第4話 氷の花に拾われる
帝都エデンは、壊れた場所にも朝を配る。
どれほど多くの家が潰れても、どれほど多くの名が呼び返されなくなっても、魔導炉は止まらない。空中軌道は定刻通りに走り、ホウジュ区の広告塔は新作香水の宣伝を流し、ツインタワー西タワーの外壁には、朝の陽光を模した人工照明が降っていた。
〈ホーム〉三番街で何が起きたのかを、街はまだ知らない。
いや、知っていたとしても、朝は来る。
それが帝都だった。
ファリスは、壊れた〈ホーム〉から離れて歩いていた。
右腕には工具箱を抱えている。
ザックの工具箱。
片方の留め具は壊れていて、歩くたびに中の工具がかすかに鳴った。絶縁ドライバー。銅線。魔導回路用の細針。ザックの自作端末。使い道のわからない部品。今朝までは、ただの仕事道具だった。
今は、それが兄の重さだった。
左肩には、鴉の腕が乗っている。
重い。
冷たい。
人間の体温ではない。
けれど、血は流れていた。黒に近い赤が、鴉の腹部から滲み、ファリスの上着を濡らしている。彼は歩いているというより、ファリスに引きずられていた。黒衣はぼろぼろで、ところどころ夜を切り取ったように欠けている。右手の黒い爪は砕け、白い指の先から血が落ちていた。
ファリスも、もう限界に近かった。
肩が痛い。熱線銃を撃った反動で、腕がまともに上がらない。背中も痛い。足も痛い。喉は砂を飲んだみたいに乾いている。泣いたはずなのに、まだ涙が身体の奥に残っているようで、息をするたび胸が苦しかった。
それでも歩いた。
止まれば、〈ホーム〉三番街が背中から追いついてくる気がした。
ザックの倒れた音。
ハイデガーの笑い声。
白い疑似門の光。
ザックから赤い糸が引き抜かれていく光景。
それらが、まだ後ろにある。
振り返ってはいけない。
振り返ったら、もう歩けない。
「……どこ」
ファリスは掠れた声で言った。
「どこ、行くの」
鴉は答えなかった。
息が浅い。
口元に血が付いている。
牙はもう引っ込んでいた。けれど、ファリスはさっき見たものを忘れられない。自分の首筋を見る鴉の目。渇き。恐怖。自分を傷つけてでも止めようとしていた手。
鴉は彼女を守った。
そして、彼女の血を欲した。
どちらも本当だった。
「ねえ」
ファリスはもう一度言う。
「あんたが行くとこに連れてってって言ったけど、あんた、ほんとに行くとこあるの?」
鴉は、ほんの少しだけ目を開いた。
「ない」
「ないの?」
「……だから、君は来るべきではなかった」
「今さら言う?」
「何度も言った」
「言い方が下手なんだよ」
「君が聞かないだけだ」
「聞いてたら、兄貴もホームも戻ってくるの?」
鴉は黙った。
言ってから、ファリスは自分の言葉に傷ついた。
戻らない。
そんなこと、聞かなくてもわかっている。
ザックは戻らない。
〈ホーム〉も戻らない。
古い鉄板をつぎはぎした屋根も、雨漏りみたいな排水漏れも、合成パンを投げてよこす朝も、ザックの《ちゃんとした店》のノートも、もう戻らない。
ファリスは工具箱を抱く腕に力を込めた。
中の工具が鳴る。
その音が、ザックの返事みたいで嫌だった。
路地の先に、ホウジュ区の裏通りが見えた。
〈ホーム〉三番街よりは明るい。けれど、表通りほど綺麗ではない。飲食店の搬入口、違法魔導薬の看板、朝帰りの客、清掃ドローン、使い捨て義体部品のゴミ袋。帝都の華やかな商業区の裏側だ。
そこで、鴉の足が止まった。
いや、崩れた。
彼の体重が一気にファリスへかかる。
「ちょ、重……!」
ファリスは踏ん張ったが、支えきれなかった。
鴉の身体が膝から落ちる。
ファリスも一緒に倒れかけた。
その寸前、甘い薔薇の香りがした。
「うわぁ」
声が降ってきた。
「ひどい顔。美形が台無しだねぇ」
ファリスは顔を上げた。
路地の入口に、黒い花が立っていた。
黒いドレス。レース。リボン。長い黒髪。白い肌。朝の裏路地には場違いなくらい華やかな姿。けれど、その人がただ綺麗なだけではないことは、ファリスにもすぐわかった。
