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第8話 月影の夜間部

 帝都月影高等学院は、昼の光の中では眩しすぎる場所だった。


 カミハラ区の高台に広がる広大な敷地。正門へ続く石畳の道。左右に並ぶ銀葉樹。朝から夕方へ移り変わる空を映す硝子張りの校舎。魔導科学棟の屋上では小型飛行術式の実習機が旋回し、機械工学棟の前では生徒たちが自律歩行ドローンの調整をしている。遠くの運動場からは部活動の掛け声が聞こえ、制服姿の少年少女が笑いながら渡り廊下を歩いていた。


 ファリスは、正門の外で足を止めた。


「……ここ?」


 声が、思ったより小さく出た。


 胸元にはアリスから渡された記録タグ。肩にはザックの工具箱。服はカリンが用意したものに替えられていた。地味なパーカーに動きやすいズボン。〈ホーム〉三番街で着ていた服よりはきれいだが、この校舎の前では、それでも十分に場違いだった。


 いや、服だけではない。


 自分そのものが場違いだった。


 ここでは、みんな靴が汚れていない。


 制服の裾が焦げていない。


 朝ごはんの代わりに合成パンの欠片を工具箱へ入れたりしない。


 排熱パイプの下で寝ない。


 退去命令をテレビで知ることもない。


 きっと、天井から落ちる水を排水漏れと分類する必要もない。


 ファリスは工具箱の取っ手を握り直した。


 ザックの布が巻かれたそこだけが、自分を現実に繋ぎ止めていた。


「きれいすぎる」


 彼女が呟くと、横でカリンが笑った。


「うん。昼の月影は、だいたいそう見えるよ。帝都の未来を育てる場所。保護者が安心してお金を払える学校。生徒が部活動して、文化祭して、進路相談して、女帝政府の奨学金制度に感謝する場所」


「言い方が嫌」


「ボクはだいたい嫌な言い方をする係だからね」


 カリンは黒いドレスではなく、今日は控えめな黒いジャケット姿だった。とはいえ、レースの襟と細いリボンと磨かれた靴で、結局かなり目立っている。本人はまったく気にしていない。


 アリスはその隣で、いつものメイド服姿だった。


 彼女の方がよほど目立つはずなのに、校門脇の警備端末は一瞬だけ赤く光ったあと、何事もなかったように通行許可を出した。おそらくマナかアリス自身が、事前に処理しているのだろう。


 鴉はいない。


 少なくとも、ファリスの隣にはいない。


 彼は学院敷地の外、向かいのビルの影からこちらを見ているはずだった。未登録高位存在。ラエル反応。政府監視対象。帝都月影高等学院の敷地内に堂々と入れば、面倒なことになる。


 だから、距離を置く。


 そう説明された。


 理解はしている。


 でも、納得はしていない。


 ファリスが視線だけで周囲のビルを探すと、カリンが横から言った。


「探してるねぇ」


「探してない」


「鴉さん?」


「探してない」


「じゃあ、誰?」


「……警戒」


「便利な言葉だね」


 ファリスはむっとした。


 カリンは楽しそうに笑う。


「大丈夫。見てるよ。あの人、拾ったものを捨てられない顔してるから」


「拾われた覚えない」


「そうだね。じゃあ、勝手についてきたものを追い返せない顔」


「それも嫌」


「じゃあ、相棒を遠くから見守る顔?」


 ファリスは一瞬黙った。


 相棒。


 その言葉は、まだ口にすると少し恥ずかしい。


 でも、否定しきれない。


 カリンはそれ以上からかわず、正門へ歩き出した。


「行こう。昼の顔が終わる前に、夜の顔を見る準備をしないと」


     *


 昼の帝都月影高等学院は、まるで別世界だった。


 受付棟のロビーには学院の理念が掲げられている。


 《才能を育て、都市を支え、未来を照らす》


 硝子のケースには、魔導科学コンテストの優勝トロフィー、機械工学部の受賞記録、帝都大学への進学実績が並ぶ。壁の大型端末には、笑顔の生徒たちが映し出されていた。制服姿で実験をする生徒。文化祭で焼き菓子を売る生徒。義体の腕で楽器を弾く生徒。機械人形と並んで勉強する生徒。


