第6話 名前を喰う者たち
帝都エデンでは、人は二度消える。
一度目は、身体がいなくなる時。
二度目は、記録から名前が消える時。
身体が消えただけなら、まだ探せる。監視カメラに残る。交通記録に残る。魔導端末の決済履歴に残る。裏社会の噂に残る。誰かが「昨日ここにいた」と証言する。靴跡や煙草の吸い殻や、食べ残しの皿が残る。
だが、記録から名前が消えると、街はその人間を最初からいなかったものとして扱い始める。
端末を叩いても、該当者なし。
行政窓口へ行っても、登録なし。
病院へ問い合わせても、受診履歴なし。
勤め先へ聞いても、雇用記録なし。
家族が泣いても、近所の者が覚えていても、街の記録網が首を横に振る。
その人は、帝都エデンに存在しなかった。
そういうことになる。
ファリスがそれを知ったのは、〈ホーム〉三番街が消えてから三日目の朝だった。
アリスの隠し工房は、カミハラ区とミナト区の境界にある古い研究棟の地下にあった。表向きには閉鎖済みの機械人形部品倉庫。実際には、マナとアリスが使う記録遮断付きの工房で、壁には使いかけの魔導回路、壊れた人形の腕、半分分解された飛行箒、用途不明の結界具が並んでいる。
安全な場所ではない。
ただし、外よりはまし。
それがカリンの評価だった。
ファリスは、工房の隅に作られた簡易ベッドで目を覚ました。眠った気はしなかった。まぶたを閉じれば、ザックが倒れるところが見える。白い疑似門が開く。ハイデガーが笑う。鴉の牙が伸びる。工具箱の留め具が鳴る。
だから、起きていた方がまだ楽だった。
胸元には、アリスから渡された銀色の記録タグが下がっている。
ファリス。
ザックの妹。
〈ホーム〉三番街のファリス。
自分が自分であることを固定するための小さな札。
そのタグが、朝からずっと震えていた。
最初は、鴉の具合が悪いせいだと思った。
鴉は工房奥の隔離結界の中で眠っている。眠っているというより、意識を落とされている。マナの処置で傷は塞がりかけていたが、記録核の欠損と渇きはどうにもならない。アリスの抑制布がなければ、黒衣が暴れて工房の壁を削ってしまうらしい。
でも、タグの震えは鴉に反応しているのではなかった。
タグの表面に、読めない文字が浮かんでは消える。
ギ――
トモ――
ユリ――
屋台――
三番――
やめ――
ファリスは息を呑んだ。
それは、言葉になりきれない名前だった。
完全に消えたはずの〈ホーム〉三番街から、誰かがまだ呼んでいる。
「アリス!」
ファリスは工具箱を抱え、工房の奥へ走った。
アリスは作業台の前で、静かに記録タグの予備部品を整えていた。金色の髪はきちんと結ばれ、黒いメイド服には埃ひとつない。周囲の工房が混沌としているほど、彼女だけが異様に整って見える。
ファリスが駆け込むと、アリスは顔を上げた。
「ファリス様。心拍が上昇しております」
「これ」
ファリスは胸元のタグを掴む。
「変。誰かの名前が出る。三番街の人たちかもしれない」
アリスは一瞬で表情を引き締めた。
無表情に近い顔立ちなのに、空気だけが変わる。
「拝見いたします」
彼女がタグへ指をかざすと、青白い円環が浮かんだ。
タグの表面に、文字が走る。
ギン――
銀――
銀次――
消去済――
該当なし――
ファリスの喉が詰まった。
「ギン爺……?」
それは、屋台の老人の名だった。
路地の角で謎のスープを売っていた老人。ファリスが夜に廃ビルへ行くのを見て、「ザックに言いつけるぞ」と脅した人。ザックが直した古いコンロをいまだに使い続けて、「新品は信用ならん」と言っていた人。
ギン爺。
本名は、たしか銀次。
ちゃんとした名字は知らない。
でも、三番街ではみんなそう呼んでいた。
アリスの瞳に、淡い光が宿る。
「複数の記録残響を検出。ファリス様のタグに、消失者の呼称断片が付着しています」
「消失者って」
マナの声が横からした。
「それ、こっちでも出てる」
マナは端末を持って歩いてきた。寝癖は直っていない。目の下には薄い隈がある。だが、画面を見つめる目は冴えていた。
