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第6話 名前を喰う者たち

 帝都エデンでは、人は二度消える。


 一度目は、身体がいなくなる時。


 二度目は、記録から名前が消える時。


 身体が消えただけなら、まだ探せる。監視カメラに残る。交通記録に残る。魔導端末の決済履歴に残る。裏社会の噂に残る。誰かが「昨日ここにいた」と証言する。靴跡や煙草の吸い殻や、食べ残しの皿が残る。


 だが、記録から名前が消えると、街はその人間を最初からいなかったものとして扱い始める。


 端末を叩いても、該当者なし。


 行政窓口へ行っても、登録なし。


 病院へ問い合わせても、受診履歴なし。


 勤め先へ聞いても、雇用記録なし。


 家族が泣いても、近所の者が覚えていても、街の記録網が首を横に振る。


 その人は、帝都エデンに存在しなかった。


 そういうことになる。


 ファリスがそれを知ったのは、〈ホーム〉三番街が消えてから三日目の朝だった。


 アリスの隠し工房は、カミハラ区とミナト区の境界にある古い研究棟の地下にあった。表向きには閉鎖済みの機械人形部品倉庫。実際には、マナとアリスが使う記録遮断付きの工房で、壁には使いかけの魔導回路、壊れた人形の腕、半分分解された飛行箒、用途不明の結界具が並んでいる。


 安全な場所ではない。


 ただし、外よりはまし。


 それがカリンの評価だった。


 ファリスは、工房の隅に作られた簡易ベッドで目を覚ました。眠った気はしなかった。まぶたを閉じれば、ザックが倒れるところが見える。白い疑似門が開く。ハイデガーが笑う。鴉の牙が伸びる。工具箱の留め具が鳴る。


 だから、起きていた方がまだ楽だった。


 胸元には、アリスから渡された銀色の記録タグが下がっている。


 ファリス。


 ザックの妹。


 〈ホーム〉三番街のファリス。


 自分が自分であることを固定するための小さな札。


 そのタグが、朝からずっと震えていた。


 最初は、鴉の具合が悪いせいだと思った。


 鴉は工房奥の隔離結界の中で眠っている。眠っているというより、意識を落とされている。マナの処置で傷は塞がりかけていたが、記録核の欠損と渇きはどうにもならない。アリスの抑制布がなければ、黒衣が暴れて工房の壁を削ってしまうらしい。


 でも、タグの震えは鴉に反応しているのではなかった。


 タグの表面に、読めない文字が浮かんでは消える。


 ギ――


 トモ――


 ユリ――


 屋台――


 三番――


 やめ――


 ファリスは息を呑んだ。


 それは、言葉になりきれない名前だった。


 完全に消えたはずの〈ホーム〉三番街から、誰かがまだ呼んでいる。


「アリス!」


 ファリスは工具箱を抱え、工房の奥へ走った。


 アリスは作業台の前で、静かに記録タグの予備部品を整えていた。金色の髪はきちんと結ばれ、黒いメイド服には埃ひとつない。周囲の工房が混沌としているほど、彼女だけが異様に整って見える。


 ファリスが駆け込むと、アリスは顔を上げた。


「ファリス様。心拍が上昇しております」


「これ」


 ファリスは胸元のタグを掴む。


「変。誰かの名前が出る。三番街の人たちかもしれない」


 アリスは一瞬で表情を引き締めた。


 無表情に近い顔立ちなのに、空気だけが変わる。


「拝見いたします」


 彼女がタグへ指をかざすと、青白い円環が浮かんだ。


 タグの表面に、文字が走る。


 ギン――


 銀――


 銀次――


 消去済――


 該当なし――


 ファリスの喉が詰まった。


「ギン爺……?」


 それは、屋台の老人の名だった。


 路地の角で謎のスープを売っていた老人。ファリスが夜に廃ビルへ行くのを見て、「ザックに言いつけるぞ」と脅した人。ザックが直した古いコンロをいまだに使い続けて、「新品は信用ならん」と言っていた人。


