表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/12

第10話 Mの棺

 白かった。


 何もかもが白かった。


 空も、地面も、壁もない。ただ、白い光だけが果てしなく広がっている。まぶしいはずなのに、目は痛くない。寒いはずなのに、肌は凍えない。けれど、温かくもなかった。


 ここは、どこでもない場所だ。


 ファリスは、そう思った。


 立っているのか、倒れているのかもわからない。足元に床の感触はある。けれど、足元を見ても地面は見えない。自分の影もない。胸元の記録タグはひび割れたように光り、触れるたびに小さな痛みを返した。


 手には、工具箱があった。


 ザックの工具箱。


 片方の留め具が壊れ、取っ手には布が巻かれている。中には、絶縁ドライバー、レンチ、銅線、魔導回路用の細針、自作端末、ザックのポーチ、合成パンの欠片を入れた小袋。


 ファリスは、それを抱えたまま膝をついた。


「……鴉?」


 返事はなかった。


「カリン?」


 返事はない。


「アリス?」


 白い空間は答えない。


 かわりに、遠くから声がした。


 ひとつではない。


 いくつも。


 小さく、薄く、消えかけた声。


 ファリス。


 嬢ちゃん。


 工具屋の妹。


 ギン爺のスープ、焦げてないぞ。


 ザックに言いつけるぞ。


 水、止まったか?


 夜道に気をつけな。


 ファリス。


 ファリス。


 ファリス。


 声はある。


 顔は見えない。


 名前だけが、白い空間に浮かんでは消えていく。


 銀次。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 サキ。


 読み取れない名前。


 途中で途切れた呼び名。


 黒く塗りつぶされた文字。


 見覚えのあるような、思い出せないような、〈ホーム〉三番街にいた人たちの名前。


 ファリスは息を呑んだ。


「みんな……?」


 呼ぶと、名前が揺れた。


 けれど、姿は現れない。


 白い空間の奥で、誰かが泣いている。誰かが笑っている。誰かが怒鳴っている。誰かが助けを求めている。けれど、どの声も薄い。人の声というより、壊れた端末に残った音声記録のようだった。


 ここは棺だ。


 ファリスは、ふいにそう感じた。


 扉でもある。


 門でもある。


 記録保管庫でもある。


 人を殺す場所ではない。


 人を終わらせずに、名前と記憶と熱だけを抜き取り、分類し、保存し、利用する場所。


 殺すよりも悪い。


 ファリスは工具箱を抱きしめた。


「ザック」


 彼女は立ち上がり、白い空間へ向かって叫んだ。


「ザック! いるんでしょ! ねえ、返事して!」


 声は広がり、白い光に吸われていく。


 返事はなかった。


「ザック!」


 もう一度叫ぶ。


 遠くで、何かが揺れた。


 ザ――


 ザッ――


 工具――


 修理――


 排水――


 でも、ザックの姿はない。


 あるのは、ファリスの腕の中の工具箱だけだった。


 彼女はそれを見下ろす。


 ここまで来ても、ザックはいない。


 ザックは死んだ。


 死んだ人間は、戻らない。


 そんなことはわかっている。


 でも、ここが記録の棺なら。


 名前を保存する場所なら。


 ザックの残響があるのなら。


 少しくらい、声が聞こえてもいいじゃないか。


 怒ってもいいじゃないか。


 いつものように「うるせぇ、五分待て」と言ってくれてもいいじゃないか。


 ファリスは唇を噛んだ。


 血の味がした。


 その時、白い空間に女の声が響いた。


「探しても無駄よ」


 リリスの声だった。


 姿は見えない。


 ただ、白い光のどこかから、穏やかで冷たい声だけが降ってくる。


「死者は完全な形では戻らない。たとえ《M》の中でもね」


「出てこい」


 ファリスは工具箱を抱えたまま睨む。


 どこを睨めばいいのかわからない。


 だから、白い空間全体を睨んだ。


「出てこいよ、リリス」


「出ているわ。あなたの周囲すべてが、今の私の声を通しているだけ」


「気持ち悪い」


「率直ね」


「褒めるな」


 リリスは、少し笑ったようだった。


「あなたは誤解しているわ、ファリス。《M》はただの牢ではない。これは棺であり、門であり、台帳でもある。失われた名を保存し、分類し、再利用するための場所」


「再利用って言うな」


「便利な言葉でしょう?」


「人に使う言葉じゃない」


「人間は、ものに名をつける。名をつけたものを所有する。所有したものを使う。あなたたちが日常的に行っていることよ」


「あたしたちは、人を工具みたいに扱わない」


「本当に?」


 リリスの声が、少し近づいた。


「あなたは工具箱を抱えている。兄の記録を、道具として使おうとしている。鴉はあなたを守る理由として使っている。カリンはあなたを生存術の弟子候補として見ている。アリスはあなたの名を固定すべき対象として扱っている。帝都月影高等学院は保護対象者として記録しようとした。使い方が違うだけで、人はいつも誰かを何かの役割に置く」


