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第7話 ラエルの王

 白い光は、倉庫の影を殺した。


 ミナト区第七物流倉庫。


 閉鎖済みとされたユニコーン・セキュリティの旧施設は、今や名前を奪われた者たちの収容所になっていた。透明なカプセルに眠らされた元〈ホーム〉三番街の住民たち。胸元に埋め込まれた黒いタグ。管を通じて吸い上げられるエイース。中央に組まれた疑似門。白い羽根のような結晶。赤黒い魔導液。企業製の制御盤。


 その中心へ、ゾルテは当たり前のように現れた。


 白い衣。


 長い髪。


 整いすぎた顔。


 人間を模した姿でありながら、人間であろうとする気配がまったくない。そこに立っているだけで、周囲の空間が彼に合わせて書き換えられていくようだった。


 リリスは笑みを消していた。


 カリンは大鎌を構え、アリスは記録タグと影縫いの術式を同時展開している。鴉はファリスの前に立ち、黒衣を広げていた。


 ファリスは、胸元の記録タグを握りしめる。


 タグは激しく震えていた。


 消えた人たちの名が、ノイズのように流れ込んでくる。


 ギンジ。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 知らない名。


 壊れた名。


 助けを求める声になりきれない記録の破片。


 それらの向こうで、ゾルテの白い光が笑っていた。


「その子が、アズェルを地上につなぎ止めた鎖か」


 ゾルテは言った。


 鴉の黒衣が、ファリスの前で濃くなる。


「近づくな」


「またそれか」


 ゾルテは小さく笑った。


「おまえの言葉は、いつも拒絶ばかりだ。近づくな。触れるな。呼ぶな。その名は死んだ。そうやって遠ざけて、何を守れた?」


 鴉は答えない。


 ゾルテは一歩踏み出した。


 ただ一歩。


 距離はまだあった。倉庫中央の疑似門を挟み、鴉たちとゾルテの間には十数メートルの空間がある。カリンなら一息で詰められる距離。アリスなら影縫いが届く距離。鴉なら黒衣が触れる距離。


 だが、ゾルテが歩いた瞬間、その距離の意味が壊れた。


 彼はまだ中央にいる。


 そう見えた。


 次の瞬間、ファリスの背後に白い気配があった。


「っ!」


 鴉の黒衣が反射より早く跳ねる。


 ファリスの腰に影が巻きつき、横へ引く。彼女がいた場所を、白い指が通り過ぎた。触れていない。ただ、空間を撫でただけだ。


 それだけで、ファリスの記録タグが悲鳴のように鳴った。


 FARIS.


 FA■■S.