肩に担がれた大鎌。
笑っているのに、目が冷たい。
それから、甘い薔薇の香りの下に、鉄と血の匂いを隠している。
旧いおとぎ話に出てくる姫みたいで、葬式に咲く花みたいで、そして何より、危なそうだった。
「……誰」
ファリスは工具箱を抱えたまま、鴉の前へ出ようとした。
鴉が先に動く。
倒れかけていたくせに、黒衣がわずかに広がった。
「近づくな」
「ボロボロなのに威嚇だけは一人前だね、鴉さん」
黒い花――カリンは、楽しそうに首を傾げた。
「昨夜、屋上で会ったよね。覚えてる?」
「失せろと言った」
「うん。言われた。でもボク、聞くとは言ってない」
ファリスは思わずカリンを見た。
同じことを言う人がいる。
カリンはファリスの視線に気づき、にっこり笑った。
「君がファリスちゃん?」
「……なんで知ってるの」
「鴉さんが呼んだから。あと、ユニコーン・セキュリティの追跡ログにも出てた。ファリス。境界適合者候補。生体回収優先度、高」
ファリスの背筋が冷えた。
回収。
ハイデガーも似たようなことを言っていた。
運ばれればわかる、と。
カリンは、声を少し柔らかくした。
「怖がらせたいわけじゃないよ。でも、状況はだいぶ悪い。君たち、真っ赤に光る追跡票を背中に貼ったまま、裏路地を歩いてるようなものだから」
鴉は低く言う。
「こちらの問題だ」
「うん。そう言って死ぬ人、帝都に山ほどいるよねぇ」
カリンは鴉の腹部の傷を見る。
笑顔が少し薄れた。
「普通の医者じゃ無理だね。魔導医療でもたぶん嫌がられる。ラエル由来の傷に、疑似門の焼け跡。おまけに渇きで中から崩れかけてる」
ファリスは息を呑む。
「治せるの?」
「ボクは医者じゃないから無理」
「じゃあ――」
「でも、隠す場所ならある。追手を撒いて、少し時間を稼ぐ場所。マナさんに投げるかどうかは、その後考える」
「マナ?」
「魔導士。変人。頼れるけど、巻き込むと説明が面倒な人」
カリンは軽く手を振った。
「来る?」
鴉は答えない。
ファリスは鴉を見た。
彼の顔は白い。さっきよりもさらに血の気がない。呼吸も浅い。自分の足で立つのは、もう無理そうだった。
それでも、彼はカリンを信用していない。
ファリスも信用してはいない。
でも、信用できる場所など、もうどこにもなかった。
ファリスは言った。
「行く」
鴉が彼女を見る。
「ファリス」
「あたしが決めた」
そう言ってから、ファリスは自分の声がまだ震えていることに気づいた。
それでも言った。
「この人が危ない人なのはわかる。でも、今ここにいたら、もっと危ない」
カリンは胸に手を当てて、大げさに傷ついた顔をした。
「危ない人扱いされた。正解だけど」
「正解なんだ」
「帝都で長生きしたいなら、綺麗な人と親切な人は、まず疑った方がいいよ」
「じゃあ、あんたは?」
「綺麗で親切で危ない人」
「最悪じゃん」
「でも今は、一番まし」
ファリスは返事に詰まった。
カリンは笑う。
「よし、歩ける?」
「……たぶん」
「じゃあ、歩いて。鴉さんはボクが半分持つ。あ、変なところ触ったら斬るからね」
「触れるか」
鴉が低く言う。
「触れないよね。その体力じゃ」
カリンは軽く言って、鴉のもう片方の腕を肩に回した。
その動きは意外なほど慣れていた。
倒れかけた人間を支える動き。
怪我人の重心を逃がす動き。
血に濡れた服を見ても、眉一つ動かさない。
ファリスは、カリンが何者なのか改めてわからなくなった。
美しい。
危ない。
軽い。
でも、実戦の匂いがする。
鴉は小さく呻いた。
カリンは囁く。
「我慢して。今噛んだら、ボクの香で寝かせるよ」
「効くと思うのか」
「効かなくても、気分は出るでしょ」
「くだらない」
「くだらない会話してる間は、まだ生きてるってこと」
カリンは歩き出した。
ファリスは工具箱を抱え、鴉の体を支えながら、その後に続いた。
