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第3話 黒衣の怪物

 朝日の下で、黒衣は夜の形をしていた。


 〈ホーム〉三番街の路地に、瓦礫の粉が舞っている。崩れた廃ビルのコンクリート片。焼け焦げた屋台の看板。押し潰されたジャンクショップの棚。古いテレビの割れた液晶。誰かの鍋。誰かの靴。誰かの祈祷札。


 それらすべてが、白銀の企業車両と、赤く光る警備ドローンと、重機のドリルアームの下で、ただの障害物に変えられていた。


 ユニコーン・セキュリティ。


 都市再整備。


 安全確保。


 そう呼ばれているものが、今、〈ホーム〉三番街を壊している。


 その真ん中で、二体の怪物が向かい合っていた。


 一方は黒い。


 黒衣をまとった男。鴉。


 白い肌。傷だらけの身体。夜を裂いたような瞳。右手の指先は、人間のものではなくなっていた。骨が硬質化し、黒い爪のように伸びている。外套は布ではない。影そのものが彼の背から広がり、瓦礫の上を静かに這っていた。


 もう一方は赤黒い。


 ハイデガー。


 ユニコーン・セキュリティ都市再整備部門、現場総指揮。


 分厚い軍用コートの下で、改造された肉体が唸っている。首筋から胸元へ走る黒い縫合痕。その奥、心臓ではない位置に埋め込まれた核が、赤黒く脈打っていた。人間の血の色ではない。機械の駆動光でもない。鴉を見るたび、その核は歓喜するように明滅した。


 ファリスは、崩れた店の陰から二人を見ていた。


 腕の中には、ザックが取ってきた工具箱がある。


 古びた金属製の工具箱。取っ手には布が巻いてあり、片側の留め具は壊れている。中には、絶縁ドライバー、圧着工具、銅線、魔導回路用の細針、ザックの自作端末、使い道のわからない部品が詰まっている。


 重い。


 今まで何度も持ったことがあるはずなのに、今日はひどく重かった。


 まるで、家そのものを抱えているようだった。


「下がってろ、ファリス」


 ザックが言った。


 彼はファリスの前に立っていた。片手には、工具箱から抜いた小型端末。もう片方には、古い改造熱線銃。ジャンクショップのオヤジが昔どこかの倉庫から拾ってきたもので、普段は威嚇用として壁に飾られているだけだった。


 ザックはそれを構えている。


 構えは下手だった。


 ファリスにもわかるくらい、手が震えていた。


「兄貴」


「いいから、下がってろ」


「でも」


「でもじゃねぇ。俺は今、兄貴っぽいことしてんだ。邪魔すんな」


 こんな時なのに、いつもの調子だった。


 ファリスは怒りたかった。


 泣きたかった。


 笑いたかった。


 でも、どれも喉で引っかかって出てこない。


 ザックの背中の向こうで、ハイデガーが笑った。


「よいな。実によい。守るものがいる戦場は、戦士を美しくする」


「戦場じゃない」


 鴉が言った。


 低く、冷たい声。


「ここは人の住む場所だ」


「人?」


 ハイデガーは大げさに首を傾げた。


「ここにいるのは記録不安定者、無許可居住者、違法魔導具所持者、魔導汚染区域残留者、企業指定区域内の不法占拠者だ。人と呼ぶには、いささか管理が足りん」


 鴉の黒い爪が、わずかに軋む。


「名がある」


「名など、いくらでも書き換えられる」


 ハイデガーは自分の胸を拳で叩いた。


 赤黒い核が、鼓動のように光る。


「見ろ、鴉。いや、アズェル。俺の中には、おまえたちラエルの欠片がある。名を剥がされ、地へ落とされ、それでもなお人間を喰らって生き延びる者たちの欠片がな。企業の連中はこれを記録核と呼ぶ。俺は違うと思う」


