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第5話 アリスの記録診断

 カリンは、まず壊れた清掃ドローンを見た。


 次に、床に転がるユニコーン・セキュリティ製の装甲ドローンを見た。


 それから、簡易ベッドの上で半分死んでいる黒衣の男を見て、最後に、工具箱を抱えたまま座り込んでいるファリスを見た。


「うん」


 カリンはうなずいた。


「これはボクの手に余るね」


「さっきも言ってた」


 ファリスは床に座ったまま答えた。


 声はまだ掠れている。泣きすぎたからなのか、煙を吸ったからなのか、自分でもわからなかった。肩には毛布をかけられていたが、毛布の柔らかさがまだ落ち着かない。〈ホーム〉の毛布はもっとざらざらしていて、油の匂いがして、ところどころ焦げていた。


 今かけられている毛布は、清潔すぎた。


「何回でも言うよ。大事なことだからねぇ」


 カリンは軽い調子で言い、情報端末を立ち上げた。


 清掃会社の備品倉庫。その奥に隠されたトラブルシューター用の避難所は、先ほどの襲撃でかなり荒れていた。壁の一部は吹き飛び、床にはドローンの破片と焦げた洗剤タンクが散乱している。隔離室にはエス化した〈ホーム〉住民たちが拘束され、低い呻き声が時折漏れていた。


 鴉は簡易ベッドで目を閉じている。


 死んでいるように見える。


 けれど死んではいない。


 時折、喉の奥で低い息が鳴った。傷は塞がりかけては開き、黒衣がそのたびにうねる。まるで彼の身体そのものが、自分の形を忘れかけているようだった。


 ファリスは、何度もその様子を見てしまう。


 そして、見るたびに思い出す。


 鴉の牙。


 自分の首筋を見る黒い瞳。


 逃げろ、と言った声。


 でも同時に、彼が自分を包んで爆発から守ったことも思い出す。


 怖い。


 それでも、放っておけない。


 最初に廃ビルで見つけた時と同じだ。


 何も終わっていないのに、同じところへ戻ってきている気がした。


 カリンが端末に向かって通信を入れる。


「マナさん?」


 通信がつながるまで、ほんの数秒。


 画面に現れた女性は、寝起きなのか徹夜明けなのか判別しにくい顔をしていた。長い髪は雑に束ねられ、白衣の下に着ている服は少し皺になっている。だが、目だけは妙に冴えていた。机の上には魔導書、端末、工具、空になった栄養飲料の瓶が山のように積まれている。