 ファリスは言い返そうとして、できなかった。


 言葉の一部が正しいからだ。


 アリスは自分を対象として見た。


 カリンは弟子候補として見た。


 鴉は守る相手として見た。


 学院は保護対象として見た。


 でも、それはリリスのやっていることと同じではない。


 同じではないはずだ。


 だが、どう違うのか、すぐには言えなかった。


 リリスは、そこを逃さない。


「あなたは生きた名簿なの」


 白い空間に、無数の名が浮かぶ。


 銀次。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 サキ。


 ザック。


 ファリス。


 それらが彼女の周囲を回る。


「壊れた都市の底に残った、便利な台帳。〈ホーム〉三番街の人々は行政記録から消された。けれど、あなたの中には残っている。あなたは名前を呼べる。呼べるから、《M》はそれを索引にできる」


「黙れ」


「あなたは選ばれたわけではない。特別な血筋でもない。救世主でもない。ただ、あの場所で生きて、あの場所の人々に呼ばれ、あの場所の名を抱え込んだ。だから、適合した」


 ファリスの胸元のタグが震える。


 リリスは甘く言った。


「便利でしょう?」


「あたしは台帳じゃない」


 ファリスは怒鳴った。


 白い空間が波打つ。


 浮かんでいた名前が一瞬だけ散る。


 リリスの声は、まだ静かだった。


「では、何?」


 ファリスは口を開いた。


 答えようとした。


 あたしはファリス。


 ザックの妹。


 〈ホーム〉三番街のファリス。


 アリスにそう言った。


 自分でもそう思っている。


 でも、それだけでは足りない気がした。


 ザックの妹であることだけでは、ザックがいなくなった今、自分が崩れてしまう。


 〈ホーム〉三番街のファリスであることだけでは、〈ホーム〉が壊れた今、自分の足場が瓦礫になる。


 ファリス。


 その名前だけでは、今抱えている名たちの重さに押し潰されそうになる。


 では、何?


 リリスの問いが、白い空間に残る。


 ファリスは答えられなかった。


     *


 外側では、《M》が呼吸を始めていた。


 地下審問室の中央に開いた白い門は、ただの円環ではなくなっていた。黒い石床が割れ、その下から棺のような外殻がせり上がる。白い金属。黒い封印板。歪な光輪。背中に門を背負った天使型機械人形の骨格。


 まだ完全な姿ではない。


 しかし、胸部にはファリスを呑み込んだ空洞があり、その周囲をエイース抽出管と名前固定用の黒いタグが絡みつくように覆っている。


 《M》。


 門を背負った棺。


 企業が作った、小型の裁きの門。


 鴉は床に膝をついたままだった。


 身体が動かない。


 白い円環が彼の黒衣を縫い止め、胸の奥に刻まれた刑罰記録を掴んでいる。裁きの門ではない。模造品だ。偽物だ。だが、ラエルに刻まれた恐怖は、本物と偽物を判別してくれない。