 彼は笑う。


「これは、渇きだ」


 その瞬間、ハイデガーが踏み込んだ。


 地面が割れる。


 巨体からは想像できない速さだった。装甲車両の上から落ちるようにではなく、砲弾のように前へ飛ぶ。腕の装甲が展開し、内蔵された魔導銃が黒い銃口を覗かせた。


 鴉は横へ流れた。


 黒衣が残像のように引き伸ばされる。


 魔導弾が瓦礫を砕き、朝の空気を赤く焼いた。


 鴉の爪がハイデガーの脇腹を裂く。


 肉ではなく、装甲が裂けた。


 その下から、赤い肉と銀色の補強骨格が覗く。普通の人間なら即死する深さ。だが、ハイデガーは笑っている。


「浅い!」


 裂けた脇腹から、赤黒い繊維が伸び、傷口を縫い合わせていく。


 再生。


 ファリスは息を呑んだ。


 鴉が切ったのに、治っていく。


 鴉は驚かなかった。


 さらに踏み込み、左手でハイデガーの腕を弾く。右爪が喉を狙う。ハイデガーは首を捻って避け、魔導銃を至近距離で発射した。


 轟音。


 鴉の肩が弾けた。


 黒衣が血を飲むように広がり、傷口を覆う。


 それでも鴉は止まらない。


 彼の足元から、影が伸びた。


 影は蛇のように地面を這い、ハイデガーの脚へ絡みつく。ハイデガーは膝を落としかけたが、力任せに引き千切った。影が裂け、黒い飛沫のようなものが散る。


「いいぞ!」


 ハイデガーは吠えた。


「それだ! その力だ! 企業製の核を何十個移植しても届かん、本物の夜だ!」


「本物に憧れるな」


 鴉は低く言う。


「おまえが欲しがっているものは、罰だ」


「罰?」


 ハイデガーの口角が吊り上がる。


「違うな。これは特権だ。名を失おうが、人を喰らおうが、地に堕ちようが、力は力だ。俺は弱者でいるより、怪物でいたい」


「怪物になれば、強くなれると思っているのか」


「少なくとも、踏まれる側ではなくなる」


 ハイデガーの義眼が、瓦礫の陰の住民たちへ向いた。


 逃げ遅れた老婆。泣き叫ぶ子ども。片腕が義体の女。屋台の老人。壊れたランチャーを抱えたジャンクショップのオヤジ。


「こういう連中を見下ろせる」


 鴉の動きが、変わった。


 黒衣が一気に膨れ上がる。


 怒り。


 ファリスは初めて、それを見た。


 鴉は感情を顔に出さない。声も荒げない。けれど今、黒衣が怒っていた。夜が怒っていた。地面を這う影が、瓦礫を噛み砕くように震えている。


 鴉が消えた。


 次の瞬間、ハイデガーの胸元に黒い爪が届いていた。


 赤黒い核へ。


 だが、ハイデガーはそれを待っていた。


 胸部装甲が開く。


 そこにあったはずの核は、奥へ引っ込んだ。


 代わりに、無数の細い銃口が展開する。


「惜しい!」


 ハイデガーが笑う。


 至近距離で魔導弾が炸裂した。


 鴉の身体が吹き飛ぶ。


 黒衣が裂け、彼は崩れた壁に叩きつけられた。


「鴉!」


 ファリスが叫ぶ。


 鴉は立ち上がる。


 肩から血が落ちている。胸にも穴が開いている。普通なら死んでいる。けれど、彼は立った。


 黒衣が傷を塞いでいる。


 いや、塞いでいるというより、傷口に夜を詰めているように見えた。


 ハイデガーは恍惚とした顔でそれを見る。


「美しいな、アズェル。人間の形をしているのに、人間ではない。人間を守るふりをしているのに、人間を欲している。おまえは、矛盾そのものだ」


「黙れ」


「図星か?」


 ハイデガーは腕を広げる。


「おまえの弱点は知っている。ラエルは人を喰わねば干からびる。だが、人を守りたいラエルは、自分の飢えを憎む。ならばどうする? おまえは傷つけば傷つくほど、近くの人間が美味そうに見えるはずだ」