『カリン? この時間に連絡してくるってことは、どうせ面倒ごとよね』


「ちょっと人間じゃない美形と、たぶん普通じゃない女の子を拾ったんだけど」


 画面の向こうで、マナの表情が固まった。


『……もう一回言って』


「人間じゃない美形と、普通じゃない女の子」


『主語が嫌すぎる』


「ついでにユニコーン・セキュリティの追手と、エス化した〈ホーム〉住民と、小型疑似門っぽいものも絡んでる」


『最悪じゃない!』


「うん。だからマナさんに投げようかなって」


『投げないで! いや、投げて! 投げないでほしいけど、放置されるよりは投げて!』


 マナは頭を抱えた。


 その背後で、小さく澄んだ声がした。


『マナ様。医療キット、記録タグ、簡易結界具、携行型封印ケース、抑制布、予備バッテリーを準備いたしました』


 画面の端に、金色の髪が映る。


 ファリスは思わず顔を上げた。


 少女がいた。


 年齢は、自分と同じくらいに見える。


 陶器のように白い肌。魔力を帯びた蒼い瞳。金色の長い髪。黒を基調とした古風なメイド服。整いすぎた顔立ちは、人形のようだった。


 いや、人形のよう、ではない。


 その少女は、画面越しでも、普通の人間と空気が違った。


『アリス、まだ状況説明してないのに準備早すぎない?』


『カリン様からの緊急連絡で、単純な案件だった前例がございません』


「アリスちゃん、ひどくない?」


『統計的判断でございます』


 カリンは唇を尖らせた。


「ボクだってたまには簡単な仕事するよ?」


『はい。前回は清掃会社の更衣室に発生した巨大蛾の駆除でした』


「その話やめて!」


 ファリスは思わず瞬きした。


 こんな状況なのに、会話が軽い。


 でも、軽いだけではない。


 マナという女性も、アリスという少女も、画面の向こうでもう動き始めている。嫌がりながらも、来る準備をしている。カリンもそれをわかったうえで、冗談を挟んでいる。


 そうしないと、深刻さに潰されるからかもしれない。


 マナが画面越しにファリスを見る。


『その子?』


 ファリスは反射的に工具箱を抱えた。


 見られることが怖い。


 ハイデガーに見られた時も、ゾルテに見られた時も、自分は“何か”として測られた。境界適合者。器。回収対象。


 マナの目も鋭い。


 けれど、ハイデガーの目とは違った。


 値踏みではない。


 診ようとしている目だった。


『名前は?』


 ファリスは一瞬、答えられなかった。


 名前を言うだけなのに。


 ザックが呼んだ名前。


 鴉が呼んだ名前。


 ハイデガーの端末に表示されたらしい名前。


 自分の名前。


「……ファリス」


『了解。ファリス、少し待ってて。すぐ行くから』


「すぐって、どれくらい」


『アリスが飛べば十分』


「飛ぶ?」


 ファリスが聞き返す前に、画面の向こうでアリスが淡々と言った。


『三十分ではなく、十分でございます』


『だから窓から出ようとしないで! 玄関から!』


『緊急時ですので、窓を破壊して脱出した方が早いかと』


『破壊しない!』


 通信が切れた。


 カリンは端末を閉じ、満足そうにうなずく。


「よし、これでボクの責任が少し分散した」


「それ、言っていいの?」


「正直でしょ」


 ファリスは少しだけ力が抜けた。


 笑ったわけではない。


 でも、息が少しだけしやすくなった。


 鴉が、かすかに目を開けた。


「マナを呼んだのか」


「呼んだよ。君、呼ばなかったら死ぬか暴れるかどっちかでしょ」


「関わらせるな」


「もう関わった後だよ。帝都ではね、助けられた時点で関係者なの」


 カリンはさらりと言った。


「嫌なら、治ってから文句言って」


 鴉は返事をしなかった。


 ただ、目を閉じる。


 その顔は、怒っているというより、諦めに近かった。


     *


 アリスは、本当に十分ほどで来た。


 倉庫の外に小さな着地音がしたと思った次の瞬間、裏口の認証盤が外から正確に解除され、金色の髪の少女が入ってきた。両手には銀色の医療ケース。背には折り畳み式の魔導翼の名残のような光が一瞬だけ揺れ、すぐに消える。