 門。


 名の剥奪。


 堕落判決。


 ラエル刑。


 その言葉だけで、身体が硬直するように作られている。


 鴉は歯を食いしばった。


「ファリス……!」


 黒衣が床を掻く。


 動けない。


 届かない。


 まただ。


 彼は守るべきものへ手を伸ばしながら、門の前で止められている。


 ゾルテの笑い声が、審問室のどこかから響く。


「動けぬか、アズェル。裁きの門を模した玩具にすら膝をつくとは、哀れなものだ」


 鴉は声の方を見る。


 ゾルテの姿は、まだ完全には現れていない。白い光の中に輪郭だけがある。《M》を掌握し、門の内外に自分の記録を広げているのだ。


 カリンが大鎌を構え、棺の外殻へ斬りかかった。


「笑ってる暇があるなら、顔出しなよ!」


 大鎌の刃が白い外殻を切り裂く。


 深い傷が走る。


 中から黒い記録液が噴き出す。


 だが、次の瞬間、傷口は白い文字列で縫い合わされ、元へ戻った。


 カリンは舌打ちする。


「再生が早いねぇ。嫌な棺」


 周囲では、エス化した元住民たちが起き上がり始めていた。


 《M》が起動したことで、彼らの黒いタグが再接続されたのだ。顔は残っている。声も残っている。けれど、目の奥の赤い光が命令を示している。


 対象確保。


 名簿回収。


 門防衛。


 カリンは大鎌を回し、彼らの足元を払う。


 刃ではなく、柄。


 首ではなく、膝。


 胸ではなく、黒いタグ周辺の術式だけ。


 殺さない。


 壊さない。


 雑に処理しない。


 かつて、名前を奪われた絵を見た時のことを、彼は思い出していた。


 描かれた役割だけを残されたもの。


 反逆者と呼ばれ続けた存在。


 名前の重さを、カリンは知っている。


「ごめんねぇ。今は寝てて」


 彼はエス化した女の腕を鎌の柄で絡め取り、床へ転がした。


「君の名前、あとでファリスちゃんが呼ぶからさ」


 別のエスが襲いかかる。


 カリンは横へ滑り、大鎌の石突きで黒いタグだけを砕いた。


 完全には戻らない。


 それでも、命令が一瞬だけ途切れる。


 その隙に、アリスが動いていた。


 彼女は《M》の外殻前に立ち、記録タグを幾重にも展開する。蒼い瞳が光り、背中に薄い機械翼の影が開く。ファリスの名を外から固定するため、彼女は《M》の記録核へ接続しようとしていた。


