第9話 疑似裁きの門
《M》という文字が、最初に画面へ浮かんだ時、マナはしばらく黙っていた。
アリスの隠し工房は、夜明け前の青い光に沈んでいる。天井近くを走る記録遮断結界が低く唸り、作業台の上では複数の端末が同時に解析を続けていた。床には、ミナト区第七物流倉庫から回収した黒いタグ、破損したエス制御基板、ユニコーン・セキュリティの偽装ドローン部品、リリスの研究組織が使っていた記録結晶の欠片が並べられている。
ファリスは、そのすべてを見ても、まだ現実感がなかった。
難しい単語が多すぎる。
疑似門。
エイース抽出。
名の剥奪。
境界適合者。
M-Protocol。
それらが、自分の家と、ザックの死と、〈ホーム〉三番街の瓦礫に繋がっているということだけはわかる。
わかるから、気持ちが悪かった。
工具箱を膝に置き、胸元の記録タグを握る。
タグは昨夜からずっと微かに震えている。ギン爺の名は一時的に安定した。だが、まだ他の名前がノイズとして流れ込んでくる。
トモ。
ユリ。
ミナ。
ザ――
ザック。
呼べる名と、呼ぶたびに胸が痛む名。
それらが《M》という文字へ引き寄せられている。
マナが端末の前で、低く言った。
「出た」
カリンが壁にもたれたまま、目だけを動かす。
「何が?」
「M-Protocolの中枢位置」
マナは画面を拡大した。
そこには帝都エデンの地下構造図が映っている。ホウジュ区、ミナト区、旧再開発予定地、廃棄された排熱パイプ、企業所有地下倉庫、封鎖済み魔導炉補助路。その下に、さらに古い層があった。
普通の地図には載らない層。
女帝政府の公開図面にも出てこない層。
そこに、小さな赤い点が灯っていた。
〈ホーム〉三番街跡地、直下。
ファリスは、息を止めた。
「……下?」
声が掠れる。
「ホームの、下?」
マナはファリスの顔を見て、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えはわかった。
「ファリス」
アリスがそばへ来る。
金色の髪が、工房の青い光を受けて淡く揺れた。
「座っていてください」
「座ってる」
「立ち上がろうとしています」
言われて、ファリスは自分が椅子から半分腰を浮かせていることに気づいた。
座り直す。
膝の上の工具箱が重い。
ザックの工具箱。
その下に、あれが眠っていた。
ずっと。
自分たちが排水漏れを直していた床の下に。
ザックが《ちゃんとした店》のノートを書いていた机の下に。
屋台の爺さんが焦げた合成卵を売っていた路地の下に。
子どもたちが走り回っていた鉄板の小道の下に。
「じゃあ」
ファリスは口元を押さえた。
「ホームが壊されたのって、住んでる人が邪魔だったからじゃなくて」
マナは、きつく唇を結ぶ。
カリンが代わりに言った。
「住民ごと使えるから、だね」
ファリスの胃がひっくり返った。
吐き気が上がってくる。
彼女は工具箱を抱きしめ、必死にこらえた。
住民が邪魔だったからではない。
住民ごと実験に使えるから。
〈ホーム〉三番街の曖昧な戸籍。行政記録の弱さ。名前を変えて暮らす人たち。夜間労働者。裏社会の連絡役。義体の不具合を抱えた者。身分を隠した者。企業から逃げた者。
消しても、騒ぎが上に届きにくい人たち。
名前を奪っても、最初から曖昧だったことにできる人たち。
そのすべてが、都合がよかったのだ。
「ふざけんな」
ファリスは呟いた。
声が低く、震えていた。
「ふざけんなよ」
鴉は工房の隅に立っていた。
抑制布を巻かれた身体。まだ完全には治っていない。それでも、彼は動くと言い張り、マナとアリスを困らせている。
彼は何も言わない。
ただ、黒衣の端が静かに揺れていた。