 その後ろから、息を切らしたマナが入ってきた。


「アリス! だから先に飛ばないでって言ったでしょ!」


「マナ様の徒歩速度を基準にすると、鴉様の状態悪化確率が十二パーセント上昇すると判断いたしました」


「正論で置いていかれるの、一番腹立つわね!」


 アリスは小さく頭を下げた。


「申し訳ございません」


「謝りながら絶対悪いと思ってないでしょ」


「緊急医療判断でございます」


「もういいわ!」


 マナはそう言いながらも、鴉のベッドへ一直線に向かった。


 カリンが肩をすくめる。


「来てくれて助かったよ、マナさん。アリスちゃんも」


「助かったかどうかは診てから。……で、これが人間じゃない美形?」


「うん。ひどい顔でしょ」


 マナは鴉の傷を見た瞬間、表情を変えた。


 冗談が消える。


「カリン、結界強度を上げて。外に漏れるとまずい」


「はぁい」


「アリス、記録タグ準備。抑制布も」


「承知いたしました」


 アリスは迷いなく動いた。


 ファリスは、その動きを目で追っていた。


 同じくらいの少女に見える。


 でも、動きが違う。


 音が少ない。


 視線がぶれない。


 手が震えない。


 人間の少女なら避ける血や傷を、アリスは怖がらずに見る。怖くないからではない。怖がるより前に、必要な作業を選んでいるように見えた。


 アリスはふと、ファリスの視線に気づいた。


 医療ケースを置き、丁寧に一礼する。


「わたくしはアリスでございます。機械人形です」


 ファリスは固まった。


「……自分で言うんだ」


「はい」


 アリスは静かにうなずく。


「わたくしが、わたくしを説明するために」


 ファリスは言葉を失った。


 機械人形。


 人形。


 その言葉は、〈ホーム〉では商品に近かった。壊れた機械人形の腕が看板代わりに吊るされ、違法改造品が路地裏で売られ、所有者登録のない個体は盗品か廃棄品として扱われる。


 でも、アリスは違った。


 自分で言った。


 わたくしは機械人形です、と。


 隠すためではなく、誰かに決められる前に、自分で説明するために。


 そのことが、なぜかファリスの胸に残った。


 マナが鴉の傷を診ながら言う。


「カリン、いつからこの状態?」


「三番街で疑似門が暴走してから。ざっくり二時間弱かな」


「二時間これで生きてるの?」


「人間じゃないからね」


「それは見ればわかる」


 マナは鴉の胸元に魔導式を展開した。


 青白い円環がいくつも重なり、鴉の身体を透かすように走る。血管。骨。魔導回路。いや、魔導回路とは違う何か。ファリスには見えないはずのものが、光の線として浮かび上がった。


 その中心に、黒い核があった。


 心臓とは違う。


 鴉の胸の奥、名前のない空洞に、割れた黒い結晶のようなものが浮いている。周囲には白い傷跡のような線がいくつも走り、その一部が欠けていた。


 アリスが記録タグを近づける。


 タグの表面に文字が走った。


 だが、すぐに文字化けする。


 アリスの蒼い瞳がわずかに細くなった。


「通常妖魔反応ではありません。高位ソエル由来記録核と推定。ただし、核の連続性に重大な欠損があります」


 マナが低く呟く。


「ラエル……?」


 鴉の目が開いた。


「その名で呼ぶな」


「分類名よ。あなた個人を呼んだわけじゃない」


「分類も名だ」


 マナは手を止めた。


 それから、少しだけ声を柔らかくする。


「わかった。じゃあ、今は使わない。ただし、状態は説明させて」


 鴉は目を閉じた。


 拒絶ではなかった。


 許可でもなかった。


 ただ、それ以上止める力がないように見えた。


 マナはファリスとカリンへ説明するように言った。


「通常の妖魔でも、企業製キメラでもない。ソエル由来の記録核を持ってる。かなり高位。だけど、核が欠けてる。名前に相当する領域が、丸ごと剥がされてる」


 ファリスは、思わず聞いた。


「名前が剥がされるって、何」


 マナは少し迷った。


 アリスが代わりに答える。


「名前は、呼称だけではございません。高位存在においては、存在証明、権限、記録、自己同一性、外部世界との接続鍵を兼ねる場合がございます」


「……ごめん、わかんない」


 アリスは瞬きした。


「申し訳ございません。言い換えます」


 彼女は少し考えた。


「あなた様がファリス様であると、ご自身でわかり、他者もあなた様をファリス様として認識し、世界の記録もファリス様として扱うための芯。それが名前です」


 ファリスは工具箱を抱きしめた。


「それを取られたら?」


「自分が誰であるかを、世界に固定しづらくなります」


 アリスは鴉を見る。


「鴉様の核には、その欠損があります」


 カリンが腕を組む。


「だから渇く?」


「おそらく」


 マナが続ける。


「天界循環……という言い方が正しいかはわからないけど、本来なら自分の世界から供給されるはずの存在維持が断たれてる。代わりに、地上の生命記録――エイースを摂取すれば、欠けた核を一時的に補える」