 境界――


 鍵――


 所有――


 ファリスはタグを押さえて膝をつく。


 カリンが大鎌を横薙ぎに振るった。


 黒いドレスが翻る。


「気安く女の子に触ろうとしないでくれるかなぁ!」


 刃がゾルテの首筋を狙う。


 確かに届いた。


 そう見えた。


 だが、刃が通ったのは、白い残像だった。


 ゾルテの本体は、カリンの背後にいる。


「美しいな」


 ゾルテが呟く。


「リンボウの子は、己の姿を飾る術だけはよく覚える」


「褒めてるなら、報酬ほしいねぇ」


 カリンは振り向きざまに柄を突き出す。


 ゾルテは受けない。


 避けもしない。


 彼は、そこにいなくなる。


 距離が消える。


 場所が意味を失う。


 目の前にいたはずの身体が、次の瞬間には天井近くの梁の上にあり、次には疑似門の枠の横にあり、さらに次にはアリスのすぐ前に立っていた。


 アリスの瞳が蒼く光る。


「影縫い、展開」


 床に伸びたゾルテの影を、黒い針のような術式が縫い止める。


 影が固定される。


 普通の相手なら、それで動けない。


 だが、ゾルテはアリスを見て、少しだけ目を細めた。


「人が天使を作ったか。リンボウらしい醜い冗談だ」


 アリスは、一瞬も怯まなかった。


「わたくしはアリスでございます。冗談ではございません」


「そう名乗るのか」


「はい。わたくしが、わたくしを説明するために」


「説明」


 ゾルテは愉快そうにその言葉を噛んだ。


「作られたものが、自らを説明する。よい。実にリンボウらしい。壊れた世界ほど、ものに名を与えたがる」


 アリスの影縫いが軋む。


 ゾルテの影が、床から剥がれた。


 影を縫ったはずなのに、影だけがそこに残り、ゾルテ本体は一歩横に出ている。


 アリスの蒼い瞳がわずかに揺れた。


「影と本体の対応関係が固定されていません」


 マナがいれば舌打ちしただろう。だが、ここにマナはいない。隠し工房で、夢殿側の監視とユニコーンの通信を攪乱している。


 今ここにいるのは、カリン、アリス、鴉、ファリス。


 そして、ゾルテ。


 リリスは通路の奥へ下がり、様子を見ている。驚きはすでに消え、代わりに計算する目になっていた。彼女もまた、ゾルテを完全には制御できていない。それだけはファリスにもわかった。


 カリンが低く言う。


「厄介だねぇ。速いんじゃない。距離がおかしい」


「距離とは、リンボウの鈍い肉が頼る尺度だ」


 ゾルテは答えた。


「余が立つ場所を、余が決める。それだけのこと」


 鴉が黒衣を広げる。


「ゾルテ」


「ようやく余を見るか、アズェル」


「その名で呼ぶな」


「ならば、鴉か?」


 ゾルテは笑う。


「黒い鳥。地上の子どもに名付けられた、哀れな影。よい名だ。おまえの墜落には似合っている」


 鴉の黒衣が、静かに震える。


 怒りではない。


 ファリスには、もう少しわかるようになっていた。


 鴉の黒衣は、怒りだけで動かない。痛みでも動く。恐怖でも動く。自分が聞きたくない名を突きつけられた時、彼の影はいつも少しだけ輪郭を失う。


「ファリス、下がれ」


 鴉が言う。


「説明は?」


 ファリスは震える声で聞いた。


 今でも怖い。


 ゾルテが怖い。


 距離の意味を壊す白い男が、自分を鍵だの鎖だのと呼ぶことが怖い。


 それでも、鴉との約束を手放したくなかった。


 鴉は一瞬、黙る。


 そして言った。


「奴は、君を奪うためにここへ来た。君の名前と、君が抱えた〈ホーム〉の残響を、疑似門に繋ぐために」


「どうすればいい?」


「私の背から出るな」


「それだけ?」


「それだけだ」


「……わかった」


 ファリスは下がった。


 背から出ない。


 ただし、見ないとは言っていない。


 彼女は工具箱を足元に置き、記録タグを握りしめた。


 逃げないために。


 自分がここにいる理由を、忘れないために。


     *


 ゾルテは、すぐには攻めてこなかった。


 倉庫中央の疑似門の前に立ち、周囲のカプセルを眺める。名前を奪われた元住民たち。胸に黒いタグを埋められ、眠りながらエイースを吸われている人々。人間を材料にした装置。


 ゾルテはそれを見ても、怒らない。


 憐れまない。


 ただ、退屈そうに言った。


「雑だな」


 リリスが静かに答える。


「人間の企業技術としては上出来よ」


「人間の技術だから雑なのだ」


「あなたは協力するはずだった」


「余は利用を許しただけだ。支配を許した覚えはない」


 リリスの目が細くなる。


「計画には段階がある」


「段階、計画、承認、契約。リンボウの者たちは、弱い己を慰めるために言葉を積む」


 ゾルテは鴉へ視線を戻した。


「だが、アズェル。おまえは違う。おまえは知っているはずだ。言葉など、名など、秩序など、強い者が弱い者へ首輪をかけるための道具に過ぎぬ」


 鴉は低く答える。


「違う」


「違わぬ」


 ゾルテは一歩、前へ出た。


 今度は距離を壊さなかった。


 ゆっくりと歩く。


 白い足音が、倉庫の床に落ちる。


「ラエル刑」


 その言葉が出た瞬間、鴉の黒衣が強張った。


 ファリスの記録タグも震える。


 アリスが小さく視線を動かした。


 カリンは黙っている。


 ゾルテは、講義するように続けた。


「本来の名を剥奪する。天界における所属記録を消去する。高次循環を断つ。リンボウへ堕とす。人間のエイースなしでは存在を保てぬ身体へ変質させる。そして、裁きの門、タルタロス、邪柩への恐怖を魂に刻む」