 明るい。


 整っている。


 正しい場所に見える。


 ファリスは、ますます居心地が悪くなった。


 受付の女性教員が丁寧に頭を下げる。


「カリン様。ご連絡は受けております」


「様はいらないよ。清掃会社の人ってことで」


「承知いたしました、カリン様」


「聞いてないねぇ」


 女性教員は微笑むだけだった。


 彼女はファリスを見る。


 値踏みではない。


 でも、確認ではある。


 身長、年齢、服装、工具箱、胸元の記録タグ。すべてを見て、端末へ何かを入力する。


「こちらが、ファリス様ですね」


 ファリスは身構えた。


「様いらない」


「では、ファリスさん」


「さんも変」


「夜間部では呼称を選べます。後ほど登録しましょう」


 その言葉に、ファリスは少しだけ意表を突かれた。


 呼称を選べる。


 そういう仕組みが、ここにはあるらしい。


 アリスが横で静かに言う。


「ファリス様。夜間部では、本名と通称を分けて登録する制度がございます。事情により本名を名乗れない生徒への配慮です」


「配慮なんだ」


 カリンが軽く肩をすくめる。


「配慮でもあり、管理でもある。帝都の制度はだいたい二枚重ね」


 受付の女性教員は否定しなかった。


 ファリスはそれを見て、少しだけ緊張を強くした。


 学院は善人の顔をしている。


 でも、善人の顔だけではない。


 ロビーを抜けると、廊下の向こうから昼の生徒たちの声が聞こえた。


「次、実習棟だっけ?」


「部活まで時間あるから購買寄ろうよ」


「夜間部の準備で南棟閉まるって」


「また? あそこ、夜になると雰囲気変わるよな」


「見たことあるの?」


「ない。先生に怒られるし」


 制服姿の生徒たちは、ファリスたちを一瞬だけ見た。


 黒いジャケットのカリン。


 メイド服のアリス。


 工具箱を抱えたファリス。


 明らかに普通ではない組み合わせだ。


 けれど、帝都月影高等学院では、少し変な生徒や来客も珍しくないのだろう。視線はすぐに外れ、彼らは普通の学生の話題へ戻っていく。


 ファリスは、それが不思議だった。


 誰も自分を追い出さない。


 誰も「危険区域から退避してください」と言わない。


 誰も「回収対象」と呼ばない。


 ただ、少し珍しいものとして見て、通り過ぎる。


 その普通さが、胸に刺さった。


 もし、ザックが生きていたら。


 もし、〈ホーム〉三番街が壊されていなかったら。


 自分も、こういう場所に来る未来があったのだろうか。


 すぐに、ないと思った。


 戸籍も曖昧で、学費も払えず、工具箱を抱えて生きるしかなかった自分に、こんな学校は遠すぎる。


 でも、夜間部なら。


 そう言われたから、ここへ来た。


 昼の明るさが、少しずつ傾いていく。


 夕方の鐘が鳴った。


 放課後の生徒たちが部活へ向かう。教室の照明が切り替わる。表の学院が一日の顔を閉じていく。


 そして、夜が来た。


     *


 同じ校舎なのに、夜になると空気が変わった。


 南棟の廊下に、淡い月光色の照明が灯る。昼間は開いていなかった扉が開き、逆に昼間使っていた教室のいくつかは封鎖される。制服姿の生徒が減り、代わりに私服や作業服、義体メンテナンス用の簡易服を着た若者たちが増えていく。


