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第11話_堕とされしものたち

 帝都エデンの夜空に、棺が立った。


 最初にそれを見た者は、地震だと思った。


 〈ホーム〉三番街跡地を囲っていた白い仮設壁が内側から膨らみ、警告灯が一斉に赤く瞬いた。地面が割れ、整地されたばかりの土と防塵シートが噴き上がる。重機の残骸が跳ね、封鎖看板が折れ、企業の警備ドローンが制御を失って墜落した。


 次に見えたのは、白い輪だった。


 月ではない。


 広告塔でもない。


 それは、機械仕掛けの天使の背に埋め込まれた疑似裁きの門だった。


 黒い棺のような胴体。


 白い金属の翼。


 胸部に空いた空洞。


 その奥で、名前を剥がすための白い光が脈打っている。


 背中には、巨大な円環。


 円環の内側には黒い穴。


 そこから、数え切れないほどの声が漏れていた。


 名前になりきれなかった声。


 呼ばれたかった声。


 消されたくなかった声。


 《M》。


 門を背負った棺型機械天使が、消えた〈ホーム〉三番街の跡地から浮上した。


 夜の帝都がざわめく。


 ホウジュ区の魔導広告が一斉に乱れ、ミナト区の空中軌道が緊急停止する。ヨムルンガルド結界の外縁に白い波紋が走り、夢殿の監視塔が異常を検知した。女帝政府の高層庁舎群では、封印課の緊急灯が灯る。夢殿の奥では、記録監視を司る端末群が同時に警告を吐き出した。


 《裁きの門模倣反応》


 《ラエル刑罰記録干渉》


 《局所的名剥奪術式》


 《闇の子封印系への直接影響なし》


 《ただし、裁きの門模倣は重大監視対象》


 ワルキューレが動きかけた。


 夢殿の深層で、いくつかの封印術式が戦闘展開の準備を始める。


 だが、まだ本格介入は下されなかった。


 闇の子の封印を揺らしているわけではない。


 裁きの門そのものが開いたわけでもない。


 帝都全体を呑む規模には、まだ達していない。


 女帝側は様子を見ている。


 その判断が冷酷なのか、正確なのか、現場にいる者たちにはわからない。


 わかるのは、ただひとつ。


 あれが完全に開けば、〈ホーム〉三番街だけでは済まない。


「早く止めないと、女帝様が本気で怒るよ」


 カリンは、ひび割れた地面に片膝をつきながら言った。


 黒いジャケットは埃で白くなり、頬には薄い切り傷がある。大鎌の刃は何度も《M》の外殻を斬ったせいで、欠けていた。それでも彼は笑っている。


 ただし、目は笑っていなかった。


「怒ったらどうなるの」


 アリスが膝をついたまま問い返す。


 彼女の髪は乱れ、機械関節から細い煙が上がっていた。記録核を開いてファリスの名を外から固定し続けたため、身体の各所に負荷が出ている。それでも蒼い瞳は《M》から逸れない。


 カリンは肩をすくめた。


「ボクたちごと掃除されるかもねぇ」


「比喩でしょうか」


「半分」


「半分なのですね」


「帝都では全部冗談の話って少ないからね」


 カリンは立ち上がり、大鎌を構え直した。


「だから、怒られる前に片づける」


 アリスは小さくうなずいた。


「同意いたします」


 その向こうで、鴉は動けずにいた。


 疑似裁きの門の起動と同時に、彼の身体に刻まれたラエル刑の記録が反応している。白い術式が黒衣を縛り、胸の奥の欠けた記録核を締め上げていた。門を恐れるように作られた身体。名を剥がされた者に刻まれた従属の記録。