*
カリンが二人を連れて行ったのは、ツインタワー東タワーから少し離れた倉庫街だった。
表向きは清掃会社の備品置き場。
薄い水色の看板には、〈星見クリーンサービス ホウジュ第三倉庫〉と書かれている。シャッターには清掃用品の絵が描かれ、横には古い清掃ドローンが三台、動かないまま並んでいた。
いかにも安っぽい倉庫だった。
だが、カリンが裏口の認証盤に指を当てると、空気が変わった。
防犯結界が一瞬だけ歪む。
監視カメラの死角が作られる。
シャッターではなく、横の壁そのものが音もなく開いた。
「ここ、何」
ファリスが呟く。
「清掃用品置き場」
カリンは答える。
「表向きは?」
「清掃用品置き場」
「裏は?」
「ちょっと高い清掃用品置き場」
「嘘でしょ」
「うん」
中は広かった。
手前には本当に清掃用品が並んでいる。モップ、洗剤、窓拭き用のリフト部品、制服、交換用ドローンブラシ、廃液処理タンク。
だが、奥の壁の向こうには、簡易ベッド、医療キット、武器庫、情報端末、偽造身分証の保管庫、小型結界発生器があった。
トラブルシューター用の一時避難所。
ファリスにも、それくらいはわかった。
カリンは鴉を簡易ベッドへ座らせようとした。
鴉は拒もうとする。
「座って」
「不要だ」
「立ったまま倒れられると床が汚れる」
「床の心配か」
「もちろん。清掃会社だからね」
カリンは笑顔で言い、鴉の膝裏を軽く蹴った。
鴉は抵抗する力もなく、ベッドへ落ちる。
ファリスは思わず声を上げた。
「ちょっと!」
「大丈夫。人間なら痛いけど、鴉さんはたぶん人間じゃないから」
「たぶんじゃないでしょ」
「だよねぇ」
カリンは手際よく鴉の黒衣をめくり、傷を見る。
ファリスは見ないようにしようとして、見てしまった。
腹部の穴。
肩の裂傷。
胸の焼け跡。
普通なら、生きている方がおかしい。
カリンは笑顔を消した。
「うん。これ、ボクの手には余る」
「じゃあどうするの」
「まず、死なないようにする。治すのはその後」
カリンは棚から銀色のパックを取り出し、封を切った。
薔薇の香りが少し強くなる。
「鴉さん。これ、鎮静用。飲める?」
「いらない」
「渇き止めじゃないよ。痛覚と再生暴走を少し抑えるだけ」
「いらない」
「じゃあ、塗るね」
「話を聞け」
「聞いた上で無視してる」
カリンは鴉の返事を待たず、傷口の周囲へ透明な薬液を塗った。
鴉の指がシーツを掴む。
布が裂けた。
ファリスは肩を震わせる。
カリンは横目でそれを見て、少しだけ声を柔らかくした。
「ファリスちゃん、そこに座って。毛布あるから」
「いらない」
「いるよ。震えてる」
「震えてない」
「震えてる」
「寒いだけ」
「そういうことにしようか」
カリンは棚から毛布を取り出し、ファリスへ投げた。
ファリスは反射的に受け取る。
柔らかかった。
〈ホーム〉で使っていた毛布よりずっと柔らかい。洗剤の匂いがする。血の匂いも、油の匂いも、排熱パイプの臭いもしない。
それが急に腹立たしかった。
こんなに簡単に、清潔な毛布がある場所がある。
自分の家には、天井から水が落ちていたのに。
ファリスは毛布を膝に置いたまま、座らなかった。
カリンは小型冷蔵庫を開け、紙パックの飲み物を一本取り出した。
「水分。合成果汁だけど、味はまあまあ」
「いらない」
「いるよ。泣いた後は喉が乾く」
ファリスは飲み物を見た。
泣いた後。
そう言われて、自分が泣いていたことを思い出した。
ザックの名前を呼んだことも。
返事がなかったことも。
手が震える。
カリンは紙パックを彼女の手に押しつけた。
「話したくないなら話さなくていいよ。でも、話さないことで死ぬなら、それはちょっとつまらないね」
ファリスは紙パックを握った。
潰れかける。
「死ぬって、誰が」
「君。鴉さん。ボク。ここに来る追手。場合によっては、近所の清掃会社のおじさん」
「冗談?」
「半分」
「半分なんだ」