 彼は微笑む。


「美しい刑罰だと思わぬか。罪人を罰するために、罪を犯さねば生きられぬ身体へ作り替える。飢えよ、だが喰らえば罪だ。生きよ、だが生きるほど誰かを奪え。耐えよ、だが耐えれば朽ちろ。天界の裁定者どもは、実に趣味がよい」


 ファリスは、喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 知識としては、前に聞いた。


 マナから、アリスから。


 鴉の核は欠けている。


 エイースを摂れば回復する。


 でも、それは相手の名前や記憶を傷つける。


 けれど、ゾルテの口から語られると、それは設定ではなく、拷問の手順に聞こえた。


 鴉は、そうされたのだ。


 名前を奪われた。


 帰る場所との循環を断たれた。


 人を傷つけなければ存在を保てない身体にされた。


 そして、そのことを自分の罪として抱え続けている。


「不当な刑罰だ」


 ゾルテの声が低くなる。


「余はそれを認めぬ。人間を糧にすることは悪ではない。そういう身体にしたのは裁きの門であり、天界であり、門を管理しながらリンボウに王国を築いた女帝派だ。奴らが余らをこの形にした。ならば、余らがこの身体に従うことの何が罪だ?」


 鴉は答えた。


「だからといって、人を喰ってよい理由にはならない」


 その声は、揺れていた。


 怒りではない。


 自分自身へ何度も突きつけてきた言葉を、また言っている声だった。


 ゾルテは笑った。


「では、おまえは何を喰って生きている? 罪悪感か?」


 鴉が沈黙する。


 ゾルテは容赦しない。


「何百年も、何千年も、飢えを抱え、人の匂いに怯え、人の血を欲する己を呪いながら、それでも死ねずにいる。おまえが拒んだエイースの代わりに喰らっているものは何だ。償いか。後悔か。自己嫌悪か」


「黙れ」


「黙らぬ」


 ゾルテは、初めて声に熱を帯びさせた。


「おまえのその姿勢こそ、裁きの門の勝利だ。奴らはおまえを罰した。おまえはその罰を、いまだに正しいものとして抱いている。名を奪った者たちの代わりに、自分で自分を裁き続けている。アズェル、おまえほど従順な囚人はいない」