怒りか、痛みか。
ファリスには、少しわかるようになってきた。
マナは別の端末を立ち上げる。
「シンから回ってきたデータとも一致する。ユニコーン・セキュリティの都市再整備部門、マモンカンパニー残党の資金口座、リリスの研究組織。名義は分散してるけど、全部同じ地下施設に繋がってる」
カリンが眉を上げる。
「シンくん、よくこんなの拾ったねぇ」
「時雨堂経由。正確には、シグレさんが“こっちに回した方がいい”って判断したらしいわ」
ファリスは聞き慣れない名前に顔を上げる。
「シグレ?」
「ホウジュ区の厄介ごとに時々首を突っ込む人」
カリンが軽く言った。
「ボクの兄さまみたいな人。今回は名前だけ。本人が来ると話が大きくなりすぎるからね」
マナは端末の隅に届いていた短いメッセージを表示した。
《地下の記録は、記録じゃなくて呪いかもしれない。読むなら、読まれる覚悟をしろ》
差出人名はない。
ただ、カリンはそれを見て、小さく笑った。
「兄さまらしい嫌な助言」
ルルトからも、別の情報が届いていた。
夜間部の保護名簿へ侵入した回収班の通信経路。
そこから辿った地下搬入口。
旧封印施設へ繋がる保守路。
メッセージは短い。
《学校の廊下から、地下の門へ。救済の名簿を狩りに使う相手なら、次は記録そのものを餌にする。気をつけて》
カリンは端末を閉じた。
「みんな親切だねぇ。すごく嫌な形で」
ファリスは立ち上がった。
「行く」
誰も驚かなかった。
鴉だけが、わずかに視線を動かした。
「危険だ」
「説明は?」
ファリスは即座に聞く。
鴉は一拍置いて答えた。
「地下施設は、疑似裁きの門に近い構造を持つ。私の身体に刻まれた刑罰記録が反応する可能性がある。君の名も、タグで固定していても吸われる危険がある。エス化した住民もいる。リリスも、ゾルテも、いるかもしれない」
「わかった」
「それでも行くのか」
「行く」
ファリスは工具箱を持ち上げた。
「ザックの名前がそこにあるなら、行く。ホームのみんなの名前が使われてるなら、行く。あたしの家の下でそんなもの動かしてたなら、あたしが見に行く」
カリンが微笑む。
「いい顔になってきたね」
「褒めてる?」
「今回はちゃんと褒めてる」
アリスが一歩前へ出た。
「わたくしも同行いたします。記録タグの安定化、および名の剥奪に対する一次防御が必要です」
「ボクも行くよ」
カリンが大鎌を軽く肩に担ぐ。
「清掃案件としては最悪だけど、ここまで汚れてるなら掃除しがいがある」
マナは端末を操作しながら言う。
「私は外から支援する。施設内に入ると通信が途切れる可能性が高いけど、行けるところまで誘導する。生体反応、結界の歪み、政府側の監視網、全部見ておく」
鴉はファリスを見る。
ファリスも見返した。
「置いていくな」
彼が言うより先に、彼女が言った。
鴉は静かに息を吐いた。
「置いていかない」
「うん」
「ただし、危険なら下がれ」
「説明したらね」
「する」
短い約束。
それだけで、ファリスは少しだけ歩ける気がした。
*
〈ホーム〉三番街跡地は、封鎖区域になっていた。
白い仮設壁。
ユニコーン・セキュリティの警告看板。
女帝政府の再整備許可証。
《危険区域につき立入禁止》
《老朽化建築物撤去作業中》
《安全確保のため無断侵入を禁ず》
安全確保。
ファリスはその文字を見るだけで、胃が熱くなった。
仮設壁の向こうには、何もない。
少なくとも、地上から見ればそうだった。
つぎはぎの小屋も、屋台街も、ジャンクショップも、廃ビルも、ザックと暮らした家も、全部瓦礫として片づけられていた。整地用の重機が入り、焼け焦げた地面には白い防塵シートが被せられている。