 帝都月影高等学院・夜間特別課程。


 通称、ルナティックハイ。


 ファリスは、廊下の入口で息を呑んだ。


 そこには、自分に似た子たちがいた。


 家に帰れない子。


 本名を名乗れない子。


 片腕が義体で、授業の前に整備士から関節の調整を受けている子。


 首元に所有者登録の痕跡を隠すスカーフを巻いた機械人形の少女。


 昼は配送の仕事をしているのか、制服の下に作業用ブーツを履いた男子。


 〈ホーム〉出身者らしい、ファリスと同じ目をした子。


 名前を変えて生きている子。


 誰かの影だけが先に教室へ入っていく子。


 廊下の掲示板には、昼の学院とは違うお知らせが貼られていた。


 《身元記録の仮登録更新日》


 《義体・機械人形合同メンテナンス講習》


 《夜間労働者向け睡眠補助相談》


 《家庭帰還困難者のための一時居住申請》


 《本名呼称を希望しない生徒への配慮について》


 ファリスは立ち尽くした。


 自分だけではなかった。


 異物は、自分だけではなかった。


 この廊下では、みんな何かを隠している。失っている。壊れている。作られている。逃げている。拾われている。


 それなのに、机に座っている。


 ノートを開いている。


 教師に文句を言っている。


 購買の夜食パンを取り合っている。


 ファリスの中で、何かが変な音を立てた。


 安心ではない。


 羨ましさでもない。


 ただ、自分と同じような欠け方をした人間が、それでも学校という場所にいていいのだと知った衝撃だった。


「変な顔してるよ」


 カリンが言う。


 ファリスは反射的に返す。


「してない」


「してる。泣きそうな、怒りそうな、お腹空いてるような顔」


「最後の何」


「夜間部の購買、安いわりに美味しいよ」


「……あとで見る」


「いいね」


 アリスが静かに言った。


「ファリス様。記録タグの反応は安定しております。夜間部の仮登録システムは、あなた様の名を上書きしようとはしていません」


「そこ、疑う必要あるんだ」


「はい」


 アリスは淡々と答える。


「名簿は、人を保護する道具にも、管理する道具にもなります」


 その言葉に、ファリスは胸元のタグを握った。


 その時、廊下の向こうから声がした。


「やあ」


 軽い声だった。


 だが、聞いた瞬間、周囲の空気が少し変わった。


 夜間部の生徒たちが、さりげなく道を空ける。


 カリンが「あ」と言う。


 アリスが礼儀正しく頭を下げる。


 白銀の髪の男が立っていた。


 白い肌。紅い唇。胸元には十字の刻印。細身の体に、夜の廊下が妙に似合っている。年齢は若くも見え、大人にも見える。目は穏やかだが、底が見えない。


 ルルト。


 〈宵の明星〉。


 ファリスは、名前だけ聞いたことがある。


 裏社会の探偵。


 殺し屋。


 でも、目の前の男は、学校の廊下で教師に挨拶する知り合いのように自然だった。


「カリン。ずいぶん賑やかなものを連れているね」


「賑やかなのは帝都の方だよ。ボクたちはそれに巻き込まれてるだけ」


「巻き込まれ方が派手だ」


 ルルトはファリスを見た。


 その視線は、ハイデガーともゾルテともリリスとも違う。


 値踏みではない。


 回収でもない。


 けれど、一瞬で何かを見抜かれたような感覚があった。


「君がファリス」


 ファリスは身構える。


「なんで知ってるの」


「ここでは、名前を知らないふりをすることの方が失礼になる場合もある」


「わかりにくい」


「この学校は、だいたいそうだよ」


 ルルトは少し笑い、窓の外へ視線を向けた。


 ファリスもつられて見る。


 校舎の外、敷地の境界近く。


 遠くのビルの影に、黒いものがいる。


 鴉。


 姿ははっきり見えない。


 でも、ファリスにはわかった。


 ルルトはその影を見て言った。


「拾ったものを捨てられない顔だね」


 ファリスは目を瞬く。


 カリンが吹き出した。


「さすがルルト。言うことが刺さる」


 遠くの影が、わずかに揺れた気がした。


 たぶん、聞こえている。


 ファリスは少しだけ口元を歪めた。


「本人、嫌そう」


「だろうね」


 ルルトは悪びれない。


 それから、彼はファリスへ向き直った。


「ここは救済の場所だ」


 声が少し変わった。


 冗談の軽さが薄れる。


「だが、救済は時々、値札をつけて棚に並ぶ」


 ファリスは眉をひそめる。


「どういう意味」


「保護には書類がいる。書類には名前がいる。名前には管理番号がつく。管理番号には責任者がつく。責任者には予算と利害がつく」


