


 カリンが、かすかに目を細めた。


 アリスは記録板を見つめ、静かに言った。


「判決だけが残された記録は、記録ではなく命令です」


 ファリスはアリスを見る。


 アリスは続ける。


「この記録は、何が起きたかを保存していません。対象を罪人として扱え、名を剥奪せよ、ラエル刑を執行せよ、という命令だけを残しています」


 鴉は、まるで息の仕方を忘れたように動かない。


 ファリスは彼を見る。


「鴉」


 返事はない。


「これ、何なの」


「……わからない」


 鴉の声は、ひどく遠かった。


「私は、裁かれた。名を奪われた。堕とされた。だから、罪があったのだと……」


「書いてないじゃん」


 ファリスは言った。


「何をしたか、どこにも書いてない」


 鴉の瞳が揺れる。


「欠けているだけかもしれない」


「そうかもしれない。でも、今ここにあるのは、罪じゃなくて判決だけでしょ」


 ファリスは拳を握った。


「兄貴のログと同じだよ。ザックがどんな人だったかじゃなくて、実験にどう使えるかだけ書いてあった。こっちも同じ。あんたが何をしたかじゃなくて、あんたを罪人として使うための記録しかない」


 鴉は、何も言えなかった。


 何百年か、何千年か。


 ずっと自分を罪人だと思ってきたのかもしれない。


 名を奪われた理由があるはずだと思ってきたのかもしれない。


 人のエイースを欲する身体になったことを、罰として受け入れてきたのかもしれない。


 でも、ここにあるのは、罪ではなかった。


 罪人という役割だけだった。


 カリンが低く言う。


「嫌な話だね」


 いつもの軽さがない。


「反逆者って絵に、反逆者の役割だけ押しつけてた連中と同じ匂いがする」


 ファリスはカリンを見る。


 詳しい事情は知らない。


 けれど、その声には、過去に見た怒りが混じっていた。


 アリスが記録板へ手をかざす。


「この記録を複製します。完全な復元は困難ですが、欠損箇所が人工的に削除された痕跡があります」


 鴉が顔を上げる。


「人工的に?」


「はい。自然な破損ではございません。罪状欄は後から空白化されています」


 ファリスは息を呑む。


 誰かが消した。


 鴉が何をしたのか。


 あるいは、何もしていなかったのか。


 それを消した。


 そして、判決だけを残した。


 鴉の黒衣が、ゆっくりと床へ広がる。


 その影は怒りではなく、戸惑いに近かった。


 自分が背負ってきたものが、突然別の形を見せた時の揺らぎ。


 そこへ、拍手の音が響いた。


     *


「素晴らしいわ」


 リリスが、審問室の入口に立っていた。


 藤色のスーツ。


 温度のない微笑み。


 背後には研究員と、企業製機械人形の残骸を組み合わせた警備人形が並んでいる。


「罪状の空白に気づくなんて。やはり、境界適合者は記録の違和感に敏いのね」


 ファリスは工具箱を構えた。


「リリス」


「チトセでもいいわよ」


「どっちでも嫌」


「そう」


 リリスは微笑んだまま、中央の黒い台へ歩く。


 鴉が前に出ようとする。


 だが、審問室の床に白い円環が浮かび、彼の足を止めた。


 鴉の身体が硬直する。


 ファリスが叫ぶ。


「鴉!」


「門の模倣術式です」


 アリスが即座に解析する。


「完全な裁きの門ではありません。しかし、ラエル刑の記録には干渉しています」


 リリスは満足そうに言った。


「そう。《M》は本物の裁きの門ではない。死都東京やタルタロス本体へ接続するほどの力もない。女帝政府が管理する巨大な封印構造には到底及ばないわ」


 彼女は黒い台へ手を置く。


 審問室全体が震えた。


「けれど、局所的な名の剥奪、記録凍結、エイース抽出、ラエル核の安定化なら可能になる」


 マナの通信が乱れる。


『みんな、気をつけて! 地下全域の術式が起動してる。そこ、中枢だわ!』


 リリスは続ける。


「想像してみて。企業が独自に使える小型裁きの門。処刑、封印、人格抽出、記録凍結、機械人形への転写、契約違反者の名の抹消。女帝政府の許可を待たず、夢殿の監視をかいくぐり、必要な罰を必要な場所へ届けられる」


 カリンの目が冷える。


「罰の宅配サービス? 悪趣味だねぇ」


「秩序の外注よ」


 リリスは笑う。


「帝都は大きすぎる。女帝政府はすべてを管理できない。ならば、企業が門を持てばいい」


「人の名前を削って?」


 ファリスが言う。


「ザックやホームのみんなを使って?」


「材料は必要よ」


「人を材料って言うな!」


「あなたはまだ感情で考えているのね」


 リリスはファリスを見る。


「でも、あなたもすぐわかるわ。あなたは制御鍵。壊れにくい鍵。〈ホーム〉三番街の名を抱え、地下施設の残響に慣れ、なお自分の名を保っている。あなたなら《M》を安定して開ける」