人の暮らしがあった場所ではなく、工事予定地。
そういう顔に変えられていた。
ファリスは仮設壁の隙間から中を見て、しばらく動けなかった。
ここに家があった。
ここにザックの机があった。
ここに天井から水が落ちていた。
ここで朝、合成パンを食べた。
ここで、ザックが笑った。
地面は、もう平らだった。
カリンがファリスの横へ立つ。
「行ける?」
「行く」
「それは聞いてない。行けるかどうか」
ファリスは工具箱の取っ手を握る。
「……行けるようにする」
カリンは何も言わず、仮設壁の影へ手を当てた。
黒い符が浮かぶ。
女帝政府の簡易封鎖結界とユニコーン社の企業警備術式が絡み合っている。普通に破れば警報が鳴る。
アリスが横から細い記録針を差し込んだ。
「三十秒だけ、巡回記録を書き換えます」
「アリスちゃん、手慣れてるねぇ」
「マナ様に叱られない範囲でございます」
「つまり、ばれなきゃいい範囲?」
「解釈に幅があります」
カリンは笑い、結界の隙間を開いた。
一行は封鎖区域へ入る。
地面にはまだ焦げた匂いが残っていた。
ファリスは足を止めそうになる。
鴉が隣に来た。
何も言わない。
ただ、少しだけ歩幅を合わせた。
それで十分だった。
マナの声が通信機から聞こえる。
『地下搬入口は、旧排熱パイプの管理孔。ファリスの家があった場所から南に二十メートル。……ごめん』
「謝らないで」
ファリスは言った。
「マナが壊したわけじゃない」
『そうだけど』
「謝るなら、あとで手伝って」
『何を?』
「名前を取り返すの」
通信の向こうで、マナが少し黙った。
『わかった。全力で手伝う』
管理孔は、瓦礫の下に隠されていた。
ザックならすぐ気づいただろう。地面の一部だけ、排水勾配が違う。そこに薄い鉄板が埋められている。ファリスは工具箱を開き、ザックのレンチでボルトを外した。
錆びている。
でも、回る。
ザックが手元で言う気がした。
固いネジは力じゃなくて角度だ。
ファリスは歯を食いしばって角度を調整する。
ボルトが外れた。
鉄板を持ち上げると、地下へ続く梯子が現れた。
暗い。
下から、冷たい空気が上がってくる。
排熱パイプの匂いではない。
古い封印と、機械油と、血に似た記録液の匂い。
ファリスは一度だけ地上を見た。
何もない平らな土地。
そこへ背を向ける。
「行こう」
彼女は言った。
*
地下施設は、帝都のものではなかった。
少なくとも、今の帝都エデンの様式ではない。
壁は黒い石と白い金属でできている。表面には読めない文字が走り、ところどころに企業製のケーブルが雑に這わせられていた。古い封印室を無理やり再起動し、そこへユニコーン社の機材を接続している。そんな印象だった。
カリンが顔をしかめる。
「趣味が悪いねぇ。古い神殿に安物の配線をガムテープで貼ったみたい」
「実際、それに近い構造です」
アリスが淡々と言う。
「ソエル由来の隔離施設跡に、企業製制御装置が後付けされています。記録核の損傷を補うため、外部電源とエイース抽出槽を接続しています」
「説明が怖い」
ファリスが呟く。
「申し訳ございません」
「謝らなくていい。怖いのは施設」
通路の両側には、古い扉が並んでいた。
封印室。
観測室。
収容室。
審問室。
読めない古文字の下に、企業製の新しいラベルが貼られている。
《検体保管》
《記録分離》
《エイース抽出槽》
《人格転写準備室》
《M-Protocol 中枢連絡路》
ファリスは、ラベルを読むたびに気分が悪くなった。
人間のための場所ではない。
いや、人間を扱うための場所だ。
人間を、人間ではない形で。
最初の部屋には、破損した記録核が並んでいた。
黒い結晶。