 ルルトは夜間部の廊下を見る。


「ここで助かった子はいる。ここで利用された子もいる。救われることと、誰かの計画に組み込まれることは、帝都ではしばしば同じ椅子に座っている」


 ファリスは、廊下の掲示板を見た。


 身元記録の仮登録。


 義体適性検査。


 保護者欄。


 奨学金。


 どれも必要なものに見える。


 でも、必要なものだからこそ、危ないのかもしれない。


 ルルトは静かに続けた。


「安全な場所なんて、この街には少ない。だが、自分が危険の中にいると知っている場所は、知らない場所よりましだ」


 ファリスは、その言葉を胸にしまった。


 鴉やカリンやアリスがくれた言葉とは違う。


 少し冷たくて、でも、現実に近い言葉だった。


     *


 夜間部の管理室は、昼の学院の職員室より小さかった。


 机には端末が並び、壁には生徒の出席状況、保護申請、夜間講習予定、医療・義体メンテナンス予約が表示されている。窓の外には夜の校庭。部活動の声はもうなく、代わりに夜間部の生徒たちが静かに移動している。


 管理責任者として現れたのは、御門サエという女性教員だった。


 昼は生活指導担当。


 夜は、夜間部の管理者の一人。


 柔らかな声と穏やかな表情を持つ女性だったが、ファリスはすぐに、彼女が何も知らない善人ではないとわかった。カリンともルルトとも普通に話す。アリスの機械人形登録にも驚かない。鴉の存在についても、端末越しにすでに把握している。


「ファリスさんの一時保護について、学院として受け入れ準備は可能です」


 サエは丁寧に言った。


「ただし、条件があります」


 ファリスは工具箱を膝に置き、椅子に座っていた。カリンは壁にもたれ、アリスは隣に立っている。ルルトはなぜか部屋の隅の椅子に座っている。関係者なのか部外者なのか、誰も説明しない。


 鴉は部屋の中にはいない。


 窓の外、校舎の屋上の影にいる。


「条件って?」


 ファリスが聞く。


 サエは端末に項目を表示した。


「身元確認。現在の記録タグの安定確認。仮身分証の発行。保護者欄の設定。緊急連絡先。通学経路の秘匿。医療および心理面談。そして、危険存在との接触制限」


 ファリスの目が、その最後の項目で止まった。


 《未登録高位存在・ラエル反応個体との接触制限》


 危険存在。


 ラエル反応個体。


 ファリスは椅子を蹴るように立ち上がった。


「鴉を危険物みたいに書くな」


 管理室の空気が少しだけ張り詰める。


 サエは怒らなかった。


 ただ、まっすぐファリスを見る。


「ファリスさんにとって、彼がどういう存在であるかは尊重します」


「じゃあ――」


「ですが、学院側から見れば、彼は未登録高位存在であり、ラエル由来反応を持ち、政府監視網に引っかかる可能性のある危険存在です。夜間部には、脆弱な記録を持つ生徒や、義体・機械人形・影分離の問題を抱える生徒もいます。万一の場合、彼の渇きや記録干渉が生徒に影響する危険を無視できません」


 正論だった。


 腹が立つくらい、正論だった。


 鴉は自分を守った。


 でも、自分の血を欲した。


 それも事実だ。


 ファリスは拳を握る。


「でも、危険物じゃない」


「はい」


 サエは静かにうなずいた。


「危険物ではありません。だからこそ、危険性を人として扱う必要があります。危ないものを危なくないと言って近づけることは、保護ではありません」


 ファリスは言葉に詰まった。


 カリンが珍しく口を挟まない。


 アリスも黙っている。


 ルルトだけが、窓の外を見ていた。


 そこから、黒い影の声が聞こえた。


「その条件でいい」


 ファリスは振り返る。


 鴉の声だった。


 通信端末を通してではない。窓の隙間、影、夜の空気を伝って届いた声。


「君はここに残れ」


 ファリスの中で、何かがぶち、と切れた。


「勝手に決めるな!」


 管理室の端末が一瞬揺れるほどの声だった。


 ファリスは窓へ向かって叫ぶ。


「またそれ? 危ないから残れ? ここが安全だから残れ? あんたと一緒にいると危ないから? そうやって勝手に決めるなって言ったよね!」


 鴉は沈黙する。


「置いていかないって言った!」


 その言葉に、カリンが少しだけ目を細めた。


 サエは何も言わない。


 ルルトは静かに見ている。


 ファリスは胸元のタグを掴む。


「ここが悪い場所だって言ってるんじゃない。ここにいる子たちを見て、あたしだけじゃないって思った。ここなら、いつか来られるかもしれないって思った。でも、今じゃない。ザックとホームの名前がまだ《M》の中にある。リリスもゾルテも動いてる。あたしは、まだ机に座ってられない」


