第11話_堕とされしものたち
帝都エデンの夜空に、棺が立った。
最初にそれを見た者は、地震だと思った。
〈ホーム〉三番街跡地を囲っていた白い仮設壁が内側から膨らみ、警告灯が一斉に赤く瞬いた。地面が割れ、整地されたばかりの土と防塵シートが噴き上がる。重機の残骸が跳ね、封鎖看板が折れ、企業の警備ドローンが制御を失って墜落した。
次に見えたのは、白い輪だった。
月ではない。
広告塔でもない。
それは、機械仕掛けの天使の背に埋め込まれた疑似裁きの門だった。
黒い棺のような胴体。
白い金属の翼。
胸部に空いた空洞。
その奥で、名前を剥がすための白い光が脈打っている。
背中には、巨大な円環。
円環の内側には黒い穴。
そこから、数え切れないほどの声が漏れていた。
名前になりきれなかった声。
呼ばれたかった声。
消されたくなかった声。
《M》。
門を背負った棺型機械天使が、消えた〈ホーム〉三番街の跡地から浮上した。
夜の帝都がざわめく。
ホウジュ区の魔導広告が一斉に乱れ、ミナト区の空中軌道が緊急停止する。ヨムルンガルド結界の外縁に白い波紋が走り、夢殿の監視塔が異常を検知した。女帝政府の高層庁舎群では、封印課の緊急灯が灯る。夢殿の奥では、記録監視を司る端末群が同時に警告を吐き出した。
《裁きの門模倣反応》
《ラエル刑罰記録干渉》
《局所的名剥奪術式》
《闇の子封印系への直接影響なし》
《ただし、裁きの門模倣は重大監視対象》
ワルキューレが動きかけた。
夢殿の深層で、いくつかの封印術式が戦闘展開の準備を始める。
だが、まだ本格介入は下されなかった。
闇の子の封印を揺らしているわけではない。
裁きの門そのものが開いたわけでもない。
帝都全体を呑む規模には、まだ達していない。
女帝側は様子を見ている。
その判断が冷酷なのか、正確なのか、現場にいる者たちにはわからない。
わかるのは、ただひとつ。
あれが完全に開けば、〈ホーム〉三番街だけでは済まない。
「早く止めないと、女帝様が本気で怒るよ」
カリンは、ひび割れた地面に片膝をつきながら言った。
黒いジャケットは埃で白くなり、頬には薄い切り傷がある。大鎌の刃は何度も《M》の外殻を斬ったせいで、欠けていた。それでも彼は笑っている。
ただし、目は笑っていなかった。
「怒ったらどうなるの」
アリスが膝をついたまま問い返す。
彼女の髪は乱れ、機械関節から細い煙が上がっていた。記録核を開いてファリスの名を外から固定し続けたため、身体の各所に負荷が出ている。それでも蒼い瞳は《M》から逸れない。
カリンは肩をすくめた。
「ボクたちごと掃除されるかもねぇ」
「比喩でしょうか」
「半分」
「半分なのですね」
「帝都では全部冗談の話って少ないからね」
カリンは立ち上がり、大鎌を構え直した。
「だから、怒られる前に片づける」
アリスは小さくうなずいた。
「同意いたします」
その向こうで、鴉は動けずにいた。
疑似裁きの門の起動と同時に、彼の身体に刻まれたラエル刑の記録が反応している。白い術式が黒衣を縛り、胸の奥の欠けた記録核を締め上げていた。門を恐れるように作られた身体。名を剥がされた者に刻まれた従属の記録。
偽物の門だ。
本物ではない。
だが、恐怖は本物だった。
鴉は、地面に爪を立てる。
黒い血が指先から流れる。
それでも、顔を上げた。
《M》の胸部空洞の奥に、ファリスがいる。
白い光の中に呑まれたまま、彼女の名が揺れている。
ファリス。
ザックの妹。
〈ホーム〉三番街のファリス。
名前を呼ぶ少女。
「……置いていかない」
鴉は、自分に言い聞かせるように呟いた。