白い結晶。
赤く濁った石。
どれもどこかが欠けている。
その横には企業製の機械人形の残骸があった。腕だけ。頭部だけ。胸部の記録槽だけ。何かを転写しようとして失敗した跡。
ファリスはアリスを見る。
アリスは無表情だった。
けれど、指先がほんの少しだけ固くなっていた。
「大丈夫?」
ファリスが聞く。
アリスは一拍置いて答えた。
「機能に問題はございません」
「そうじゃなくて」
「……少し、不快です」
「うん」
ファリスはうなずいた。
「それでいいと思う」
アリスはファリスを見た。
そして、小さく頷いた。
「はい」
次の部屋には、名札があった。
名札。
ただし、名前は書かれていない。
透明な板に管理番号だけが刻まれ、横に人間の記録片が封入されている。声、顔、血液情報、生活履歴、行政記録、購買履歴、通話ログ。名前だけが黒く塗り潰されている。
ファリスの記録タグが震えた。
彼女は棚に近づく。
アリスが警戒してついてくる。
「触れないでください」
「見るだけ」
ファリスは板の一つを覗き込んだ。
黒い塗り潰しの下に、かすかに文字が見える。
トモ。
知っている。
ザックが壊れた暖房端末を直した相手だ。
別の板。
ユリ。
夜間労働から帰ってくると、よくファリスに余った菓子をくれた人。
別の板。
ミナ。
名前しか知らない。でも、三番街の給水場で何度か会った。
ファリスは喉を押さえた。
呼べる。
でも、呼ぶとタグが痛い。
アリスがそっと記録タグへ手を添える。
「ファリス様。無理に全員を呼ばないでください。名の残響に引かれます」
「でも、ここにいる」
「はい」
「みんな、ここに使われてる」
「はい」
アリスの声は静かだった。
「だからこそ、あなた様まで剥がされてはいけません」
ファリスは唇を噛んだ。
悔しい。
全員の名を呼びたい。
でも、呼べない。
自分の名前を保たなければ、誰も呼べなくなる。
それが、今の自分の限界だった。
奥の端末に、実験ログが残っていた。
カリンが警戒し、アリスが端末を開く。
マナの声が通信越しに入る。
『データ吸い上げる。……うわ、ひどい。住民記録を素材別に分類してる。行政記録が弱い者、血縁関係が曖昧な者、機械技術のある者、境界適合反応の近親者……』
ファリスの耳が、その言葉を拾った。
「近親者?」
アリスの手が止まる。
画面に、一つのログが開いた。
《ZACK》
ファリスの呼吸が止まった。
英字で書かれた名前。
ザック。
生体年齢推定十七。
職能:修理、違法端末改造、重機制御系統への外部侵入実績あり。
境界適合者FARISとの生活接触年数、長。
役割:環境固定因子。
備考:対象FARISの名と生活記録を安定化させる日常錨として機能。
処理:現場戦闘にてエイース抽出。工具箱および携行部品に記録残響一部残留。
ファリスは、画面へ手を伸ばしかけた。
アリスが止めない。
カリンも止めない。
鴉だけが、一歩近づいた。
ファリスは画面に触れた。
冷たい。
ザックの名前は、そこにあった。
でも、それは兄の名前ではなかった。
実験の項目だった。
生活を支えた兄。
排水漏れを直そうとした兄。
《ちゃんとした店》を持つと言った兄。
そのすべてが、環境固定因子という言葉に縮められている。
「人を」
ファリスの声が震える。
「人を、部品みたいに書くな」
カリンが低く言う。
「リリスらしいね」
鴉の黒衣が静かに広がる。
殺気ではない。
怒りだった。
アリスは画面を記録しながら、静かに言った。
「このログは保存します。ザック様が、ただの実験項目ではなかった証拠として」
ファリスは涙をこぼさなかった。
今泣くと、歩けなくなる。
だから、工具箱を抱きしめる。