 ギン爺。


 本名は、たしか銀次。


 ちゃんとした名字は知らない。


 でも、三番街ではみんなそう呼んでいた。


 アリスの瞳に、淡い光が宿る。


「複数の記録残響を検出。ファリス様のタグに、消失者の呼称断片が付着しています」


「消失者って」


 マナの声が横からした。


「それ、こっちでも出てる」


 マナは端末を持って歩いてきた。寝癖は直っていない。目の下には薄い隈がある。だが、画面を見つめる目は冴えていた。


 端末には、ミナト区周辺の行方不明者リストが映っていた。


 いや、リストと呼ぶにはおかしかった。


 名前の欄が空白になっている。


 年齢不明。


 住所不明。


 最終確認地点だけが残っている。


 ミナト区旧倉庫街。


 ホウジュ区裏路地。


 臨時避難所前。


 再開発反対署名所。


 共通点は、すぐにわかった。


 元〈ホーム〉三番街の住民。


 あるいは、三番街の再開発に反対していた者たち。


「行政記録から消えてる」


 マナは低く言った。


「不自然なくらい綺麗に。死亡でも転居でもない。最初から登録がなかったみたいに処理されてる。でも、監視網には空白が残ってる。人がいたはずの場所だけ、映像が欠けてる」


 ファリスはタグを握った。


 タグはまだ震えている。


 ギン爺。


 屋台の老人。


 それから、別の名前。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 聞いたことがある。顔が浮かぶ。はっきりしない。三番街の朝は人が多すぎて、全員と深く話したわけではない。でも、声は知っている。呼び方は知っている。ザックが部品を借りた人。ファリスに焦げた合成卵をくれた人。雨の日に屋根を押さえてくれた人。


「まだ」


 ファリスは呟いた。


 マナとアリスが彼女を見る。


「まだ、みんな終わってない」


 自分でも、なぜそう思ったのかわからなかった。


 でも、タグに残るノイズは、消えた人たちが完全には消えていない証拠のように感じた。


 身体が消えても。


 行政記録から消されても。


 まだ、呼べる。


 呼べるなら、終わっていない。


     *


「駄目だ」


 鴉は、最初にそう言った。


 マナの処置で一応は動けるようになっていたが、顔色は死人に近い。黒衣はまだ薄く、傷の周囲には抑制布が巻かれている。立っているだけでも危ういのに、彼は工房の出口を塞ぐように立っていた。


「私が行く」


「またそれ?」


 ファリスは工具箱を抱えたまま、眉を吊り上げた。


 カリンは作業台に腰かけ、大鎌の柄を磨いている。黒いドレスは今日も完璧で、まるで昨夜の騒ぎなどなかったようだった。ただし、彼の足元には新しい鎌が二本並んでいる。前の鎌は「粘液が最悪」という理由で廃棄されたらしい。