 偽物の門だ。


 本物ではない。


 だが、恐怖は本物だった。


 鴉は、地面に爪を立てる。


 黒い血が指先から流れる。


 それでも、顔を上げた。


 《M》の胸部空洞の奥に、ファリスがいる。


 白い光の中に呑まれたまま、彼女の名が揺れている。


 ファリス。


 ザックの妹。


 〈ホーム〉三番街のファリス。


 名前を呼ぶ少女。


「……置いていかない」


 鴉は、自分に言い聞かせるように呟いた。


 黒衣が、白い術式を少しずつ裂いた。


     *


 《M》の背中の疑似門が開きかける。


 そこから、白い男の声が降った。


「リンボウよ」


 ゾルテの声だった。


 《M》の胸部空洞と背中の門、そして地下に残る欠損記録すべてを通して、彼の声は帝都の下層へ広がっていく。


「名を奪われ、記録を削られ、棺に押し込まれた者たちよ。起きよ」


 白い波紋が、〈ホーム〉三番街跡地から帝都の下層へ走る。


 ミナト区の廃倉庫。


 ホウジュ区の裏路地。


 旧封印施設の残骸。


 企業実験で捨てられた記録核。


 名前を喰われたエスたち。


 ラエル刑を受け、地下へ逃げ、封印され、記録だけが残ったソエルの残骸。


 それらが、一瞬だけ反応した。


 赤い目。


 黒いタグ。


 白い欠損。


 呼ばれたのではない。


 引きずり起こされたのだ。


 ゾルテは《M》の上に立っていた。


 いや、立っているように見えるだけだった。


 白い衣は門の光と混ざり、輪郭は何度も揺れている。肉体なのか、記録なのか、門の投影なのか、判別できない。ただ、その存在感だけが圧倒的だった。


「女帝ヌルの帝都は、秩序を名乗る牢獄だ」


 ゾルテは笑う。


「夢殿。ヨムルンガルド結界。裁きの門。タルタロス。邪柩。名を与え、名を縛り、名を奪い、棺へ閉じ込めるための構造。リンボウに築かれた偽りの楽園」


 白い光が強くなる。


「余は、それを砕く」


 彼の声には怒りがあった。


 憎しみがあった。


 だが、その奥に、もっと小さなものがあった。


 恐怖。


 終わりたくない。


 名を奪われたまま、罪人として保存されたくない。


 邪柩のような棺へ戻りたくない。


 白い光の奥で、ゾルテは叫んでいた。


 誰にも聞かせるつもりのない本音を、《M》が増幅してしまっている。


 鴉には、それがわかった。


 理解してしまった。


 同じ罰を受けた者だから。


 名を奪われ、循環を断たれ、人のエイースなしでは存在できない身体に変えられた者だから。


 終わりたくない。


 その恐怖だけは、わかってしまう。


「ゾルテ」


 鴉は立ち上がった。


 白い術式が黒衣に食い込む。


 身体の奥が悲鳴を上げる。


 だが、彼は立った。


 《M》の足元へ、一歩踏み出す。


 ゾルテが彼を見る。


「動くか、アズェル」


「その名で呼ぶな」


「では、鴉」


 ゾルテは笑った。


「地上の子が呼ぶ黒い鳥。おまえはその名で満足したのか」


 鴉は答えない。


 黒衣が広がる。


 白い《M》の光の中で、その黒は夜そのものだった。


「ファリスを返せ」


「返す?」


 ゾルテは愉快そうに首を傾げる。


「あれは鍵だ。《M》の制御核を開くために必要な、壊れにくい鍵。おまえを地上につなぎ止めた鎖でもある」


「違う」


「違わぬ」


 ゾルテの声が低くなる。


「おまえは人間のふりをしているだけだ。飢えれば噛む。守ろうとしても喰う。それがラエルだ」


 鴉の喉が鳴った。


 否定できなかった。


 身体が渇いている。


 《M》の起動で傷は開き、記録核は欠けたまま軋んでいる。周囲には、エス化した住民たちから漏れる薄いエイースの匂い。カリンの血。アリスの記録核の蒼い熱。そして、門の中にいるファリスの名と血。


 欲しい。


 その事実が、鴉の喉を焼いた。


 ファリスを守りたい。


 同時に、ファリスのエイースを欲している。


 その矛盾が、彼の身体を裂いていた。


 ゾルテはそれを見逃さない。


「ほら、否定できぬ」


 彼は白い指を動かした。


 《M》の胸部空洞が開く。


 白い光の中に、ファリスの影が浮かんだ。


 彼女は制御核の中で立っている。


 工具箱を抱き、ひび割れた記録タグを握りしめ、消えかけた名前たちの中心にいる。


 ゾルテは言う。


「その子を飲め」


 鴉の身体が硬直した。


「そうすれば、おまえは余と並べる。欠けた核を満たし、門の恐怖を超え、ラエルとしての力を取り戻せる。人間を守るふりなどやめよ。おまえの身体は、最初からそう作られている」


