第12話 帰る場所を作る
帝都エデンは、事件が終わっても止まらない。
ヨムルンガルド結界の警告値は、夜明けまでに平常値へ戻った。
夢殿は《M》の残骸を重大封印案件として回収した。疑似裁きの門、棺型機械天使の外殻、ラエル刑罰記録の断片、そしてゾルテの記録核。
ただし、ゾルテの記録核は完全ではなかった。
夢殿管理局の封印担当者が確認した時、白い核の一部は空白になっていたという。逃げたのか。最初から欠けていたのか。それとも、誰かが持ち去ったのか。
記録には、そう残された。
リリスは見つからなかった。
地下施設にあった肉体は、ただの抜け殻だった。藤色のスーツを着た美しい女の身体は、封印課の捜査員が触れた瞬間、紙のように崩れ、白い文字片となって消えた。
彼女は逃げたのだと、カリンは言った。
肉体を捨てたのだと、アリスは言った。
どちらでも最悪ね、とマナは言った。
ハイデガーの核は、黒く焼け焦げた状態で地下施設の崩落地点から回収された。生きているのか死んでいるのかは、誰にも判定できなかった。ユニコーン・セキュリティは強制捜査を受け、関連部門のいくつかは凍結された。
だが、会社そのものは潰れなかった。
親会社、委託元、女帝政府との再整備契約、マモンカンパニー残党との資金経路、下請け、孫請け、名義貸し。責任は複雑に分散され、記者会見では「一部役員による不正利用」「現場判断の逸脱」「封印技術の管理不備」という言葉が並んだ。
女帝政府は発表した。
〈ホーム〉三番街で発生した一連の事故は、違法企業による封印技術の不正利用である。
被害住民には、補償と再定住支援を行う。
帝都は市民を見捨てない。
そう、発表された。
けれど、三番街に戻る家はなかった。
再定住支援の書類には、名前を書けない人がいた。名前を失ったまま眠り続ける人もいた。補償金の受取人欄が空白のまま凍結された者もいた。
救われた人はいた。
救われなかった人もいた。
それが帝都エデンだった。
*
ファリスは、しばらくカリンのもとで暮らすことになった。
ミナト区の清掃会社倉庫。
表向きは清掃用品置き場。裏ではトラブルシューター用の一時避難所。さらにその奥に、ファリス用の小さな寝床が作られた。
寝床の横には、ザックの工具箱がある。
胸元には、修復された記録タグがある。
タグには、ファリス自身の名と、〈ホーム〉三番街の欠けた記録が保存されていた。完全ではない。読めない名前も多い。それでも、無ではない。
カリンは、ファリスに生き残る方法を教え始めた。
掃除。
身分証の扱い。
裏道の歩き方。
危ない依頼の断り方。
武器の安全装置。
香の効かない相手の見分け方。
そして、服の選び方。
「最後のいる?」
ファリスが言うと、カリンは真顔で答えた。
「いるよ。帝都で生きるなら、自分がどう見られるかも武器だから」
「その理屈、何にでも使ってない?」
「使える理屈は便利だからねぇ」
ファリスは呆れて、それから少しだけ笑った。
笑える日があることに、まだ慣れなかった。
アリスは、定期的に記録タグの調整へ来た。
白い手でタグを支え、蒼い瞳で欠けた記録を読み、丁寧に補強してくれる。
「あなた様が、すべてを背負う必要はありません」
アリスは言った。
ファリスはタグを見下ろした。
そこには、銀次、トモ、ユリ、ミナ、サキ、そしてザックの名の断片がある。
「背負うんじゃないよ」
ファリスは答えた。
「忘れないだけ」
アリスは静かに頷いた。
「それは、記録の正しい使い方だと思います」
マナは、帝都月影高等学院・夜間特別課程の案内を持ってきた。
「すぐに決めなくていい。でも、選択肢として持っておきなさい」
カリンも珍しく真面目な顔で賛成した。
「勉強はしておいた方がいいよ。裏社会で騙されにくくなるから」
「理由が嫌」
「でも本当」
案内の封筒には、短いメモが挟まっていた。
ルルトからだった。
《学校は安全ではない。だが、危険の名前を覚えるには悪くない》
ファリスはその紙をしばらく見て、工具箱の中へしまった。
すぐには行かない。
でも、いつか行くかもしれない。
そう思える場所があることは、悪くなかった。
*
鴉は、姿を消そうとしていた。
夜明け前。
清掃会社倉庫の屋上に、黒衣の男が立っている。
帝都の空はまだ暗い。東の端だけが薄く青み、遠くのツインタワーの硝子面に朝の気配が映っていた。
鴉は、街を見ていた。