端末には、ミナト区周辺の行方不明者リストが映っていた。
いや、リストと呼ぶにはおかしかった。
名前の欄が空白になっている。
年齢不明。
住所不明。
最終確認地点だけが残っている。
ミナト区旧倉庫街。
ホウジュ区裏路地。
臨時避難所前。
再開発反対署名所。
共通点は、すぐにわかった。
元〈ホーム〉三番街の住民。
あるいは、三番街の再開発に反対していた者たち。
「行政記録から消えてる」
マナは低く言った。
「不自然なくらい綺麗に。死亡でも転居でもない。最初から登録がなかったみたいに処理されてる。でも、監視網には空白が残ってる。人がいたはずの場所だけ、映像が欠けてる」
ファリスはタグを握った。
タグはまだ震えている。
ギン爺。
屋台の老人。
それから、別の名前。
トモ。
ユリ。
ミナ。
聞いたことがある。顔が浮かぶ。はっきりしない。三番街の朝は人が多すぎて、全員と深く話したわけではない。でも、声は知っている。呼び方は知っている。ザックが部品を借りた人。ファリスに焦げた合成卵をくれた人。雨の日に屋根を押さえてくれた人。
「まだ」
ファリスは呟いた。
マナとアリスが彼女を見る。
「まだ、みんな終わってない」
自分でも、なぜそう思ったのかわからなかった。
でも、タグに残るノイズは、消えた人たちが完全には消えていない証拠のように感じた。
身体が消えても。
行政記録から消されても。
まだ、呼べる。
呼べるなら、終わっていない。
*
「駄目だ」
鴉は、最初にそう言った。
マナの処置で一応は動けるようになっていたが、顔色は死人に近い。黒衣はまだ薄く、傷の周囲には抑制布が巻かれている。立っているだけでも危ういのに、彼は工房の出口を塞ぐように立っていた。
「私が行く」
「またそれ?」
ファリスは工具箱を抱えたまま、眉を吊り上げた。
カリンは作業台に腰かけ、大鎌の柄を磨いている。黒いドレスは今日も完璧で、まるで昨夜の騒ぎなどなかったようだった。ただし、彼の足元には新しい鎌が二本並んでいる。前の鎌は「粘液が最悪」という理由で廃棄されたらしい。
アリスは携行型の記録タグと簡易結界具を準備している。
マナは端末越しに現場の地図を表示していた。
つまり、もう行く流れになっている。
鴉だけが反対していた。
「君が行く必要はない」
「ある」
「ない」
「ある!」
ファリスの声が工房に響いた。
「消えたのは、あたしのホームの人たちだよ。あたしのタグに名前が残ってる。ギン爺も、トモさんも、たぶんユリ姉も。あたし抜きで決めないで」
「危険だ」
「知ってる」
「なら――」
「あたしのホームの話なのに、あたし抜きで決めないで」
鴉が言葉を失う。
ファリスは一歩前へ出た。
胸元の記録タグが揺れる。
「守られるだけなのは嫌だって言った。知るかどうかも、あたしが決めるって言った。あたし、逃げるのも隠れるのも必要ならする。でも、何も知らないまま待ってるだけは嫌」
鴉は、彼女を見ていた。
その目には、怒りではなく、恐れがあった。
ファリスが危険へ向かうことへの恐れ。
自分のそばにいることへの恐れ。
そして、止める資格がないことへの恐れ。
カリンが楽しそうに笑った。
「いいねぇ。鴉さん、保護者失格だね」
「私は保護者ではない」
「じゃあ何?」
カリンが首を傾げる。
「危ないから行くな、でも自分は勝手に行く、でも説明はしない、でも守る。これ、だいぶ面倒な保護者ムーブだよ」
「黙れ」
「黙らないよぉ。ボク、こういう時はわりと口うるさいの」
アリスが静かに補足する。
「鴉様の単独行動は推奨できません。現在の身体状態では、戦闘可能時間は短く、渇きの制御も不安定です」
「アリスまで」
「事実でございます」
鴉はわずかに目を伏せた。
マナが端末を操作しながら言う。
「現場はミナト区旧倉庫街。ユニコーン・セキュリティの旧物流倉庫がある。表向きは閉鎖済みだけど、電力使用量が不自然に残ってる。行政記録から消えた人たちの最後の空白も、その周辺に集中してる」