「接続開始。対象、M-Protocol中枢記録核。目的、ファリス様の名の固定、および門内索引干渉の遮断」


 蒼い光が白い門へ伸びる。


 だが、《M》はそれを弾いた。


 アリスの身体が後ろへ揺れる。


 腕に細かなひびのような光が走った。


 カリンが叫ぶ。


「アリスちゃん!」


「問題ありません」


 アリスはすぐに体勢を立て直す。


「再試行します」


 再び接続。


 再び拒絶。


 白い文字列が、アリスの記録タグを侵食しようとする。


 《所有者登録》


 《用途設定》


 《人格剥離》


 《名称削除》


 《器物化》


 アリスの瞳が揺れた。


 その奥で、別の記録が反応する。


 零式。


 かつて彼女の中に眠っていた、作られた役割の記録。


 冷たい声が、アリス自身の奥から響いた。


 ――これ、人形を作る技術じゃない。名前を剥がす技術だ。


 アリスは瞬きをした。


 零式人格は、もう彼女を支配していない。


 だが、記録として残っている。


 作られたものとして、自分を道具にされかけた記憶。


 所有され、起動され、役割を与えられることの冷たさ。


 だからこそ、わかる。


 《M》は機械人形技術を使っている。


 だが、機械人形を作るためではない。


 名を剥がし、役割だけを残し、人格を転写し、誰かの用途へ変えるための技術だ。


 アリスは、静かに言った。


「わたくしは、アリスでございます」


 蒼い瞳の光が強くなる。


「わたくしは、所有されるために存在しているのではありません。わたくしが、わたくしを説明するために、この名を選びました」


 彼女は胸部の記録核を一時的に開放した。


 マナが通信越しに叫ぶ。


『アリス! そこまで開けたら――』


「必要でございます」


 アリスの声は揺れない。


「ファリス様の名を、外から固定します」


 蒼い光が《M》の白い文字列と衝突する。


 今度は弾かれない。


 アリス自身の名が、楔になる。


 アリス。


 機械人形。


 自分を説明するための名。


 その記録が、ファリスのタグへ届く。


 白い棺の奥、ファリスが落ちた場所へ。


     *


 白い空間の中で、ファリスの胸元のタグが蒼く光った。


 リリスの声が、一瞬だけ途切れる。


「……外から固定を?」


 アリスの声が、遠く聞こえた。


『ファリス様。あなた様の名を固定します』


「アリス?」


『あなた様は、台帳ではございません』


 蒼い光が、ファリスの周囲に輪を作る。


 浮かんでいた名前たちが、少しだけ安定した。


 銀次。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 サキ。


 ザック。


 ファリス。


 文字が崩れず、一瞬だけ読める。


 リリスの声が冷える。


「邪魔な人形ね」


『わたくしはアリスでございます』


 アリスの声が、白い空間に届く。


『人形という分類は否定いたしません。しかし、あなた様の所有物ではありません』


 ファリスは、少しだけ笑った。


 こんな場所なのに。


 怖くて、寒くて、名前に押し潰されそうなのに。


 アリスのその言葉で、息ができた。


「そうだよね」


 ファリスは工具箱を抱え直す。


「あたしも、あんたの台帳じゃない」


 リリスの声が問う。


「では、何?」


 今度も、すぐには答えられない。


 でも、さっきとは違う。


 答えがないのではなく、まだ自分で選んでいないのだとわかった。


 白い空間の奥で、工具箱が鳴った。


 カチリ。


 留め具の音。


 ファリスは息を止める。


 工具箱の蓋が、ひとりでに開いていた。


 中から、淡い赤い光が漏れている。


 レンチ。


 ドライバー。


 銅線。


 ザックの自作端末。


 修理メモ。


 合成パンの欠片。


 ザックのポーチ。


 それらが、白い空間の中でひとつずつ浮かび上がる。


 ファリスは手を伸ばした。


 指先に、油の匂いが触れる。


 排水漏れの水音が聞こえる。


 合成パンの硬さが蘇る。


 ザックの笑い声が、すぐそばで聞こえた。


「遅ぇよ」


 ファリスは振り返った。


 ザックがいた。


 いや、ザックではなかった。


 姿はぼやけている。顔もはっきりしない。ところどころが白い光に透け、声も少しだけ遠い。生きている人間ではない。死者でもない。


 工具箱に残った記録残響。


 ザックが触れた道具、書いたメモ、直した機械、ファリスに投げたポーチに残った、兄のかけら。


 それでも、ファリスは叫んだ。


「ザック!」


 駆け寄ろうとして、足が止まった。


 近づいたら消えてしまいそうだった。


 ザックの残響は、いつものように頭を掻く仕草をした。


 その仕草だけは、ひどくはっきりしていた。


「何だよ、その顔。排水漏れでもしたか」


 ファリスの喉が詰まる。


「雨漏り」


「排水漏れだって言ってんだろ」


「分類、間違えんなって言った」


「言ったな」


「最後に言うことじゃない」


「俺もそう思う」


 ザックは笑った。


 軽い笑い方。


 いつもの笑い方。


 ファリスは、そこで崩れた。


 涙が出た。


 止まらなかった。


「ごめん」


「あ?」


「返事、できなかった。走れって言われて、やだって言って。工具箱、持ってろって言われて。あたし、何もできなくて」


「できてるだろ」


「できてない!」


 ファリスは泣きながら叫ぶ。


「兄貴、死んだ! ホームも壊れた! みんな名前を取られてる! あたし、呼ぶだけで、全部戻せるわけじゃない! 鴉も苦しんでる! アリスもカリンも戦ってる! あたし、何なのかわかんない!」