 ファリスの喉が鳴った。


 エイース。


 ザックから吸い上げられた赤い糸。


 鴉が自分の首筋を見た理由。


「つまり、血を飲めば治るってこと?」


 マナははっきり答えなかった。


「血そのものじゃない。血に宿る生命記録。名前、記憶、魂の熱、肉体の時間。そういうものを少し取り込む」


「少し?」


 ファリスの声が硬くなる。


 マナは目を伏せた。


「うまく制御できれば、少し。できなければ、相手の記憶や名前を傷つける。最悪、命を奪う」


 ファリスは鴉を見た。


 彼は黙っている。


 否定しない。


 それが、余計に苦しかった。


 マナは鴉へ向き直る。


「あなた、どれくらい摂ってないの」


「必要ない」


「必要あるから今こうなってるんでしょう」


「要らない」


「意地を張る場面じゃない」


 マナの声が強くなる。


「生きるために必要なものを拒み続けるのは、償いじゃなくて自傷よ」


 鴉の瞼が、ほんのわずか震えた。


 ファリスは息を止める。


 マナは続けた。


「あなたが何をしたのか、何をされたのかは知らない。自分を罰したい理由があるのかもしれない。でも、自分を罰するために倒れて、そのたびに周りを危険に晒すなら、それはもう償いじゃない。誰かに負債を押しつけてるだけ」


