第10話 Mの棺
白かった。
何もかもが白かった。
空も、地面も、壁もない。ただ、白い光だけが果てしなく広がっている。まぶしいはずなのに、目は痛くない。寒いはずなのに、肌は凍えない。けれど、温かくもなかった。
ここは、どこでもない場所だ。
ファリスは、そう思った。
立っているのか、倒れているのかもわからない。足元に床の感触はある。けれど、足元を見ても地面は見えない。自分の影もない。胸元の記録タグはひび割れたように光り、触れるたびに小さな痛みを返した。
手には、工具箱があった。
ザックの工具箱。
片方の留め具が壊れ、取っ手には布が巻かれている。中には、絶縁ドライバー、レンチ、銅線、魔導回路用の細針、自作端末、ザックのポーチ、合成パンの欠片を入れた小袋。
ファリスは、それを抱えたまま膝をついた。
「……鴉?」
返事はなかった。
「カリン?」
返事はない。
「アリス?」
白い空間は答えない。
かわりに、遠くから声がした。
ひとつではない。
いくつも。
小さく、薄く、消えかけた声。
ファリス。
嬢ちゃん。
工具屋の妹。
ギン爺のスープ、焦げてないぞ。
ザックに言いつけるぞ。
水、止まったか?
夜道に気をつけな。
ファリス。
ファリス。
ファリス。
声はある。
顔は見えない。
名前だけが、白い空間に浮かんでは消えていく。
銀次。
トモ。
ユリ。
ミナ。
サキ。
読み取れない名前。
途中で途切れた呼び名。
黒く塗りつぶされた文字。
見覚えのあるような、思い出せないような、〈ホーム〉三番街にいた人たちの名前。
ファリスは息を呑んだ。
「みんな……?」
呼ぶと、名前が揺れた。
けれど、姿は現れない。
白い空間の奥で、誰かが泣いている。誰かが笑っている。誰かが怒鳴っている。誰かが助けを求めている。けれど、どの声も薄い。人の声というより、壊れた端末に残った音声記録のようだった。
ここは棺だ。
ファリスは、ふいにそう感じた。
扉でもある。
門でもある。
記録保管庫でもある。
人を殺す場所ではない。
人を終わらせずに、名前と記憶と熱だけを抜き取り、分類し、保存し、利用する場所。
殺すよりも悪い。
ファリスは工具箱を抱きしめた。
「ザック」
彼女は立ち上がり、白い空間へ向かって叫んだ。
「ザック! いるんでしょ! ねえ、返事して!」
声は広がり、白い光に吸われていく。
返事はなかった。
「ザック!」
もう一度叫ぶ。
遠くで、何かが揺れた。
ザ――
ザッ――
工具――
修理――
排水――
でも、ザックの姿はない。
あるのは、ファリスの腕の中の工具箱だけだった。
彼女はそれを見下ろす。
ここまで来ても、ザックはいない。
ザックは死んだ。
死んだ人間は、戻らない。
そんなことはわかっている。
でも、ここが記録の棺なら。
名前を保存する場所なら。
ザックの残響があるのなら。
少しくらい、声が聞こえてもいいじゃないか。
怒ってもいいじゃないか。
いつものように「うるせぇ、五分待て」と言ってくれてもいいじゃないか。
ファリスは唇を噛んだ。
血の味がした。
その時、白い空間に女の声が響いた。
「探しても無駄よ」
リリスの声だった。
姿は見えない。
ただ、白い光のどこかから、穏やかで冷たい声だけが降ってくる。
「死者は完全な形では戻らない。たとえ《M》の中でもね」
「出てこい」
ファリスは工具箱を抱えたまま睨む。
どこを睨めばいいのかわからない。
だから、白い空間全体を睨んだ。
「出てこいよ、リリス」
「出ているわ。あなたの周囲すべてが、今の私の声を通しているだけ」
「気持ち悪い」
「率直ね」
「褒めるな」
リリスは、少し笑ったようだった。
「あなたは誤解しているわ、ファリス。《M》はただの牢ではない。これは棺であり、門であり、台帳でもある。失われた名を保存し、分類し、再利用するための場所」
「再利用って言うな」
「便利な言葉でしょう?」
「人に使う言葉じゃない」