黒衣が、白い術式を少しずつ裂いた。
*
《M》の背中の疑似門が開きかける。
そこから、白い男の声が降った。
「リンボウよ」
ゾルテの声だった。
《M》の胸部空洞と背中の門、そして地下に残る欠損記録すべてを通して、彼の声は帝都の下層へ広がっていく。
「名を奪われ、記録を削られ、棺に押し込まれた者たちよ。起きよ」
白い波紋が、〈ホーム〉三番街跡地から帝都の下層へ走る。
ミナト区の廃倉庫。
ホウジュ区の裏路地。
旧封印施設の残骸。
企業実験で捨てられた記録核。
名前を喰われたエスたち。
ラエル刑を受け、地下へ逃げ、封印され、記録だけが残ったソエルの残骸。
それらが、一瞬だけ反応した。
赤い目。
黒いタグ。
白い欠損。
呼ばれたのではない。
引きずり起こされたのだ。
ゾルテは《M》の上に立っていた。
いや、立っているように見えるだけだった。
白い衣は門の光と混ざり、輪郭は何度も揺れている。肉体なのか、記録なのか、門の投影なのか、判別できない。ただ、その存在感だけが圧倒的だった。
「女帝ヌルの帝都は、秩序を名乗る牢獄だ」
ゾルテは笑う。
「夢殿。ヨムルンガルド結界。裁きの門。タルタロス。邪柩。名を与え、名を縛り、名を奪い、棺へ閉じ込めるための構造。リンボウに築かれた偽りの楽園」
白い光が強くなる。
「余は、それを砕く」
彼の声には怒りがあった。
憎しみがあった。
だが、その奥に、もっと小さなものがあった。
恐怖。
終わりたくない。
名を奪われたまま、罪人として保存されたくない。
邪柩のような棺へ戻りたくない。
白い光の奥で、ゾルテは叫んでいた。
誰にも聞かせるつもりのない本音を、《M》が増幅してしまっている。
鴉には、それがわかった。
理解してしまった。
同じ罰を受けた者だから。
名を奪われ、循環を断たれ、人のエイースなしでは存在できない身体に変えられた者だから。
終わりたくない。
その恐怖だけは、わかってしまう。
「ゾルテ」
鴉は立ち上がった。
白い術式が黒衣に食い込む。
身体の奥が悲鳴を上げる。
だが、彼は立った。
《M》の足元へ、一歩踏み出す。
ゾルテが彼を見る。
「動くか、アズェル」
「その名で呼ぶな」
「では、鴉」
ゾルテは笑った。
「地上の子が呼ぶ黒い鳥。おまえはその名で満足したのか」
鴉は答えない。
黒衣が広がる。
白い《M》の光の中で、その黒は夜そのものだった。
「ファリスを返せ」
「返す?」
ゾルテは愉快そうに首を傾げる。
「あれは鍵だ。《M》の制御核を開くために必要な、壊れにくい鍵。おまえを地上につなぎ止めた鎖でもある」
「違う」
「違わぬ」
ゾルテの声が低くなる。
「おまえは人間のふりをしているだけだ。飢えれば噛む。守ろうとしても喰う。それがラエルだ」
鴉の喉が鳴った。
否定できなかった。
身体が渇いている。
《M》の起動で傷は開き、記録核は欠けたまま軋んでいる。周囲には、エス化した住民たちから漏れる薄いエイースの匂い。カリンの血。アリスの記録核の蒼い熱。そして、門の中にいるファリスの名と血。
欲しい。
その事実が、鴉の喉を焼いた。
ファリスを守りたい。
同時に、ファリスのエイースを欲している。
その矛盾が、彼の身体を裂いていた。
ゾルテはそれを見逃さない。
「ほら、否定できぬ」
彼は白い指を動かした。
《M》の胸部空洞が開く。
白い光の中に、ファリスの影が浮かんだ。
彼女は制御核の中で立っている。
工具箱を抱き、ひび割れた記録タグを握りしめ、消えかけた名前たちの中心にいる。
ゾルテは言う。
「その子を飲め」