「帝都で全部冗談の話って、あまりないからね」
カリンは簡易椅子へ腰を下ろし、足を組んだ。
ドレスの裾がふわりと広がる。
場違いだった。
血と怪我人と工具箱と毛布と清掃倉庫の中で、その黒いドレスだけが異様に整っている。
ファリスは、それを見ているうちに、少しだけ呼吸が戻った。
鴉は黙っている。
カリンも急かさない。
倉庫の奥で、結界発生器が低く鳴っている。
外では清掃ドローンの古い駆動音が聞こえる。
ファリスは紙パックのストローを刺した。
指がうまく動かず、一度失敗した。
二度目で刺さった。
一口飲む。
甘い。
甘すぎる。
ザックなら「安っぽい味だな」と言ったはずだ。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
「……ホームが」
声が出た。
カリンは何も言わない。
「三番街が、壊された」
ファリスは紙パックを握りしめる。
「朝、テレビが勝手について。退去命令って。知らなくて。説明もなくて。ユニコーンって会社が来て。白い車と、重機と、ドローンと、変な兵器と……みんな、まだ寝てたのに」
言葉は途切れ途切れだった。
それでも、一度出ると止まらなかった。
「家、壊されそうになって。兄貴が止めた。重機の制御を止めて。あたし、家を守ろうとして、吹き飛ばされて。ハイデガーって男が来て。境界適合者って言われた。意味わかんなくて。あたしのこと、運ぶとか、使えるとか言って」
カリンの目が、わずかに細くなる。
鴉は目を閉じたまま聞いている。
「鴉のいる廃ビルも壊されて。鴉、生きてて。あたし、助けてって言った。ホームなんだって。そしたら、鴉が戦ってくれて」
ファリスの声が震える。
「でも、ハイデガーが……兄貴を」
そこで、言葉が止まった。
ザックが死んだ。
言わなければならない。
でも、言いたくない。
言わなければ、まだどこかで息をしているかもしれない。
工具箱を抱えて「五分で戻る」と言ったまま、どこかの路地で自分を探しているかもしれない。
けれど、ファリスの腕の中には工具箱がある。
ザックは投げた。
走れ、と言った。
ファリスは震える唇で言った。
「兄貴が、死んだ」
倉庫の中が静かになった。
カリンの顔から笑みが消えた。
完全に消えた。
美しい顔が、氷のように冷える。
「名前は」
「……ザック」
「そう」
カリンは小さく頷いた。
「ザック。覚えた」
その言葉で、ファリスはまた泣きそうになった。
カリンは続けて聞いた。
「ハイデガーは、ザックくんに何をした?」
ファリスは喉を鳴らした。
「血を、吸った」
鴉の指が、シーツを掴む。
「でも、血だけじゃなかった。何か、赤い糸みたいなのが出て。兄貴の中の……声とか、思い出とか、手の動かし方とか、そういうのまで、持っていかれる感じがした。ハイデガーが、美味しそうにしてた」
カリンは目を伏せた。
「エイース」
「何それ」
「血に宿る生命記録。名前、記憶、魂の熱、生きてきた時間。ラエルが欲しがるもの」
ファリスは鴉を見た。
鴉は目を開けない。
カリンは、ファリスの視線を追って言う。
「鴉さんも、それを欲する身体なんだと思う」
ファリスの指が、紙パックを潰した。
甘い液体が少しこぼれる。
「知ってる」
自分でも驚くほど、声が低かった。
「鴉、あたしの血を欲しそうにした」
鴉が目を開けた。
「ファリス」
「でも、噛まなかった」
ファリスは言った。
そこだけは、はっきり言いたかった。
「自分の喉を掴んで、血が出るくらい爪立てて、逃げろって言った。あたしを守った後で、あたしを食べそうになって、それでも止めた」
カリンは鴉を見る。
鴉は、ファリスから視線を逸らした。
「この子を遠ざけたいのはわかるよ」
カリンは静かに言った。
いつもの甘さが少しだけ消えていた。
「でもね、もう帰る場所がない子に“帰れ”って言うのは、けっこう残酷だよ」
鴉は答えない。