 彼女は次に鴉を見る。


「そして鴉。あなたは生体サンプル。名を剥がされた高位ラエル。欠けた記録核。自己罰によって枯渇したエイース循環。あなたほど、ラエル核安定化の参考になる個体はいない」


 鴉は歯を食いしばる。


 動けない。


 門に似た術式が、彼の身体を縛っている。


 ファリスは一歩前へ出た。


「ふざけんな」


 リリスは微笑む。


「ふざけていないわ。私はずっと真面目よ」


「だから嫌いなんだよ!」


 ファリスは工具箱を開けた。


 何ができるかわからない。


 でも、何もしないでいるのは嫌だった。


 アリスがファリスの前へ半歩出る。


「ファリス様。わたくしが術式を一部切断します。その隙に中枢台から離れてください」


「鴉は?」


「拘束解除を試みます」


 カリンが大鎌を構える。


「ボクは研究員たちを掃除。リリスは?」


「逃げるでしょう」


 アリスが言う。


「だろうねぇ」


 カリンは笑い、踏み込んだ。


 大鎌が警備人形を両断する。


 アリスの記録タグが審問室の円環へ突き刺さる。


 白い術式が揺らぎ、鴉の片腕がわずかに動いた。


 ファリスは中枢台へ向けて走る。


 リリスが手を伸ばす。


 その時、審問室の白い円環が、突然別の光に塗り替えられた。


 もっと白く。


 もっと冷たく。


 もっと深い光。


 リリスの表情が凍った。


「……また」


 空間が裂けた。


 ゾルテが現れた。


 彼はリリスの背後ではなく、中枢台の上に立っていた。まるで最初からそこが自分の場所だったかのように。


 白い衣が揺れる。


 彼の足元で、《M》の術式が歓喜するように震えた。


「玩具にしては、よく組んだ」


 ゾルテは言った。


「だが、使い方が小さい」


 リリスは強張った声で言う。


「ゾルテ。これは私の計画よ」


「おまえの?」


 ゾルテは笑った。


「裁きの門を模し、ラエル核を使い、余の同族の刑罰記録を素材とし、リンボウの人間どもを燃料にしておきながら、おまえのものだと?」


「契約が――」


「契約は弱者の縄だ」


 ゾルテが指を動かす。


 リリスの足元の術式が白く反転し、彼女の身体を壁際へ弾き飛ばした。


 カリンが舌打ちする。


「内輪揉めは外でやってくれるかな」


「これは内輪ではない」


 ゾルテはファリスを見る。


「奪還だ」


 ファリスの記録タグが悲鳴を上げた。


 胸元が熱くなる。


 FARIS.


 FA■■S.


 鍵。


 鎖。


 制御核。


 〈ホーム〉三番街。


 ザック。


 鴉。


 アズェル。


 大量の名が、彼女の中で渦を巻いた。


 アリスが叫ぶ。


「ファリス様のタグ、過負荷!」


 ファリスは胸を押さえる。


 足元の床が消えるような感覚。


 いや、消えている。


 審問室の中央に、門が開いていた。


 完全な裁きの門ではない。


 それでも、門だった。


 白い円環。


 黒い空洞。


 名を剥がすための穴。


 記録を凍らせるための口。


 ファリスの足が、そこへ引かれる。


 鴉が動こうとする。


 だが、彼の身体は硬直していた。


 黒衣が暴れる。


 それでも、門の白い術式が彼の身体に刻まれた刑罰記録を掴んでいる。


「くっ……」


 鴉の膝が床へ落ちる。


 ファリスは彼へ手を伸ばした。


「鴉!」


 鴉も手を伸ばす。


 届かない。


 距離は近い。


 でも、門が距離の意味を奪っている。


 ゾルテが笑った。


「裁きの門を恐れぬラエルなどいない」


 鴉の目が見開かれる。


 怒り。


 恐怖。


 屈辱。


 それでも、彼は手を伸ばす。


「ファリス!」


 初めて聞くほど強い声だった。


 ファリスは門に引かれながら、工具箱を胸に抱いた。


 ザックの工具箱。


 彼の残響。


 自分の名前。


 〈ホーム〉の名前。


 消させない。


 そう思った。


 けれど、身体は止まらない。


 アリスの記録タグが飛ぶ。


 カリンの大鎌が白い円環を斬る。


 マナの通信が叫ぶ。


『ファリス!』


 全部が遠くなる。


 門の中から、声が聞こえた。


 ザックの声。


 ギン爺の声。


 知らない誰かの声。


 アズェルという名を呼ぶ、遠い遠い声。


 ファリスは最後に、鴉を見た。


 黒衣の怪物が、門の前で震えている。


 それでも、自分へ手を伸ばしている。


 ファリスは叫んだ。


「置いていくなって言ったでしょ!」


 その声を最後に、白い光が彼女を呑み込んだ。


 工具箱の留め具が鳴る。


 記録タグが砕けるような音を立てる。


 そして、ファリスは《M》の中へ落ちた。

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