鴉の身体が硬直した。
「そうすれば、おまえは余と並べる。欠けた核を満たし、門の恐怖を超え、ラエルとしての力を取り戻せる。人間を守るふりなどやめよ。おまえの身体は、最初からそう作られている」
鴉の視界が赤く染まる。
喉が焼ける。
牙が伸びる。
ファリスの首筋が見える。
そこに流れるエイース。
名前。
記憶。
ザックに呼ばれた声。
〈ホーム〉三番街で呼ばれてきた日々。
消えた人たちの名前を抱えた熱。
それは、鴉の欠けた核にとって、あまりにも眩しい。
「……逃げろ」
鴉は、かすれた声で言った。
門の中のファリスへ。
届くはずがない。
それでも言った。
「逃げろ、ファリス」
ゾルテが笑う。
「またそれか。おまえはいつまで逃がすつもりだ。逃がした先に何がある? 別の企業か。別の封印か。別の名簿か。おまえたちが堕ちたリンボウに、逃げ場などない」
鴉は膝をつきかける。
その時、白い光の中で、ファリスが顔を上げた。
「逃げない」
声が聞こえた。
《M》の内側から。
門と棺と記録保管庫の奥から。
ファリスの声が、はっきりと届いた。
*
ファリスは、白い制御核の中にいた。
足元には、消えかけた〈ホーム〉住民たちの名前。
銀次。
トモ。
ユリ。
ミナ。
サキ。
ザック。
そして、遠くで揺れる二つの欠損記録。
アズェル。
ルシエ。
ゾルテの怒りが《M》を完全起動させ、白い空間は崩れ始めていた。名前たちが吸い上げられ、門の燃料に変えられようとしている。ファリスの記録タグはひび割れ、アリスの蒼い光が外から必死に支えている。
ゾルテは、鴉へ言った。
その子を飲め。
ファリスにも聞こえていた。
喉が冷たくなる。
怖い。
鴉が自分を欲していることは知っている。
牙を見た。
首筋を見る目を見た。
自分の喉を傷つけて止めていた姿も見た。
鴉は怪物だ。
それは嘘ではない。
けれど。
それだけではない。
ファリスは工具箱を床に置いた。
ザックのレンチを手に取る。
ここにネジはない。
それでも、手に馴染む。
「兄貴」
彼女は小さく呟く。
「使うよ」
白い空間に浮かぶザックの名が、かすかに光った。
ファリスは歩き出す。
制御核の奥から、外側へ。
白い門の膜が彼女を阻む。
名の剥奪術式が肌を撫でる。
FARIS.
FA■■S.
鍵。
台帳。
鎖。
境界適合者。
回収対象。
制御核。
いくつもの分類が、彼女の名前へ貼り付こうとする。
ファリスは叫んだ。
「あたしはファリス!」
記録タグが光る。
アリスの蒼い補助光が重なる。
「ザックの妹! 〈ホーム〉三番街のファリス! 名前を呼ぶ人間!」
白い膜が裂けた。
ファリスは《M》の胸部空洞から外へ落ちた。
地上の夜風が、頬を打つ。
足元には、崩れた〈ホーム〉三番街跡地。
目の前には、牙を伸ばし、黒衣を震わせ、必死に自分を遠ざけようとする鴉。
そして、その上で笑うゾルテ。
カリンが叫んだ。
「ファリスちゃん、下がって!」
アリスも声を上げる。
「ファリス様、危険です!」
ファリスは止まらなかった。
《M》の白い外殻を滑り降り、瓦礫の上へ着地する。膝に痛みが走る。肩が震える。記録タグはひび割れている。工具箱は重い。
それでも、鴉へ向かって歩いた。
鴉は顔を上げる。
黒い瞳が赤く染まりかけている。
牙が見える。
喉が震えている。
「来るな」
「行く」
「来るな!」
鴉の声が荒くなる。
初めて聞くほど、必死だった。
「今の私は、君を傷つける」
「知ってる」
「君の名を奪うかもしれない」
「アリスが固定してる」
「完全ではない!」
「それも知ってる!」