「人間は、ものに名をつける。名をつけたものを所有する。所有したものを使う。あなたたちが日常的に行っていることよ」
「あたしたちは、人を工具みたいに扱わない」
「本当に?」
リリスの声が、少し近づいた。
「あなたは工具箱を抱えている。兄の記録を、道具として使おうとしている。鴉はあなたを守る理由として使っている。カリンはあなたを生存術の弟子候補として見ている。アリスはあなたの名を固定すべき対象として扱っている。帝都月影高等学院は保護対象者として記録しようとした。使い方が違うだけで、人はいつも誰かを何かの役割に置く」
ファリスは言い返そうとして、できなかった。
言葉の一部が正しいからだ。
アリスは自分を対象として見た。
カリンは弟子候補として見た。
鴉は守る相手として見た。
学院は保護対象として見た。
でも、それはリリスのやっていることと同じではない。
同じではないはずだ。
だが、どう違うのか、すぐには言えなかった。
リリスは、そこを逃さない。
「あなたは生きた名簿なの」
白い空間に、無数の名が浮かぶ。
銀次。
トモ。
ユリ。
ミナ。
サキ。
ザック。
ファリス。
それらが彼女の周囲を回る。
「壊れた都市の底に残った、便利な台帳。〈ホーム〉三番街の人々は行政記録から消された。けれど、あなたの中には残っている。あなたは名前を呼べる。呼べるから、《M》はそれを索引にできる」
「黙れ」
「あなたは選ばれたわけではない。特別な血筋でもない。救世主でもない。ただ、あの場所で生きて、あの場所の人々に呼ばれ、あの場所の名を抱え込んだ。だから、適合した」
ファリスの胸元のタグが震える。
リリスは甘く言った。
「便利でしょう?」
「あたしは台帳じゃない」
ファリスは怒鳴った。
白い空間が波打つ。
浮かんでいた名前が一瞬だけ散る。
リリスの声は、まだ静かだった。
「では、何?」
ファリスは口を開いた。
答えようとした。
あたしはファリス。
ザックの妹。
〈ホーム〉三番街のファリス。
アリスにそう言った。
自分でもそう思っている。
でも、それだけでは足りない気がした。
ザックの妹であることだけでは、ザックがいなくなった今、自分が崩れてしまう。
〈ホーム〉三番街のファリスであることだけでは、〈ホーム〉が壊れた今、自分の足場が瓦礫になる。
ファリス。
その名前だけでは、今抱えている名たちの重さに押し潰されそうになる。
では、何?
リリスの問いが、白い空間に残る。
ファリスは答えられなかった。
*
外側では、《M》が呼吸を始めていた。
地下審問室の中央に開いた白い門は、ただの円環ではなくなっていた。黒い石床が割れ、その下から棺のような外殻がせり上がる。白い金属。黒い封印板。歪な光輪。背中に門を背負った天使型機械人形の骨格。
まだ完全な姿ではない。
しかし、胸部にはファリスを呑み込んだ空洞があり、その周囲をエイース抽出管と名前固定用の黒いタグが絡みつくように覆っている。
《M》。
門を背負った棺。
企業が作った、小型の裁きの門。
鴉は床に膝をついたままだった。
身体が動かない。
白い円環が彼の黒衣を縫い止め、胸の奥に刻まれた刑罰記録を掴んでいる。裁きの門ではない。模造品だ。偽物だ。だが、ラエルに刻まれた恐怖は、本物と偽物を判別してくれない。
門。
名の剥奪。
堕落判決。
ラエル刑。
その言葉だけで、身体が硬直するように作られている。
鴉は歯を食いしばった。
「ファリス……!」
黒衣が床を掻く。
動けない。
届かない。
まただ。
彼は守るべきものへ手を伸ばしながら、門の前で止められている。
ゾルテの笑い声が、審問室のどこかから響く。
「動けぬか、アズェル。裁きの門を模した玩具にすら膝をつくとは、哀れなものだ」
鴉は声の方を見る。
ゾルテの姿は、まだ完全には現れていない。白い光の中に輪郭だけがある。《M》を掌握し、門の内外に自分の記録を広げているのだ。
カリンが大鎌を構え、棺の外殻へ斬りかかった。