 鴉の視界が赤く染まる。


 喉が焼ける。


 牙が伸びる。


 ファリスの首筋が見える。


 そこに流れるエイース。


 名前。


 記憶。


 ザックに呼ばれた声。


 〈ホーム〉三番街で呼ばれてきた日々。


 消えた人たちの名前を抱えた熱。


 それは、鴉の欠けた核にとって、あまりにも眩しい。


「……逃げろ」


 鴉は、かすれた声で言った。


 門の中のファリスへ。


 届くはずがない。


 それでも言った。


「逃げろ、ファリス」


 ゾルテが笑う。


「またそれか。おまえはいつまで逃がすつもりだ。逃がした先に何がある? 別の企業か。別の封印か。別の名簿か。おまえたちが堕ちたリンボウに、逃げ場などない」


 鴉は膝をつきかける。


 その時、白い光の中で、ファリスが顔を上げた。


「逃げない」


 声が聞こえた。


 《M》の内側から。


 門と棺と記録保管庫の奥から。


 ファリスの声が、はっきりと届いた。


     *


 ファリスは、白い制御核の中にいた。


 足元には、消えかけた〈ホーム〉住民たちの名前。


 銀次。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 サキ。


 ザック。


 そして、遠くで揺れる二つの欠損記録。


 アズェル。


 ルシエ。


 ゾルテの怒りが《M》を完全起動させ、白い空間は崩れ始めていた。名前たちが吸い上げられ、門の燃料に変えられようとしている。ファリスの記録タグはひび割れ、アリスの蒼い光が外から必死に支えている。


 ゾルテは、鴉へ言った。


 その子を飲め。


 ファリスにも聞こえていた。


 喉が冷たくなる。


 怖い。


 鴉が自分を欲していることは知っている。


 牙を見た。


 首筋を見る目を見た。


 自分の喉を傷つけて止めていた姿も見た。


 鴉は怪物だ。


 それは嘘ではない。


 けれど。


 それだけではない。


 ファリスは工具箱を床に置いた。


 ザックのレンチを手に取る。


 ここにネジはない。


 それでも、手に馴染む。


「兄貴」


 彼女は小さく呟く。


「使うよ」


 白い空間に浮かぶザックの名が、かすかに光った。


 ファリスは歩き出す。


 制御核の奥から、外側へ。


 白い門の膜が彼女を阻む。


 名の剥奪術式が肌を撫でる。


 FARIS.


 FA■■S.