 ファリスは、思わず自分の首筋を押さえた。


 昨夜の廃ビル。


 鴉の手の冷たさ。


 彼の視線が、自分の喉へ落ちた瞬間。


 噛みたいのではなく、噛まないように震えていたあの顔。


 ファリスの胃が冷える。


 ハイデガーはそれに気づいたように笑った。


「お嬢ちゃん。おまえの黒い守護者はな、おまえを守りながら、おまえの血を欲しているぞ」


「黙れって言ってるだろ!」


 ザックが叫び、熱線銃を構えた。


「兄貴、やめ――」


 ファリスが止めるより早く、ザックは引き金を引いた。


 赤い熱線がハイデガーへ走る。


 狙いは悪くない。ザックは兵士ではないが、工具を扱う手は正確だ。熱線はハイデガーの肩口を焼き、装甲の一部を溶かした。


 だが、深くはない。


 ハイデガーの目が、ザックへ向く。


「ほう」


 ザックの顔が強張った。


「小僧、おまえもいい手をしている。修理屋か」


「だったら何だ」


「壊す側に回れば、よい稼ぎになっただろうに」


「うるせぇ。俺は直す方が好きなんだよ」


「ならば、壊れるものをよく見ておけ」


 ハイデガーの腕が動いた。


 ザックではない。


 彼は、近くにいた子どもを掴んだ。


 逃げ遅れた小さな男の子。屋台の老人の孫だった。灰色の上着。片方だけ靴紐がほどけている。泣きすぎて声が出なくなっていた。


 ハイデガーはその子を片手で持ち上げる。


 鴉が動いた。


 その一瞬だけ、彼は迷った。


 ハイデガーへ飛ぶか。


 子どもを救うか。


 魔導銃の銃口が、鴉ではなく、ザックへ向いた。


 ザックはファリスの前に立っていた。


 それだけだった。


 轟音。


 時間が、切れた。


 ファリスには、音が聞こえなかった。


 ただ、ザックの身体が少し揺れた。


 胸のあたりから、赤いものが散る。


 工具箱の留め具が鳴った。


 ザックは一歩、後ろへ下がった。


 そして、自分の胸を見た。


「あ」


 と、彼は言った。


 ひどく間の抜けた声だった。


 ファリスは動けなかった。


 ザックの胸に、穴が開いていた。


 熱と血と焼けた布の匂いが、朝の埃っぽい空気に混じる。


「ザック?」


 自分の声が、遠かった。


 ザックは倒れなかった。


 倒れそうになりながら、踏みとどまった。


 ハイデガーは掴んでいた子どもを地面へ放り捨て、今度はザックの首を掴んだ。


「兄貴!」


 ファリスが走り出そうとする。


 鴉が黒衣を伸ばす。


 だが、ハイデガーはザックを盾にした。


「動くな、アズェル」


 鴉の黒衣が止まる。


 ハイデガーの胸元の核が、赤黒く光った。


 ザックの身体から、何かが吸い上げられていく。


 血だけではない。


 ファリスには見えた。


 見えてしまった。


 赤い霧のようなもの。


 熱を持った名前のようなもの。


 ザックが笑った記憶。壊れたテレビを直した時の得意げな顔。雨漏りを排水漏れだと言い張る声。《ちゃんとした店》と書いたノートの文字。合成パンを投げる手。工具を選ぶ速さ。ファリスの年齢を登録上十四だとからかう声。