 アリスは携行型の記録タグと簡易結界具を準備している。


 マナは端末越しに現場の地図を表示していた。


 つまり、もう行く流れになっている。


 鴉だけが反対していた。


「君が行く必要はない」


「ある」


「ない」


「ある!」


 ファリスの声が工房に響いた。


「消えたのは、あたしのホームの人たちだよ。あたしのタグに名前が残ってる。ギン爺も、トモさんも、たぶんユリ姉も。あたし抜きで決めないで」


「危険だ」


「知ってる」


「なら――」


「あたしのホームの話なのに、あたし抜きで決めないで」


 鴉が言葉を失う。


 ファリスは一歩前へ出た。


 胸元の記録タグが揺れる。


「守られるだけなのは嫌だって言った。知るかどうかも、あたしが決めるって言った。あたし、逃げるのも隠れるのも必要ならする。でも、何も知らないまま待ってるだけは嫌」


 鴉は、彼女を見ていた。


 その目には、怒りではなく、恐れがあった。


 ファリスが危険へ向かうことへの恐れ。


 自分のそばにいることへの恐れ。


 そして、止める資格がないことへの恐れ。


 カリンが楽しそうに笑った。


「いいねぇ。鴉さん、保護者失格だね」


「私は保護者ではない」


「じゃあ何?」


 カリンが首を傾げる。


「危ないから行くな、でも自分は勝手に行く、でも説明はしない、でも守る。これ、だいぶ面倒な保護者ムーブだよ」


「黙れ」


「黙らないよぉ。ボク、こういう時はわりと口うるさいの」


 アリスが静かに補足する。


「鴉様の単独行動は推奨できません。現在の身体状態では、戦闘可能時間は短く、渇きの制御も不安定です」


「アリスまで」


「事実でございます」


 鴉はわずかに目を伏せた。


 マナが端末を操作しながら言う。


「現場はミナト区旧倉庫街。ユニコーン・セキュリティの旧物流倉庫がある。表向きは閉鎖済みだけど、電力使用量が不自然に残ってる。行政記録から消えた人たちの最後の空白も、その周辺に集中してる」


 カリンが大鎌を肩に担ぐ。


「つまり、行って見るしかない」


 ファリスはうなずく。


「行く」


 鴉は、しばらく沈黙した。


 そして、低く言った。


「私も行く」


「動けるの?」


「動く」


「答えになってない」


「君だけでは危険だ」


 ファリスはじっと鴉を見た。


「じゃあ、条件」


「条件?」


「あたしを勝手に抱えて逃げない。勝手に置いていかない。危ないって言う時は、何が危ないのか説明する」


 鴉の眉がわずかに動く。


「戦闘中に説明している暇はない」


「じゃあ、戦闘前に説明して」


「できる限りは」


「できる限りじゃなくて、する」


「……努力する」


「弱い」


 ファリスが即座に言うと、カリンが吹き出した。


「いいねぇ。教育されてる」


 鴉はカリンを睨んだ。


 それでも、反対はしなかった。


 ファリスは工具箱の取っ手を握り直す。


 ザックの布が巻かれた取っ手。


 そこに、自分の汗が染みていく。


 マナは全員を見回し、最後にアリスへ言った。


「アリス、ファリスの記録タグと同期。もし名前の残響が強く反応したら、すぐ固定できるように」


「承知いたしました」


「カリン、前衛と退路確保」


「はぁい」


「鴉は……無理しない」


「保証はできない」


「保証しなさい」


「……努力する」


「弱い!」


 ファリスとマナの声が重なった。


 鴉は黙った。


 カリンが大笑いした。


 こんな時なのに。


 ファリスは少しだけ、ほんの少しだけ、笑いそうになった。


     *


 ミナト区旧倉庫街は、潮の匂いがする場所だった。


 港湾区の表側は整備されている。魔導コンテナが整然と並び、無人搬送車が走り、外部国家との貿易品が厳密に管理されている。だが、旧倉庫街は違う。


 古い倉庫。


 錆びた鉄骨。


 閉鎖された搬入口。


 半分沈んだ桟橋。


 魔導炉の排熱で温くなった黒い水。


 コンテナの陰には、違法改造屋、密輸業者、捨てられた機械人形、身元不明の労働者たちが潜んでいる。


 〈ホーム〉三番街とは違う。


 でも、似ていた。


 帝都の上から落ちたものが、最後に溜まる場所。


 ファリスはフードを深く被り、カリンの後ろを歩いた。胸元の記録タグが薄く震えている。アリスはその隣を歩き、時折タグの反応を確認していた。鴉は少し離れて後方。黒衣を抑え、壁の影の中を進んでいる。