「君が危険なのは本当。ラエル由来の渇きがあるのも本当。そばに置けば、この子を傷つける可能性があるのも本当。でもさ」
カリンは椅子の背にもたれた。
「遠ざけた先に安全な場所があるって、誰が保証するの?」
鴉の瞳が揺れる。
「私のそばよりはましだ」
「そうかな。ユニコーンに回収される。夢殿に保護という名で収容される。裏社会に売られる。〈ホーム〉の残党狩りに巻き込まれる。そういう選択肢もあるよ」
「なら、おまえが保護しろ」
「するつもりはあるよ。でも、それを君が決めることじゃない」
カリンの視線が、ファリスへ向く。
「決めるのは、この子」
ファリスは顔を上げた。
決める。
その言葉が、遠く聞こえた。
今まで、決めることは少なかった。
〈ホーム〉で生まれたわけではないかもしれない。流れ着いたのかもしれない。記録は曖昧だ。ザックと暮らすしかなかった。壊れたものを直すしかなかった。雨漏りを排水漏れと分類する生活を続けるしかなかった。
そして今朝、家を壊されることも決められた。
退去命令。
施工会社。
安全確保。
境界適合者。
回収。
全部、誰かが勝手に決めた。
カリンはファリスの目を見る。
「今すぐ答えなくていいよ。まずは――」
その時、倉庫の照明が一瞬落ちた。
カリンの表情が変わる。
「早いね」
鴉が身体を起こそうとする。
カリンが手で制した。
「動かないで。今の君が動くと、傷が開くより先に渇きが暴れる」
「追手か」
「たぶんね」
カリンは情報端末を起動した。
倉庫周辺の監視映像が複数表示される。表通り。搬入口。屋上。裏路地。清掃ドローンの待機スペース。
そこに、白い装甲ドローンが映っていた。
一機ではない。
五機。
いや、映像外にも反応がある。
さらに、路地の奥から何かが歩いてくる。
人間に見えた。
だが、歩き方が違う。
関節が遅れて動く。首が傾いたまま戻らない。目の焦点が合っていない。服は〈ホーム〉三番街のものだ。焦げた上着。汚れた作業ズボン。腕に巻いた自治会の布。
ファリスの喉が詰まる。
「あれ……」
知っている人がいた。
名前が出そうで、出ない。
昨日、屋台の横で笑っていた人。
ジャンクショップに部品を売りに来ていた人。
住民だった人。
カリンの目が冷える。
「エス化した住民を混ぜてきたか」
「エス?」
「名前と記録を削られて、命令だけを残された人。完全な死体じゃない。でも、本人とも言いにくい」
ファリスは震えた。
「助けられるの?」
カリンは少しだけ黙った。
その沈黙だけで、答えは半分わかった。
「状態による」
「それ、助けられないってこと?」
「嘘は言わない。全員は無理」
ファリスは唇を噛んだ。
外で、ドローンが警告音声を流す。
『対象ファリス。安全確保のため、指定保護車両へ同行してください。抵抗した場合、周辺協力者を危険存在として制圧します』
ファリスは笑った。
乾いた笑いだった。
「安全確保って言葉、嫌いになりそう」
「帝都では便利な言葉ほど汚れてるからね」
カリンは立ち上がり、大鎌を取り出した。
どこから出したのか、ファリスにはわからなかった。黒いドレスの影から、巨大な刃が音もなく現れる。
甘い薔薇の香りが強くなった。
「ファリスちゃん、後ろへ。鴉さんは寝てて」
「私も――」
鴉が立とうとした瞬間、彼の身体が傾いた。
ファリスは反射的に支えようとしたが、カリンの方が早かった。
カリンは鴉の胸を軽く押してベッドへ戻す。
「無理。君が今戦うと、たぶん敵より先にこの子を見る」
鴉の顔が歪む。
カリンはそれ以上責めなかった。
ただ、言った。
「守りたいなら、動かない判断も覚えて」
外壁が爆ぜた。
白いドローンが三機、倉庫内へ突入する。
同時に、エス化した住民たちが搬入口から雪崩れ込んできた。
カリンが動いた。
大鎌が円を描く。
ドローンの一機が真っ二つに裂け、床へ落ちる。二機目が麻痺弾を発射する前に、カリンのヒールが壁を蹴った。黒いドレスが舞い、刃がドローンの関節部を叩き割る。