「マナさん、言うねぇ」


 カリンが小さく呟く。


「言うわよ。死にかけを診る方の身にもなって」


 鴉は何も言わなかった。


 怒ることも、反論することもなかった。


 その沈黙が、ファリスには一番痛かった。


 彼は、自分が責められることに慣れている。


 自分を罰する言葉にも慣れている。


 でも、誰かの負債になると言われた時だけ、ほんの少し動揺した。


 ファリスは、それを見てしまった。


 マナは深く息を吐く。


「応急処置はする。完全な回復は無理。エイースを外部から安全に補う方法を考える必要があるけど、今この場で無理にやると危険。アリス、抑制布」


「はい」


 アリスは白い布を取り出し、鴉の傷の周囲へ丁寧に巻いていく。布には細かい魔導文字が縫い込まれていた。血に触れると薄く光り、黒衣の暴れを少しずつ落ち着かせる。


 鴉の呼吸が、わずかに整った。


 ファリスは胸を撫で下ろしそうになり、慌てて手を止めた。


 安心していいのか、まだわからない。


 安心した途端に、また何かを失いそうで怖かった。


     *


 次は、ファリスの番だった。


「嫌」


 ファリスは即座に言った。


 マナは端末を手にしたまま、困ったように眉を上げる。


「まだ何もしてないわよ」


「検査って、何するの」


「記録タグを近づけて、あなたの名前と周辺記録の状態を見る。痛くはない」


「痛くないって言う人、だいたい痛いことする」


「否定できない経験則ね」


 カリンが笑う。


 ファリスは睨んだ。


「笑うな」


「ごめんごめん。でも、ファリスちゃん、いい勘してるよ。痛くないって言葉は信用しすぎない方がいい」


「どっちの味方なのよ」


「生き残る方」


 マナは苦笑し、端末を下ろした。


「無理にはしない。でも、ユニコーンがあなたを境界適合者と呼んだ理由を知らないと、次に逃げる場所も決めづらい」


 ファリスは黙った。


 境界適合者。


 ハイデガーが言った言葉。


 自分の下には古いものが眠っている。自分の血には、そこを歩いてきた者たちの名残がある。自分の名は普通の記録層からずれている。


 何一つ理解できない。


 でも、そのわからないもののせいで〈ホーム〉が壊され、ザックが死んだのだとしたら、知らないままではいられない。


 ファリスは工具箱に手を置いた。


「……これ、持っててもいい?」


「もちろん」


 アリスが答えた。


「それはあなた様のものです」


 ファリスは、少しだけ首を振った。


「兄貴の」


 アリスは一拍置いて、静かに言い直した。


「では、あなた様が預かっているものです」


 ファリスは、うなずいた。


 マナが記録タグを準備する。


 銀色の薄いタグだった。指二本分ほどの大きさで、表面には何も書かれていない。アリスがそれを両手で持ち、ファリスの前に立つ。


「ファリス様。始めてもよろしいでしょうか」


 ファリスは、アリスを見た。


 この機械人形は、勝手に始めない。


 許可を取る。


 それだけのことが、少し不思議だった。


「……いい」


「ありがとうございます」


 アリスは記録タグをファリスの胸元へ近づけた。


 タグが光る。


 薄い青色の文字が浮かんだ。


 FARIS.


 ファリス。


 その文字を見た瞬間、ファリスはなぜか安心しそうになった。


 自分の名前がそこにある。


 ちゃんと表示された。


 だが、次の瞬間、文字が崩れた。


 FARIS.


 FA■■S.


 F_RI_


 ザッ――


 屋台――


 三番――


 名前にならない文字列が、タグの表面を激しく流れる。


 アリスの瞳が光った。


「記録干渉を確認。通常の個人記録ではありません」


 マナが身を乗り出す。


「ファリス本人の記録に、周辺残響が絡みついてる?」


「はい。複数名。人数推定、二十七、三十四、五十一……いえ、判別不能。損傷した〈ホーム〉三番街の居住記録、生活記録、死亡直前の生命記録、呼称残響が混在しています」


 ファリスは、何を言われているのかわからなかった。


 わからないのに、胸が苦しくなる。


 タグの光が揺れるたび、耳の奥で声がした。


 ファリス。


 嬢ちゃん。


 工具屋の妹。


 ザックの妹。


 おい、ランプの子。


 合成卵いらないか。


 兄貴に言いつけるぞ。


 走れ。


 ファリス。


 走れ、ファリス。


「やめて」


 ファリスは呟いた。


 アリスがすぐにタグを離そうとする。


 だが、タグはまだ光っていた。


 工具箱が、かすかに震える。


 ファリスはそれを見る。


 工具箱の中から、薄い赤い光が漏れている。ザックのポーチ。予備キー。自作端末。汚れたメモリ。そこに、何かが残っている。


 マナが静かに言う。


「ザックの記録も、完全には消えてない」


 ファリスの呼吸が止まる。


「……え?」


「本人が生きているって意味じゃない」


 マナは慎重に言った。


「でも、ハイデガーに全部吸われたわけでもない。工具箱に残ってる。彼が使ってきた道具、触れてきた部品、書き込んだ端末、あなたへ投げたポーチ。そういうものに、ザックという人の残響が残ってる」