カリンが大鎌を肩に担ぐ。
「つまり、行って見るしかない」
ファリスはうなずく。
「行く」
鴉は、しばらく沈黙した。
そして、低く言った。
「私も行く」
「動けるの?」
「動く」
「答えになってない」
「君だけでは危険だ」
ファリスはじっと鴉を見た。
「じゃあ、条件」
「条件?」
「あたしを勝手に抱えて逃げない。勝手に置いていかない。危ないって言う時は、何が危ないのか説明する」
鴉の眉がわずかに動く。
「戦闘中に説明している暇はない」
「じゃあ、戦闘前に説明して」
「できる限りは」
「できる限りじゃなくて、する」
「……努力する」
「弱い」
ファリスが即座に言うと、カリンが吹き出した。
「いいねぇ。教育されてる」
鴉はカリンを睨んだ。
それでも、反対はしなかった。
ファリスは工具箱の取っ手を握り直す。
ザックの布が巻かれた取っ手。
そこに、自分の汗が染みていく。
マナは全員を見回し、最後にアリスへ言った。
「アリス、ファリスの記録タグと同期。もし名前の残響が強く反応したら、すぐ固定できるように」
「承知いたしました」
「カリン、前衛と退路確保」
「はぁい」
「鴉は……無理しない」
「保証はできない」
「保証しなさい」
「……努力する」
「弱い!」
ファリスとマナの声が重なった。
鴉は黙った。
カリンが大笑いした。
こんな時なのに。
ファリスは少しだけ、ほんの少しだけ、笑いそうになった。
*
ミナト区旧倉庫街は、潮の匂いがする場所だった。
港湾区の表側は整備されている。魔導コンテナが整然と並び、無人搬送車が走り、外部国家との貿易品が厳密に管理されている。だが、旧倉庫街は違う。
古い倉庫。
錆びた鉄骨。
閉鎖された搬入口。
半分沈んだ桟橋。
魔導炉の排熱で温くなった黒い水。
コンテナの陰には、違法改造屋、密輸業者、捨てられた機械人形、身元不明の労働者たちが潜んでいる。
〈ホーム〉三番街とは違う。
でも、似ていた。
帝都の上から落ちたものが、最後に溜まる場所。
ファリスはフードを深く被り、カリンの後ろを歩いた。胸元の記録タグが薄く震えている。アリスはその隣を歩き、時折タグの反応を確認していた。鴉は少し離れて後方。黒衣を抑え、壁の影の中を進んでいる。
カリンは楽しそうだった。
いや、楽しそうに見えるだけで、足取りに隙はない。窓の反射、屋上の影、監視カメラの角度、路面の泥、すべてを見ている。
「ファリスちゃん」
「何」
「こういう場所では、明るい道より暗い道の方が安全な時がある」
「普通、逆じゃないの」
「明るい道は、見られるために明るい。暗い道は、見られないために暗い。どっちが安全かは、誰に見つかりたくないかで決まる」
「わかりにくい」
「そのうち慣れるよ」
「慣れたくない」
「いい反応」
カリンはにっこり笑った。
「慣れたくないことに慣れていくのが帝都だからね」
ファリスは返事をしなかった。
胸元のタグが、強く震えたからだ。
ギン――
ギンジ――
銀次――
ファリスは足を止める。
「あっち」
彼女は倉庫の裏手を指した。
アリスがタグを確認する。
「反応増大。呼称残響、銀次。周辺に該当個体、または記録片が存在する可能性があります」
カリンの顔が少しだけ真面目になる。
「行こう」
倉庫の裏には、古い冷凍コンテナが並んでいた。
ほとんどは空だったが、一つだけ扉が半開きになっている。中から、生ぬるい空気と、古い油の匂いが漏れていた。
その前に、人影が立っていた。
老人だった。
背中を丸め、片手に錆びた鍋を持っている。服は焦げ、顔には灰がこびりついていた。白く濁った片目。顎の無精髭。屋台の鉄板を扱っていた、節くれだった手。
ファリスの胸が跳ねた。
「ギン爺……?」
老人がゆっくり顔を上げる。
瞳に焦点がない。
口が動く。
「対象……ファリス……確保……」
ファリスの足がすくむ。
ギン爺の声だった。
でも、言葉はギン爺のものではない。
「ギン爺」
ファリスは一歩前へ出た。
鴉が即座に手を伸ばし、彼女の肩を掴む。
「近づくな」
「でも」