 カリンは楽しそうだった。


 いや、楽しそうに見えるだけで、足取りに隙はない。窓の反射、屋上の影、監視カメラの角度、路面の泥、すべてを見ている。


「ファリスちゃん」


「何」


「こういう場所では、明るい道より暗い道の方が安全な時がある」


「普通、逆じゃないの」


「明るい道は、見られるために明るい。暗い道は、見られないために暗い。どっちが安全かは、誰に見つかりたくないかで決まる」


「わかりにくい」


「そのうち慣れるよ」


「慣れたくない」


「いい反応」


 カリンはにっこり笑った。


「慣れたくないことに慣れていくのが帝都だからね」


 ファリスは返事をしなかった。


 胸元のタグが、強く震えたからだ。


 ギン――


 ギンジ――


 銀次――


 ファリスは足を止める。


「あっち」


 彼女は倉庫の裏手を指した。


 アリスがタグを確認する。


「反応増大。呼称残響、銀次。周辺に該当個体、または記録片が存在する可能性があります」


 カリンの顔が少しだけ真面目になる。


「行こう」


 倉庫の裏には、古い冷凍コンテナが並んでいた。


 ほとんどは空だったが、一つだけ扉が半開きになっている。中から、生ぬるい空気と、古い油の匂いが漏れていた。


 その前に、人影が立っていた。


 老人だった。


 背中を丸め、片手に錆びた鍋を持っている。服は焦げ、顔には灰がこびりついていた。白く濁った片目。顎の無精髭。屋台の鉄板を扱っていた、節くれだった手。


 ファリスの胸が跳ねた。


「ギン爺……?」


 老人がゆっくり顔を上げる。


 瞳に焦点がない。


 口が動く。


「対象……ファリス……確保……」


 ファリスの足がすくむ。


 ギン爺の声だった。


 でも、言葉はギン爺のものではない。


「ギン爺」


 ファリスは一歩前へ出た。


 鴉が即座に手を伸ばし、彼女の肩を掴む。


「近づくな」


「でも」


「エス化している」


 説明。


 ファリスが求めたもの。


 鴉は苦しそうに、それでも続けた。


「名前と記録を削られ、命令を埋め込まれている。近づけば、君を捕らえる」


 ファリスは唇を噛んだ。


 カリンが大鎌を構える。


「足だけ止める。アリスちゃん、タグ準備」


「はい」


 ギン爺が動いた。


 老人とは思えない速さだった。


 鍋が振り上げられる。錆びた鍋の縁に、赤黒い魔導文字が浮かぶ。普通の屋台道具ではない。誰かが後から命令術式を刻み込んだのだ。


 カリンが前へ出る。


 大鎌の柄で鍋を弾き、刃ではなく石突きでギン爺の膝裏を叩く。老人の身体が崩れかける。だが、すぐに起き上がる。痛みを感じていない。


 ファリスは叫んだ。


「ギン爺、やめて!」


 ギン爺の動きが、一瞬だけ止まった。


 老人の濁った目が、ファリスを見る。


 口が震える。


「ファ……リス……?」


 ファリスの胸が締めつけられる。


「そう。ファリス。ザックの妹。あんた、昨日も言ったでしょ。廃ビル行くなって。兄貴に言いつけるぞって」


 ギン爺の手が震える。


 鍋が少し下がる。


「ザック……工具屋の……」


「そう。あんたのコンロ直したの、ザックでしょ。新品は信用ならんって、ずっと古いやつ使ってた」


 老人の顔が歪む。


 正気が戻る。


 ほんの一瞬。


「ファリス」


 ギン爺の声が、戻った。


 屋台の老人の声だった。


「逃げろ」


 次の瞬間、彼の首筋に埋め込まれていた黒いタグが赤く光った。


 ギン爺の身体が跳ねる。


 口から、別の声が漏れる。


「命令再接続。対象確保。対象確保。対象――」


 カリンが踏み込もうとする。


 鴉も動きかける。


 ファリスは、泣きながら叫んだ。


「銀次!」


 老人が止まった。


 ファリスは、自分でも驚いた。


 今まで「ギン爺」としか呼んでいなかった。


 でも、記録タグに浮かんだ名。


 銀次。


 それを呼んだ。


「銀次! 聞いて! あんた、ギン爺でしょ! 三番街の屋台で、変なスープ売ってた! 焦げた合成卵を、焦げてないって言い張ってた! ザックに古いコンロ直させて、代金をスープで払った!」