「兄貴」
彼女は小さく呟いた。
「見つけたよ」
返事はない。
でも、工具箱の中で、レンチがかすかに鳴った。
*
中枢へ近づくほど、鴉の様子が悪くなった。
黒衣の輪郭が乱れる。
足取りが鈍る。
抑制布の縫い込まれた文字が、白く焼けるように光る。
ファリスは何度も振り返った。
「鴉」
「進め」
「説明」
鴉は、少し息を整えてから言った。
「門に近い。私の中の刑罰記録が反応している」
「刑罰記録って」
「裁きの門への恐怖。名を剥がされた時の命令。ラエル刑を受けた者は、門に逆らえないよう刻まれている」
ファリスは奥歯を噛んだ。
ゾルテの言葉を思い出す。
裁きの門を恐れぬラエルなどいない。
鴉はずっと、それを身体の中に入れられている。
強いのに。
人間ではないのに。
それでも、門の前では震えるように作られている。
通路の先に、大きな扉があった。
黒い石で作られた扉。
中央に、白い円環の紋。
アリスが解析する。
「記録審問室。旧施設における裁定記録保管区画と思われます」
鴉の身体が止まった。
ファリスは彼を見る。
「ここ?」
鴉は答えない。
カリンが静かに言う。
「開けるよ?」
鴉は、かすかに頷いた。
カリンが大鎌の柄で扉の封印を叩き、アリスが記録タグを差し込む。古い扉が重い音を立てて開いた。
中は、裁判所のようだった。
円形の部屋。
中央に立つ黒い台。
周囲に並ぶ空席。
天井から垂れる白い鎖。
壁には、無数の記録板が埋め込まれている。
その一枚が、鴉の接近に反応して光った。
アズェル。
その名が浮かぶ。
次の瞬間、黒く欠ける。
鴉の膝が崩れかけた。
ファリスが支えようとする。
鴉はかろうじて踏みとどまった。
アリスが記録板を読み上げる。
「対象名……欠損。旧名、アズェルと推定。所属記録、抹消。罪状欄……」
そこで、アリスの声が止まった。
ファリスは記録板を覗き込む。
罪状欄。
空白。
何も書かれていない。
判決欄。
ラエル刑。
名の欄。
黒い欠損。
ファリスは眉をひそめた。
「何これ」
誰も答えない。
ファリスはもう一度見る。
罪状欄は空白。
判決だけがある。
名は剥がされている。
罰だけが残っている。
「何をしたか書いてないのに、罪人って決まってるの?」
その言葉が、審問室に響いた。
鴉の黒衣が、静かに揺れる。
カリンが、かすかに目を細めた。
アリスは記録板を見つめ、静かに言った。
「判決だけが残された記録は、記録ではなく命令です」
ファリスはアリスを見る。
アリスは続ける。
「この記録は、何が起きたかを保存していません。対象を罪人として扱え、名を剥奪せよ、ラエル刑を執行せよ、という命令だけを残しています」
鴉は、まるで息の仕方を忘れたように動かない。
ファリスは彼を見る。
「鴉」
返事はない。
「これ、何なの」
「……わからない」
鴉の声は、ひどく遠かった。
「私は、裁かれた。名を奪われた。堕とされた。だから、罪があったのだと……」
「書いてないじゃん」
ファリスは言った。
「何をしたか、どこにも書いてない」
鴉の瞳が揺れる。
「欠けているだけかもしれない」
「そうかもしれない。でも、今ここにあるのは、罪じゃなくて判決だけでしょ」
ファリスは拳を握った。
「兄貴のログと同じだよ。ザックがどんな人だったかじゃなくて、実験にどう使えるかだけ書いてあった。こっちも同じ。あんたが何をしたかじゃなくて、あんたを罪人として使うための記録しかない」
鴉は、何も言えなかった。
何百年か、何千年か。
ずっと自分を罪人だと思ってきたのかもしれない。
名を奪われた理由があるはずだと思ってきたのかもしれない。
人のエイースを欲する身体になったことを、罰として受け入れてきたのかもしれない。