速い。
美しい。
怖い。
ファリスは一瞬、見惚れた。
黒い花が咲いて、敵だけが散っていく。
だが、エス化した住民たちは止まらなかった。
痛みを感じていない。腕を斬られても、膝を砕かれても、ファリスの方へ歩いてくる。口が動いている。言葉にならない声。
「ファ……」
「リ……」
「確、保……」
ファリスは工具箱を抱えたまま後ずさる。
カリンは舌打ちした。
「香が効きにくい。命令系統が外部だ」
天井近くで、別のドローンが通信中継をしている。
カリンはそれを見上げるが、エス化した住民たちが間に入る。斬れば早い。だが、カリンは核を狙っていない。膝、腕、武器だけを落としている。
殺さないようにしている。
それが、逆に遅い。
鴉がベッドから起き上がろうとする。
ファリスは叫んだ。
「駄目!」
鴉が止まる。
自分でも驚いた。
ファリスは、鴉へ叫んでいた。
「動かないで!」
「だが」
「あたしが、何とかする!」
言ったあとで、何を言っているのか自分でもわからなかった。
何とかする。
何を。
どうやって。
ファリスは周りを見る。
清掃用品。
工具箱。
壊れた清掃ドローン。
壁際に三台あったうち、一台は古い型だ。胴体に星見クリーンサービスのロゴ。下部にブラシ。後部に小型魔導バッテリー。通信方式はたぶん旧式。いや、見たことがある。ジャンクショップに似た型が転がっていた。ザックが「こいつは洗剤散布機じゃなくて、実質移動する通信中継器だ」と言って分解していた。
ファリスの頭の中で、ザックの声が蘇る。
機械はな、見た目じゃなくて流れを見るんだよ。
電気の流れ。
魔導の流れ。
命令の流れ。
どこから来て、どこへ行くか。
ファリスは工具箱を開けた。
手が震える。
でも、工具の位置は覚えている。
絶縁ドライバー。
銅線。
ザックの予備キー。
小型端末。
彼女は清掃ドローンへ駆け寄った。
「ファリスちゃん?」
カリンが一瞬だけ振り返る。
「あの上のやつが命令出してるんでしょ!」
「たぶんね!」
「この清掃ドローン、通信いじれる!」
「できるの?」
「知らない!」
「いい答え!」
カリンが笑った。
ファリスは清掃ドローンの外装をこじ開けた。
ネジが固い。
指が滑る。
肩が痛い。
でも、開ける。
ザックならもっと早い。
ザックなら文句を言いながら、三秒で開ける。
ファリスは歯を食いしばる。
「兄貴なら……」
言いかけて、止めた。
ザックはいない。
だから、自分がやる。
内部の回路が見えた。
古い。
汚い。
でも、生きている。
ファリスは銅線を噛んで被覆を剥き、予備キーを端末に差し込む。画面に警告が出る。
認証失敗。
もう一度。
認証失敗。
ファリスは舌打ちした。
「このポンコツ!」
ザックの声が頭の中で笑う。
機械に悪口言っても直らねぇぞ。
「うるさい!」
ファリスは叫んだ。
カリンが敵を蹴り飛ばしながら言う。
「ボクに言った?」
「違う!」
「じゃあ誰?」
「兄貴!」
「いいね、家族会議は手短に!」
ファリスは端末の認証を諦めた。
正面から入れないなら、別のところから入る。
清掃ドローンの洗剤散布系統。その制御端子は通信制御と同じ基板を通っている。そこへ銅線を噛ませる。魔導バッテリーの余剰出力を一瞬だけ逆流させる。ザックが一度やって、家中の照明を吹き飛ばしたやり方だ。
ファリスは息を止めた。
「壊れたらごめん」
ドローンへ言った。
そして、端子を繋いだ。
火花。
清掃ドローンが悲鳴のような起動音を上げる。
同時に、天井近くの敵ドローンの動きが乱れた。
『通信異常。通信異常』
エス化した住民たちの足が止まる。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
でも、その一瞬でカリンは十分だった。
大鎌が舞う。
天井の中継ドローンが斬り落とされる。
カリンは床へ着地し、にやりと笑った。