ファリスは鴉の前まで来た。
カリンが駆け寄ろうとする。
アリスも記録タグを展開する。
ファリスは手で制した。
「止めないで」
「ファリスちゃん」
カリンの声が、珍しく軽くなかった。
「それは危ない。かなり」
「知ってる」
「知ってるだけじゃ足りないよ」
「でも、あたしが決める」
カリンは唇を噛んだ。
アリスが静かに言う。
「ファリス様。相互接続を行う場合、あなた様の名の固定を最大出力で補助いたします。ただし、完全な安全は保証できません」
「保証できないことばっかりだね」
「はい」
「じゃあ、お願い」
「承知いたしました」
アリスの蒼い光が、ファリスの胸元のタグに重なる。
カリンは大鎌を構え、周囲のエス化住民を押し返した。
「じゃあ、ボクは邪魔者を掃除しておく。……本当に、無茶する子だねぇ」
「カリンに言われたくない」
「いい返し」
ファリスは鴉を見る。
彼は震えていた。
黒衣が、近づくなと叫ぶように波打っている。
でも、彼自身は動けない。
逃げたい。
近づきたい。
噛みたい。
守りたい。
その全部が同時に起きている。
ファリスは、ゆっくり手を伸ばした。
鴉の頬に触れる。
冷たい。
そして、ひどく熱い。
「飲むなら」
ファリスは言った。
「糧としてじゃない」
鴉の瞳が揺れる。
「ファリス」
「何」
「逃げろ」
「逃げない」
彼女はまっすぐに言う。
「あたしは、あんたの餌じゃない」
鴉の牙が震える。
「あんたの相棒だ」
その言葉で、鴉の黒衣が止まった。
相棒。
まだ早いかもしれない。
でも、今そう呼ばなければ、鴉は自分を怪物だけに戻してしまう。
ファリスは首元の布を少しずらした。
鴉が目を見開く。
「やめろ」
「奪わせるんじゃない」
「同じだ」
「違う」
「違わない!」
鴉の声は悲鳴に近かった。
ファリスは怯えそうになった。
でも、ザックの工具箱を足元に感じる。
アリスの蒼い光を胸元に感じる。
カリンが後ろで道を作っているのを感じる。
自分の中に残る〈ホーム〉の名前たちを感じる。
「違う」
もう一度、彼女は言った。
「リリスが言ってた。相手のことを消して、役に立つ部分だけ抜くなら、それは道具扱いだって。兄貴は言った。相手が残したものを、相手が生きてたことごと覚えて使うなら、それは受け取ることだって」
鴉は息を止める。
「あたしは、あんたに奪われるんじゃない。あんたに、あたしの名前ごと預ける。少しだけ。あんたが戻ってくるために」
「戻れなかったら」
「呼ぶ」
「私が君を傷つけたら」
「怒る」
「名を奪ったら」
「取り返す」
「死んだら」
ファリスは一瞬、言葉を詰まらせた。
怖い。
死ぬのは怖い。
ザックのところへ行けるかもしれないなどとは思わない。
死んだら終わる。
戻らない。
それを、もう知っている。
だから、彼女は言った。
「死なないように、あんたが頑張って」
鴉は、泣きそうな顔をした。
怪物なのに。
黒衣のラエルなのに。
名を奪われた高位存在なのに。
彼はその瞬間、ひどく人間のように見えた。
ファリスは目を閉じなかった。
「鴉」
彼女は呼んだ。
アズェルではない。
奪われた旧名ではない。
人が呼ぶ名。
地上で彼が選ばれてきた名。
今、ファリスが呼ぶ名。
「鴉」
もう一度。
その名が、黒衣に届いた。
鴉は、震える手でファリスの肩に触れた。
爪を立てないように。
壊さないように。
奪わないように。
そして、彼はファリスの首筋へ口を寄せた。
牙が皮膚を破る。
痛み。
ファリスは歯を食いしばった。
血が流れる。
エイースが揺れる。
名前が引かれる。
FARIS.