 ギン爺の喉から、ひゅう、と音が漏れる。


 黒いタグの赤い光が揺らぐ。


「銀次!」


 ファリスは叫び続ける。


「消えてない! あんた、まだ消えてない!」


 アリスがすぐに動いた。


「記録固定を開始します」


 彼女の手から銀色の記録タグが飛ぶ。タグはギン爺の胸元で展開し、青白い円環を作った。


「呼称、銀次。通称、ギン爺。〈ホーム〉三番街屋台主。生活記録残響を捕捉。命令記録への上書きを阻害します」


 ギン爺の身体が激しく震えた。


 カリンが背後へ回り、大鎌の柄で彼の腕と脚を絡め取る。刃ではなく、非殺傷の拘束術。黒いリボンのような魔導糸が老人を縛る。


「ごめんね、ギン爺。ちょっと寝てて」


 カリンが薔薇の香を強める。


 ギン爺の目から、赤い光が薄れていく。


 最後に、彼はファリスを見た。


 ほんの少しだけ、笑った。


「ザックに……言いつけ……」


 言葉はそこで途切れた。


 彼は気を失った。


 ファリスはその場に膝をついた。


 涙が落ちる。


 でも、今度の涙は、ザックの時とは少し違った。


 助けられたのかは、まだわからない。


 完全に戻るのかもわからない。


 けれど、止められた。


 名前を呼んだら、届いた。


 ファリスは震える手で記録タグを握った。


「……届いた」


 アリスがそばに膝をつく。


「はい。ファリス様の呼称記憶と、対象者の残響が一致しました。あなた様が呼んだから、ギンジ様の名が一時的に固定されました」


「何それ」


 カリンが笑う。


「つまり、ファリスちゃんがギン爺をギン爺として覚えてたから、ギン爺がギン爺に戻る隙ができたってこと」


「説明が雑です」


 アリスが言う。


「でも、わかりやすいでしょ」


「はい。少し悔しいでございます」


 ファリスは涙を拭った。


 ギン爺は拘束され、眠っている。


 消えていない。


 それだけで、胸の奥に小さな火が灯った。


 ザックは戻らない。


 でも、まだ残っている人がいる。


 まだ呼べる名前がある。


 これは、あたしの事件だ。


 ファリスはその時、初めてはっきりと思った。


 巻き込まれたのではない。


 守られるだけではない。


 これは、〈ホーム〉三番街を消された自分の事件だ。


     *


 ギン爺の首筋に埋め込まれていた黒いタグから、敵の信号が取れた。


 解析したのはアリスだった。


 旧式のユニコーン・セキュリティ識別コード。


 ミナト区第七物流倉庫。


 閉鎖済み。


 けれど、電力使用量が残っていた場所。


「当たりだねぇ」


 カリンは倉庫の外壁を見上げた。


 第七物流倉庫は、海沿いに建つ古い大型施設だった。巨大なシャッターは錆び、表には閉鎖告知が貼られている。だが、内側から低い魔導炉音が響いていた。上空には監視ドローンが巡回し、屋上には簡易結界の薄い膜が張られている。