「いいね。君、ただ守られる子じゃないじゃん」
ファリスは清掃ドローンの横で尻餅をついた。
呼吸が荒い。
手が震えている。
でも、今、確かに何かをした。
ただ逃げたのではない。
守られただけではない。
自分の手で、状況を少し変えた。
ほんの少し。
でも、変えた。
その事実が、胸の奥に小さな熱として残った。
カリンは残ったドローンを斬り落とし、エス化した住民たちの足と腕を丁寧に止めていく。最後の一体がファリスへ手を伸ばした時、鴉の黒衣がわずかに動き、その手首だけを絡め取った。
鴉は動かないまま、言った。
「殺すな」
「わかってるよ」
カリンは短く答えた。
その声に、少しだけ敬意があった。
やがて、倉庫内は静かになった。
床には壊れたドローンと、拘束されたエス化住民たちが転がっている。誰も完全には死んでいない。だが、助かるのかもわからない。
カリンは大鎌を軽く振って、刃についた粘液を払った。
「うーん。この鎌も捨てかな」
ファリスは荒い息のまま言う。
「またそれ?」
「大事だよ。武器の手入れは命に関わるからね」
「服より?」
「服も命に関わる」
「本気で言ってる?」
「本気」
カリンは笑った。
ファリスは少しだけ、ほんの少しだけ、口元を歪めた。
笑ったのかもしれない。
すぐに消えたけれど。
*
追手を退けた後、倉庫には重い静けさが戻った。
カリンは外部結界を張り直し、壊れた壁を仮封鎖し、拘束したエス化住民たちを奥の簡易隔離室へ移した。どこかへ短い連絡も入れていたが、相手が誰なのかファリスにはわからない。
鴉はベッドに座ったまま、動かない。
ファリスは、壊れた清掃ドローンの横に座っていた。
工具箱は膝の上。
ザックの工具が入っている。
さっき、自分はそれを使った。
ザックが教えたことを、自分の手で使った。
そのことが、少しだけ怖かった。
ザックがいなくても、自分の手が動いてしまう。
生きてしまう。
それが怖かった。
カリンがファリスの前にしゃがんだ。
黒いドレスの裾が床に広がる。
「ファリスちゃん」
「何」
「ボクのところに来る?」
ファリスは顔を上げる。
「……どういう意味」
「弟子ってほどじゃないけど、生き残る方法くらいは教えられるよ。裏路地の歩き方。危ない人の見分け方。身分証の使い方。逃走経路の作り方。追手の撒き方。壊れたドローンの悪用方法。あと、服の選び方」
「最後のいる?」
「いる」
カリンは真顔で言った。
「帝都で生きるなら、自分がどう見られるかも武器だから」
ファリスは何も言えなかった。
鴉が低く言う。
「駄目だ」
カリンは振り返る。
「何が?」
「この子を裏社会に入れるな」
カリンは少しだけ目を細めた。
「もう入ってるよ」
「おまえが連れ込む必要はない」
「君が連れてきたんじゃない」
カリンの声が冷える。
「帝都が落としたんだ」
鴉は黙る。
カリンは続けた。
「〈ホーム〉を壊したのはユニコーン。許可を出したのはどこかの役所。見ないふりをしたのは帝都の上の方。境界適合者なんて名前を貼ったのは企業か研究者か、もっと古い連中。鴉さん、君がこの子を危ない世界に入れたわけじゃないよ」
鴉の瞳が揺れる。
「でも、君が“帰れ”って言っても、この子が帰る場所はもうない」
ファリスは工具箱を抱いた。
帰る場所。
その言葉は、まだ痛い。
カリンはファリスへ向き直る。
「ボクのところに来たら安全、なんて嘘は言わない。危ないよ。仕事は汚いし、変な人は多いし、ボクはたぶん保護者向きじゃない」
「自分で言うんだ」
「言うよ。嘘つくよりましだからね」
カリンは微笑む。
「でも、何も知らないまま狩られるよりはいい。君には手がある。工具を持てる手。機械の流れを見られる目。さっき、それで生き延びた。なら、その使い方を覚えた方がいい」
鴉は言う。
「危険だ」
カリンは即座に返す。
「生きるのが?」
「裏社会が」