ザックの妹。
〈ホーム〉三番街のファリス。
名前を呼ぶ人間。
その記録が、鴉の欠けた核へ触れる。
鴉は飲んだ。
ほんのわずか。
奪い尽くすには少なすぎる量。
けれど、彼が自分を取り戻すには十分な熱。
ファリスの名前は、鴉の中で消えなかった。
むしろ、黒い欠損核の中に、彼女の声が残った。
鴉。
呼ばれた名。
地上での名。
鴉は目を見開いた。
アズェルだった過去を否定しない。
奪われた名の痛みも、消えない。
だが、今ここでファリスを守る自分は、鴉だ。
彼は初めて、その名を自分の内側から受け入れた。
黒衣が変わった。
暴れる夜ではなく、広がる翼になった。
黒い翼が、白い《M》の光を裂いた。
*
《M》が揺れた。
ファリスと鴉の接続は、疑似裁きの門の制御に干渉した。
ゾルテが組み上げた支配系統は、ファリスを鍵として使う前提だった。彼女の名を剥がし、〈ホーム〉の残響を索引にし、鴉のラエル核をサンプルとして門を安定させる。リリスの計画も、ゾルテの奪取も、その構造に依存していた。
だが、ファリスは奪われなかった。
自分から預けた。
鴉は奪わなかった。
受け取った。
捕食ではなく、相互接続。
ケトゥールの意味が、ほんの一瞬だけ反転した。
その一瞬で、《M》の中枢は制御対象を見失った。
ファリスは胸元の記録タグを握った。
血が流れている。
少しふらつく。
でも、立っている。
「銀次!」
彼女は叫んだ。
《M》の外殻に絡みついていた名前が光る。
「トモ! ユリ! ミナ! サキ!」
消えかけた名前を呼ぶ。
完璧に戻すためではない。
消されきるのを止めるために。
アリスがその声に同期する。
「記録タグ、同期開始。呼称残響を固定します」
蒼い光が、白い《M》の表面に走る。
浮かんだ名前が、黒く塗り潰される前に固定されていく。
カリンはエス化した住民の波へ飛び込んだ。
「はいはい、名前を呼ばれた人から順番に寝ようねぇ!」
大鎌が舞う。
刃は核を砕かない。
命令系統だけを断つ。
黒いタグを割り、赤い命令光を消し、膝を崩して眠らせる。
カリンの動きは美しかった。
そして、ひどく面倒くさそうだった。
「これ、普通に斬るより三倍疲れるんだけど!」
『文句言わない!』
通信越しにマナの声が飛ぶ。
マナは外部から封印式を組んでいた。
夢殿の監視網に引っかからないよう、しかし女帝側が介入する前に《M》を封じるための、ぎりぎりの術式。シンから受け取った地下施設図、ルルトの通信経路、アリスの記録タグ同期、カリンが切断した命令系統、すべてを繋ぎ合わせる。
『封印式、あと四十秒! 鴉、ゾルテの核を門から引き剥がして! そのままじゃ閉じられない!』
鴉はファリスから離れた。
ファリスの首筋から血が流れる。
彼はそれを見て、一瞬だけ苦しそうに目を細めた。
ファリスは手で押さえながら言う。
「行って」
「立っていられるか」
「立つ」
「無理なら下がれ」
「説明したらね」
「……危険だ。血が足りない。名の固定も不安定だ」
「わかった。下がる。でも、呼ぶのはやめない」
鴉は、小さくうなずいた。
「それでいい」
黒翼が広がる。
彼は《M》の外殻を駆け上がった。
ゾルテが白い光の中で待っている。
その表情には、初めて明確な怒りがあった。
「愚かな」
彼は言った。
「おまえは結局、人間の名に縛られるのか」
「違う」
鴉は答える。
「呼ばれた」
「同じことだ。鎖に名前をつけただけだ」
「違う」
鴉の黒い爪が伸びる。
「私は、その名へ応えた」
ゾルテの白い剣が現れた。
剣という形をしているが、実体ではない。欠損記録を刃にしたもの。名を剥がすための白い光。