 白い空間が震える。


 浮かんだ名前たちが揺れる。


 ザックの残響は、しばらく黙っていた。


 それから、いつものように言った。


「おまえ、俺を取り戻そうとしてんのか」


 ファリスは息を呑む。


「だって」


「やめとけ」


「何で!」


「俺はもう死んだ」


 その言葉は、あまりにもまっすぐだった。


 ファリスは首を振る。


「やだ」


「やだじゃねぇよ。死んだんだ。そこは分類間違えんな」


「そんな分類、いらない!」


「いる」


 ザックは、少しだけ真面目な声になった。


「死んだものを生きてることにすると、直せるものと直せないものの区別がつかなくなる。修理屋にとって、それは一番まずい」


 ファリスは涙を拭う。


 拭っても拭っても、また落ちる。


「じゃあ、どうすればいいの」


「使え」


「え?」


「俺を取り戻そうとしなくていい。おまえが使え」


 ザックの残響は工具箱を指さした。


「工具、メモ、癖、配線の見方、ネジを舐めた時の誤魔化し方、古い端末の騙し方、排水漏れの分類、合成パンを半分残す悪い癖。全部、おまえの手に残ってる」


「でも、それは兄貴じゃない」


「そうだな」


 ザックは笑った。


「でも、俺がいなかったことにはならない」


 ファリスは工具箱を見る。


 レンチ。


 ドライバー。


 銅線。


 修理メモ。


 ザックが残したもの。


 それを使うこと。


 それは、ザックを部品にすることではないのか。


 リリスのように、人を工具として扱うことではないのか。


 ファリスの迷いを読んだように、ザックは言った。


「道具扱いと、受け取ることは違うだろ」


「違うの?」


「違う」


「どう違うの」


「相手が残したものを、相手が生きてたことごと覚えて使うなら、それは受け取ることだ。相手のことを消して、役に立つ部分だけ抜くなら、それは道具扱いだ」


 ファリスは、息を止めた。


 リリスの問いへの答えが、そこに少し見えた気がした。


「兄貴」


「何だよ」


「あたし、忘れない」


「知ってる」


「名前も、声も、馬鹿なこと言ってたのも」


「馬鹿は余計だ」


「排水漏れって言い張ってたのも」


「あれは排水漏れだ」


「ちゃんとした店、作るって言ってたのも」


 ザックの残響が、少しだけ遠くなる。


「それは、おまえが勝手に継げ」


「勝手に?」


「俺はもう店長できないからな」


 ファリスは泣きながら笑った。


 笑えてしまった。


 今度の笑いは、壊れた笑いではなかった。


 痛い。


 悲しい。


 でも、少しだけ温かかった。


「じゃあ、あたしが店長代理?」


「まだ代理かよ」


「店長は兄貴でしょ」


「死んだ店長をいつまでも置いとくな」


「じゃあ、初代」


「それならいい」


 ザックは満足そうに笑った。


 輪郭が薄くなる。


 ファリスは慌てて手を伸ばした。


「待って」


「待たねぇ」


「五分」


「俺の五分は長いぞ」


「知ってる」


「なら、早く行け」


 ザックの残響は、工具箱へ戻るように薄れていく。


「名前を呼べ、ファリス。戻せなくても、消えるのを止めろ。直せないものは、残せる形に変えろ」


「兄貴」


「おまえは俺の妹だ」


 声が、遠くなる。


「でも、それだけじゃない」


 ファリスは息を呑む。


 ザックの最後の声が、工具箱の中から聞こえた。


「おまえは、おまえの手で決めろ」


 白い光が揺れた。


 ザックの姿は消えた。


 工具箱だけが、ファリスの腕の中へ戻ってくる。


 重い。


 でも、さっきまでとは違う重さだった。


 死者を背負う重さではない。


 受け取ったものを使う重さ。


 ファリスは涙を拭い、立ち上がった。


     *


 白い空間に、名前が浮かんでいる。


 消えかけている。


 リリスの声が、少し苛立っていた。


「感動的な残響ね。でも、それで何が変わるの?」


 ファリスは工具箱を開けた。


 ザックのレンチを取り出す。


 ここに機械はない。


 ネジもない。


 配管もない。


 それでも、手に馴染む。


 自分の手が、これを覚えている。


「変わる」


「何が?」


「あたしが」


 ファリスは胸元のタグを握る。


 ひび割れたタグに、アリスの蒼い光がまだ届いている。


 外で、アリスが自分の名を開いて支えてくれている。


 カリンが、エス化した住民を殺さず止めてくれている。


 鴉が、門の前で震えながらも自分へ手を伸ばしている。


 ザックは戻らない。


 でも、ザックは消えていない。


 なら。


 ファリスは、白い空間へ向かって叫んだ。


「銀次!」


 名前が一つ、強く光った。


 屋台の老人の声が聞こえる。


 焦げてないぞ、と言い張る声。


 ザックに言いつけるぞ、と脅す声。


 ファリスは続ける。


「トモ!」


 別の名前が光る。


 暖房端末を直してもらった時の礼の声。


「ユリ!」


 夜勤帰りに菓子をくれた女の笑い声。


「ミナ!」


 給水場で会った子の小さな返事。


「サキ!」


 路地で転んだファリスを起こしてくれた手。


 名前を呼ぶたび、白い空間に浮かぶ文字が少しだけ安定する。


 完全には戻らない。


 顔は見えないまま。


 声も薄いまま。


 死んだ者は帰らない。


 エイースを抜かれた者が、完全に戻るわけではない。


 けれど、黒い塗り潰しが止まる。


 名前の最後の一画が、消えずに残る。


 ファリスは泣きながら呼んだ。


 知っている名を。


 知らないけれど、タグに残った名を。


 間違えそうになりながら。


 途中で声が枯れながら。


 何度も、何度も。


「消えないで」


 ファリスは叫んだ。


「あたし、全部覚えてるわけじゃない! みんなのこと、ちゃんと知ってたわけじゃない! でも、いたのは知ってる! ホームにいた! 朝、そこにいた! 夜、そこを歩いてた! 名前を呼ばれてた!」