「笑ってる暇があるなら、顔出しなよ!」
大鎌の刃が白い外殻を切り裂く。
深い傷が走る。
中から黒い記録液が噴き出す。
だが、次の瞬間、傷口は白い文字列で縫い合わされ、元へ戻った。
カリンは舌打ちする。
「再生が早いねぇ。嫌な棺」
周囲では、エス化した元住民たちが起き上がり始めていた。
《M》が起動したことで、彼らの黒いタグが再接続されたのだ。顔は残っている。声も残っている。けれど、目の奥の赤い光が命令を示している。
対象確保。
名簿回収。
門防衛。
カリンは大鎌を回し、彼らの足元を払う。
刃ではなく、柄。
首ではなく、膝。
胸ではなく、黒いタグ周辺の術式だけ。
殺さない。
壊さない。
雑に処理しない。
かつて、名前を奪われた絵を見た時のことを、彼は思い出していた。
描かれた役割だけを残されたもの。
反逆者と呼ばれ続けた存在。
名前の重さを、カリンは知っている。
「ごめんねぇ。今は寝てて」
彼はエス化した女の腕を鎌の柄で絡め取り、床へ転がした。
「君の名前、あとでファリスちゃんが呼ぶからさ」
別のエスが襲いかかる。
カリンは横へ滑り、大鎌の石突きで黒いタグだけを砕いた。
完全には戻らない。
それでも、命令が一瞬だけ途切れる。
その隙に、アリスが動いていた。
彼女は《M》の外殻前に立ち、記録タグを幾重にも展開する。蒼い瞳が光り、背中に薄い機械翼の影が開く。ファリスの名を外から固定するため、彼女は《M》の記録核へ接続しようとしていた。
「接続開始。対象、M-Protocol中枢記録核。目的、ファリス様の名の固定、および門内索引干渉の遮断」
蒼い光が白い門へ伸びる。
だが、《M》はそれを弾いた。
アリスの身体が後ろへ揺れる。
腕に細かなひびのような光が走った。
カリンが叫ぶ。
「アリスちゃん!」
「問題ありません」
アリスはすぐに体勢を立て直す。
「再試行します」
再び接続。
再び拒絶。
白い文字列が、アリスの記録タグを侵食しようとする。
《所有者登録》
《用途設定》
《人格剥離》
《名称削除》
《器物化》
アリスの瞳が揺れた。
その奥で、別の記録が反応する。
零式。
かつて彼女の中に眠っていた、作られた役割の記録。
冷たい声が、アリス自身の奥から響いた。
――これ、人形を作る技術じゃない。名前を剥がす技術だ。
アリスは瞬きをした。
零式人格は、もう彼女を支配していない。
だが、記録として残っている。
作られたものとして、自分を道具にされかけた記憶。
所有され、起動され、役割を与えられることの冷たさ。
だからこそ、わかる。
《M》は機械人形技術を使っている。
だが、機械人形を作るためではない。
名を剥がし、役割だけを残し、人格を転写し、誰かの用途へ変えるための技術だ。
アリスは、静かに言った。
「わたくしは、アリスでございます」
蒼い瞳の光が強くなる。
「わたくしは、所有されるために存在しているのではありません。わたくしが、わたくしを説明するために、この名を選びました」
彼女は胸部の記録核を一時的に開放した。
マナが通信越しに叫ぶ。
『アリス! そこまで開けたら――』
「必要でございます」
アリスの声は揺れない。
「ファリス様の名を、外から固定します」
蒼い光が《M》の白い文字列と衝突する。
今度は弾かれない。
アリス自身の名が、楔になる。
アリス。
機械人形。
自分を説明するための名。
その記録が、ファリスのタグへ届く。
白い棺の奥、ファリスが落ちた場所へ。
*
白い空間の中で、ファリスの胸元のタグが蒼く光った。
リリスの声が、一瞬だけ途切れる。
「……外から固定を?」
アリスの声が、遠く聞こえた。
『ファリス様。あなた様の名を固定します』
「アリス?」
『あなた様は、台帳ではございません』
蒼い光が、ファリスの周囲に輪を作る。
浮かんでいた名前たちが、少しだけ安定した。
銀次。
トモ。
ユリ。
ミナ。
サキ。
ザック。
ファリス。