鴉の黒爪とぶつかる。
夜と白が弾けた。
《M》の背中、疑似裁きの門の前で、二人のラエルが激突する。
黒衣と黒翼。
白衣と欠損光。
爪と剣。
エイースへの渇き。
名を失った怒り。
裁きへの恐怖。
棺へ戻りたくないという叫び。
それらが、斬撃のたびにぶつかり合う。
ゾルテは速い。
いや、速さではない。
距離の意味を壊す。
鴉の前にいたはずの身体が、次の瞬間には背後にいる。黒翼を切り裂き、欠損記録の刃が鴉の肩を削る。
だが、今の鴉は追える。
ファリスの名が、地上に彼を繋いでいる。
ゾルテが距離を壊すたび、ファリスの声が鴉をこちら側へ呼び戻す。
鴉。
鴉。
鴉。
呼ばれるたび、黒翼が白い光を捉える。
ゾルテの剣を弾く。
爪が届く。
白い衣が裂ける。
ゾルテが笑う。
血は流れない。
代わりに、白い記録片が散る。
「偽善者め」
ゾルテは吐き捨てる。
「おまえは人間を喰わぬと言いながら、人間の名に支えられている。おまえの黒翼は、その子のエイースで動いている。何が違う」
「違う」
「何が違う!」
「私は、奪っていない」
鴉の爪が、ゾルテの剣を押し返す。
「受け取った」
ゾルテの顔が歪む。
「言葉遊びだ!」
「そうかもしれない」
鴉は認めた。
「だが、その言葉で踏み止まる者もいる」
カリンが以前言った言葉。
それが、鴉の口から出た。
遠くでカリンが一瞬だけ笑った。
「いいこと言うじゃん」
ゾルテは怒りに目を染める。
「人間は糧だ! リンボウは牢だ! 余らは堕とされた! 名を奪われた! ならば、奪い返すことの何が悪い!」
ファリスは、地上から叫んだ。
「人を踏んで取り返すな!」
ゾルテの視線が、ファリスへ向く。
「鎖が喋るな」
「鎖じゃない!」
ファリスは首筋を押さえながら、立ち上がる。
足元には工具箱。
胸元にはひび割れたタグ。
周囲には、消えかけた名前たち。
彼女はゾルテを見上げた。
「帰る場所だよ」
ゾルテの動きが止まった。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬は十分だった。
鴉の黒翼が白い門の光を裂く。
彼の爪が、ゾルテの胸の奥へ届いた。
そこにあるのは、心臓ではない。
欠損した記録核。
ルシエという旧名を剥がされた跡。
怒りと恐怖と渇望で白く燃える核。
ゾルテの目が見開かれる。
「アズェル――」
「私は鴉だ」
鴉は言った。
「アズェルであったことを、消しはしない。だが、今ここで彼女に呼ばれた私は、鴉だ」
黒い爪が、白い核を掴む。
ゾルテが叫んだ。
「認めぬ! 余は認めぬ! 人間を糧と呼ばぬラエルなど、門を恐れながら人の側へ立つラエルなど、偽善者だ! 鴉、おまえは――」
「堕とされた」
鴉が言う。
その声は、静かだった。
「おまえも、私も」
ゾルテの声が止まる。
「名を奪われ、地へ落とされ、飢える身体に変えられた。それは事実だ」
鴉は、ゾルテの核を門から引き剥がす。
「だが、堕ちた先で何をするかまで、門に決めさせるつもりはない」
黒翼が広がる。
アリスの記録タグが同期する。
カリンが最後の命令系統を斬る。
マナの封印式が完成する。
『今!』
マナの声が響いた。
鴉はゾルテの核を、疑似裁きの門の中心へ叩き戻した。
ただし、消滅させるのではない。
封じる。
ゾルテの記録核は白い門の中で暴れた。
「余を棺へ戻すな!」
その叫びには、怒りよりも恐怖があった。
「余は終わらぬ! 余の名は――余の名を――!」
ファリスは目を閉じなかった。
怖かった。