 白い空間が震える。


 リリスの声が遠ざかる。


「無駄よ。完全な復元にはならない」


「知ってる!」


「死者は戻らない」


「知ってる!」


「名前だけ残しても、都市はその人を認めない」


「それでも!」


 ファリスはレンチを握りしめる。


「完全に消えるより、ましだ!」


 その瞬間、白い空間の奥に道が開いた。


 名前たちが、まるで小さな灯りのように並ぶ。


 銀次。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 サキ。


 ザック。


 ファリス。


 それらの光が、ひとつの方向を指している。


 《M》の制御核。


 ファリスは歩き出した。


     *


 外側では、アリスの膝が床についた。


 記録核を開きすぎている。


 蒼い光はまだ《M》へ届いているが、彼女の身体の関節部から細い煙が上がっていた。


 マナの通信が叫ぶ。


『アリス、出力を落として! あなたの核まで引っ張られる!』


「ファリス様の名の固定を継続します」


『継続じゃない! あなたまで剥がされる!』


「わたくしは、わたくしを固定しています」


 アリスは静かに言う。


「ですので、まだ保ちます」


 カリンは、エス化した住民たちの波を受け止めていた。


 殺せば早い。


 首を落とせば止まる。


 核を砕けば終わる。


 でも、しない。


 彼は膝を砕き、武器を落とし、黒いタグだけを斬り、薔薇の香で眠らせる。


 大鎌の刃は、何度も人の皮膚のすぐ手前で止まった。


「ほんと、面倒だねぇ」


 カリンは息を切らしながら笑う。


「でも、名前を取り戻す話で、名前ごと壊すのは格好悪いよね」


 鴉は、床に爪を立てた。


 白い円環はまだ彼を縛っている。


 だが、ファリスの声が聞こえた。


 白い門の奥から。


 名前を呼ぶ声。


 銀次。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 ザック。


 その声が、《M》の白い術式を揺らしている。


 鴉の胸の奥で、黒い記録核が痛んだ。


 名を失った空白に、ファリスの声が触れる。


 彼女は、自分の名ではない名を呼んでいる。


 消えかけた者の名を呼んでいる。


 鴉は歯を食いしばった。


 自分は何をしている。


 門を恐れるように作られた。


 動けないように刻まれた。


 それは事実だ。


 だが、事実だけで終わるのか。


 彼女は落ちながら、自分の名を呼んだ。


 置いていくな、と。


 鴉は、自分の手で自分の胸を掴んだ。


 爪が皮膚に食い込む。


 黒い血が流れる。


 痛みで、白い命令を押し返す。


「……動け」


 彼は自分に言った。


「動け、鴉」


 アズェルではない。


 死んだ名でもない。


 人が呼ぶ名。


 ファリスが呼ぶ名。


 鴉。


 黒衣が、白い円環を少しだけ裂いた。


     *


 ファリスは《M》の制御核へたどり着いた。


 そこは、白い空間の底だった。


 巨大な棺の内側のようでもあり、裁判台の裏側のようでもあり、壊れた図書館の最深部のようでもあった。無数の記録板が宙に浮かび、白い鎖に繋がれている。


 中央には、二つの欠損記録があった。


 一つは黒い。


 アズェル。


 鴉の旧名。


 名前の大部分が削られ、罪状欄は空白のまま。判決だけが残っている。


 ラエル刑。


 もう一つは白い。


 ルシエ。


 ゾルテの旧名。


 こちらも大きく欠けていた。だが、鴉の記録とは違う。欠けた部分から、怒りのような白い火が漏れている。名を奪われた瞬間の叫びが、記録そのものに焼き付いているようだった。