文字が崩れず、一瞬だけ読める。
リリスの声が冷える。
「邪魔な人形ね」
『わたくしはアリスでございます』
アリスの声が、白い空間に届く。
『人形という分類は否定いたしません。しかし、あなた様の所有物ではありません』
ファリスは、少しだけ笑った。
こんな場所なのに。
怖くて、寒くて、名前に押し潰されそうなのに。
アリスのその言葉で、息ができた。
「そうだよね」
ファリスは工具箱を抱え直す。
「あたしも、あんたの台帳じゃない」
リリスの声が問う。
「では、何?」
今度も、すぐには答えられない。
でも、さっきとは違う。
答えがないのではなく、まだ自分で選んでいないのだとわかった。
白い空間の奥で、工具箱が鳴った。
カチリ。
留め具の音。
ファリスは息を止める。
工具箱の蓋が、ひとりでに開いていた。
中から、淡い赤い光が漏れている。
レンチ。
ドライバー。
銅線。
ザックの自作端末。
修理メモ。
合成パンの欠片。
ザックのポーチ。
それらが、白い空間の中でひとつずつ浮かび上がる。
ファリスは手を伸ばした。
指先に、油の匂いが触れる。
排水漏れの水音が聞こえる。
合成パンの硬さが蘇る。
ザックの笑い声が、すぐそばで聞こえた。
「遅ぇよ」
ファリスは振り返った。
ザックがいた。
いや、ザックではなかった。
姿はぼやけている。顔もはっきりしない。ところどころが白い光に透け、声も少しだけ遠い。生きている人間ではない。死者でもない。
工具箱に残った記録残響。
ザックが触れた道具、書いたメモ、直した機械、ファリスに投げたポーチに残った、兄のかけら。
それでも、ファリスは叫んだ。
「ザック!」
駆け寄ろうとして、足が止まった。
近づいたら消えてしまいそうだった。
ザックの残響は、いつものように頭を掻く仕草をした。
その仕草だけは、ひどくはっきりしていた。
「何だよ、その顔。排水漏れでもしたか」
ファリスの喉が詰まる。
「雨漏り」
「排水漏れだって言ってんだろ」
「分類、間違えんなって言った」
「言ったな」
「最後に言うことじゃない」
「俺もそう思う」
ザックは笑った。
軽い笑い方。
いつもの笑い方。
ファリスは、そこで崩れた。
涙が出た。
止まらなかった。
「ごめん」
「あ?」
「返事、できなかった。走れって言われて、やだって言って。工具箱、持ってろって言われて。あたし、何もできなくて」
「できてるだろ」
「できてない!」
ファリスは泣きながら叫ぶ。
「兄貴、死んだ! ホームも壊れた! みんな名前を取られてる! あたし、呼ぶだけで、全部戻せるわけじゃない! 鴉も苦しんでる! アリスもカリンも戦ってる! あたし、何なのかわかんない!」
白い空間が震える。
浮かんだ名前たちが揺れる。
ザックの残響は、しばらく黙っていた。
それから、いつものように言った。
「おまえ、俺を取り戻そうとしてんのか」
ファリスは息を呑む。
「だって」
「やめとけ」
「何で!」
「俺はもう死んだ」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
ファリスは首を振る。
「やだ」
「やだじゃねぇよ。死んだんだ。そこは分類間違えんな」
「そんな分類、いらない!」
「いる」
ザックは、少しだけ真面目な声になった。
「死んだものを生きてることにすると、直せるものと直せないものの区別がつかなくなる。修理屋にとって、それは一番まずい」
ファリスは涙を拭う。
拭っても拭っても、また落ちる。
「じゃあ、どうすればいいの」
「使え」
「え?」
「俺を取り戻そうとしなくていい。おまえが使え」
ザックの残響は工具箱を指さした。
「工具、メモ、癖、配線の見方、ネジを舐めた時の誤魔化し方、古い端末の騙し方、排水漏れの分類、合成パンを半分残す悪い癖。全部、おまえの手に残ってる」
「でも、それは兄貴じゃない」
「そうだな」
ザックは笑った。
