表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/12

第12話 帰る場所を作る

 帝都エデンは、事件が終わっても止まらない。


 ヨムルンガルド結界の警告値は、夜明けまでに平常値へ戻った。


 夢殿は《M》の残骸を重大封印案件として回収した。疑似裁きの門、棺型機械天使の外殻、ラエル刑罰記録の断片、そしてゾルテの記録核。


 ただし、ゾルテの記録核は完全ではなかった。


 夢殿管理局の封印担当者が確認した時、白い核の一部は空白になっていたという。逃げたのか。最初から欠けていたのか。それとも、誰かが持ち去ったのか。


 記録には、そう残された。


 リリスは見つからなかった。


 地下施設にあった肉体は、ただの抜け殻だった。藤色のスーツを着た美しい女の身体は、封印課の捜査員が触れた瞬間、紙のように崩れ、白い文字片となって消えた。


 彼女は逃げたのだと、カリンは言った。


 肉体を捨てたのだと、アリスは言った。


 どちらでも最悪ね、とマナは言った。


 ハイデガーの核は、黒く焼け焦げた状態で地下施設の崩落地点から回収された。生きているのか死んでいるのかは、誰にも判定できなかった。ユニコーン・セキュリティは強制捜査を受け、関連部門のいくつかは凍結された。


 だが、会社そのものは潰れなかった。


 親会社、委託元、女帝政府との再整備契約、マモンカンパニー残党との資金経路、下請け、孫請け、名義貸し。責任は複雑に分散され、記者会見では「一部役員による不正利用」「現場判断の逸脱」「封印技術の管理不備」という言葉が並んだ。