 鍵。


 台帳。


 鎖。


 境界適合者。


 回収対象。


 制御核。


 いくつもの分類が、彼女の名前へ貼り付こうとする。


 ファリスは叫んだ。


「あたしはファリス!」


 記録タグが光る。


 アリスの蒼い補助光が重なる。


「ザックの妹! 〈ホーム〉三番街のファリス! 名前を呼ぶ人間!」


 白い膜が裂けた。


 ファリスは《M》の胸部空洞から外へ落ちた。


 地上の夜風が、頬を打つ。


 足元には、崩れた〈ホーム〉三番街跡地。


 目の前には、牙を伸ばし、黒衣を震わせ、必死に自分を遠ざけようとする鴉。


 そして、その上で笑うゾルテ。


 カリンが叫んだ。


「ファリスちゃん、下がって!」


 アリスも声を上げる。


「ファリス様、危険です!」


 ファリスは止まらなかった。


 《M》の白い外殻を滑り降り、瓦礫の上へ着地する。膝に痛みが走る。肩が震える。記録タグはひび割れている。工具箱は重い。


 それでも、鴉へ向かって歩いた。


 鴉は顔を上げる。


 黒い瞳が赤く染まりかけている。


 牙が見える。


 喉が震えている。


「来るな」


「行く」


「来るな!」


 鴉の声が荒くなる。


 初めて聞くほど、必死だった。


「今の私は、君を傷つける」


「知ってる」


「君の名を奪うかもしれない」


「アリスが固定してる」


「完全ではない!」


「それも知ってる!」


 ファリスは鴉の前まで来た。


 カリンが駆け寄ろうとする。


 アリスも記録タグを展開する。


 ファリスは手で制した。


「止めないで」


「ファリスちゃん」


 カリンの声が、珍しく軽くなかった。


「それは危ない。かなり」


「知ってる」


「知ってるだけじゃ足りないよ」


「でも、あたしが決める」


 カリンは唇を噛んだ。


 アリスが静かに言う。


「ファリス様。相互接続を行う場合、あなた様の名の固定を最大出力で補助いたします。ただし、完全な安全は保証できません」


「保証できないことばっかりだね」


「はい」


「じゃあ、お願い」


「承知いたしました」


 アリスの蒼い光が、ファリスの胸元のタグに重なる。


 カリンは大鎌を構え、周囲のエス化住民を押し返した。


「じゃあ、ボクは邪魔者を掃除しておく。……本当に、無茶する子だねぇ」


「カリンに言われたくない」


「いい返し」


 ファリスは鴉を見る。


 彼は震えていた。


 黒衣が、近づくなと叫ぶように波打っている。


 でも、彼自身は動けない。


 逃げたい。


 近づきたい。


 噛みたい。


 守りたい。


 その全部が同時に起きている。


 ファリスは、ゆっくり手を伸ばした。


 鴉の頬に触れる。


 冷たい。


 そして、ひどく熱い。


「飲むなら」


 ファリスは言った。


「糧としてじゃない」


 鴉の瞳が揺れる。


「ファリス」


「何」


「逃げろ」


「逃げない」


 彼女はまっすぐに言う。


「あたしは、あんたの餌じゃない」


 鴉の牙が震える。


「あんたの相棒だ」


 その言葉で、鴉の黒衣が止まった。


 相棒。


 まだ早いかもしれない。


 でも、今そう呼ばなければ、鴉は自分を怪物だけに戻してしまう。


 ファリスは首元の布を少しずらした。


 鴉が目を見開く。


「やめろ」


「奪わせるんじゃない」


「同じだ」


「違う」


「違わない!」


 鴉の声は悲鳴に近かった。


 ファリスは怯えそうになった。


 でも、ザックの工具箱を足元に感じる。


 アリスの蒼い光を胸元に感じる。


 カリンが後ろで道を作っているのを感じる。


 自分の中に残る〈ホーム〉の名前たちを感じる。


「違う」


 もう一度、彼女は言った。


「リリスが言ってた。相手のことを消して、役に立つ部分だけ抜くなら、それは道具扱いだって。兄貴は言った。相手が残したものを、相手が生きてたことごと覚えて使うなら、それは受け取ることだって」


 鴉は息を止める。


「あたしは、あんたに奪われるんじゃない。あんたに、あたしの名前ごと預ける。少しだけ。あんたが戻ってくるために」


「戻れなかったら」


「呼ぶ」


「私が君を傷つけたら」


「怒る」


「名を奪ったら」


「取り返す」


「死んだら」


 ファリスは一瞬、言葉を詰まらせた。


 怖い。


 死ぬのは怖い。


 ザックのところへ行けるかもしれないなどとは思わない。


 死んだら終わる。


 戻らない。


 それを、もう知っている。


 だから、彼女は言った。


「死なないように、あんたが頑張って」


 鴉は、泣きそうな顔をした。


 怪物なのに。


 黒衣のラエルなのに。


 名を奪われた高位存在なのに。


 彼はその瞬間、ひどく人間のように見えた。


 ファリスは目を閉じなかった。


「鴉」


 彼女は呼んだ。


 アズェルではない。


 奪われた旧名ではない。


 人が呼ぶ名。


 地上で彼が選ばれてきた名。


 今、ファリスが呼ぶ名。


「鴉」


 もう一度。


 その名が、黒衣に届いた。


 鴉は、震える手でファリスの肩に触れた。


 爪を立てないように。


 壊さないように。


 奪わないように。


 そして、彼はファリスの首筋へ口を寄せた。


 牙が皮膚を破る。


 痛み。


 ファリスは歯を食いしばった。


 血が流れる。


 エイースが揺れる。


 名前が引かれる。


 FARIS.