「でも、俺がいなかったことにはならない」
ファリスは工具箱を見る。
レンチ。
ドライバー。
銅線。
修理メモ。
ザックが残したもの。
それを使うこと。
それは、ザックを部品にすることではないのか。
リリスのように、人を工具として扱うことではないのか。
ファリスの迷いを読んだように、ザックは言った。
「道具扱いと、受け取ることは違うだろ」
「違うの?」
「違う」
「どう違うの」
「相手が残したものを、相手が生きてたことごと覚えて使うなら、それは受け取ることだ。相手のことを消して、役に立つ部分だけ抜くなら、それは道具扱いだ」
ファリスは、息を止めた。
リリスの問いへの答えが、そこに少し見えた気がした。
「兄貴」
「何だよ」
「あたし、忘れない」
「知ってる」
「名前も、声も、馬鹿なこと言ってたのも」
「馬鹿は余計だ」
「排水漏れって言い張ってたのも」
「あれは排水漏れだ」
「ちゃんとした店、作るって言ってたのも」
ザックの残響が、少しだけ遠くなる。
「それは、おまえが勝手に継げ」
「勝手に?」
「俺はもう店長できないからな」
ファリスは泣きながら笑った。
笑えてしまった。
今度の笑いは、壊れた笑いではなかった。
痛い。
悲しい。
でも、少しだけ温かかった。
「じゃあ、あたしが店長代理?」
「まだ代理かよ」
「店長は兄貴でしょ」
「死んだ店長をいつまでも置いとくな」
「じゃあ、初代」
「それならいい」
ザックは満足そうに笑った。
輪郭が薄くなる。
ファリスは慌てて手を伸ばした。
「待って」
「待たねぇ」
「五分」
「俺の五分は長いぞ」
「知ってる」
「なら、早く行け」
ザックの残響は、工具箱へ戻るように薄れていく。
「名前を呼べ、ファリス。戻せなくても、消えるのを止めろ。直せないものは、残せる形に変えろ」
「兄貴」
「おまえは俺の妹だ」
声が、遠くなる。
「でも、それだけじゃない」
ファリスは息を呑む。
ザックの最後の声が、工具箱の中から聞こえた。
「おまえは、おまえの手で決めろ」
白い光が揺れた。
ザックの姿は消えた。
工具箱だけが、ファリスの腕の中へ戻ってくる。
重い。
でも、さっきまでとは違う重さだった。
死者を背負う重さではない。
受け取ったものを使う重さ。
ファリスは涙を拭い、立ち上がった。
*
白い空間に、名前が浮かんでいる。
消えかけている。
リリスの声が、少し苛立っていた。
「感動的な残響ね。でも、それで何が変わるの?」
ファリスは工具箱を開けた。
ザックのレンチを取り出す。
ここに機械はない。
ネジもない。
配管もない。
それでも、手に馴染む。
自分の手が、これを覚えている。
「変わる」
「何が?」
「あたしが」
ファリスは胸元のタグを握る。
ひび割れたタグに、アリスの蒼い光がまだ届いている。
外で、アリスが自分の名を開いて支えてくれている。
カリンが、エス化した住民を殺さず止めてくれている。
鴉が、門の前で震えながらも自分へ手を伸ばしている。
ザックは戻らない。
でも、ザックは消えていない。
なら。
ファリスは、白い空間へ向かって叫んだ。
「銀次!」
名前が一つ、強く光った。
屋台の老人の声が聞こえる。
焦げてないぞ、と言い張る声。
ザックに言いつけるぞ、と脅す声。
ファリスは続ける。
「トモ!」
別の名前が光る。
暖房端末を直してもらった時の礼の声。
「ユリ!」
夜勤帰りに菓子をくれた女の笑い声。
「ミナ!」
給水場で会った子の小さな返事。
「サキ!」
路地で転んだファリスを起こしてくれた手。
名前を呼ぶたび、白い空間に浮かぶ文字が少しだけ安定する。
完全には戻らない。
顔は見えないまま。
声も薄いまま。
死んだ者は帰らない。
エイースを抜かれた者が、完全に戻るわけではない。
けれど、黒い塗り潰しが止まる。
名前の最後の一画が、消えずに残る。
ファリスは泣きながら呼んだ。
知っている名を。
知らないけれど、タグに残った名を。