ファリスの首筋を傷つけた感触は、まだ消えていない。
彼女のエイースを飲んだ事実も、消えない。
渇きは残っている。
ラエルであることも変わらない。
またいつか、彼女を傷つけるかもしれない。
ならば、離れるべきだ。
そう思っていた。
「逃げる気?」
背後から声がした。
鴉は振り返らなかった。
ファリスが屋上の扉を閉め、工具箱を抱えて歩いてくる。寝癖がついている。上着の前は少し曲がっている。胸元の記録タグだけが、朝前の光に淡く揺れていた。
「……起こしたか」
「起きた。なんか、あんたが逃げそうな気がしたから」
「私は」
「逃げる気だったでしょ」
鴉は答えなかった。
ファリスは眉を吊り上げる。
「助けたなら、最後まで責任取れって言ったでしょ」
「事件は終わった」
「終わってない。あたしの生活、これからなんだけど」
「君は、カリンのもとにいればいい。アリスも、マナもいる。月影の夜間部もある」
「あんたは?」
鴉は沈黙した。
ファリスは一歩近づく。
「また勝手に決めてる」
「私は君のそばにいる資格がない」
その言葉に、ファリスは少しだけ目を細めた。
「資格って誰が配ってるの?」
鴉は答えない。
「夢殿? 女帝? 裁きの門? そんなの、あたし知らない」
朝前の風が、二人の間を抜けた。
鴉の黒衣が静かに揺れる。
ファリスは工具箱を床に置いた。
金属の音が、屋上に小さく響く。
「あたしは、あんたにいてほしいって言ってる」
鴉は、初めて彼女を見た。
逃げるためではなく。
遠ざけるためでもなく。
言葉を受け止めるために。
「怖くないのか」
「怖いよ」
ファリスは即答した。
「牙あるし、血飲むし、すぐ一人で決めるし、たまに顔が怖いし」
「……最後は関係あるのか」
「ある」
ファリスは少しだけ笑った。
「でも、いてほしい」
鴉は何も言わなかった。
言葉を探しているようだった。
長い沈黙のあと、彼は低く言った。
「帰る」
ファリスは聞き返す。
「どこに?」
鴉は、少し迷った。
帰る場所など、なかった。
天にも。
リンボウにも。
廃ビルにも。
裁きの門の向こうにも。
けれど、今は呼ぶ声がある。
ファリスがいる。
彼は静かに答えた。
「君が呼ぶ場所へ」
ファリスは一瞬ぽかんとした。
それから、照れたようにそっぽを向いた。
「じゃあ、まず朝ごはん。カリンのとこ、パンくらいあるでしょ」
「……それが帰る場所か」
「最初はそれでいいじゃん」
ファリスは工具箱を持ち上げ、屋上の扉へ向かう。
鴉は、少し遅れてその後に続いた。
*
倉庫の奥では、カリンが寝起きの顔で毛布を引きずっていた。
「朝から屋上で青春しないでくれる? ボク、睡眠不足なんだけど」
「青春じゃない」
ファリスが即座に返す。
「じゃあ何?」
「朝ごはん」
「もっと違う」
カリンが文句を言いながら冷蔵庫を開けると、アリスが当然のように紅茶を淹れていた。
「パンはございます。マナ様が昨日、補給品として購入されました」
そのマナは、ソファで端末を抱えたまま眠っている。髪は乱れ、白衣はずれ、画面には未送信の報告書が開いたままだった。
ファリスは、作業台の端に工具箱を置いた。
ザックの工具箱。
その横に、記録タグを置く。
鴉の黒衣が、扉の影で静かに揺れる。
カリンの大鎌は壁に立てかけられている。
アリスの白い手が、紅茶のカップを並べる。
それぞれ違う場所から堕とされた者たちが、同じ朝のテーブルにいた。
完全な家ではない。
安全でもない。
明日も事件は起きる。
帝都エデンは、今日もきっと騒がしい。
それでも、ファリスは椅子に座った。
鴉は少し迷い、彼女の隣ではなく、向かいの席に座る。
カリンがにやにやする。
「おやおや。ちゃんと席につくんだ」
「座れと言われた」
「誰に?」
鴉は答えない。
ファリスはパンを半分に割って、皿に置いた。
「ほら」
鴉はそれを見た。
「私は食べない」
「知ってる。でも、置いとく」
「なぜ」
「朝ごはんっぽいから」
鴉はしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。
「そうか」
ファリスは記録タグに触れた。
そこに残る名前たちは、欠けている。
ザックも戻らない。
三番街も戻らない。
けれど、朝は来た。
そして、呼べば応える誰かがいる。
堕とされた場所が、終わりになるとは限らない。
そこに誰かの声があれば、そこからでも、帰る場所は作れる。