それでも、見た。
ゾルテが怖がっていることを。
痛がっていることを。
それでも、彼が他人の名前を踏み続けたことを。
「あんたの名前は」
ファリスは小さく言った。
「あんたがいつか、自分で決めなよ」
封印式が閉じた。
白い門に、黒い鎖が巻きつく。
アリスの記録タグが楔となり、マナの封印式が外殻を縫い、カリンが命令系統の残骸を断つ。
ゾルテの白い光は、疑似裁きの門ごと深く折り畳まれていく。
完全消滅ではない。
記録核は残る。
怒りも、名への渇望も、消えない。
だが、今は封じられる。
深層へ。
門を背負った棺の中へ。
「アズェル――!」
最後に、ゾルテが叫んだ。
鴉は答えなかった。
その代わり、ファリスが叫んだ。
「鴉!」
黒翼が、白い爆光から鴉を引き戻した。
*
《M》は崩壊した。
棺型機械天使の外殻が、白い粒子となって剥がれていく。背中の疑似裁きの門は、黒い封印鎖に縛られたまま縮み、地下施設の残骸へ沈んでいった。エイース抽出槽は砕け、名の剥奪術式は消え、黒いタグの大半は光を失った。
夜空に浮かんでいた棺は、瓦礫となって〈ホーム〉三番街跡地へ降り注いだ。
夜明けが近づいていた。
帝都の東の空が、薄く白む。
魔導広告の光が一つずつ消え、空中軌道の緊急停止灯が朝の光に溶けていく。ヨムルンガルド結界の波紋は収まり、夢殿の警告も段階を下げた。
ワルキューレは、動かなかった。
女帝政府特別封印課は、おそらく後始末に来るだろう。
ユニコーン・セキュリティは、何かを隠そうとするだろう。
マモンカンパニー残党も、リリスも、完全には終わっていない。
それでも、《M》は止まった。
ファリスは、瓦礫の中に座り込んでいた。
首筋には小さな傷。
血は止まりかけている。
アリスが巻いてくれた応急布が、淡く光っていた。
胸元の記録タグは、ひび割れている。
でも、まだ形を保っている。
その表面に、名前が浮かんでいた。
銀次。
トモ。
ユリ。
ミナ。
サキ。
他にも、読めない名前。
欠けた名前。
途中で途切れた呼び名。
完全ではない。
戻ったわけではない。
死者は帰らない。
ザックは戻らない。
〈ホーム〉三番街も戻らない。
でも、無ではない。
ファリスはタグを握った。
涙が落ちる。
「兄貴」
返事はない。
工具箱の中で、レンチが小さく鳴った。
それだけだった。
それで、今は十分だった。
カリンが近くで倒れ込むように座った。
「疲れた……」
「生きてる?」
ファリスが聞くと、カリンは片手を上げた。
「美しく生きてる。大鎌は三本駄目になったけど」
「そこなんだ」
「大事だよ。商売道具だからねぇ」
アリスはその横で、膝をついたまま自分の腕を点検している。関節の一部から煙が出ていた。
「アリス、大丈夫?」
「機能低下はありますが、活動可能です」
「それ、大丈夫って意味?」
「マナ様には怒られると思われます」
通信越しにマナの声が聞こえた。
『もう怒ってるわよ! 全員帰ったら検査! アリスは特に! カリンも! 鴉も! ファリスも!』
カリンが苦笑する。
「マナさん、元気だねぇ」
『あなたたちが無茶するからでしょう!』
その声に、ファリスは少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
少し離れた場所に、鴉が立っていた。
黒衣はぼろぼろだった。
黒翼もすでに消えている。
傷は多い。
それでも、彼は立っていた。
ファリスは立ち上がろうとして、ふらついた。
鴉がすぐに手を伸ばす。
ファリスはその手を取った。
冷たい。
でも、怖くなかった。