間違えそうになりながら。
途中で声が枯れながら。
何度も、何度も。
「消えないで」
ファリスは叫んだ。
「あたし、全部覚えてるわけじゃない! みんなのこと、ちゃんと知ってたわけじゃない! でも、いたのは知ってる! ホームにいた! 朝、そこにいた! 夜、そこを歩いてた! 名前を呼ばれてた!」
白い空間が震える。
リリスの声が遠ざかる。
「無駄よ。完全な復元にはならない」
「知ってる!」
「死者は戻らない」
「知ってる!」
「名前だけ残しても、都市はその人を認めない」
「それでも!」
ファリスはレンチを握りしめる。
「完全に消えるより、ましだ!」
その瞬間、白い空間の奥に道が開いた。
名前たちが、まるで小さな灯りのように並ぶ。
銀次。
トモ。
ユリ。
ミナ。
サキ。
ザック。
ファリス。
それらの光が、ひとつの方向を指している。
《M》の制御核。
ファリスは歩き出した。
*
外側では、アリスの膝が床についた。
記録核を開きすぎている。
蒼い光はまだ《M》へ届いているが、彼女の身体の関節部から細い煙が上がっていた。
マナの通信が叫ぶ。
『アリス、出力を落として! あなたの核まで引っ張られる!』
「ファリス様の名の固定を継続します」
『継続じゃない! あなたまで剥がされる!』
「わたくしは、わたくしを固定しています」
アリスは静かに言う。
「ですので、まだ保ちます」
カリンは、エス化した住民たちの波を受け止めていた。
殺せば早い。
首を落とせば止まる。
核を砕けば終わる。
でも、しない。
彼は膝を砕き、武器を落とし、黒いタグだけを斬り、薔薇の香で眠らせる。
大鎌の刃は、何度も人の皮膚のすぐ手前で止まった。
「ほんと、面倒だねぇ」
カリンは息を切らしながら笑う。
「でも、名前を取り戻す話で、名前ごと壊すのは格好悪いよね」
鴉は、床に爪を立てた。
白い円環はまだ彼を縛っている。
だが、ファリスの声が聞こえた。
白い門の奥から。
名前を呼ぶ声。
銀次。
トモ。
ユリ。
ミナ。
ザック。
その声が、《M》の白い術式を揺らしている。
鴉の胸の奥で、黒い記録核が痛んだ。
名を失った空白に、ファリスの声が触れる。
彼女は、自分の名ではない名を呼んでいる。
消えかけた者の名を呼んでいる。
鴉は歯を食いしばった。
自分は何をしている。
門を恐れるように作られた。
動けないように刻まれた。
それは事実だ。
だが、事実だけで終わるのか。
彼女は落ちながら、自分の名を呼んだ。
置いていくな、と。
鴉は、自分の手で自分の胸を掴んだ。
爪が皮膚に食い込む。
黒い血が流れる。
痛みで、白い命令を押し返す。
「……動け」
彼は自分に言った。
「動け、鴉」
アズェルではない。
死んだ名でもない。
人が呼ぶ名。
ファリスが呼ぶ名。
鴉。
黒衣が、白い円環を少しだけ裂いた。
*
ファリスは《M》の制御核へたどり着いた。
そこは、白い空間の底だった。
巨大な棺の内側のようでもあり、裁判台の裏側のようでもあり、壊れた図書館の最深部のようでもあった。無数の記録板が宙に浮かび、白い鎖に繋がれている。
中央には、二つの欠損記録があった。
一つは黒い。
アズェル。
鴉の旧名。
名前の大部分が削られ、罪状欄は空白のまま。判決だけが残っている。
ラエル刑。
もう一つは白い。
ルシエ。
ゾルテの旧名。
こちらも大きく欠けていた。だが、鴉の記録とは違う。欠けた部分から、怒りのような白い火が漏れている。名を奪われた瞬間の叫びが、記録そのものに焼き付いているようだった。
ファリスは、立ち尽くした。
ここにある。
鴉の名を奪った記録。
ゾルテの名を奪った記録。
リリスはこれを使って《M》を作った。
ゾルテはこれを奪おうとしている。
ファリスは、それを目の前にして、ひどく小さく感じた。
自分はただの〈ホーム〉の子どもだ。
ザックの妹だ。
修理屋の手伝いだ。
こんな古いソエルの名や、裁きや、天界や、リンボウの支配なんて、背負えるはずがない。