「エス化している」
説明。
ファリスが求めたもの。
鴉は苦しそうに、それでも続けた。
「名前と記録を削られ、命令を埋め込まれている。近づけば、君を捕らえる」
ファリスは唇を噛んだ。
カリンが大鎌を構える。
「足だけ止める。アリスちゃん、タグ準備」
「はい」
ギン爺が動いた。
老人とは思えない速さだった。
鍋が振り上げられる。錆びた鍋の縁に、赤黒い魔導文字が浮かぶ。普通の屋台道具ではない。誰かが後から命令術式を刻み込んだのだ。
カリンが前へ出る。
大鎌の柄で鍋を弾き、刃ではなく石突きでギン爺の膝裏を叩く。老人の身体が崩れかける。だが、すぐに起き上がる。痛みを感じていない。
ファリスは叫んだ。
「ギン爺、やめて!」
ギン爺の動きが、一瞬だけ止まった。
老人の濁った目が、ファリスを見る。
口が震える。
「ファ……リス……?」
ファリスの胸が締めつけられる。
「そう。ファリス。ザックの妹。あんた、昨日も言ったでしょ。廃ビル行くなって。兄貴に言いつけるぞって」
ギン爺の手が震える。
鍋が少し下がる。
「ザック……工具屋の……」
「そう。あんたのコンロ直したの、ザックでしょ。新品は信用ならんって、ずっと古いやつ使ってた」
老人の顔が歪む。
正気が戻る。
ほんの一瞬。
「ファリス」
ギン爺の声が、戻った。
屋台の老人の声だった。
「逃げろ」
次の瞬間、彼の首筋に埋め込まれていた黒いタグが赤く光った。
ギン爺の身体が跳ねる。
口から、別の声が漏れる。
「命令再接続。対象確保。対象確保。対象――」
カリンが踏み込もうとする。
鴉も動きかける。
ファリスは、泣きながら叫んだ。
「銀次!」
老人が止まった。
ファリスは、自分でも驚いた。
今まで「ギン爺」としか呼んでいなかった。
でも、記録タグに浮かんだ名。
銀次。
それを呼んだ。
「銀次! 聞いて! あんた、ギン爺でしょ! 三番街の屋台で、変なスープ売ってた! 焦げた合成卵を、焦げてないって言い張ってた! ザックに古いコンロ直させて、代金をスープで払った!」
ギン爺の喉から、ひゅう、と音が漏れる。
黒いタグの赤い光が揺らぐ。
「銀次!」
ファリスは叫び続ける。
「消えてない! あんた、まだ消えてない!」
アリスがすぐに動いた。
「記録固定を開始します」
彼女の手から銀色の記録タグが飛ぶ。タグはギン爺の胸元で展開し、青白い円環を作った。
「呼称、銀次。通称、ギン爺。〈ホーム〉三番街屋台主。生活記録残響を捕捉。命令記録への上書きを阻害します」
ギン爺の身体が激しく震えた。
カリンが背後へ回り、大鎌の柄で彼の腕と脚を絡め取る。刃ではなく、非殺傷の拘束術。黒いリボンのような魔導糸が老人を縛る。
「ごめんね、ギン爺。ちょっと寝てて」
カリンが薔薇の香を強める。
ギン爺の目から、赤い光が薄れていく。
最後に、彼はファリスを見た。
ほんの少しだけ、笑った。
「ザックに……言いつけ……」
言葉はそこで途切れた。
彼は気を失った。
ファリスはその場に膝をついた。
涙が落ちる。
でも、今度の涙は、ザックの時とは少し違った。
助けられたのかは、まだわからない。
完全に戻るのかもわからない。
けれど、止められた。
名前を呼んだら、届いた。
ファリスは震える手で記録タグを握った。
「……届いた」
アリスがそばに膝をつく。
「はい。ファリス様の呼称記憶と、対象者の残響が一致しました。あなた様が呼んだから、ギンジ様の名が一時的に固定されました」
「何それ」
カリンが笑う。
「つまり、ファリスちゃんがギン爺をギン爺として覚えてたから、ギン爺がギン爺に戻る隙ができたってこと」
「説明が雑です」
アリスが言う。
「でも、わかりやすいでしょ」
「はい。少し悔しいでございます」
ファリスは涙を拭った。
ギン爺は拘束され、眠っている。
消えていない。
それだけで、胸の奥に小さな火が灯った。
ザックは戻らない。
でも、まだ残っている人がいる。
まだ呼べる名前がある。
これは、あたしの事件だ。
ファリスはその時、初めてはっきりと思った。