 それらが、ザックの胸から細い糸のように引き抜かれていく。


 エイース。


 その言葉をファリスはまだ知らない。


 でも、それが命だけではないことはわかった。


 生きてきた証ごと、吸われている。


「やめて」


 ファリスの声は掠れた。


「やめてよ」


 ハイデガーは目を細める。


「濃くはないが、悪くない。三番街の地下の影響か。ここの住民は、思ったより使える」


「やめろ!」


 鴉が踏み込む。


 ハイデガーはザックを前に出した。


 鴉が止まる。


 ファリスは、初めて鴉が本当に動けなくなるのを見た。


 強すぎる怪物が、人間一人を盾にされただけで止まる。


 ハイデガーは笑った。


「これだ。これが本物の弱さだ。守るものを持つ怪物は、怪物として不完全になる」


 ザックの目が、ファリスを探した。


 焦点が合っていない。


 それでも、彼はファリスを見つけた。


「……ファリス」


「ザック!」


「工具……」


 彼の手が、震えながら動く。


 ファリスは気づく。


 工具箱を、まだ自分が抱えている。


 ザックはそれを見て、少しだけ笑った。


「持ってろ」


「やだ」


「持ってろ」


「やだ!」


「それ……うちの店の……一号備品だから」


 こんな時まで、そんなことを言う。


 ファリスの喉から、変な声が漏れた。


 泣き声でも、笑い声でもない。


 ザックは、ハイデガーに首を掴まれたまま、最後の力で腰のポーチを外した。


 中には、小さなメモリ、銅線、予備の端子、それからザックの自作端末の予備キーが入っている。


 彼はそれを、工具箱へ向かって投げた。


 届かない。


 そう思った。


 でも、ザックは工具を投げるのだけは上手かった。


 ポーチは弧を描き、ファリスの足元へ落ちた。


 ザックは笑った。


「走れ、ファリス」


 ファリスは首を振る。


「やだ」


「走れ」


「やだ!」


「俺より、店長代理の方が……足、速いだろ」


「やめて」


「排水漏れ……今度は、おまえが直せ」


「やめてよ!」


 ザックの口から、血がこぼれた。


 それでも彼は、最後にいつものように言った。


「分類……間違えんなよ」


 ハイデガーの核が、強く光った。


 ザックの身体から、赤い糸がぶつりと切れる。


 彼の目から、光が消えた。


 世界が、止まった。


 ファリスは、工具箱を抱いたまま立っていた。


 泣かなかった。


 悲鳴も出なかった。


 怒りも来なかった。


 ただ、何かが壊れる音がした。


 それは家が壊れる音ではない。


 自分の中で、明日という言葉が割れる音だった。


 ハイデガーは、ザックの身体を雑に捨てた。


 人ではなく、使い終わった部品のように。


 ザックは地面に落ちた。


 動かない。


 ファリスはそれを見た。


 ザック。


 兄貴。


 ちゃんとした店。


 雨漏り。


 排水漏れ。


 五分。


 未来への投資。


 全部、そこにあるはずなのに、ザックはもう返事をしない。


「あ」


 ファリスの口から声が漏れた。


「あは」


 笑っていた。


 自分で、自分が笑っていることに気づいた。


 おかしかった。


 何がおかしいのか、わからない。


 涙が出ている。


 なのに、笑っている。


「あは、は……」


 喉が引きつる。


 息ができない。


 視界が滲む。


 でも、涙の向こうで、ザックが落とした改造熱線銃が見えた。


 地面に転がっている。


 ファリスは工具箱を片腕で抱え直し、もう片方の手を伸ばした。


 熱線銃を拾う。


 重い。


 銃把にザックの血がついている。


 手が滑る。


 それでも握る。


「おい」


 ハイデガーが面白そうに言った。


「何をする、小娘」


 ファリスは銃を持ち上げた。


 狙い方は知らない。


