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第2話 ホーム撤去命令

 白い男は、夜明け前に消えた。


 斬り合いにはならなかった。鴉が黒衣を広げ、ファリスを背に庇い、廃ビルの入口で凍りつくような沈黙が続いたあと、ゾルテと呼ばれた男は、ただ笑った。


「今宵は挨拶だ、アズェル」


「その名で呼ぶな」


「ならば、何と呼べばよい? 鴉? 地上の子どもに餌をねだる黒い鳥か?」


 鴉は答えなかった。


 ただ、ファリスを背後へ押し込む黒衣の密度だけが増した。黒い布のように見えるそれは、闇そのものの膜だった。触れれば切れる。近づけば?まれる。そういう気配があった。


 ゾルテはファリスを見た。


 見られた瞬間、ファリスは息の仕方を忘れた。白い男の目は、人間の目ではなかった。優しさも、怒りも、憎しみもない。物の価値を見る目。鍵穴に合う鍵を確かめる目。


「なるほど。まだ粗いが、器にはなる」


「触れるな」


「触れていないさ。まだ」


 ゾルテは白い指を軽く振った。


 遠くで、何かの記録が剥がれる音がした。いや、音ではなかったかもしれない。〈ホーム〉三番街のどこかにある古い看板から、文字がひとつ落ちたような気配。ファリスには、それがなぜか恐ろしかった。


「せいぜい守れ。守るものが増えるほど、ラエルは飢える」


 そう言って、ゾルテは白い光の中へ溶けるように消えた。


 あとに残ったのは、夜と、廃ビルと、鴉の低い呼吸だけだった。


 ファリスはその場でしばらく動けなかった。


 聞きたいことはいくつもあった。


 アズェルとは何か。


 ラエルとは何か。


 ゾルテとは何者なのか。


 器とは、何のことなのか。


 けれど、ファリスが口を開くより先に、鴉が言った。


「帰れ」


 いつもの言葉だった。


 それなのに、いつもより疲れて聞こえた。


 ファリスは、暗い廃ビルの中で彼を見上げた。黒衣の男。美しい怪物。自分を追い返そうとするくせに、白い男からは庇った人。


「あんたも、どこかに帰るの?」


 鴉は答えなかった。


「帰る場所、あるの?」


「おまえにはある」


「質問に答えてない」


「帰れ」


 ファリスは唇を結んだ。


 その時は、それ以上言えなかった。


 兄のザックが戻る前に家へ帰らなければならなかったし、屋台の爺さんに見つかったら説教されるし、何より自分の足がまだ少し震えていた。


 だから、ファリスは帰った。


 帰る場所があると言われて、少し腹が立った。


 でも、その時の彼女はまだ知らなかった。


 鴉の言葉が、どれほど残酷な猶予だったのかを。


     *


 〈ホーム〉三番街の朝は、帝都エデンの朝より少し遅い。


 帝都の中心では、夢殿の時報が鳴る前から魔導列車が走り、ホウジュ区の商店街では焼きたてのパンと合成珈琲の香りが漂い、ミヤ区では女帝政府の広報ドローンが「本日も帝都は平穏です」と告げている。


 だが、〈ホーム〉では、まず誰かの咳が聞こえる。


 次に、排熱パイプを叩く音。


 その次に、屋台の鉄板が熱を持つ匂い。


 それから、前の晩に酔い潰れた男を誰かが蹴って起こす声。


 古い鉄板をつぎはぎした屋根の上に、薄い朝日が差していた。朝日と言っても、直接の光ではない。帝都上層の高層ビル群に反射し、魔導広告の残光に混じり、排熱蒸気に薄められて落ちてくる、曇った光だ。


 それでも、朝は朝だった。


 ファリスの家――正確には、ジャンクショップの裏に増築された二間半の小屋――では、天井から水が落ちていた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 ぽたり。