巻き込まれたのではない。
守られるだけではない。
これは、〈ホーム〉三番街を消された自分の事件だ。
*
ギン爺の首筋に埋め込まれていた黒いタグから、敵の信号が取れた。
解析したのはアリスだった。
旧式のユニコーン・セキュリティ識別コード。
ミナト区第七物流倉庫。
閉鎖済み。
けれど、電力使用量が残っていた場所。
「当たりだねぇ」
カリンは倉庫の外壁を見上げた。
第七物流倉庫は、海沿いに建つ古い大型施設だった。巨大なシャッターは錆び、表には閉鎖告知が貼られている。だが、内側から低い魔導炉音が響いていた。上空には監視ドローンが巡回し、屋上には簡易結界の薄い膜が張られている。
ファリスの記録タグは、強く震えていた。
名前がいくつも浮かぶ。
トモ。
ユリ。
ミナ。
サキ。
読めない名前。
壊れた呼び名。
助けて、という言葉にならないノイズ。
ファリスは唇を噛む。
鴉がそばに立つ。
「無理はするな」
「説明は?」
ファリスが聞く。
鴉は一瞬黙り、言った。
「中には、名前を奪われた者がいる。君のタグはそれに反応している。近づけば、君の名前も引かれるかもしれない」
「対策は?」
アリスが答える。
「わたくしがタグを同期し、ファリス様の名を固定します。ただし強い干渉を受けた場合、完全な防御は保証できません」
「わかった」
ファリスはうなずく。
怖い。
でも、逃げない。
カリンが大鎌を構える。
「じゃあ、行くよ。できれば静かに。無理なら派手に」
「最初から派手になる予感がします」
アリスが淡々と言う。
「アリスちゃん、そういう予測は当たるから言わないで」
侵入は、静かに始まった。
カリンが裏口の警備員を香で眠らせ、アリスが認証扉を無音で開ける。ファリスは工具箱を抱え、鴉は影の中を歩く。
倉庫の内部は、寒かった。
海沿いの湿気ではない。
生命を保存するための冷気。
中央の広い空間に、透明なカプセルが並んでいる。
その中に、人がいた。
〈ホーム〉三番街の人たち。
再開発反対の署名所にいた若者。
屋台街で見た女。
名前はわからない。でも、顔は知っている。
彼らの身体には管がつながれ、胸元には黒いタグが埋め込まれていた。管の先は、倉庫中央の装置へ集まっている。
門のような装置。
まだ小さい。
だが、ハイデガーの体内にあった疑似門より、ずっと大きい。
円形の金属枠。白い羽根のような結晶。企業製の制御盤。赤黒い魔導液のタンク。そこに、人々から吸い上げられたエイースが流れ込んでいる。
ファリスは吐き気を覚えた。
「何、これ」
「疑似門の起動実験」
知らない女の声がした。
全員が振り返る。
倉庫の奥、白い通路から、一人の女が歩いてきた。
淡い藤色のスーツ。白い肌。長い髪。整いすぎた顔。年齢は二十代にも三十代にも見える。口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
しかし、その笑みには温度がない。
彼女の背後には、ユニコーン社の研究員たちがいる。だが、誰も彼女の前には出ない。全員が、彼女を恐れている。
カリンが大鎌を構え直した。
「リリス」
女は微笑む。
「その名で呼ぶ人は少なくなったわ。今はチトセと名乗っているのだけれど」
「どっちも偽名でしょ」
「名前なんて、使われている間だけ本物よ」
リリスはファリスを見た。
その目は、ハイデガーのものとは違う。
ゾルテとも違う。
優しげで、知的で、だからこそ気味が悪かった。
「ようやく会えたわね、ファリス」
ファリスは工具箱を抱きしめる。
「何で、あたしの名前を知ってるの」
「あなたの名前は、よく光るもの」
「勝手に見ないで」
「見えるのよ。あなたは境界に慣れている。〈ホーム〉三番街の地下に眠っていた古い隔離施設。その残響を、幼い頃から呼吸していた。普通の子なら壊れる。けれど、あなたは壊れなかった」
リリスは装置へ視線を向ける。
「だから貴重なの」
「貴重って言うな」
「あなたは器ではないわ」
リリスは優しく言った。