 ザックが壁に飾っていた時、冗談で構えたことがあるだけだ。肩に当てるのか、腰で支えるのか、反動がどれくらい来るのか、何も知らない。


 でも、引き金の位置は知っている。


 どこを向ければいいかも、知っている。


 ファリスは震えながら、ハイデガーへ銃口を向けた。


 ハイデガーは笑う。


「撃てるのか」


 ファリスは答えなかった。


 撃てるかどうかなんて、知らない。


 撃つしかない。


 引き金を引いた。


 熱線が走る。


 反動が、ファリスの肩を潰すように襲った。


 身体が後ろへ吹き飛ぶ。


 地面に背中を打ちつけ、工具箱が胸に食い込む。


 息が止まる。


 でも、狙いは外れていなかった。


 赤い熱線は、ハイデガーの右肩を焼き飛ばしていた。


 装甲が溶ける。


 肉が焼ける。


 魔導線が千切れ、赤黒い液が噴き出す。


 ハイデガーの右腕が、肩口から半ば落ちかけた。


 彼は、初めて笑うのをやめた。


「……ほう」


 ファリスは起き上がれない。


 肩が痛い。


 腕が痺れている。


 怖い。


 ひどく怖い。


 撃った。


 撃ってしまった。


 それでも、足りない。


 ザックは戻らない。


 ハイデガーは死んでいない。


 焼けた肩から、赤黒い繊維がまた伸び始めている。


「ガハ」


 ハイデガーが笑った。


「ガハハハハハハ!」


 彼は焼けた肩を押さえながら、ファリスを見る。


「いいぞ、小娘! それだ! その顔だ! 喪失、怒り、恐怖、反抗、そして境界に立つ魂の熱! やはりおまえは使える!」


 ファリスは後ずさろうとした。


 身体が動かない。


 ハイデガーが歩いてくる。


 鴉が動こうとする。


 だが、その前に、ハイデガーは腰の装置を叩いた。


 ユニコーン社の対キメラ兵器が、逃げ遅れた住民たちへ銃口を向ける。


「動くな、鴉。今度はまとめて撃つ」


 鴉が止まる。


 黒衣が震える。


 彼の目が、ハイデガーではなく住民たちへ向く。


 老婆。


 子ども。


 屋台の老人。


 オヤジ。


 ザックの死体。


 ファリス。


 選ばされている。


 ファリスにも、それがわかった。


 ハイデガーはそれを楽しんでいる。


「守れ、ラエル。守るほどに遅くなる。守るほどに飢える。守るほどに、怪物として鈍る」


 彼はファリスへ手を伸ばした。


「来い、境界適合者」


 ファリスは熱線銃をもう一度構えようとした。


 腕が上がらない。


 痛みで指が震える。


 ハイデガーの影が、彼女を覆う。


 その瞬間、黒衣が割って入った。


 鴉だった。


 彼は、住民たちへの銃口と、ファリスへの手の間に身体を滑り込ませた。


 ハイデガーの左腕が、鴉の腹を貫いた。


「鴉!」


 ファリスが叫ぶ。


 鴉は吐血した。


 赤い血ではない。


 黒に近い、深い血。


 それでも彼は退かなかった。


 彼の右手が、ハイデガーの胸へ伸びる。


 黒い爪が、赤黒い核へ届く。


「終わりだ」


 鴉が言った。


 爪が核を貫いた。


 硝子の割れる音。


 赤黒い光が弾けた。


 ハイデガーの身体が硬直する。


 ファリスは息を止めた。


 終わった。


 そう思った。


 だが、ハイデガーの口が笑った。


「違う」


 鴉の目が、わずかに見開かれる。


 貫いた核の奥に、何もなかった。


 空洞。


 いや、核はあった。


 ただし、本物ではなかった。


 赤黒い光は、鴉の爪を誘い込むための偽装だった。


「紛い物だと言っただろう、アズェル」


 ハイデガーの腹部装甲が開く。


 その奥に、小さな門があった。


 門。


 ファリスは、それを見た瞬間、心臓を握られたような気がした。


 円形の金属枠。中心に黒い空洞。周囲には、読めない文字と、企業製の制御回路と、白い羽根のような結晶片が埋め込まれている。小さい。人の頭ほどしかない。それでも、そこから漏れる気配は、廃ビルでゾルテが現れた時の白い光に似ていた。