 女帝政府は発表した。


 〈ホーム〉三番街で発生した一連の事故は、違法企業による封印技術の不正利用である。


 被害住民には、補償と再定住支援を行う。


 帝都は市民を見捨てない。


 そう、発表された。


 けれど、三番街に戻る家はなかった。


 再定住支援の書類には、名前を書けない人がいた。名前を失ったまま眠り続ける人もいた。補償金の受取人欄が空白のまま凍結された者もいた。


 救われた人はいた。


 救われなかった人もいた。


 それが帝都エデンだった。


     *


 ファリスは、しばらくカリンのもとで暮らすことになった。


 ミナト区の清掃会社倉庫。


 表向きは清掃用品置き場。裏ではトラブルシューター用の一時避難所。さらにその奥に、ファリス用の小さな寝床が作られた。


 寝床の横には、ザックの工具箱がある。


 胸元には、修復された記録タグがある。


 タグには、ファリス自身の名と、〈ホーム〉三番街の欠けた記録が保存されていた。完全ではない。読めない名前も多い。それでも、無ではない。


 カリンは、ファリスに生き残る方法を教え始めた。


 掃除。


 身分証の扱い。


 裏道の歩き方。


 危ない依頼の断り方。


 武器の安全装置。


 香の効かない相手の見分け方。


 そして、服の選び方。


「最後のいる?」


 ファリスが言うと、カリンは真顔で答えた。


「いるよ。帝都で生きるなら、自分がどう見られるかも武器だから」


「その理屈、何にでも使ってない?」


「使える理屈は便利だからねぇ」


 ファリスは呆れて、それから少しだけ笑った。


 笑える日があることに、まだ慣れなかった。


 アリスは、定期的に記録タグの調整へ来た。


 白い手でタグを支え、蒼い瞳で欠けた記録を読み、丁寧に補強してくれる。


「あなた様が、すべてを背負う必要はありません」


 アリスは言った。


 ファリスはタグを見下ろした。


 そこには、銀次、トモ、ユリ、ミナ、サキ、そしてザックの名の断片がある。


「背負うんじゃないよ」


 ファリスは答えた。


「忘れないだけ」


 アリスは静かに頷いた。


「それは、記録の正しい使い方だと思います」


 マナは、帝都月影高等学院・夜間特別課程の案内を持ってきた。


「すぐに決めなくていい。でも、選択肢として持っておきなさい」


 カリンも珍しく真面目な顔で賛成した。


「勉強はしておいた方がいいよ。裏社会で騙されにくくなるから」


「理由が嫌」


「でも本当」


 案内の封筒には、短いメモが挟まっていた。


 ルルトからだった。


 《学校は安全ではない。だが、危険の名前を覚えるには悪くない》


 ファリスはその紙をしばらく見て、工具箱の中へしまった。


 すぐには行かない。


 でも、いつか行くかもしれない。


 そう思える場所があることは、悪くなかった。


     *


 鴉は、姿を消そうとしていた。


 夜明け前。


 清掃会社倉庫の屋上に、黒衣の男が立っている。


 帝都の空はまだ暗い。東の端だけが薄く青み、遠くのツインタワーの硝子面に朝の気配が映っていた。


 鴉は、街を見ていた。


 ファリスの首筋を傷つけた感触は、まだ消えていない。


 彼女のエイースを飲んだ事実も、消えない。


 渇きは残っている。


 ラエルであることも変わらない。


 またいつか、彼女を傷つけるかもしれない。


 ならば、離れるべきだ。


 そう思っていた。


「逃げる気?」


 背後から声がした。


 鴉は振り返らなかった。


 ファリスが屋上の扉を閉め、工具箱を抱えて歩いてくる。寝癖がついている。上着の前は少し曲がっている。胸元の記録タグだけが、朝前の光に淡く揺れていた。


「……起こしたか」


「起きた。なんか、あんたが逃げそうな気がしたから」


「私は」


「逃げる気だったでしょ」


 鴉は答えなかった。


 ファリスは眉を吊り上げる。


「助けたなら、最後まで責任取れって言ったでしょ」


「事件は終わった」


「終わってない。あたしの生活、これからなんだけど」


「君は、カリンのもとにいればいい。アリスも、マナもいる。月影の夜間部もある」


「あんたは?」


 鴉は沈黙した。


 ファリスは一歩近づく。


「また勝手に決めてる」


「私は君のそばにいる資格がない」


 その言葉に、ファリスは少しだけ目を細めた。


「資格って誰が配ってるの?」


 鴉は答えない。


「夢殿? 女帝? 裁きの門? そんなの、あたし知らない」


 朝前の風が、二人の間を抜けた。


 鴉の黒衣が静かに揺れる。


 ファリスは工具箱を床に置いた。


 金属の音が、屋上に小さく響く。


「あたしは、あんたにいてほしいって言ってる」


 鴉は、初めて彼女を見た。


 逃げるためではなく。


 遠ざけるためでもなく。


 言葉を受け止めるために。


「怖くないのか」


「怖いよ」


 ファリスは即答した。


「牙あるし、血飲むし、すぐ一人で決めるし、たまに顔が怖いし」


「……最後は関係あるのか」


「ある」


 ファリスは少しだけ笑った。


「でも、いてほしい」


 鴉は何も言わなかった。


 言葉を探しているようだった。


 長い沈黙のあと、彼は低く言った。


「帰る」


 ファリスは聞き返す。


「どこに?」


 鴉は、少し迷った。


 帰る場所など、なかった。


 天にも。


 リンボウにも。


 廃ビルにも。


 裁きの門の向こうにも。


 けれど、今は呼ぶ声がある。


 ファリスがいる。


 彼は静かに答えた。


「君が呼ぶ場所へ」


 ファリスは一瞬ぽかんとした。


 それから、照れたようにそっぽを向いた。


「じゃあ、まず朝ごはん。カリンのとこ、パンくらいあるでしょ」


「……それが帰る場所か」


「最初はそれでいいじゃん」


 ファリスは工具箱を持ち上げ、屋上の扉へ向かう。


 鴉は、少し遅れてその後に続いた。


     *


 倉庫の奥では、カリンが寝起きの顔で毛布を引きずっていた。


「朝から屋上で青春しないでくれる? ボク、睡眠不足なんだけど」


「青春じゃない」


 ファリスが即座に返す。


「じゃあ何?」


「朝ごはん」


「もっと違う」


 カリンが文句を言いながら冷蔵庫を開けると、アリスが当然のように紅茶を淹れていた。


「パンはございます。マナ様が昨日、補給品として購入されました」


 そのマナは、ソファで端末を抱えたまま眠っている。髪は乱れ、白衣はずれ、画面には未送信の報告書が開いたままだった。


 ファリスは、作業台の端に工具箱を置いた。


 ザックの工具箱。


 その横に、記録タグを置く。


 鴉の黒衣が、扉の影で静かに揺れる。


 カリンの大鎌は壁に立てかけられている。


 アリスの白い手が、紅茶のカップを並べる。


 それぞれ違う場所から堕とされた者たちが、同じ朝のテーブルにいた。


 完全な家ではない。


 安全でもない。


 明日も事件は起きる。


 帝都エデンは、今日もきっと騒がしい。


 それでも、ファリスは椅子に座った。


 鴉は少し迷い、彼女の隣ではなく、向かいの席に座る。


 カリンがにやにやする。


「おやおや。ちゃんと席につくんだ」


「座れと言われた」


「誰に?」


 鴉は答えない。


 ファリスはパンを半分に割って、皿に置いた。


「ほら」


 鴉はそれを見た。


「私は食べない」


「知ってる。でも、置いとく」


「なぜ」


「朝ごはんっぽいから」


 鴉はしばらく黙り、やがて小さく息を吐いた。


「そうか」


 ファリスは記録タグに触れた。


 そこに残る名前たちは、欠けている。


 ザックも戻らない。


 三番街も戻らない。


 けれど、朝は来た。


 そして、呼べば応える誰かがいる。


 堕とされた場所が、終わりになるとは限らない。


 そこに誰かの声があれば、そこからでも、帰る場所は作れる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