 ファリスは工具箱を開けた。


 手が震えて、留め具がうまく外れない。


 カリンが手伝おうとしたが、ファリスは首を振った。


 自分で開ける。


 壊れた留め具を指で押し込み、蓋を持ち上げる。


 中に、ザックの道具がある。


 絶縁ドライバー。


 古い端子。


 銅線。


 自作端末。


 排水管を直す時に使ったレンチ。


 合成パンの欠片が、なぜか小さな袋に入っていた。


 ファリスはそれを見て、喉を詰まらせた。


「なんで、こんなの入れてるの」


 誰に言ったのか、自分でもわからない。


 ザックなら言っただろう。


 未来への投資、と。


 馬鹿みたいに。


 そう思った瞬間、涙が落ちた。


 工具箱の中へ。


 一滴。


 もう一滴。


 止まらなかった。


「兄貴」


 ファリスは工具箱を抱きしめた。


「ザック」


 やっと、身体に届いた。


 ザックは死んだ。


 もう返事をしない。


 排水漏れを直せない。


 五分で戻ると嘘をつけない。


 ちゃんとした店のノートを開けない。


 でも、全部消えたわけではない。


 この箱に、手つきが残っている。


 教えたことが残っている。


 馬鹿みたいな言い回しが残っている。


 ファリスの手の中に、少しだけ残っている。


 それが、嬉しいのか悲しいのか、わからなかった。


 わからないまま、泣いた。


 声を上げて泣いた。


 カリンは何も言わなかった。


 マナも、何も言わなかった。


 鴉はベッドの上で目を閉じている。


 アリスだけが、静かにファリスのそばへ膝をついた。


 記録タグの光は、まだ揺れている。


 アリスは、そのタグを両手で包むように持ち、出力を落とした。


「ファリス様」


 ファリスは涙で濡れた顔を上げる。


 アリスは、銀色の記録タグを彼女の手に置いた。


「これは、あなた様を所有するためのタグではありません」


 その言葉に、ファリスの指が止まる。


 所有。


 機械人形に所有者登録があることくらい、ファリスも知っている。〈ホーム〉でも、所有者のいない機械人形はすぐに狙われる。所有者不明は、誰かのものにしていいという意味に近い。


 アリスは、自分が機械人形だと言った。


 だからこそ、その言葉は重かった。


「あなた様が、あなた様であることを固定するためのものです」


「固定……」


「はい。あなた様の周囲には、多くの記録残響が存在しています。〈ホーム〉三番街の方々の名、ザック様の残響、ユニコーン・セキュリティによる識別、境界適合者という分類。それらが、あなた様の名前に干渉しています」


 アリスは淡々と言う。


 けれど、その淡々とした声は冷たくなかった。


「このタグは、それらを消すものではありません。あなた様の名を、他の記録に上書きされないよう補助するものです」


 ファリスはタグを握った。


 冷たい金属。


 けれど、嫌ではなかった。


「あたしが、あたしでいるため?」


「はい」


 アリスはうなずく。


「わたくしも、記録核を持つ存在です。誰かのために作られ、誰かの記録を与えられ、誰かの代わりと呼ばれたことがあります」


 マナが少しだけアリスを見る。


 カリンも、口を挟まない。


「ですが、わたくしはアリスでございます。そう名乗ることを選びました」


 ファリスはアリスを見つめた。


 機械人形。


 作られた存在。


 誰かの代用品。


 それでも、自分で自分を説明する少女。


 アリスは言う。


「ファリス様も、ご自身を説明してよいのです。境界適合者ではなく、回収対象ではなく、ザック様の妹であることだけでもなく」


 ファリスは、タグを握る手に力を込めた。


「……あたしは、ファリス」


「はい」


「ザックの妹」


「はい」


「〈ホーム〉三番街の……」


 そこで、言葉が詰まる。


 〈ホーム〉三番街はもうない。


 でも、なかったことにはならない。


「〈ホーム〉三番街のファリス」


 アリスは静かにうなずいた。


「記録いたしました」


 ファリスはまた泣いた。


 今度は少しだけ、息ができる泣き方だった。


     *


 診断が終わった頃、倉庫の端末が低く警告音を鳴らした。


 カリンが画面を見て、露骨に嫌な顔をした。


「うわぁ、政府案件になった」


 マナが振り返る。


「どこまで?」


「女帝政府特別封印課が動いてる。ワルキューレ直属じゃないけど、夢殿側の監視網に引っかかったっぽいね」


 ファリスはタグを握ったまま、聞く。


「政府が来るの?」


「すぐには来ないと思うよ。たぶん、まずは周辺記録の照会、ユニコーンへの問い合わせ、現場封鎖、関係者の洗い出し」


 カリンは端末を操作しながら続ける。


「でも、ファリスちゃんの記録異常と、鴉さんの反応はかなり目立つ。ヨムルンガルド結界の監視網に引っかかったなら、長くここには置けない」


 マナが腕を組む。


「ワルキューレが直接出てくるほどじゃない。少なくとも今は。でも、夢殿が“未登録高位存在と境界異常持ちの少女が同じ場所にいる”って認識したら、保護という名の拘束はあり得る」