 違う。


 あれより汚い。


 壊れた門。


 間違った扉。


「小型疑似門」


 ハイデガーは誇らしげに言った。


「企業製だ。まだ不完全だがな。昨夜の落着反応で、十分な起動データが取れた」


 鴉が腕を引こうとする。


 ハイデガーは彼を掴んだ。


「逃がさん。おまえの記録核反応で、こいつは完成に近づく」


 疑似門が開いた。


 音が消えた。


 風も、警告音も、住民の悲鳴も、ドローンの羽音も、全部が遠くなる。


 黒い空洞の中に、白い光が生まれる。


 ファリスは見た。


 ザックの死体の周囲から、赤い糸のようなものがまだ漂っている。


 逃げ遅れた住民たちの身体からも、細い光が引き寄せられている。


 名前。


 記憶。


 熱。


 命。


 それらが、小さな門へ吸われていく。


 鴉が低く呻いた。


 その声は、人間のものではなかった。


 黒衣が暴れる。


 しかし、疑似門は鴉の中に刻まれた何かを掴んでいた。ラエルに刻まれた罰。裁きの門への恐怖。名を剥がされた記録。そういう見えない鎖が、彼の動きを縛っている。


 ファリスは立ち上がろうとした。


 できない。


 でも、声だけは出た。


「鴉!」


 鴉が彼女を見た。


 その一瞬だけ、彼の目に恐怖があった。


 自分が死ぬ恐怖ではない。


 ファリスが巻き込まれる恐怖。


 次の瞬間、鴉の黒衣が爆発するように広がった。


 ハイデガーの腕が引き裂かれる。


 疑似門の枠に、黒い爪が食い込む。


「壊れろ」


 鴉の声が、低く響く。


 門が悲鳴を上げた。


 だが、壊れる前に、暴走した。


 白い光が膨れ上がる。


 ハイデガーの笑い声が聞こえた。


「ガハハハハハハ! いいぞ! もっとだ! もっと堕ちろ、アズェル!」


 世界が白くなった。


 鴉がファリスへ飛んだ。


 彼の腹には穴が開いている。肩も裂けている。黒衣もぼろぼろだ。それでも、彼はファリスの前に来た。


 ファリスは工具箱を抱いたまま、目を見開く。


「鴉――」


 黒衣が彼女を包んだ。


 夜が、彼女を抱いた。


 直後、〈ホーム〉三番街の一部が消し飛んだ。


     *


 音は遅れて戻ってきた。


 最初に聞こえたのは、耳鳴りだった。


 次に、瓦礫が落ちる音。


 その次に、遠くで誰かが泣いている声。


 ファリスは、自分が生きていることに気づいた。


 黒い布の中にいた。


 いや、布ではない。鴉の黒衣だった。彼の外套が、彼女を丸ごと包み、爆風と瓦礫と白い光から守っていた。


 暗い。


 息苦しい。


 でも、温かくはなかった。


 鴉の黒衣は冷たかった。


 ファリスは工具箱を抱きしめたまま、震える手で黒衣を押した。


 外の光が差し込む。


 白い。


 朝日ではない。


 粉塵に薄められた、壊れた街の光。


 〈ホーム〉三番街は、変わっていた。


 ファリスは最初、それを理解できなかった。


 家がない。


 屋台がない。


 ジャンクショップがない。


 路地の形が違う。


 さっきまで人がいた場所に、瓦礫の山と、黒く焼けた地面と、白い結晶片が散っている。


 魔導障壁車両は横倒しになっていた。


 重機は半分溶けている。


 ドローンは空から落ち、羽虫の死骸みたいに地面で火花を散らしていた。


 住民たちは、少しいた。


 倒れている者。


 這っている者。


 遠くへ逃げていく者。


 名前を呼ぶ声。


 誰かを探す声。


 泣く声。


 泣くこともできない声。


 でも、あまりにも少なかった。


 多くが、いない。


 ファリスは、ザックを探した。


 視界が揺れる。


 瓦礫。


 焦げた鉄板。


 折れた看板。


 血の跡。


 ザックの姿は、すぐには見つからなかった。


 見つからない方がよかった。


 見つけたら、確定してしまう。


 でも、彼女の腕の中には工具箱がある。


 ザックが投げたポーチが、蓋の隙間に挟まっている。


 それだけが、残っている。


「……ザック」


 声が出た。


 今度は笑わなかった。


 涙も出なかった。


 ただ、名前だけが出た。


 呼べば返事があるはずだった。


 いつもなら、「何だよ」と面倒くさそうに返ってくるはずだった。


 返事はなかった。


 ファリスは立ち上がろうとした。


 足が震えて、膝をつく。


 その時、近くで何かが倒れる音がした。


 鴉だった。


 彼はファリスのすぐそばに倒れていた。


 黒衣は裂け、身体のあちこちから血が流れている。腹部の傷は塞がっていない。肩は砕け、胸には焦げた穴がある。右手の黒い爪は途中で折れ、白い指が血に濡れていた。


 彼は、まだ生きていた。


 息をしている。


 浅く、苦しそうに。


「鴉」


 ファリスは這うように近づいた。


「鴉、ねえ、起きて」


 彼の瞼がかすかに動く。


 黒い目が開いた。


 その目が、ファリスを見た。


 次の瞬間、ファリスは凍りついた。


 鴉の目が、違っていた。


 人の目ではなかった。


 飢えた獣の目。


 いや、獣ならもっと単純だったかもしれない。鴉の目には、飢えと同時に、それを恐れる意志があった。ファリスの首筋を見ている。そこに流れる血を見ている。血だけではない。命。名前。記憶。ザックが呼んだファリスという声。そのすべてを、彼の身体が求めている。