「この街で裏じゃない場所なんて、夢殿の前の広場くらいだよ。あそこだって、掃除してるボクから言わせれば見えない汚れだらけだけど」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
カリンの目が、初めて完全に笑わなくなった。
「危険だから遠ざける。それは大人の言い分としては正しいよ。でもね、危険から遠ざける場所を用意できないなら、それはただの置き去りだよ」
鴉は言葉を失った。
ファリスは二人を見ていた。
鴉は、自分を守ろうとしている。
カリンも、たぶん自分を使い捨てにはしようとしていない。
でも、どちらも大人だ。
自分の行き先を決めようとしている。
危険だから。
守るために。
生き残るために。
言葉は違う。
けれど、決めるのはいつも誰かだ。
ファリスは工具箱を床に置いた。
重い音がした。
二人がこちらを見る。
ファリスは立ち上がった。
足はまだ震えている。
肩は痛い。
目も腫れている。
自分がひどい顔をしていることくらい、鏡を見なくてもわかる。
それでも、彼女は言った。
「あたしが決める」
鴉が息を止める。
カリンは黙っている。
「あたし、まだ何もわかんない。境界適合者とか、ラエルとか、エイースとか、ユニコーンが何でホームを壊したのかとか、何もわかんない。ザックが何で死ななきゃいけなかったのかも、わかんない」
声が震える。
でも、止めなかった。
「でも、わかんないまま連れていかれるのは嫌。守られるだけなのも嫌。帰れって言われるのも嫌。もう帰る場所、ないから」
鴉の顔が、痛そうに歪んだ。
ファリスは彼を見る。
「あんたのそばが危ないのは、わかった。でも、あんたはあたしを守った。あたしを食べそうになって、それでも止めた。それも、見た」
次に、カリンを見る。
「あんたが危ない人なのも、わかった。でも、さっきは助けてくれた。あたしにできることがあるって、言った」
カリンは小さく頷く。
ファリスは工具箱へ手を置いた。
「だから、決める」
深く息を吸う。
ザックの工具箱が、手の下で冷たい。
その冷たさが、彼女の言葉を支えた。
「あたし、カリンのところに行く。生き残る方法、教えて」
鴉が何か言おうとする。
ファリスは先に言った。
「でも、鴉を置いていくって意味じゃない」
鴉の目が揺れる。
「あんたは、勝手にいなくならないで。あたしを守るとか遠ざけるとか、そういうの、あたし抜きで決めないで」
倉庫の中が静かになる。
カリンが、少しだけ笑った。
「いいねぇ」
その声は甘い。
でも、さっきまでより少しだけ温かかった。
「君、ほんとにただ守られる子じゃないね」
ファリスは睨む。
「褒めてる?」
「もちろん」
「信じられない」
「帝都ではいい判断だよ」
カリンは立ち上がり、手を差し出した。
「ようこそ、ファリスちゃん。氷の花の清掃倉庫へ。待遇は悪いし、危険手当はたぶん出ないし、部屋はまだ片づけてないけど、生き残る方法ならいくつか教えてあげる」
ファリスはその手を見た。
白く、細く、美しい手。
大鎌を振るい、敵を斬り、追手を退けた手。
危ない人の手。
それでも、今は差し出されている。
ファリスはその手を取った。
「危険手当、交渉する」
カリンは目を丸くして、それから笑った。
「いいね。最初の授業は報酬交渉にしようか」
鴉は、ベッドの上で小さく息を吐いた。
それが安堵なのか、諦めなのか、ファリスにはわからない。
ただ、彼は反対しなかった。
外では、帝都エデンの朝がまだ続いている。
〈ホーム〉三番街は壊れた。
ザックは戻らない。
ユニコーン・セキュリティはまだ追ってくる。
ハイデガーも、ゾルテも、きっと終わっていない。
けれど、ファリスは初めて、自分の足元に線を引いた。
誰かに置かれた場所ではなく。
誰かに運ばれる先でもなく。
自分で選ぶ、最初の場所。
それは清掃用品の匂いがする、血まみれで、危険で、やたら綺麗な人がいる、帝都の裏側の倉庫だった。