「鍵よ。とても貴重な、壊れにくい鍵」
ファリスの中で、何かが切れた。
「人を工具みたいに言うな」
リリスは微笑む。
「工具のほうが、人間より裏切らないもの」
ファリスは一歩前へ出た。
鴉がわずかに手を伸ばしかける。
でも止めた。
ファリスは自分で立っていた。
「あんたが、みんなを消したの」
「消してはいないわ。利用しているだけ」
「同じだ!」
「違うわ。消すだけなら、何も残らない。私は残している。名前、記憶、エイース、痛み、恐怖、帰る場所への執着。全部、門を開くために使える形で保存している」
アリスの声が冷えた。
「それは保存ではありません。搾取です」
リリスはアリスを見る。
「あら。セーフィエルの人形」
アリスの瞳が、かすかに揺れた。
「わたくしはアリスでございます」
「ええ、そう名乗ることにしたのね。よいことだわ。名前は、所有者が変われば意味も変わる」
「わたくしの所有者は、わたくしです」
アリスの声は静かだった。
だが、ファリスにはわかった。
怒っている。
リリスは楽しそうに笑う。
「なら、その子にも教えてあげるといい。自分を所有するには、まず自分が何でできているか知らなければならない」
「ファリス様は、あなたの道具ではありません」
「今はまだね」
リリスが指を鳴らした。
カプセルのいくつかが開く。
中から、エス化した住民たちが出てくる。顔は残っている。声もある。だが、目の奥に赤い命令光が宿っている。
ファリスのタグが激しく震えた。
名前が流れ込む。
トモ。
ユリ。
ミナ。
知らないけれど知っている人。
呼びたい。
でも、数が多い。
呼べば止まるかもしれない。
でも、全員の名を正しく呼べるわけではない。
ファリスの呼吸が乱れる。
鴉が前へ出た。
「下がれ」
今度は、ファリスも反論しなかった。
危険だとわかったからだ。
でも、後ろへ下がりながら、タグを握った。
呼べる名前を探す。
消えかけた声を拾う。
その時だった。
倉庫全体の照明が、一瞬白く染まった。
リリスの表情が変わる。
驚き。
初めて、彼女の笑みが崩れた。
「予定より早い……?」
空間が裂けた。
白い光が、倉庫の中央に落ちる。
疑似門の装置が勝手に震え、白い羽根の結晶が音を立てて割れた。研究員たちが悲鳴を上げて後ずさる。
その光の中から、男が現れた。
白い衣。
整いすぎた顔。
人間ではあり得ない静かな美しさ。
ゾルテ。
ファリスの身体が固まる。
廃ビルの夜が戻ってくる。
鴉の黒衣が、ファリスの前へ広がった。
ゾルテは倉庫を見回し、退屈そうに笑った。
「ずいぶんと小さな門だな、リリス。玩具としてはよくできているが」
リリスは唇を結ぶ。
「ゾルテ。あなたが表へ出る段階ではないわ」
「段階?」
ゾルテは愉快そうに首を傾げる。
「余に段階を指図するのか。面白い女だ」
空気が重くなる。
リリスの背後にいた研究員たちが、膝をついた。命令されたわけではない。ただ、立っていられなくなったのだ。
ゾルテの視線が、ファリスへ向く。
ファリスは動けない。
白い目。
鍵を見る目。
鎖を見る目。
「その子が」
ゾルテは言った。
「アズェルを地上につなぎ止めた鎖か」
鴉の声が低くなる。
「近づくな」
ゾルテは笑った。
「またそれか。おまえは本当に変わらぬな、アズェル。守るものを持てば、その名を失った痛みが和らぐとでも思ったか」
「黙れ」
「ならば、その鎖を余が使う」
ゾルテが一歩、前へ出た。
疑似門が、彼の背後で白く開きかける。
エス化した住民たちが、一斉にファリスを見る。
リリスは笑みを失い、カリンは大鎌を構え、アリスは記録タグを展開した。
ファリスは、胸元のタグを握る。
手が震えている。
怖い。
でも、今度は後ろへ下がらなかった。
彼女の背後には、もう帰る場所はない。
だから、名前を呼ぶしかない。
消された人たちを。
奪われた人たちを。
そして、自分自身を。
鴉の黒衣が、彼女の前で夜の翼になる。
白いゾルテの光と、黒い鴉の影が、旧倉庫の中央でぶつかろうとしていた。