 牙が伸びた。


 上唇の下から、白く鋭いものが覗く。


 ファリスは動けない。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 目の前の男は、自分を守った。


 自分を包んで、爆発から救った。


 でも今、その男は自分を食べようとしている。


 ハイデガーの言葉が蘇る。


 おまえの黒い守護者はな、おまえを守りながら、おまえの血を欲しているぞ。


 鴉の手が伸びる。


 ファリスの首へ。


 途中で止まった。


 鴉は、自分の手で自分の喉を掴んだ。


 爪が皮膚へ食い込む。


 血が流れる。


 彼は自分を傷つけて、衝動を止めていた。


「逃げろ」


 声はかすれていた。


 人間の声に戻ろうとして、戻りきれていない声。


「逃げろ、ファリス」


 ファリスは、膝をついたまま彼を見た。


 逃げろ。


 鴉はいつもそう言う。


 帰れ。


 近づくな。


 逃げろ。


 危険だから。


 怪物だから。


 人間のそばにいていいものではないから。


 ファリスは、ゆっくり周りを見た。


 そこにあったはずの家はない。


 ザックの机はない。


 屋台街は燃えている。


 ジャンクショップは潰れている。


 自分の布団も、鍋も、排水漏れの天井も、合成パンの朝も、ザックの「五分」も、もうどこにもない。


 ファリスは工具箱を抱きしめた。


 固い角が胸に食い込む。


 痛い。


 それだけが、今の自分をここにつなぎ止めている。


「行くとこなんて」


 声が震えた。


「もう、ない」


 鴉の目が揺れる。


「私のそばにいれば、危険だ」


「ここにいても危険だった」


「私は君を傷つける」


「もう傷ついてる」


「私は――」


「うるさい!」


 ファリスは叫んだ。


 喉が痛かった。


 やっと涙が出てきた。


「うるさい、うるさい、うるさい! 危険とか、傷つくとか、そんなの、もう遅いんだよ! 帰れって言ったって、帰るとこ壊れた! 逃げろって言ったって、どこに逃げればいいのかわかんない! 兄貴は――」


 言葉が詰まる。


 ザックは、という言葉が出ない。


 死んだ。


 まだ言えない。


 言ったら本当になる。


 でも、もう本当だ。


 ファリスは泣きながら笑った。


 また笑ってしまった。


「兄貴、排水漏れ直せって言ったのに。分類間違えるなって。馬鹿みたいでしょ。最後がそれだよ。あたし、ちゃんと返事もできなかった」


 鴉は、何も言わない。


 言えないのだと、ファリスはわかった。


 彼には、慰める言葉がない。


 きっと、誰かに慰められたことも少ないのだ。


 ファリスは涙を袖で拭った。


 袖は汚れていて、涙より泥を顔に広げただけだった。


 それでもいい。


 ファリスは立ち上がった。


 ふらついた。


 工具箱を持ち直す。


 鴉はまだ倒れている。


 彼の喉元から血が流れている。自分で傷つけた血だ。渇きを止めるために、自分を罰するように。


 ファリスは彼に近づいた。


「来るな」


 鴉が言う。


「噛みたいんでしょ」


 彼の身体が強張る。


「来るな」


「でも、噛まないようにしてる」


「限界がある」


「じゃあ、限界の前に動く」


「何を――」


 ファリスは鴉の腕を取った。


 冷たい。


 重い。


 人間の腕ではないみたいだった。


 それでも、腕だった。


 鴉は抵抗しようとした。


 できなかった。


 傷が深すぎる。


 渇きが強すぎる。


 ファリスは彼の腕を自分の肩に回した。


 鴉の身体が傾く。


 重い。


 膝が折れそうになる。


 でも、支えた。


「ファリス」


「何」


「君は、何をしている」


「見ればわかるでしょ。運んでる」


「私を?」


「他に誰がいるの」


「置いていけ」


「嫌」


「私は君を――」


「それ、もう聞いた」


 ファリスは一歩踏み出した。


 足元に瓦礫がある。


 ザックの工具箱が重い。


 鴉はもっと重い。


 背後では、〈ホーム〉三番街が煙を上げている。


 どこかで、ユニコーン社の車両がまだ警告音を鳴らしている。


 遠くで、誰かが誰かの名を呼んでいる。


 ハイデガーの姿は見えない。


 死んだのか、逃げたのか、それすらわからない。


 でも、今はそれを考えられなかった。


 ファリスは、ただ歩いた。


「じゃあ」


 彼女は言った。


「あんたが行くとこに連れてって」


 鴉は答えなかった。


 返事の代わりに、彼の腕が、ほんの少しだけファリスの肩に重みを預けた。


 拒まなかった。


 それだけで十分だった。


 ファリスは、壊れた〈ホーム〉三番街を背にした。


 帰る場所だったものから、一歩離れる。


 ザックの工具箱を抱えて。


 黒衣の怪物を支えて。


 朝の帝都エデンの底を、少女は歩き出した。


 行き先など、どこにもなかった。


 けれど、止まっていればすべてが瓦礫になる。


 だから歩く。


 泣きながら。


 怒りながら。


 怖がりながら。


 それでも、歩く。


 堕とされた場所から、まだ終わらないために。

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