でも、ここにあるのは、罪ではなかった。
罪人という役割だけだった。
カリンが低く言う。
「嫌な話だね」
いつもの軽さがない。
「反逆者って絵に、反逆者の役割だけ押しつけてた連中と同じ匂いがする」
ファリスはカリンを見る。
詳しい事情は知らない。
けれど、その声には、過去に見た怒りが混じっていた。
アリスが記録板へ手をかざす。
「この記録を複製します。完全な復元は困難ですが、欠損箇所が人工的に削除された痕跡があります」
鴉が顔を上げる。
「人工的に?」
「はい。自然な破損ではございません。罪状欄は後から空白化されています」
ファリスは息を呑む。
誰かが消した。
鴉が何をしたのか。
あるいは、何もしていなかったのか。
それを消した。
そして、判決だけを残した。
鴉の黒衣が、ゆっくりと床へ広がる。
その影は怒りではなく、戸惑いに近かった。
自分が背負ってきたものが、突然別の形を見せた時の揺らぎ。
そこへ、拍手の音が響いた。
*
「素晴らしいわ」
リリスが、審問室の入口に立っていた。
藤色のスーツ。
温度のない微笑み。
背後には研究員と、企業製機械人形の残骸を組み合わせた警備人形が並んでいる。
「罪状の空白に気づくなんて。やはり、境界適合者は記録の違和感に敏いのね」
ファリスは工具箱を構えた。
「リリス」
「チトセでもいいわよ」
「どっちでも嫌」
「そう」
リリスは微笑んだまま、中央の黒い台へ歩く。
鴉が前に出ようとする。
だが、審問室の床に白い円環が浮かび、彼の足を止めた。
鴉の身体が硬直する。
ファリスが叫ぶ。
「鴉!」
「門の模倣術式です」
アリスが即座に解析する。
「完全な裁きの門ではありません。しかし、ラエル刑の記録には干渉しています」
リリスは満足そうに言った。
「そう。《M》は本物の裁きの門ではない。死都東京やタルタロス本体へ接続するほどの力もない。女帝政府が管理する巨大な封印構造には到底及ばないわ」
彼女は黒い台へ手を置く。
審問室全体が震えた。
「けれど、局所的な名の剥奪、記録凍結、エイース抽出、ラエル核の安定化なら可能になる」
マナの通信が乱れる。
『みんな、気をつけて! 地下全域の術式が起動してる。そこ、中枢だわ!』
リリスは続ける。
「想像してみて。企業が独自に使える小型裁きの門。処刑、封印、人格抽出、記録凍結、機械人形への転写、契約違反者の名の抹消。女帝政府の許可を待たず、夢殿の監視をかいくぐり、必要な罰を必要な場所へ届けられる」
カリンの目が冷える。
「罰の宅配サービス? 悪趣味だねぇ」
「秩序の外注よ」
リリスは笑う。
「帝都は大きすぎる。女帝政府はすべてを管理できない。ならば、企業が門を持てばいい」
「人の名前を削って?」
ファリスが言う。
「ザックやホームのみんなを使って?」
「材料は必要よ」
「人を材料って言うな!」
「あなたはまだ感情で考えているのね」
リリスはファリスを見る。
「でも、あなたもすぐわかるわ。あなたは制御鍵。壊れにくい鍵。〈ホーム〉三番街の名を抱え、地下施設の残響に慣れ、なお自分の名を保っている。あなたなら《M》を安定して開ける」
彼女は次に鴉を見る。
「そして鴉。あなたは生体サンプル。名を剥がされた高位ラエル。欠けた記録核。自己罰によって枯渇したエイース循環。あなたほど、ラエル核安定化の参考になる個体はいない」
鴉は歯を食いしばる。
動けない。
門に似た術式が、彼の身体を縛っている。
ファリスは一歩前へ出た。
「ふざけんな」
リリスは微笑む。
「ふざけていないわ。私はずっと真面目よ」
「だから嫌いなんだよ!」
ファリスは工具箱を開けた。