 鍋の底に溜まった水が、間抜けな音を立てる。


 ファリスは布団代わりの毛布の中で、しばらくその音を聞いていた。


 昨夜の白い男の声が、まだ耳に残っている。


 アズェル。


 ラエル。


 器。


 知らない言葉ばかりだった。


 知らない言葉は、〈ホーム〉では危険だ。知らない書類に名前を書くと、借金が増える。知らない薬を飲むと、目が赤くなる。知らない企業の誘いに乗ると、いつの間にか自分の身分証が誰かのものになっている。


 知らないことは、怖い。


 でも、知らないままにしておくことも、同じくらい怖い。


 ぽたり。


 また水が落ちた。


「……うるさい」


 ファリスは毛布を蹴り飛ばした。


 天井の穴の下に置いた鍋は、もう半分ほど水を溜めている。昨夜は雨など降っていない。なのに水が落ちるのは、上を通っている排水管がまた漏れているからだ。


「ザック」


 返事はない。


「兄貴」


 やはり返事はない。


 ファリスは起き上がり、隣の部屋を覗いた。


 ザックは、床で寝ていた。


 机に突っ伏して、片腕だけ工具箱に突っ込んだまま、椅子から半分落ちている。昨日のジャンク市から帰ったのは、たぶん明け方近くだ。上着も脱いでいない。頬には油汚れがついていて、髪には細い銅線が絡まっていた。


 机の上には、壊れた端末が三台、古いテレビの表示基板、魔導炉用の小型調整石、半分食べかけの合成パン、そして「いつか店用」と書かれたノートが開いたまま置かれている。


 ファリスはノートを見た。


 表紙には、ザックの汚い字でこう書いてある。


 《ザック&ファリス修理店 開業計画》


 その下に、小さく別の案がいくつも書かれていた。


 《ザック修理店》


 《ファリス電機》


 《三番街ジャンク工房》


 《帰ってきたテレビ屋》


 そして最後に、殴り書きで、


 《ちゃんとした店》


 とある。


 ファリスはため息をついた。


「起きろ、ちゃんとした店の店長候補」


「んあ……」


 ザックが机に顔を押しつけたまま唸る。


「店長候補、雨漏りしてる」


「今日は雨じゃねぇ……」


「排水漏れ」


「それは雨漏りじゃなくて排水漏れだ。分類が違う」


「落ちてくる水が汚いぶん、もっと悪い」


「五分……」


「五分前にも言った」


「言ってねぇよ」


「今言った」


「未来の話を過去形にするな」


 ザックはようやく顔を上げた。


 十七歳前後の少年だった。痩せていて、目つきは少し悪い。だが、笑うと急に年相応になる。手は傷だらけで、爪の間にはいつも油が入り込んでいた。〈ホーム〉三番街の子どもはたいていそうだが、ザックの手は特にひどい。生まれた時から工具を握っていたような手だった。


 彼は目をこすり、ファリスを見る。


「おまえ、昨夜どこ行ってた」


 ファリスは水の入った鍋を持ち上げた。


「ランプ修理」


「どこの」


「廃ビル」


「廃ビルにランプなんかないだろ」


「だから持っていった」


「答えになってねぇ」


 ザックは椅子に座り直し、背中を伸ばした。骨が鳴る。


「ファリス」


「何」


「三番街の端には近づくなって言ったよな」


「端ってどっちの端?」


「ミナト区側」


「広い」


「廃ビルのある方」


「具体的」


「行ったな」


「……ちょっと」


「ちょっとって何階までだ」


「三階」


「ちょっとじゃねぇだろ!」


 ザックが声を上げた拍子に、机の上の小型調整石が転がった。ファリスは素早く手を伸ばして受け止める。


「危ないなぁ」


「危ないのはおまえだ!」


「うるさい。水漏れ直して」


「話を逸らすな」


「こっちは生活がかかってる」


「おまえの命も生活の一部だろ」


 ファリスは黙った。


 ザックはその沈黙を見て、少し声を落とす。


「何かあったのか」


「別に」


「別にって顔じゃねぇ」


「兄貴、顔読めるの?」


「おまえの顔ならな。十四年も見てる」


「十五年」


「誕生日を自分で増やすな。登録上は十四だ」


「登録上って、あれ信用できる?」


「できねぇ」


 二人は少しだけ笑った。


 〈ホーム〉の住民記録は曖昧だ。


 ある者は死んだ親の名義で住んでいる。ある者は企業契約時に名前を変えられた。ある者は外の街で犯罪者として追われ、別の名でここへ来た。ある者は、そもそも出生届がどこにもない。