 ザックの妹。


 〈ホーム〉三番街のファリス。


 名前を呼ぶ人間。


 その記録が、鴉の欠けた核へ触れる。


 鴉は飲んだ。


 ほんのわずか。


 奪い尽くすには少なすぎる量。


 けれど、彼が自分を取り戻すには十分な熱。


 ファリスの名前は、鴉の中で消えなかった。


 むしろ、黒い欠損核の中に、彼女の声が残った。


 鴉。


 呼ばれた名。


 地上での名。


 鴉は目を見開いた。


 アズェルだった過去を否定しない。


 奪われた名の痛みも、消えない。


 だが、今ここでファリスを守る自分は、鴉だ。


 彼は初めて、その名を自分の内側から受け入れた。


 黒衣が変わった。


 暴れる夜ではなく、広がる翼になった。


 黒い翼が、白い《M》の光を裂いた。


     *


 《M》が揺れた。


 ファリスと鴉の接続は、疑似裁きの門の制御に干渉した。


 ゾルテが組み上げた支配系統は、ファリスを鍵として使う前提だった。彼女の名を剥がし、〈ホーム〉の残響を索引にし、鴉のラエル核をサンプルとして門を安定させる。リリスの計画も、ゾルテの奪取も、その構造に依存していた。


 だが、ファリスは奪われなかった。


 自分から預けた。


 鴉は奪わなかった。


 受け取った。


 捕食ではなく、相互接続。


 ケトゥールの意味が、ほんの一瞬だけ反転した。


 その一瞬で、《M》の中枢は制御対象を見失った。


 ファリスは胸元の記録タグを握った。


 血が流れている。


 少しふらつく。


 でも、立っている。


「銀次!」


 彼女は叫んだ。


 《M》の外殻に絡みついていた名前が光る。


「トモ! ユリ! ミナ! サキ!」


 消えかけた名前を呼ぶ。


 完璧に戻すためではない。


 消されきるのを止めるために。


 アリスがその声に同期する。


「記録タグ、同期開始。呼称残響を固定します」


 蒼い光が、白い《M》の表面に走る。


 浮かんだ名前が、黒く塗り潰される前に固定されていく。


 カリンはエス化した住民の波へ飛び込んだ。


「はいはい、名前を呼ばれた人から順番に寝ようねぇ!」


 大鎌が舞う。


 刃は核を砕かない。


 命令系統だけを断つ。


 黒いタグを割り、赤い命令光を消し、膝を崩して眠らせる。


 カリンの動きは美しかった。


 そして、ひどく面倒くさそうだった。


「これ、普通に斬るより三倍疲れるんだけど!」


『文句言わない!』


 通信越しにマナの声が飛ぶ。


 マナは外部から封印式を組んでいた。


 夢殿の監視網に引っかからないよう、しかし女帝側が介入する前に《M》を封じるための、ぎりぎりの術式。シンから受け取った地下施設図、ルルトの通信経路、アリスの記録タグ同期、カリンが切断した命令系統、すべてを繋ぎ合わせる。