何ができるかわからない。
でも、何もしないでいるのは嫌だった。
アリスがファリスの前へ半歩出る。
「ファリス様。わたくしが術式を一部切断します。その隙に中枢台から離れてください」
「鴉は?」
「拘束解除を試みます」
カリンが大鎌を構える。
「ボクは研究員たちを掃除。リリスは?」
「逃げるでしょう」
アリスが言う。
「だろうねぇ」
カリンは笑い、踏み込んだ。
大鎌が警備人形を両断する。
アリスの記録タグが審問室の円環へ突き刺さる。
白い術式が揺らぎ、鴉の片腕がわずかに動いた。
ファリスは中枢台へ向けて走る。
リリスが手を伸ばす。
その時、審問室の白い円環が、突然別の光に塗り替えられた。
もっと白く。
もっと冷たく。
もっと深い光。
リリスの表情が凍った。
「……また」
空間が裂けた。
ゾルテが現れた。
彼はリリスの背後ではなく、中枢台の上に立っていた。まるで最初からそこが自分の場所だったかのように。
白い衣が揺れる。
彼の足元で、《M》の術式が歓喜するように震えた。
「玩具にしては、よく組んだ」
ゾルテは言った。
「だが、使い方が小さい」
リリスは強張った声で言う。
「ゾルテ。これは私の計画よ」
「おまえの?」
ゾルテは笑った。
「裁きの門を模し、ラエル核を使い、余の同族の刑罰記録を素材とし、リンボウの人間どもを燃料にしておきながら、おまえのものだと?」
「契約が――」
「契約は弱者の縄だ」
ゾルテが指を動かす。
リリスの足元の術式が白く反転し、彼女の身体を壁際へ弾き飛ばした。
カリンが舌打ちする。
「内輪揉めは外でやってくれるかな」
「これは内輪ではない」
ゾルテはファリスを見る。
「奪還だ」
ファリスの記録タグが悲鳴を上げた。
胸元が熱くなる。
FARIS.
FA■■S.
鍵。
鎖。
制御核。
〈ホーム〉三番街。
ザック。
鴉。
アズェル。
大量の名が、彼女の中で渦を巻いた。
アリスが叫ぶ。
「ファリス様のタグ、過負荷!」
ファリスは胸を押さえる。
足元の床が消えるような感覚。
いや、消えている。
審問室の中央に、門が開いていた。
完全な裁きの門ではない。
それでも、門だった。
白い円環。
黒い空洞。
名を剥がすための穴。
記録を凍らせるための口。
ファリスの足が、そこへ引かれる。
鴉が動こうとする。
だが、彼の身体は硬直していた。
黒衣が暴れる。
それでも、門の白い術式が彼の身体に刻まれた刑罰記録を掴んでいる。
「くっ……」
鴉の膝が床へ落ちる。
ファリスは彼へ手を伸ばした。
「鴉!」
鴉も手を伸ばす。
届かない。
距離は近い。
でも、門が距離の意味を奪っている。
ゾルテが笑った。
「裁きの門を恐れぬラエルなどいない」
鴉の目が見開かれる。
怒り。
恐怖。
屈辱。
それでも、彼は手を伸ばす。
「ファリス!」
初めて聞くほど強い声だった。
ファリスは門に引かれながら、工具箱を胸に抱いた。
ザックの工具箱。
彼の残響。
自分の名前。
〈ホーム〉の名前。
消させない。
そう思った。
けれど、身体は止まらない。
アリスの記録タグが飛ぶ。
カリンの大鎌が白い円環を斬る。
マナの通信が叫ぶ。
『ファリス!』
全部が遠くなる。
門の中から、声が聞こえた。
ザックの声。
ギン爺の声。
知らない誰かの声。
アズェルという名を呼ぶ、遠い遠い声。
ファリスは最後に、鴉を見た。
黒衣の怪物が、門の前で震えている。
それでも、自分へ手を伸ばしている。
ファリスは叫んだ。
「置いていくなって言ったでしょ!」
その声を最後に、白い光が彼女を呑み込んだ。
工具箱の留め具が鳴る。
記録タグが砕けるような音を立てる。
そして、ファリスは《M》の中へ落ちた。