 ファリスとザックにも、まともな戸籍はない。


 古い支援団体が作った住民カードに、後から女帝政府の下請け管理番号が貼られ、その上に三番街自治会の手書き番号が重なっている。端末で読み込むと、ファリスの年齢は十四になったり、十五になったり、時々「該当なし」になったりする。


 だからザックは、いつも言っていた。


 記録が怪しいなら、手で覚えろ。


 自分の名前を誰かに書き換えられても、手が覚えた技術は盗みにくい。


 ファリスが機械いじりを覚えたのは、そのせいだった。


「で、どうするの」


 ファリスは天井を指さした。


「排水漏れ。放置すると床腐る」


「腐ってるだろ、もう」


「もっと腐る」


「それは困る」


 ザックは立ち上がり、工具箱を蹴って開けた。中身は雑然としているようで、彼にしかわからない順番で並んでいる。絶縁ドライバー、古い端子、魔導回路用の細針、銅線、圧着工具、錆びたレンチ、手製の簡易ハッカー端末。


 ファリスはその中から必要なものを先に取り出した。


「十ミリ」


「お、わかってんじゃん」


「昨日もそこ締めた」


「昨日締めたのに今日漏れてるなら、締めるだけじゃ駄目だな」


「じゃあ、どうするの」


「考える」


「考える前に鍋が溢れる」


「せっかちだな、店長代理」


「ちゃんとした店、雨漏りしてたら客来ないよ」


「だから排水漏れだって」


 ザックは笑いながら脚立代わりの木箱に乗り、天井の板を外した。湿った臭いが落ちてくる。ファリスは顔をしかめた。


「最悪」


「これでも昨日よりましだ。昨日はネズミがいた」


「言わないでよ」


「しかも魔導汚染で目が三つ」


「言うなって言った!」


 二人は言い合いながら、手際よく作業を進めた。


 ザックが配管を外し、ファリスが下で部品を受け取る。ファリスが古いシール材を剥がし、ザックが新しい代用品を噛ませる。代用品と言っても、正規品ではない。破れた防水シートの切れ端と、廃棄ドローンから取った柔軟樹脂を炙って接着しただけだ。


 それでも、しばらくは持つ。


 〈ホーム〉の暮らしは、しばらく持たせる技術の積み重ねだった。


 壊れたものを直す。


 直らないものは別の用途に使う。


 使えないものは部品にする。


 部品にならないものは重しにする。


 それでも駄目なら、名前だけ残す。


 この場所では、完全に捨てることのほうが難しかった。


 作業が終わる頃、屋台街から朝飯の匂いが流れてきた。


 合成卵の焼ける匂い。


 古い油の匂い。


 排熱蒸気の金属臭。


 どこかの小屋から、女帝ヌルの朝の祈祷放送が漏れている。


『帝都の民よ。本日も夢殿は安定し、ヨムルンガルド結界に重大な異常はありません――』


 ザックが鼻で笑った。


「重大じゃない異常はあったんだな」


 ファリスは昨夜の白い光を思い出した。


 結界が鳴いた感覚。


 鴉の声。


 ゾルテ。


 アズェル。


「ファリス?」


「何でもない」


「ほんとか」


「兄貴こそ、合成パン食べた? 半分残ってる」


「あれはおまえの分」


「歯形ついてる」


「半分までは俺の分」


「じゃあ残りは?」


「未来への投資」


「食べかけを投資って言うな」


 ザックは笑い、パンをファリスへ投げた。


 ファリスは受け取り、渋々かじる。


 硬い。


 甘くない。


 でも、朝の味がした。


 その時、古いテレビが勝手についた。


 机の上にあった、ザックが昨夜まで修理していた小型テレビだ。画面はまだ半分しか映らず、右側には常に緑色の線が入っている。電源コードは抜けていたはずだった。


 なのに、画面が光っている。


「ザック」


「俺じゃねぇ」


 テレビの中で、女帝政府の広報画面が乱れていた。


 白い背景。


 青い紋章。


 ユニコーンの横顔を意匠化した企業ロゴ。


 その下に、整った合成音声が流れる。


『帝都政府認可都市再整備事業のお知らせです。ミナト区境界下層居住区、通称〈ホーム〉三番街は、老朽化、衛生問題、魔導汚染、および昨夜発生した結界異常の影響により、本日午前九時をもって安全確保区域に指定されました』