『封印式、あと四十秒! 鴉、ゾルテの核を門から引き剥がして! そのままじゃ閉じられない!』


 鴉はファリスから離れた。


 ファリスの首筋から血が流れる。


 彼はそれを見て、一瞬だけ苦しそうに目を細めた。


 ファリスは手で押さえながら言う。


「行って」


「立っていられるか」


「立つ」


「無理なら下がれ」


「説明したらね」


「……危険だ。血が足りない。名の固定も不安定だ」


「わかった。下がる。でも、呼ぶのはやめない」


 鴉は、小さくうなずいた。


「それでいい」


 黒翼が広がる。


 彼は《M》の外殻を駆け上がった。


 ゾルテが白い光の中で待っている。


 その表情には、初めて明確な怒りがあった。


「愚かな」


 彼は言った。


「おまえは結局、人間の名に縛られるのか」


「違う」


 鴉は答える。


「呼ばれた」


「同じことだ。鎖に名前をつけただけだ」


「違う」


 鴉の黒い爪が伸びる。


「私は、その名へ応えた」


 ゾルテの白い剣が現れた。


 剣という形をしているが、実体ではない。欠損記録を刃にしたもの。名を剥がすための白い光。


 鴉の黒爪とぶつかる。


 夜と白が弾けた。


 《M》の背中、疑似裁きの門の前で、二人のラエルが激突する。


 黒衣と黒翼。


 白衣と欠損光。


 爪と剣。


 エイースへの渇き。


 名を失った怒り。


 裁きへの恐怖。


 棺へ戻りたくないという叫び。


 それらが、斬撃のたびにぶつかり合う。


 ゾルテは速い。


 いや、速さではない。


 距離の意味を壊す。


 鴉の前にいたはずの身体が、次の瞬間には背後にいる。黒翼を切り裂き、欠損記録の刃が鴉の肩を削る。


 だが、今の鴉は追える。


 ファリスの名が、地上に彼を繋いでいる。


 ゾルテが距離を壊すたび、ファリスの声が鴉をこちら側へ呼び戻す。


 鴉。


 鴉。


 鴉。


 呼ばれるたび、黒翼が白い光を捉える。


 ゾルテの剣を弾く。


 爪が届く。


 白い衣が裂ける。


 ゾルテが笑う。


 血は流れない。


 代わりに、白い記録片が散る。


「偽善者め」


 ゾルテは吐き捨てる。


「おまえは人間を喰わぬと言いながら、人間の名に支えられている。おまえの黒翼は、その子のエイースで動いている。何が違う」


「違う」


「何が違う!」


「私は、奪っていない」


 鴉の爪が、ゾルテの剣を押し返す。


「受け取った」


 ゾルテの顔が歪む。


「言葉遊びだ!」


「そうかもしれない」


 鴉は認めた。


「だが、その言葉で踏み止まる者もいる」


 カリンが以前言った言葉。


 それが、鴉の口から出た。


 遠くでカリンが一瞬だけ笑った。


「いいこと言うじゃん」


 ゾルテは怒りに目を染める。


「人間は糧だ! リンボウは牢だ! 余らは堕とされた! 名を奪われた! ならば、奪い返すことの何が悪い!」


 ファリスは、地上から叫んだ。


「人を踏んで取り返すな!」


 ゾルテの視線が、ファリスへ向く。


「鎖が喋るな」


「鎖じゃない!」


 ファリスは首筋を押さえながら、立ち上がる。


 足元には工具箱。


 胸元にはひび割れたタグ。


 周囲には、消えかけた名前たち。


 彼女はゾルテを見上げた。


「帰る場所だよ」


 ゾルテの動きが止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、その一瞬は十分だった。


 鴉の黒翼が白い門の光を裂く。


 彼の爪が、ゾルテの胸の奥へ届いた。


 そこにあるのは、心臓ではない。


 欠損した記録核。


 ルシエという旧名を剥がされた跡。


 怒りと恐怖と渇望で白く燃える核。


 ゾルテの目が見開かれる。


「アズェル――」


「私は鴉だ」


 鴉は言った。


「アズェルであったことを、消しはしない。だが、今ここで彼女に呼ばれた私は、鴉だ」


 黒い爪が、白い核を掴む。


 ゾルテが叫んだ。


「認めぬ! 余は認めぬ! 人間を糧と呼ばぬラエルなど、門を恐れながら人の側へ立つラエルなど、偽善者だ! 鴉、おまえは――」


「堕とされた」


 鴉が言う。


 その声は、静かだった。


「おまえも、私も」


 ゾルテの声が止まる。


「名を奪われ、地へ落とされ、飢える身体に変えられた。それは事実だ」


 鴉は、ゾルテの核を門から引き剥がす。


「だが、堕ちた先で何をするかまで、門に決めさせるつもりはない」


 黒翼が広がる。


 アリスの記録タグが同期する。


 カリンが最後の命令系統を斬る。


 マナの封印式が完成する。


『今!』


 マナの声が響いた。


 鴉はゾルテの核を、疑似裁きの門の中心へ叩き戻した。


 ただし、消滅させるのではない。


 封じる。


 ゾルテの記録核は白い門の中で暴れた。


「余を棺へ戻すな!」


 その叫びには、怒りよりも恐怖があった。


「余は終わらぬ! 余の名は――余の名を――!」


 ファリスは目を閉じなかった。


 怖かった。


 それでも、見た。


 ゾルテが怖がっていることを。


 痛がっていることを。


 それでも、彼が他人の名前を踏み続けたことを。


「あんたの名前は」


 ファリスは小さく言った。


「あんたがいつか、自分で決めなよ」


 封印式が閉じた。


 白い門に、黒い鎖が巻きつく。


 アリスの記録タグが楔となり、マナの封印式が外殻を縫い、カリンが命令系統の残骸を断つ。


 ゾルテの白い光は、疑似裁きの門ごと深く折り畳まれていく。


 完全消滅ではない。


 記録核は残る。


 怒りも、名への渇望も、消えない。


 だが、今は封じられる。


 深層へ。


 門を背負った棺の中へ。


「アズェル――!」


 最後に、ゾルテが叫んだ。


 鴉は答えなかった。


 その代わり、ファリスが叫んだ。


「鴉!」


 黒翼が、白い爆光から鴉を引き戻した。


     *


 《M》は崩壊した。


 棺型機械天使の外殻が、白い粒子となって剥がれていく。背中の疑似裁きの門は、黒い封印鎖に縛られたまま縮み、地下施設の残骸へ沈んでいった。エイース抽出槽は砕け、名の剥奪術式は消え、黒いタグの大半は光を失った。