 窓の外の影が、わずかに動いた。


 その時だった。


 管理室の照明が落ちた。


 アリスが瞬時に反応する。


「外部通信干渉。夜間部名簿システムに不正アクセス」


 カリンが大鎌を取り出す。


「来たねぇ」


 サエが端末へ走る。


「校内警備結界、第三層まで起動。生徒避難を開始します」


 ルルトは立ち上がった。


「やれやれ。値札を見に来た客がいるらしい」


 廊下の向こうで、悲鳴が上がった。


     *


 安全な空気は、一瞬で割れた。


 夜間部の廊下を、白い小型ドローンが滑るように飛んでいる。ユニコーン・セキュリティの正式機ではない。ロゴは消され、外装も学院備品のように偽装されている。だが、ファリスにはわかった。


 あの冷たい動き。


 あの赤い索敵光。


 回収班だ。


 さらに、廊下の掲示端末が勝手に切り替わる。


 《保護対象者名簿照会中》


 《境界適合者候補検索》


 《FARIS――照合中》


 ファリスの胸元の記録タグが震える。


 アリスがすぐに手をかざした。


「ファリス様の名を固定します」


「ごめん」


「謝罪不要です。これは、わたくしの役割です」


 廊下から夜間部の生徒たちが逃げてくる。


 片腕が義体の男子。


 機械人形の少女。


 本名を隠しているらしい小柄な子。


 〈ホーム〉出身者の少年。


 みんな、昼の生徒とは違う表情で逃げていた。


 危険に慣れている顔。


 慣れたくないのに、慣れてしまった顔。


 ファリスは、胸が熱くなる。


 ここも、狙われるのか。


 保護対象者の名簿。


 行き場のない子たちの記録。


 それを使って、リリス側は境界適合者を探していた。


 救済の名簿が、狩りの名簿に変わる。


 ルルトの言葉が脳裏に蘇る。


 救済は時々、値札をつけて棚に並ぶ。


 ファリスは工具箱を開けた。


「アリス、あの名簿端末、どこから操作されてるかわかる?」


「校内ネットワークの夜間部サブサーバー経由です。ただし、回収班が廊下の追跡ドローンを中継器にしています」


「じゃあ、中継器を狂わせれば名簿検索も止まる?」


「一時的には可能です」


「なら、やる」


 カリンが前に出る。


「いいね。ボクは廊下を掃除する」


 大鎌が一閃する。


 追跡ドローンの一機が壁に叩きつけられ、火花を散らした。


 アリスは生徒たちの前に立つ。


「皆様、こちらへ。落ち着いて避難してください。機械人形、義体使用者、記録タグ保有者は優先的に結界内へ」


「アリスちゃん、先生みたい」


 カリンが言う。


「現在、臨時誘導員として行動しております」


「真面目」


「必要でございます」


 ファリスは廊下脇の設備盤へ走った。


 学院の設備は、〈ホーム〉のジャンクとは違う。きれいで、規格化されていて、鍵が多い。だが、流れは同じだ。


 電力。


 魔導信号。


 通信。


 命令。


 どこから来て、どこへ行くか。


 ザックの声が頭の奥で言う。


 見た目じゃなくて流れを見るんだよ。


 ファリスは工具箱から細針と銅線を取り出した。


 記録タグが震える。


 追跡ドローンが赤い光を向ける。


『対象ファリス。保護手続きに移行します』


「その言葉、嫌いだって言ったでしょ!」


 ファリスは設備盤のカバーを外す。


 正規端末では入れない。


 だったら、清掃ドローンの時と同じように、別系統から割り込む。


 夜間部の廊下には、義体メンテナンス用の補助電源が走っている。それは医療設備と同じサブネットに繋がっている。さらに、そのサブネットは出席管理端末と一時的に同期する。なぜなら、夜間部では義体や機械人形のメンテナンス状態も出席可否に関わるからだ。