 ファリスの記録タグは、強く震えていた。


 名前がいくつも浮かぶ。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 サキ。


 読めない名前。


 壊れた呼び名。


 助けて、という言葉にならないノイズ。


 ファリスは唇を噛む。


 鴉がそばに立つ。


「無理はするな」


「説明は?」


 ファリスが聞く。


 鴉は一瞬黙り、言った。


「中には、名前を奪われた者がいる。君のタグはそれに反応している。近づけば、君の名前も引かれるかもしれない」


「対策は?」


 アリスが答える。


「わたくしがタグを同期し、ファリス様の名を固定します。ただし強い干渉を受けた場合、完全な防御は保証できません」


「わかった」


 ファリスはうなずく。


 怖い。


 でも、逃げない。


 カリンが大鎌を構える。


「じゃあ、行くよ。できれば静かに。無理なら派手に」


「最初から派手になる予感がします」


 アリスが淡々と言う。


「アリスちゃん、そういう予測は当たるから言わないで」


 侵入は、静かに始まった。


 カリンが裏口の警備員を香で眠らせ、アリスが認証扉を無音で開ける。ファリスは工具箱を抱え、鴉は影の中を歩く。


 倉庫の内部は、寒かった。


 海沿いの湿気ではない。


 生命を保存するための冷気。


 中央の広い空間に、透明なカプセルが並んでいる。


 その中に、人がいた。


 〈ホーム〉三番街の人たち。


 再開発反対の署名所にいた若者。


 屋台街で見た女。


 名前はわからない。でも、顔は知っている。


 彼らの身体には管がつながれ、胸元には黒いタグが埋め込まれていた。管の先は、倉庫中央の装置へ集まっている。


 門のような装置。


 まだ小さい。


 だが、ハイデガーの体内にあった疑似門より、ずっと大きい。


 円形の金属枠。白い羽根のような結晶。企業製の制御盤。赤黒い魔導液のタンク。そこに、人々から吸い上げられたエイースが流れ込んでいる。


 ファリスは吐き気を覚えた。


「何、これ」


「疑似門の起動実験」


 知らない女の声がした。


 全員が振り返る。


 倉庫の奥、白い通路から、一人の女が歩いてきた。


 淡い藤色のスーツ。白い肌。長い髪。整いすぎた顔。年齢は二十代にも三十代にも見える。口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


 しかし、その笑みには温度がない。


 彼女の背後には、ユニコーン社の研究員たちがいる。だが、誰も彼女の前には出ない。全員が、彼女を恐れている。


 カリンが大鎌を構え直した。


「リリス」


 女は微笑む。


「その名で呼ぶ人は少なくなったわ。今はチトセと名乗っているのだけれど」


「どっちも偽名でしょ」


「名前なんて、使われている間だけ本物よ」


 リリスはファリスを見た。


 その目は、ハイデガーのものとは違う。


 ゾルテとも違う。


 優しげで、知的で、だからこそ気味が悪かった。


「ようやく会えたわね、ファリス」


 ファリスは工具箱を抱きしめる。


「何で、あたしの名前を知ってるの」


「あなたの名前は、よく光るもの」


「勝手に見ないで」


「見えるのよ。あなたは境界に慣れている。〈ホーム〉三番街の地下に眠っていた古い隔離施設。その残響を、幼い頃から呼吸していた。普通の子なら壊れる。けれど、あなたは壊れなかった」