 ファリスはパンを噛むのを忘れた。


 テレビは続ける。


『住民の皆様は、係員の指示に従い、速やかに退去してください。再定住支援に関しては、後日、指定窓口にて申請を受け付けます。本事業の施工および安全管理は、ユニコーン・セキュリティ都市再整備部門が担当します』


 画面が一瞬乱れ、企業ロゴが大きく映る。


 UNiCORN SECURITY.


 ザックの顔から、眠気が消えた。


「……聞いてないぞ」


 ファリスはテレビを見つめたまま言った。


「説明会、あった?」


「あるわけねぇ。三番街自治会にも、ジャンク組合にも、屋台連にも通達は来てない」


『なお、危険区域への残留、作業妨害、係員への暴行、違法魔導具の使用は、帝都治安維持条例に基づき――』


 そこで、外から轟音がした。


 家が揺れた。


 天井から直したばかりの配管が軋み、鍋の水面が跳ねる。


 ファリスとザックは同時に外へ飛び出した。


 〈ホーム〉三番街の朝が、壊れていた。


 路地の入口に、巨大な魔導障壁車両が並んでいる。車体は白と銀。側面にはユニコーン・セキュリティのロゴ。車両上部には監視ドローンの射出口があり、すでに十数機が空を旋回していた。


 その後ろから、小型重機が入ってくる。


 小型と言っても、人間から見れば十分に巨大だった。四脚の作業機械。前部にはドリルアーム、側面には瓦礫粉砕用の魔導カッター。もともとは災害救助や建築解体用の機械だろう。だが今、向けられているのは人の家だった。


 屋台の老人が叫んでいる。


「待て! 中に人がいる!」


 返事は警告音だった。


『退去命令は発令済みです。危険区域から離れてください』


「今聞いたばかりだろうが!」


『退去命令は発令済みです。危険区域から離れてください』


 同じ音声が繰り返される。


 その冷たさに、ファリスの腹の奥が熱くなった。


 住民たちは路地へ出ていた。寝間着の者。仕事帰りの夜間労働者。片腕が義体の女。顔を隠した男。子どもを抱えた若い母親。誰も状況を理解していない。だが、理解する前に、家が壊されようとしている。