 ファリスは、立ち尽くした。


 ここにある。


 鴉の名を奪った記録。


 ゾルテの名を奪った記録。


 リリスはこれを使って《M》を作った。


 ゾルテはこれを奪おうとしている。


 ファリスは、それを目の前にして、ひどく小さく感じた。


 自分はただの〈ホーム〉の子どもだ。


 ザックの妹だ。


 修理屋の手伝いだ。


 こんな古いソエルの名や、裁きや、天界や、リンボウの支配なんて、背負えるはずがない。


 その時、白い記録が燃えた。


 ゾルテの声が響く。


「見つけたか、人の子」


 ファリスは身構える。


 ゾルテの姿はない。


 だが、声は制御核全体から響いている。


「それが余の名だ。余から奪われたもの。余の力。余の権能。余が天にいた証。リンボウの牢獄に堕とされる前の、余そのもの」


 ルシエの記録が震える。


 白い火が広がる。


「名を返せ」


 ゾルテの声が、初めて命令ではなく、渇望に聞こえた。


「余に名を、力を、天へ戻る道を返せ」


 ファリスの胸が痛んだ。


 ゾルテは怖い。


 残酷だ。


 人間を糧と呼び、ファリスを鎖と呼び、〈ホーム〉の人たちを利用しようとしている。


 それでも、今の声には痛みがあった。


 第七物流倉庫で言ったことを思い出す。


 鴉は痛そうにしている。


 ゾルテは痛くないふりをしている。


 そのふりが、ここでは剥がれていた。


 名を返せ。


 それは、命令であると同時に、叫びだった。


「返したら」


 ファリスは聞いた。


「どうするの」


「決まっている」


 ゾルテの声が強くなる。


「余は余として戻る。ラエル刑を否定し、リンボウを支配し、裁きの門も女帝の秩序も踏み越える。余らを堕としたすべてへ、余の名を刻む」


「そのために、ホームのみんなを使うの?」


「必要な燃料だ」


「ザックも?」


「名も記録も、使われて初めて意味を持つ」


 ファリスの中で、何かが冷えた。


 痛みは本物だ。


 でも、それで他人を材料にする理由にはならない。


 鴉が言った。


 だからといって、人を喰ってよい理由にはならない。


 ファリスは、ルシエの記録を見た。


 白い火に包まれた、欠けた名。


 それは、たしかにゾルテのものかもしれない。


 奪われたものかもしれない。


 返されるべきものかもしれない。


 でも。


「あんたの名前は」


 ファリスは言った。


「あたしが決めるものじゃない」


 白い火が止まった。


 ゾルテの声が低くなる。


「何?」


「あたしは、名前を呼ぶことはできる。消えかけた人の名前を、忘れないように呼ぶことはできる。でも、あんたが誰なのかを、あたしが決めることはできない」


 ファリスは工具箱を抱え直した。


「リリスは、あたしを台帳だって言った。鍵だって言った。あんたは鎖だって言った。みんな、人のこと勝手に決める。でも、違う。あたしは、あたしが決める。アリスも、自分でアリスって言った。鴉も、いつか自分で選ばなきゃいけない」


 彼女は、ルシエの記録を見る。


「あんたも同じでしょ。名を返せって言うなら、自分で取りに行け。でも、それで他の人の名前を踏むな」


 白い火が激しく燃え上がった。


「人の子が」


 ゾルテの声が、怒りに染まる。


「余に説教するか」


「してる」


 ファリスは震えながらも言った。


「怖いけど、してる」


「余の名を拒むか」


「拒んでない。あたしが決めないって言ってる」


「それが拒絶だ!」


 白い空間が割れた。


 制御核が震える。


 アズェルの欠損記録と、ルシエの欠損記録が同時に燃え上がる。


 ゾルテの怒りが、《M》全体を掌握する。


 リリスの制御術式が砕けた。


 企業製の安全枠が消し飛んだ。


 名の剥奪、記録凍結、エイース抽出、ラエル核安定化。


 それらの機能が一斉に暴走し、ひとつの目的へ束ねられていく。


 ゾルテの復活。


 リンボウ支配。


 名を奪った世界への復讐。


 ファリスの足元が崩れる。


 制御核の奥から、黒い棺の鼓動が響く。


 外側で、アリスの蒼い光が悲鳴を上げる。


 カリンの大鎌が白い外殻を斬る音が遠く聞こえる。


 鴉の声が、門の向こうから届く。


「ファリス!」


 ファリスは工具箱を抱きしめた。


 怖い。


 とても怖い。


 でも、彼女は制御核の中心で、自分の名前を握った。


「あたしはファリス」


 白い火の中で、彼女は言った。


「ザックの妹。〈ホーム〉三番街のファリス。名前を呼ぶ人間」


 その言葉を呑み込むように、《M》が完全起動した。


 地下施設全体が震える。


 白い棺が目を開く。


 地上へ向けて、疑似裁きの門が動き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