 リリスは装置へ視線を向ける。


「だから貴重なの」


「貴重って言うな」


「あなたは器ではないわ」


 リリスは優しく言った。


「鍵よ。とても貴重な、壊れにくい鍵」


 ファリスの中で、何かが切れた。


「人を工具みたいに言うな」


 リリスは微笑む。


「工具のほうが、人間より裏切らないもの」


 ファリスは一歩前へ出た。


 鴉がわずかに手を伸ばしかける。


 でも止めた。


 ファリスは自分で立っていた。


「あんたが、みんなを消したの」


「消してはいないわ。利用しているだけ」


「同じだ!」


「違うわ。消すだけなら、何も残らない。私は残している。名前、記憶、エイース、痛み、恐怖、帰る場所への執着。全部、門を開くために使える形で保存している」


 アリスの声が冷えた。


「それは保存ではありません。搾取です」


 リリスはアリスを見る。


「あら。セーフィエルの人形」


 アリスの瞳が、かすかに揺れた。


「わたくしはアリスでございます」


「ええ、そう名乗ることにしたのね。よいことだわ。名前は、所有者が変われば意味も変わる」


「わたくしの所有者は、わたくしです」


 アリスの声は静かだった。


 だが、ファリスにはわかった。


 怒っている。


 リリスは楽しそうに笑う。


「なら、その子にも教えてあげるといい。自分を所有するには、まず自分が何でできているか知らなければならない」


「ファリス様は、あなたの道具ではありません」


「今はまだね」


 リリスが指を鳴らした。


 カプセルのいくつかが開く。


 中から、エス化した住民たちが出てくる。顔は残っている。声もある。だが、目の奥に赤い命令光が宿っている。


 ファリスのタグが激しく震えた。


 名前が流れ込む。


 トモ。


 ユリ。


 ミナ。


 知らないけれど知っている人。


 呼びたい。


 でも、数が多い。


 呼べば止まるかもしれない。


 でも、全員の名を正しく呼べるわけではない。


 ファリスの呼吸が乱れる。


 鴉が前へ出た。


「下がれ」


 今度は、ファリスも反論しなかった。


 危険だとわかったからだ。


 でも、後ろへ下がりながら、タグを握った。


 呼べる名前を探す。


 消えかけた声を拾う。


 その時だった。


 倉庫全体の照明が、一瞬白く染まった。


 リリスの表情が変わる。


 驚き。


 初めて、彼女の笑みが崩れた。


「予定より早い……?」


 空間が裂けた。


 白い光が、倉庫の中央に落ちる。


 疑似門の装置が勝手に震え、白い羽根の結晶が音を立てて割れた。研究員たちが悲鳴を上げて後ずさる。


 その光の中から、男が現れた。


 白い衣。


 整いすぎた顔。


 人間ではあり得ない静かな美しさ。


 ゾルテ。


 ファリスの身体が固まる。


 廃ビルの夜が戻ってくる。


 鴉の黒衣が、ファリスの前へ広がった。


 ゾルテは倉庫を見回し、退屈そうに笑った。


「ずいぶんと小さな門だな、リリス。玩具としてはよくできているが」


 リリスは唇を結ぶ。


「ゾルテ。あなたが表へ出る段階ではないわ」


「段階?」


 ゾルテは愉快そうに首を傾げる。


「余に段階を指図するのか。面白い女だ」


 空気が重くなる。


 リリスの背後にいた研究員たちが、膝をついた。命令されたわけではない。ただ、立っていられなくなったのだ。


 ゾルテの視線が、ファリスへ向く。


 ファリスは動けない。


 白い目。


 鍵を見る目。


 鎖を見る目。


「その子が」


 ゾルテは言った。


「アズェルを地上につなぎ止めた鎖か」


 鴉の声が低くなる。


「近づくな」


 ゾルテは笑った。


「またそれか。おまえは本当に変わらぬな、アズェル。守るものを持てば、その名を失った痛みが和らぐとでも思ったか」


「黙れ」


「ならば、その鎖を余が使う」


 ゾルテが一歩、前へ出た。


 疑似門が、彼の背後で白く開きかける。


 エス化した住民たちが、一斉にファリスを見る。


 リリスは笑みを失い、カリンは大鎌を構え、アリスは記録タグを展開した。


 ファリスは、胸元のタグを握る。


 手が震えている。


 怖い。


 でも、今度は後ろへ下がらなかった。


 彼女の背後には、もう帰る場所はない。


 だから、名前を呼ぶしかない。


 消された人たちを。


 奪われた人たちを。


 そして、自分自身を。


 鴉の黒衣が、彼女の前で夜の翼になる。


 白いゾルテの光と、黒い鴉の影が、旧倉庫の中央でぶつかろうとしていた。

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