 鴉の黒衣が激しく揺れた。


 ファリスは思わず一歩出そうになった。


 鴉が片手を上げ、止める。


 来るな、ではない。


 下がれ、でもない。


 今は、見ないでくれ。


 そんな手だった。


 ファリスの胸が痛んだ。


 ゾルテは、鴉の奥の傷を知っている。


 誰よりも深く抉る言葉を選んでいる。


 カリンが大鎌を肩に担ぎ直す。


「長話の途中悪いけどさぁ」


 甘い声。


 だが、目は冷たい。


「自分が酷い目に遭ったからって、他人を食べていい理由にはならないんじゃない?」


 ゾルテはカリンを見る。


「リンボウの花よ。おまえは食べぬのか?」


「食費はかかるけど、人は食べないかな」


「殺すことはあるだろう」


「あるよ」


 カリンは即答した。


「でも、ボクは殺した相手を食べ物とは呼ばない」


「言葉遊びだ」


「そうだね。でも、その言葉遊びで踏み止まれることもある」


 ゾルテは少しだけ笑った。


「美しいだけでなく、よく喋る花だ」


「ありがと。報酬は?」


「余の臣下にしてやろう」


「安すぎ」


 カリンは笑い、また一歩ファリス側へ寄った。


 アリスも静かに術式を張り直している。影縫いが通じないなら、記録固定と空間検知で補助する。彼女の蒼い瞳はゾルテの動きを追い続けていた。


 それでも、誰もゾルテを倒せるとは思えなかった。


 ゾルテは強い。


 速いのではない。


 硬いのでもない。


 彼は、ここにいる者たちとは立っている層が違う。


 倉庫の床に立っているようで、実際には別の場所からこちらを覗いているような気配があった。


     *


 ファリスは、怖かった。


 ゾルテが怖い。


 白い光が怖い。


 距離を壊す力が怖い。


 自分を鎖と呼ぶ目が怖い。


 でも、それだけではなかった。


 彼が語るラエル刑の残酷さに、胸の奥が冷えた。


 鴉とゾルテは同じ種類の存在だ。


 名を奪われた。


 天界循環を断たれた。


 人のエイースを求める身体にされた。


 裁きの門への恐怖を刻まれた。


 同じ罰。


 同じ飢え。


 同じ喪失。


 けれど、二人はまったく違う。


 鴉は人間を見るたび、自分を傷つける。


 ゾルテは人間を見るたび、世界を傷つける。


 どちらも痛みから出ている。


 でも、向いている方向が違う。


 ファリスは、気づけば口を開いていた。


「あんた」


 声は震えていた。


 ゾルテがファリスを見る。


 鴉がわずかに振り返る。


 ファリスはタグを握りしめる。


「あんた、鴉と似てる」


 倉庫の空気が止まった。


 ゾルテは面白そうに目を細める。


「ほう」


「でも、全然違う」


「何が違う」


 ゾルテはゆっくり問い返した。


 ファリスは喉を鳴らした。


 怖い。


 言えば、触れられるかもしれない。


 距離の意味を壊され、目の前に立たれるかもしれない。


 それでも、言葉が出た。


「鴉は、痛そうにしてる」


 鴉の黒衣が、かすかに揺れた。


「あんたは、痛くないふりしてる」


 ゾルテの表情が初めて崩れた。


 ほんの一瞬。


 白い美貌の表面に、ひびのようなものが走った。


 怒りではない。


 驚きでもない。


 見られたくないものを見られた顔だった。


 ファリスは続けた。


「鴉は、人を傷つけそうになる自分を嫌がってる。間違ってるかもしれないけど、苦しそうにしてる。あんたは、苦しくないって顔して、人間なんか食べ物だって言ってる。でも、ほんとは怒ってる。痛いから怒ってる。痛くないふりをするために、みんなを下に見てる」


「黙れ」


 ゾルテの声が低くなった。


 初めて、冷たい余裕が消えた。


 鴉がファリスの前へ出る。


 カリンも大鎌を構える。


 アリスの記録タグが一斉に展開する。


 ファリスは止まらない。


「ザックが死んだ時、あたしも笑った。痛すぎて、笑った。何も感じないふりした。でも、痛くないわけじゃなかった」


 彼女はゾルテを見た。


「だから、わかる。あんた、痛くないふりしてるだけだ」


 白い光が、倉庫全体を満たした。


 カプセルが軋む。


 疑似門が震える。


 リリスが小さく息を呑んだ。


 ゾルテはファリスを見ている。


 その目には、今までのような値踏みがなかった。


 怒り。


 殺意。


 そして、ほんの一滴だけ、別のもの。


「人の子が」


 ゾルテは呟いた。


「余を憐れむか」


「憐れんでない」


 ファリスは即座に返した。


「怖い。あんたのこと、すごく怖い。だから、わかったことを言っただけ」


 ゾルテは沈黙した。


 長い沈黙だった。


 そして、笑った。


 だが、さっきまでの笑いとは違う。


 薄く、硬く、どこか壊れた笑い。


「面白い」


 彼は言った。


「実に面白い。アズェル、おまえは妙なものを拾ったな」


「拾ったのではない」


 鴉が低く言う。


 ゾルテは目を細める。


「では、何だ」


 鴉は答えられなかった。


 ファリスも、答えられなかった。


 保護者ではない。


 所有者でもない。


 餌でもない。


 鎖でもない。


 相棒、という言葉はまだ少し早い。


 けれど、それに近い何かになりかけている。


 ゾルテは、それを察したように笑った。


「今宵は退こう」


 リリスが目を見開く。


「ゾルテ」


「予定を決めるのは余だと言った」


 ゾルテはリリスへ視線を向けるだけで、彼女を黙らせた。


 それから、鴉を見る。


「だが、土産をやろう、アズェル」


「要らない」


「おまえは欲しがる」


 ゾルテは、白い指で疑似門の枠を撫でた。


 装置が震え、中央に小さな映像のようなものが浮かぶ。


 それは記録だった。


 古い文字。


 裁判台。


 白い門。


 黒い影。


 無数の声。


 その中に、アズェルという名がかすかに浮かび、すぐに削られる。


 鴉の身体が強張った。


 ファリスは息を呑む。


 ゾルテは言った。


「おまえの名を奪った裁判記録は、まだ残っている」


 倉庫の空気が凍った。


「どこに」


 鴉の声は、自分でも抑えられなかったように鋭かった。


 ゾルテは満足そうに笑う。


「疑似裁きの門《M》。その中枢に組み込まれている。リリスたちは知らぬまま利用しているがな。おまえの裁定記録、名の剥奪、堕落判決。その残骸は、門を模すにはよい材料だったのだろう」