 夜空に浮かんでいた棺は、瓦礫となって〈ホーム〉三番街跡地へ降り注いだ。


 夜明けが近づいていた。


 帝都の東の空が、薄く白む。


 魔導広告の光が一つずつ消え、空中軌道の緊急停止灯が朝の光に溶けていく。ヨムルンガルド結界の波紋は収まり、夢殿の警告も段階を下げた。


 ワルキューレは、動かなかった。


 女帝政府特別封印課は、おそらく後始末に来るだろう。


 ユニコーン・セキュリティは、何かを隠そうとするだろう。


 マモンカンパニー残党も、リリスも、完全には終わっていない。


 それでも、《M》は止まった。


 ファリスは、瓦礫の中に座り込んでいた。


 首筋には小さな傷。


 血は止まりかけている。


 アリスが巻いてくれた応急布が、淡く光っていた。


 胸元の記録タグは、ひび割れている。


 でも、まだ形を保っている。


 その表面に、名前が浮かんでいた。


 銀次。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 サキ。


 他にも、読めない名前。


 欠けた名前。


 途中で途切れた呼び名。


 完全ではない。


 戻ったわけではない。


 死者は帰らない。


 ザックは戻らない。


 〈ホーム〉三番街も戻らない。


 でも、無ではない。


 ファリスはタグを握った。


 涙が落ちる。


「兄貴」


 返事はない。


 工具箱の中で、レンチが小さく鳴った。


 それだけだった。


 それで、今は十分だった。


 カリンが近くで倒れ込むように座った。


「疲れた……」


「生きてる?」


 ファリスが聞くと、カリンは片手を上げた。


「美しく生きてる。大鎌は三本駄目になったけど」


「そこなんだ」


「大事だよ。商売道具だからねぇ」


 アリスはその横で、膝をついたまま自分の腕を点検している。関節の一部から煙が出ていた。


「アリス、大丈夫?」


「機能低下はありますが、活動可能です」


「それ、大丈夫って意味?」


「マナ様には怒られると思われます」


 通信越しにマナの声が聞こえた。


『もう怒ってるわよ! 全員帰ったら検査! アリスは特に! カリンも! 鴉も! ファリスも!』


 カリンが苦笑する。


「マナさん、元気だねぇ」


『あなたたちが無茶するからでしょう!』


 その声に、ファリスは少しだけ笑った。


 笑えたことに、自分で驚いた。


 少し離れた場所に、鴉が立っていた。


 黒衣はぼろぼろだった。


 黒翼もすでに消えている。


 傷は多い。


 それでも、彼は立っていた。


 ファリスは立ち上がろうとして、ふらついた。


 鴉がすぐに手を伸ばす。


 ファリスはその手を取った。


 冷たい。


 でも、怖くなかった。


 いや、少しは怖い。


 牙を見たから。


 血を飲まれたから。


 彼が怪物であることを、もう否定できないから。


 でも、その手は今、ファリスを支えている。


 鴉は、彼女の首筋の布を見た。


「痛むか」


「痛い」


「すまない」


「怒ってる」


「……そうか」


「でも、助かった」


 鴉は目を伏せた。


 ファリスは彼を見る。


「鴉」


「何だ」


「あたしの名前、取ってないよね」


 鴉は、少しだけ苦しそうに答えた。


「取っていない」


「うん。知ってる」


 記録タグが、彼女の胸元で淡く光る。