 ザックなら、喜んで分解しただろう。


 ファリスは歯を食いしばる。


「兄貴、こういう高級機材好きだったでしょ」


 自分で言って、少し泣きそうになった。


 でも、手は止めない。


 銅線を噛ませる。


 細針で絶縁層を破る。


 アリスの記録タグ同期信号を一瞬だけ借りる。


「アリス!」


「はい」


「タグの補助信号、こっちに一拍だけ流せる?」


「危険です。ファリス様の名の固定が弱まります」


「一拍だけ!」


 アリスは一瞬だけ沈黙し、判断した。


「三秒です」


「十分!」


 記録タグの光がファリスの指先へ流れる。


 設備盤が青白く光った。


 追跡ドローンの赤い索敵光が乱れる。


『対象――ファ――照合――名簿――エラー』


 夜間部の掲示端末が次々に乱れた。


 《FARIS》の文字が崩れ、代わりに大量のダミー名が流れる。


 夜食パン。


 排水漏れ。


 工具箱一号。


 ザック修理店。


 ファリスは思わず叫んだ。


「ちょっと、変なダミー入った!」


 カリンがドローンを斬りながら笑う。


「いいじゃん、個性的で」


「よくない!」


 アリスが淡々と言う。


「ダミー名の生成元はファリス様の生活記録と思われます」


「最悪!」


「ですが、追跡精度は低下しています」


「ならいい!」


 夜間部の生徒たちが避難していく。


 アリスが影縫いで通路を固定し、カリンが敵を非殺傷で制圧する。サエが校内放送で冷静に誘導し、ルルトは廊下の角に立っていた。


 逃げようとした回収班の一人が、何もない場所で足を止める。


 いや、止められている。


 彼の影が、床に縫い付けられていた。


 ルルトは微笑む。


「そちらは出口じゃないよ」


 男が武器を抜こうとする。


 次の瞬間、ルルトの手が男の喉元に添えられていた。


 殺してはいない。


 だが、動けば終わることだけは伝わる。


「学校で刃物を振り回すのは感心しないね」


「おまえもだろ」


 カリンが突っ込む。


「僕は今日は見学者だ」


「見学者が逃走経路塞ぐ?」


「廊下に立っていただけさ」


 ルルトは平然と言った。


 その時、別の回収班が天井から降りた。


 学院の警備結界の内側に潜んでいたらしい。保護制度に紛れ込んでいたのは、職員や警備員だけではなかった。設備業者、臨時講師、支援団体の名義。いくつもの顔で入り込んでいたのだ。


 男の手が、ファリスの肩へ伸びる。


 ファリスは設備盤に繋いだまま動けない。


 カリンは遠い。


 アリスは生徒の避難結界を支えている。


 ルルトは別の敵を押さえている。


 鴉は、外にいる。


 自分が出れば、政府側にも見つかる。


 そう言って、距離を置いている。


 ファリスは、叫んだ。


「来て!」


 その声は、廊下を抜け、窓を越え、夜の校庭へ届いた。


 次の瞬間、窓ガラスが割れた。


 黒衣が夜を裂いて降り立つ。


 鴉だった。


 迷いはなかった。


 彼はファリスと回収班の間に立ち、伸びていた手を黒い爪で弾いた。爪は男の腕を切断しない。だが、仕込まれていた捕獲具だけを正確に砕く。


 男が後退する。


「未登録高位存在――」


 言い終える前に、黒衣が男の身体を壁へ縫い付けた。


 鴉は振り返らない。


 ただ言った。


「呼んだな」


 ファリスは設備盤に繋いだまま、息を切らして答える。


「呼んだ」


「来た」


「うん」


 それだけだった。


 でも、前とは違った。


 勝手に現れたのではない。


 勝手に守ったのでもない。


 ファリスが呼び、鴉が来た。


 カリンが大鎌を振りながら口笛を吹く。


「いいねぇ。保護者から相棒に一歩前進?」


「黙れ」


 鴉が言う。


 カリンは笑った。


 アリスは淡々と告げる。


「追跡ドローン、全機沈黙。夜間部名簿検索、停止しました」


 ルルトが拘束した男を床へ転がす。


「回収班はこれで全部かな。もっとも、名簿を覗いた目までは、ここで全部潰せないだろうけど」


 サエが青ざめた顔で端末を見る。


「夜間部の保護制度が利用された……」


 ルルトは静かに言った。


「制度は扉だからね。救う者も入る。狩る者も入る」


 夜間部の廊下には、壊れたドローンと、避難した生徒たちの落としたノートと、ファリスの変なダミー名がまだちらつく掲示端末が残っていた。


 《工具箱一号》


 《排水漏れ》


 《ザック修理店》


 《FARIS》


 ファリスはそれを見て、少しだけ息を吐いた。


 自分の名は、まだ消えていない。


     *


 事件後、管理室の空気は最初より重くなっていた。


 回収班はカリンとルルトによって拘束され、学院側の裏処理に回された。警察へ渡すか、女帝政府特別封印課へ渡すか、あるいは別のルートで吐かせるかは、ファリスには説明されなかった。