 リリスの表情がわずかに動いた。


 彼女も初耳らしい。


 鴉の黒衣が、ゆっくりと揺れる。


 裁判記録。


 自分の名を奪った記録。


 それが残っている。


 見れば、わかるかもしれない。


 自分が本当に罪人だったのか。


 無実だったのか。


 誰に裁かれたのか。


 なぜ、アズェルという名が殺されたのか。


 それは救いかもしれない。


 あるいは、最後の断罪かもしれない。


 ファリスにも、それがわかった。


 鴉の背中が、震えていた。


 ゾルテは白い光に包まれていく。


「見に来るがいい。おまえがまだ、自分の名を見る勇気を持っているなら」


「ゾルテ!」


 鴉が踏み出す。


 だが、白い光はすでに距離の意味を壊していた。


 ゾルテの姿が遠ざかる。


 声だけが残る。


「そして、人の子よ」


 ファリスは顔を上げた。


「おまえが鎖でないと言うなら、証明してみせよ。アズェルを縛るのか、解くのか。余は楽しみにしている」


 白い光が消えた。


 倉庫に残ったのは、疑似門の不安定な唸りと、カプセルの中で眠る元住民たちの微かな呼吸だけだった。


 リリスは、もう通路の奥へ下がっていた。研究員たちも混乱している。ゾルテの介入で、倉庫内の制御は乱れている。


 カリンが大鎌を構える。


「追う?」


 鴉は動かない。


 アリスが冷静に言う。


「現在、疑似門の制御が不安定です。住民の生命維持を優先すべきです」


 カリンは小さく舌打ちする。


「だよねぇ」


 ファリスは、鴉を見た。


 彼は白い光が消えた場所を見つめている。


 まるで、そこにまだ自分の死んだ名前が浮かんでいるかのように。


     *


 その夜、彼らは倉庫から撤退した。


 全員を救えたわけではない。


 ギン爺を含む数名は、アリスの記録固定とカリンの拘束で確保できた。だが、リリスは疑似門の一部を切り離して逃げた。研究員の何人かも消えた。カプセルの中の住民たちも、全員をすぐに動かすことはできなかった。


 マナへ連絡し、隠し工房から遠隔で生命維持結界を張ってもらう。


 政府に通報すれば保護という名で回収される危険がある。


 通報しなければ、住民たちの治療が遅れる。


 正しい答えは、どこにもなかった。


 帝都では、いつもそうだ。


 正しさより先に、損害と危険と契約と隠蔽が並ぶ。


 カリンは後始末のために残った。


 アリスも記録固定を続けている。


 ファリスと鴉は、旧倉庫街の外、潮風の当たる桟橋にいた。


 海は黒かった。


 東京湾の向こうには、死都東京の封鎖結界が遠く霞んでいる。そこに裁きの門があるという話を、ファリスはもう単なる神話として聞けなくなっていた。


 門。


 裁き。


 名の剥奪。


 タルタロス。


 ラエル刑。


 それらは、鴉の身体の中にあった。


 ファリスは桟橋の錆びた手すりに寄りかかり、記録タグを握った。


「あれ」


 彼女は言った。


「見に行くの?」


 鴉は答えなかった。


 海風が黒衣を揺らす。


 白い包帯代わりの抑制布が、傷口の上で淡く光っている。


「裁判記録」


 ファリスは続けた。


「あんたの名前を奪った記録。ゾルテが言ってたやつ」


「罠だ」


「だと思う」


「なら、行くべきではない」


「でも、行きたいんでしょ」


 鴉は、わずかに顔を伏せた。


 ファリスは、それで答えがわかった。


「怖い?」


「……」


「自分が本当に悪かったって書いてあるかもしれないから?」


 鴉の黒衣が揺れる。


「それだけではない」


「じゃあ、何」


「もし、無実だったとしても」


 鴉の声は低い。


「私は、すでに多くを失った。名も、循環も、帰る場所も。人の血を欲する身体も、この手が傷つけたものも、消えない。無実だと記録されていたところで、今の私が変わるわけではない」