いや、少しは怖い。
牙を見たから。
血を飲まれたから。
彼が怪物であることを、もう否定できないから。
でも、その手は今、ファリスを支えている。
鴉は、彼女の首筋の布を見た。
「痛むか」
「痛い」
「すまない」
「怒ってる」
「……そうか」
「でも、助かった」
鴉は目を伏せた。
ファリスは彼を見る。
「鴉」
「何だ」
「あたしの名前、取ってないよね」
鴉は、少しだけ苦しそうに答えた。
「取っていない」
「うん。知ってる」
記録タグが、彼女の胸元で淡く光る。
ファリスという名は、まだそこにある。
鴉はしばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「君は、私を怪物ではないと言った」
ファリスは首を傾げた。
「言ってない」
鴉が少しだけ目を上げる。
「……言っていなかったか」
「怪物だよ」
ファリスは正直に言った。
カリンが後ろで「あ、言うねぇ」と呟いた。
アリスも静かに見ている。
ファリスは続けた。
「牙あるし、血欲しがるし、黒い翼出るし、怒るとすごく怖いし、さっきちょっと飲んだし。怪物じゃないって言ったら嘘でしょ」
鴉は、何も言わない。
その沈黙が、少し痛かった。
でも、ファリスは逃げなかった。
「でも、それだけじゃない」
彼女は言った。
「怪物だけど、あたしを守った。怪物だけど、あたしの名前を取らなかった。怪物だけど、呼んだら来た。怪物だけど、置いていかなかった」
鴉の黒い瞳が、ファリスを見る。
「だから、怪物でいいよ」
ファリスは工具箱を抱え直した。
「あたしも、ただのかわいそうな子じゃない。境界適合者でも、鍵でも、台帳でも、ザックの妹だけでもない。全部あるけど、それだけじゃない」
朝の光が、瓦礫の上に差し始める。
〈ホーム〉三番街跡地。
壊された帰る場所。
その場所に、もう一度朝が来る。
鴉は、長い間黙っていた。
それから、本当にわずかに、口元を緩めた。
笑ったのだと、ファリスが気づくまで少しかかった。
鴉が笑うところを、初めて見た。
きれいというより、不器用な笑みだった。
笑い方を忘れていた人が、思い出せないまま少しだけ真似たような顔。
「それは」
鴉は言った。
「ひどい評価だな」
ファリスは目を瞬いた。
それから、鼻をすすりながら言った。
「事実でしょ」
「分類は正確か」
「ザックなら、たぶんそう言う」
「なら、受け入れよう」
ファリスは、少しだけ笑った。
泣きながら。
朝焼けの中で。
堕とされた者たちが立っていた。
天から堕とされたラエル。
帝都の底へ堕とされた少女。
名前を奪われた者。
帰る場所を奪われた者。
作られた役割から自分の名を選んだ機械人形。
裏社会で氷の花として咲く者。
消えた〈ホーム〉の名の残響。
完全に救われた者など、誰もいない。
死者は戻らない。
失われた場所も戻らない。
罪の空白も、罰の記録も、すぐには消えない。
それでも、無にはならなかった。
名前は残った。
呼ぶ声は残った。
そして、朝が来た。
ファリスは、ひび割れた記録タグを握りしめる。
「鴉」
「何だ」
「帰ろう」
言ってから、ファリスは少しだけ迷った。
帰る場所なんて、まだない。
でも、鴉は否定しなかった。
「どこへ」
「これから作るところ」
鴉は、朝の光の中で彼女を見る。
そして、静かに答えた。
「そうか」
ファリスは工具箱を抱えて歩き出した。
鴉がその隣に並ぶ。
今度は、少しだけ歩幅を合わせて。
堕ちた先でも、帰る場所は作れる。
それをまだ信じきれなくても。
歩き出すことだけは、できた。