その時、白い記録が燃えた。
ゾルテの声が響く。
「見つけたか、人の子」
ファリスは身構える。
ゾルテの姿はない。
だが、声は制御核全体から響いている。
「それが余の名だ。余から奪われたもの。余の力。余の権能。余が天にいた証。リンボウの牢獄に堕とされる前の、余そのもの」
ルシエの記録が震える。
白い火が広がる。
「名を返せ」
ゾルテの声が、初めて命令ではなく、渇望に聞こえた。
「余に名を、力を、天へ戻る道を返せ」
ファリスの胸が痛んだ。
ゾルテは怖い。
残酷だ。
人間を糧と呼び、ファリスを鎖と呼び、〈ホーム〉の人たちを利用しようとしている。
それでも、今の声には痛みがあった。
第七物流倉庫で言ったことを思い出す。
鴉は痛そうにしている。
ゾルテは痛くないふりをしている。
そのふりが、ここでは剥がれていた。
名を返せ。
それは、命令であると同時に、叫びだった。
「返したら」
ファリスは聞いた。
「どうするの」
「決まっている」
ゾルテの声が強くなる。
「余は余として戻る。ラエル刑を否定し、リンボウを支配し、裁きの門も女帝の秩序も踏み越える。余らを堕としたすべてへ、余の名を刻む」
「そのために、ホームのみんなを使うの?」
「必要な燃料だ」
「ザックも?」
「名も記録も、使われて初めて意味を持つ」
ファリスの中で、何かが冷えた。
痛みは本物だ。
でも、それで他人を材料にする理由にはならない。
鴉が言った。
だからといって、人を喰ってよい理由にはならない。
ファリスは、ルシエの記録を見た。
白い火に包まれた、欠けた名。
それは、たしかにゾルテのものかもしれない。
奪われたものかもしれない。
返されるべきものかもしれない。
でも。
「あんたの名前は」
ファリスは言った。
「あたしが決めるものじゃない」
白い火が止まった。
ゾルテの声が低くなる。
「何?」
「あたしは、名前を呼ぶことはできる。消えかけた人の名前を、忘れないように呼ぶことはできる。でも、あんたが誰なのかを、あたしが決めることはできない」
ファリスは工具箱を抱え直した。
「リリスは、あたしを台帳だって言った。鍵だって言った。あんたは鎖だって言った。みんな、人のこと勝手に決める。でも、違う。あたしは、あたしが決める。アリスも、自分でアリスって言った。鴉も、いつか自分で選ばなきゃいけない」
彼女は、ルシエの記録を見る。
「あんたも同じでしょ。名を返せって言うなら、自分で取りに行け。でも、それで他の人の名前を踏むな」
白い火が激しく燃え上がった。
「人の子が」
ゾルテの声が、怒りに染まる。
「余に説教するか」
「してる」
ファリスは震えながらも言った。
「怖いけど、してる」
「余の名を拒むか」
「拒んでない。あたしが決めないって言ってる」
「それが拒絶だ!」
白い空間が割れた。
制御核が震える。
アズェルの欠損記録と、ルシエの欠損記録が同時に燃え上がる。
ゾルテの怒りが、《M》全体を掌握する。
リリスの制御術式が砕けた。
企業製の安全枠が消し飛んだ。
名の剥奪、記録凍結、エイース抽出、ラエル核安定化。
それらの機能が一斉に暴走し、ひとつの目的へ束ねられていく。
ゾルテの復活。
リンボウ支配。
名を奪った世界への復讐。
ファリスの足元が崩れる。
制御核の奥から、黒い棺の鼓動が響く。
外側で、アリスの蒼い光が悲鳴を上げる。
カリンの大鎌が白い外殻を斬る音が遠く聞こえる。
鴉の声が、門の向こうから届く。
「ファリス!」
ファリスは工具箱を抱きしめた。
怖い。
とても怖い。
でも、彼女は制御核の中心で、自分の名前を握った。
「あたしはファリス」
白い火の中で、彼女は言った。
「ザックの妹。〈ホーム〉三番街のファリス。名前を呼ぶ人間」
その言葉を呑み込むように、《M》が完全起動した。
地下施設全体が震える。
白い棺が目を開く。
地上へ向けて、疑似裁きの門が動き出した。