「保護って言葉も嫌いになりそう」


 ファリスが呟く。


 カリンがうなずいた。


「安全確保、保護、再整備。帝都の三大信用しすぎちゃいけない言葉だねぇ」


「ほかにもありそう」


「いっぱいあるよ。今度一覧にしてあげる」


 マナは苦笑しつつ、真面目な顔で言った。


「二人を一時的に移した方がいい。アリスの隠し工房なら、記録遮断もできるし、医療設備もここよりまし。ユニコーンにも政府にも、すぐには見つからない」


 アリスが淡々と補足する。


「場所は非公開でございます。マナ様が三度ほど迷子になったため、追跡困難性は実証済みです」


「それ実証じゃなくて事故よね?」


「結果として有効性が確認されました」


「言い方!」


 カリンは笑った。


「いいじゃん、隠し工房。響きが秘密基地っぽい」


 鴉が、かすれた声で言った。


「行かない」


 倉庫の空気が止まる。


 マナが眉をひそめる。


「あなた、今の話聞いてた?」


「聞いていた」


「じゃあ、なおさら行くべきでしょう」


「私が行けば、そこも巻き込む」


「ここはもう巻き込まれてるわよ」


「これ以上は不要だ」


 鴉は身体を起こそうとする。


 アリスが静かに手を伸ばし、抑える。


「鴉様。移動には補助が必要です」


「必要ない」


「現在の身体機能では、三十二歩以内に転倒すると推定されます」


「推定するな」


「事実でございます」


 カリンが小さく笑う。


「鴉さん、アリスちゃんに正論で殴られてる」


 鴉は睨んだ。


 だが、立てない。


 ファリスはそれを見ていた。


 まただ、と思った。


 鴉は自分で決めようとする。


 自分が危険だから。


 自分が巻き込むから。


 自分が離れればいいから。


 そうやって、自分ひとりで壊れようとする。


 ファリスは、記録タグを握った。


 あなた様が、あなた様であることを固定するためのものです。


 自分を説明していい。


 自分で決めていい。


 なら。


「あたしが行きたいって言ったら?」


 鴉の言葉が止まった。


 ファリスは彼を見る。


「隠し工房。そこに行きたいって、あたしが言ったら?」


「君は――」


「また危ないって言う?」


 鴉は黙る。


「ここも危ない。外も危ない。カリンのところも危ない。あんたのそばも危ない。じゃあ、どこが安全なの」


 答えはない。


 ファリスは続ける。


「安全な場所を選べないなら、せめて知りたいことがわかる場所に行く。あたしは、自分が何なのか知りたい。境界適合者って何なのか。ユニコーンが何をしたのか。ザックから何を奪ったのか。鴉が何でそんな身体になったのか」


 鴉の目が揺れる。


「私のことは、知らなくていい」


「それも、あたしが決める」


 ファリスは言った。


 声は震えた。


 でも、逃げなかった。


「知るかどうかは、あたしが決める」


 鴉は何も言えなかった。


 マナが静かに息を吐く。


「決まりね。移動準備。カリン、ここに残った痕跡を消せる?」


「清掃会社だからね。痕跡消しは本業だよ」


「アリス、鴉の搬送補助」


「承知いたしました」


「ファリスはタグを持って。工具箱も。離さないで」


 ファリスはうなずいた。


 工具箱を抱え直す。


 記録タグを胸元に握る。


 その二つは、どちらも冷たい。


 でも、今のファリスに残っているものだった。


     *


 移動は夜になってからになった。


 昼間は夢殿側の監視が強い、というのがマナの判断だった。カリンは倉庫の表側を通常営業に見せるため、壊れた壁を仮装パネルで塞ぎ、清掃ドローンの残骸を「故障備品」と書かれた箱へ詰めた。エス化した住民たちは、マナの簡易封印とアリスの影縫いで眠らされている。