「じゃあ、見なくていいの?」


「わからない」


 鴉は、初めてそう言った。


 わからない、と。


 ファリスは少し驚いた。


 鴉はいつも、短く断ち切るように言う。


 帰れ。


 逃げろ。


 近づくな。


 必要ない。


 要らない。


 でも今、彼はわからないと言った。


 それは、弱さではなく、扉が少し開いた音のように聞こえた。


 ファリスは海を見た。


 黒い水面に、帝都の光が歪んで映っている。


「あたしは行く」


 鴉が彼女を見る。


「ザックとホームの名前を取り返すために」


 ファリスは工具箱の取っ手を握る。


「あの《M》ってやつの中に、みんなの名前も使われてるんでしょ。ギン爺も、トモさんも、ユリ姉も、知らない人たちも。だったら、行く。あたしは、もう名前を消されるのを見てるだけは嫌」


「危険だ」


「知ってる」


「ゾルテがいる」


「怖い」


「リリスもいる」


「嫌い」


「《M》は疑似裁きの門だ。君の名も、吸われるかもしれない」


「アリスのタグ持ってる」


「完全ではない」


「それも知ってる」


 ファリスは鴉を見た。


「あんたが自分の名前を見るのが怖いなら、あたしが先に見る」


 鴉の表情が変わった。


 怒り。


 恐怖。


 そして、剥き出しの感情。


「やめろ」


 強い声だった。


 ファリスは息を呑む。


 鴉が、初めて彼女へ向けて強く言った。


「君を失いたくない」


 海風が止まったように感じた。


 ファリスは、鴉を見つめる。


 彼の目は、黒い。


 深く、暗く、まだ渇きを抱えている。


 でも今、その奥にあるのは飢えではなかった。


 恐怖だった。


 ファリスを失うことへの恐怖。


 ザックを失ったファリスには、その怖さが少しわかった。


 だからこそ、彼女は逃げなかった。


「だったら」


 ファリスは言った。


「だったら、あたしを置いていくな」


 鴉の黒衣が静かに揺れる。


「置いていかれるの、もう嫌だ。勝手に守られて、勝手に遠ざけられて、勝手に決められるのも嫌。危ないなら、一緒に危ないって言って。怖いなら、怖いって言って。行くなら、一緒に行く。止まるなら、理由を言って」


 ファリスは涙をこらえながら続けた。


「あたしは子どもかもしれない。弱いかもしれない。あんたみたいに戦えない。でも、名前を呼ぶことはできる。工具を使うこともできる。ザックが残したものを、使える」


 鴉は何も言わない。


「だから、置いていくな」


 長い沈黙。


 潮風が戻る。


 遠くで、港湾ドローンの警告灯が赤く瞬いた。


 鴉は、ゆっくり息を吐いた。


「……努力する」


 ファリスは目を細めた。


「また弱い」


「約束は、重い」


「じゃあ、重くして」


 鴉はファリスを見た。


 しばらくして、低く言った。


「置いていかない」


 ファリスは、ようやく少しだけ息を吸えた。


「うん」


「ただし、危険なら下がれ」


「説明したらね」


「する」


「弱くない?」


「する」


 今度は、はっきり言った。


 ファリスは、小さくうなずいた。


 桟橋の上で、二人はしばらく海を見ていた。


 帰る場所はまだない。


 名前を奪った門は、まだ遠い。


 ゾルテは待っている。


 リリスは動いている。


 《M》の中枢には、鴉の死んだ名と、〈ホーム〉の消された名が眠っている。


 それでも、ファリスは初めて思った。


 一人で行くわけではない。


 置いていかれないなら、歩ける。


 鴉もまた、初めて思ったのかもしれない。


 守るために遠ざけるだけでは、もう足りないのだと。


 白いゾルテの光が消えた夜、黒い鴉と〈ホーム〉の少女は、同じ方角を見ることを覚え始めていた。

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