 それもまた、夜間部の裏側なのだろう。


 サエは深く頭を下げた。


「申し訳ありません。保護制度に紛れ込まれていたことは、学院側の重大な失態です」


 ファリスは何も言えなかった。


 怒るべきなのかもしれない。


 でも、サエだけを責めれば済む話ではないことくらい、もうわかっていた。


 ここは救済の場所だ。


 でも、救済には穴がある。


 その穴から、狩る者が入ってくる。


 サエは続けた。


「ファリスさんの受け入れについては、いったん保留とさせてください」


 カリンが眉を上げる。


「危険だから?」


「いいえ」


 サエは首を振った。


「彼女自身が、まだ選べる状態ではないからです」


 ファリスは顔を上げる。


「どういう意味」


「ここへ逃げ込むことはできます。今すぐ仮登録し、保護者欄を設定し、通学記録を偽装し、あなたの名を夜間部の中に隠すこともできるでしょう」


 サエは静かに言った。


「ですが、あなたはまだ事件の続きを背負っています。〈ホーム〉三番街の名。ザックさんの残響。《M》の中枢。鴉さんの裁判記録。ここへ入れば、それらが消えるわけではありません」


 ルルトが窓際で言った。


「学校は逃げ場所にはなる。だが、事件の続きを背負ったまま机に座るのは難しい」


 ファリスは夜間部の廊下を思い出した。


 家に帰れない子。


 本名を名乗れない子。


 義体を調整しながら授業を受ける子。


 〈ホーム〉出身者。


 機械人形と暮らす子。


 名前を変えて生きている子。


 あの場所に座りたいと思った。


 驚くほど強く。


 ノートを開き、授業を受け、購買で夜食パンを買い、誰かとくだらない話をしたいと思った。


 でも、今ではない。


 ザックの名前が、まだ《M》の中にある。


 〈ホーム〉の人たちの名前も。


 鴉の死んだ名も。


 それを置いたまま机に座れば、自分はきっと、授業中ずっと出口を見ている。


 逃げるためではない。


 戻るために。


 ファリスは工具箱を抱え直した。


「全部終わったら」


 彼女は言った。


「もう一回来る」


 サエは静かにうなずいた。


「その時は、改めて手続きをしましょう。呼称欄も、あなた自身に選んでもらいます」


「ファリスでいい」


 少し考えてから、ファリスは付け足した。


「〈ホーム〉三番街のファリス」


 サエの表情が、少しだけ柔らかくなった。


「記録しておきます。仮ではなく、あなたの希望として」


 アリスが隣で小さくうなずく。


「ファリス様の名、安定しております」


 カリンが笑う。


「じゃあ、夜食パンだけ買って帰る?」


「今?」


「今」


「……買う」


 ファリスが答えると、カリンは満足そうに手を叩いた。


「いいね。帝都で生き残るには、食べられる時に食べるのが基本だから」


 鴉は窓の外にいた。


 黒衣は夜に紛れている。


 彼は、ファリスの選択を否定しなかった。


 残れとも、来るなとも、逃げろとも言わなかった。


 ただ、静かにそこにいた。


 ファリスは窓越しに彼を見る。


「鴉」


 声に出すと、黒い影がわずかに動いた。


「行くよ」


 鴉は短く答えた。


「わかった」


 置いていかない。


 その約束が、まだ生きている。


 夜の帝都月影高等学院。


 救済と搾取が同じ廊下に並ぶ場所。


 ファリスはその扉を、一度は閉じる。


 逃げ込むためではなく、いつか自分で戻ってくるために。


 帰る場所はまだない。


 でも、候補はできた。


 それだけで、夜の先にほんの少しだけ道が見えた。

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