 ファリスは、倉庫の奥で少しだけ眠った。


 眠ったというより、意識が落ちた。


 夢は見なかった。


 目を覚ますと、外は暗かった。


 帝都の夜が戻っていた。


 ただ、ファリスの中では朝が終わっていなかった。


 ザックの死んだ朝が、まだ続いている。


 倉庫の奥、結界具の光が薄く揺れている。


 カリンは外で何かを片づけている。


 マナは端末の前で仮眠している。


 アリスは立ったまま充電しているのか、目を閉じて静止していた。人形のように綺麗で、でも、さっきファリスの名前を固定してくれた少女だ。


 鴉は、簡易ベッドの上に座っていた。


 眠ってはいない。


 夜の中に、沈んでいるようだった。


 ファリスはしばらく迷い、工具箱を抱えて彼のそばへ行った。


 鴉は気づいているはずなのに、何も言わない。


 ファリスはベッドの横に座る。


 沈黙。


 倉庫の外を、遠くの車両が走る音がした。


 ファリスは、自分の胸元の記録タグに触れた。


 小さな銀色のタグ。


 そこにはまだ何も刻まれていない。


 でも、アリスは記録したと言った。


 ファリス。


 ザックの妹。


 〈ホーム〉三番街のファリス。


「あんたの名前」


 ファリスは言った。


 鴉が、少しだけ目を向ける。


「あんたの名前、本当に鴉なの?」


 鴉は、しばらく黙っていた。


 それから、いつものように答えた。


「人がそう呼ぶ」


「そればっかり」


「事実だ」


「アズェルって呼ばれてた」


 鴉の目が冷える。


 ファリスは怯みそうになった。


 でも、続けた。


「ゾルテも、ハイデガーも、そう呼んでた」


「あれは死んだ名だ」


「死んだ名って、何」


「私ではない」


「でも、反応した」


 鴉は黙る。


 ファリスは膝の上で工具箱の取っ手を撫でた。


 ザックの布が巻いてある。


「アリスが言ってた。名前は、自分が自分でいるための芯だって。あんたは、それを剥がされたんでしょ」


「……聞いていたのか」


「同じ部屋にいたし」


「忘れろ」


「無理」


 ファリスは少しだけ息を吐いた。


「あたし、今日、自分の名前が怖かった。ファリスって言うだけなのに、何かに見つかる気がした。境界適合者とか、回収対象とか、そういうのに上書きされる気がした」


 鴉は何も言わない。


「でも、アリスが言った。自分で説明していいって。あたしはファリス。ザックの妹。〈ホーム〉三番街のファリス」


 胸が痛む。


 でも、言えた。


「だから、あんたも」


 ファリスは鴉を見る。


「今すぐじゃなくていいけど」


 鴉の黒い瞳が、彼女を見る。


「鴉って、人が呼ぶんでしょ」


「そうだ」


「じゃあ、あたしもそう呼ぶ」


 ファリスは言った。


「でも、あんたがいつか別の名前を選ぶなら、それも聞く」


 鴉は何も言わなかった。


 黒衣が静かに揺れる。


 怒っているのか、困っているのか、傷ついているのか、ファリスにはまだわからない。


 ただ、彼は初めて、ファリスの方をまっすぐ見た。


 人間の血を見る目ではなく。


 守るべき子どもを見る目でもなく。


 そこにいる誰かを、確かめるような目で。


 長い沈黙のあと、鴉は低く言った。


「ファリス」


「何」


「……そのタグを、なくすな」


 ファリスは、胸元の記録タグを握った。


「なくさない」


「工具箱も」


「なくさない」


「なら、いい」


 それだけだった。


 でも、ファリスには十分だった。


 外では、帝都エデンの夜がまた動き始めている。


 夢殿の監視も、ユニコーンの追跡も、ゾルテの白い光も、ハイデガーの赤黒い核も、まだどこかで息をしている。


 何も終わっていない。


 むしろ、何かが始まってしまった。


 それでも、ファリスはその夜、初めて自分の名前を握ったまま眠った。


 ザックの工具箱をそばに置き、鴉と呼ばれる男の沈黙を聞きながら。


 帰る場所はまだない。


 けれど、自分が誰なのかを失わないための、小さな印だけは手の中にあった。

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