 ファリスという名は、まだそこにある。


 鴉はしばらく黙っていた。


 そして、低く言った。


「君は、私を怪物ではないと言った」


 ファリスは首を傾げた。


「言ってない」


 鴉が少しだけ目を上げる。


「……言っていなかったか」


「怪物だよ」


 ファリスは正直に言った。


 カリンが後ろで「あ、言うねぇ」と呟いた。


 アリスも静かに見ている。


 ファリスは続けた。


「牙あるし、血欲しがるし、黒い翼出るし、怒るとすごく怖いし、さっきちょっと飲んだし。怪物じゃないって言ったら嘘でしょ」


 鴉は、何も言わない。


 その沈黙が、少し痛かった。


 でも、ファリスは逃げなかった。


「でも、それだけじゃない」


 彼女は言った。


「怪物だけど、あたしを守った。怪物だけど、あたしの名前を取らなかった。怪物だけど、呼んだら来た。怪物だけど、置いていかなかった」


 鴉の黒い瞳が、ファリスを見る。


「だから、怪物でいいよ」


 ファリスは工具箱を抱え直した。


「あたしも、ただのかわいそうな子じゃない。境界適合者でも、鍵でも、台帳でも、ザックの妹だけでもない。全部あるけど、それだけじゃない」


 朝の光が、瓦礫の上に差し始める。


 〈ホーム〉三番街跡地。


 壊された帰る場所。


 その場所に、もう一度朝が来る。


 鴉は、長い間黙っていた。


 それから、本当にわずかに、口元を緩めた。


 笑ったのだと、ファリスが気づくまで少しかかった。


 鴉が笑うところを、初めて見た。


 きれいというより、不器用な笑みだった。


 笑い方を忘れていた人が、思い出せないまま少しだけ真似たような顔。


「それは」


 鴉は言った。


「ひどい評価だな」


 ファリスは目を瞬いた。


 それから、鼻をすすりながら言った。


「事実でしょ」


「分類は正確か」


「ザックなら、たぶんそう言う」


「なら、受け入れよう」


 ファリスは、少しだけ笑った。


 泣きながら。


 朝焼けの中で。


 堕とされた者たちが立っていた。


 天から堕とされたラエル。


 帝都の底へ堕とされた少女。


 名前を奪われた者。


 帰る場所を奪われた者。


 作られた役割から自分の名を選んだ機械人形。


 裏社会で氷の花として咲く者。


 消えた〈ホーム〉の名の残響。


 完全に救われた者など、誰もいない。


 死者は戻らない。


 失われた場所も戻らない。


 罪の空白も、罰の記録も、すぐには消えない。


 それでも、無にはならなかった。


 名前は残った。


 呼ぶ声は残った。


 そして、朝が来た。


 ファリスは、ひび割れた記録タグを握りしめる。


「鴉」


「何だ」


「帰ろう」


 言ってから、ファリスは少しだけ迷った。


 帰る場所なんて、まだない。


 でも、鴉は否定しなかった。


「どこへ」


「これから作るところ」


 鴉は、朝の光の中で彼女を見る。


 そして、静かに答えた。


「そうか」


 ファリスは工具箱を抱えて歩き出した。


 鴉がその隣に並ぶ。


 今度は、少しだけ歩幅を合わせて。


 堕ちた先でも、帰る場所は作れる。


 それをまだ信じきれなくても。


 歩き出すことだけは、できた。

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