 ジャンクショップの看板が、重機のアームで押し潰された。


 金属板が悲鳴のような音を立てる。


「おい!」


 ザックが走り出した。


 ファリスは腕を掴む。


「待って、ザック!」


「待てるか!」


「相手、武装してる!」


「自分の〈ホーム〉が壊されてんだぞ!」


 ザックはファリスの手を振りほどいた。


 ファリスも走る。


 ジャンクショップの店主、通称オヤジが、店の奥から古い対装甲ランチャーを引きずり出していた。


「オヤジ、それ動くのかよ!」


 ザックが叫ぶ。


「昨日までは動かなかった!」


「今日も駄目だろ!」


「今日は気合いで動かす!」


「気合いで起爆するぞ、それ!」


 ザックは怒鳴りながら、オヤジからランチャーを取り上げようとする。だが、オヤジは頑として離さない。路地の向こうでは、重機のドリルアームが別の小屋を崩し始めていた。


 子どもの泣き声。


 犬の吠える声。


 鍋が転がる音。


 女帝の祈祷放送。


 ユニコーン社の警告音声。


 全部が重なって、朝がぐちゃぐちゃになる。


 ファリスは自分の家へ振り返った。


 つぎはぎの小屋。


 雨漏りする天井。


 ザックの机。


 工具箱。


 《ちゃんとした店》と書かれたノート。


 それが、ただの廃材の山として扱われようとしている。


「ふざけんな」


 ファリスは走った。


 ドリルアーム付き重機が、彼女の家の前まで来ていた。前面の赤いセンサーが、無機質に瞬く。


『危険区域です。退避してください』


「ここ、あたしの家!」


『危険区域です。退避してください』


「あたしの家だって言ってるでしょ!」


 ファリスは重機の脚にしがみついた。


 冷たい金属。


 振動。


 油と魔導液の匂い。


 重機は止まらない。


 ファリスの体が引きずられる。靴底が泥と砂利を削る。腕に痛みが走る。それでも離さなかった。


「止まれ!」


『作業妨害を検知』


「止まれって!」


『非致死制圧を実行します』


 重機の側面から、小さな棒状の装置が伸びた。


 電撃。


 ファリスの全身が跳ねた。


 息が詰まり、手が勝手に開く。


 次の瞬間、彼女は路地の端まで吹き飛ばされていた。


「ファリス!」


 ザックの声。


 背中を何かに打ちつけ、視界が白くなる。


 痛い。


 息ができない。


 それでも、目を開けた。


 重機のドリルアームが、家の壁に触れようとしていた。


「やめ……」


 声が出ない。


 その時、重機が止まった。


 いや、止められた。


 ザックが、重機の後部パネルに取りついていた。片手で配線を引き抜き、もう片方の手で自作の簡易ハッカー端末を差し込んでいる。警備ドローンが彼を警告対象として捕捉するが、ザックは見もしない。


「ザック、降りて!」


「うるせぇ、今いいとこ!」


 端末の画面に、企業ロックの警告が流れる。


 ザックは舌打ちした。


「硬いな、こいつ。正規の鍵じゃなくて、遠隔承認か。なら――」


 彼は腰のポーチから小さな調整石を取り出し、端末へ押し込んだ。


 火花が散る。


 重機のドリルアームが震えた。


『制御異常。制御異常。安全装置を――』


「寝てろ!」


 ザックが叫ぶ。


 重機の四脚が同時に脱力し、巨体が地面へ沈んだ。ドリルアームが家の壁の前で止まる。


 周囲から歓声が上がった。


 ほんの一瞬だけ。


 ほんの一瞬だけ、〈ホーム〉三番街は勝ったように見えた。


 だが、その奥から、新しい車両が入ってきた。


 魔導障壁車両よりも大きい。


 四つのキャタピラの上に、四角い装甲箱を乗せたような車体。その上部ハッチが開き、一人の男が姿を現した。


 大柄な男だった。


 軍人風のコート。厚い胸板。短く刈った髪。立派すぎる髭。顔には傷跡があり、片目は人工眼球の赤い光を宿している。


 男は屋根の上で腕を組み、三番街を見渡した。


 そして、笑った。


「ガハハハハハハ!」


 その笑い声は、車両の拡声器を通して路地全体に響いた。


「思い知ったか、屑どもが! 帝都政府認可の安全確保作業を妨害するとは、命知らずにもほどがある!」


 ザックは重機の上から男を睨んだ。


「説明も補償もなしで家を壊すのが安全確保かよ!」


「安全だとも!」


 男は楽しそうに言う。


「おまえたちのような不安定記録保持者、無許可居住者、違法魔導具所持者、潜在的感染者を、この区域から除去する。実に安全だ。実に清潔だ。実に美しい仕事だ!」


 ファリスはよろめきながら立ち上がった。


 胸が痛い。


 腕が痺れている。


 でも、その男の言葉の方が、もっと痛かった。


 除去。


 人に使う言葉ではない。


 だが、男は最初から人を見ていなかった。


 屋台も、家も、寝床も、ノートも、兄妹の会話も、排水漏れの鍋も、全部、地図上の汚れとして見ている。


「ハイデガー部長」


 警備員の一人が車両横で敬礼する。


「一号機が制御不能です。現地住民による不正アクセスと思われます」


「ほう」


 ハイデガーと呼ばれた男は、ザックを見た。


「やるではないか、小僧。三番街の鼠にしては、歯が鋭い」


「鼠に噛まれて痛いなら帰れよ、髭ダルマ」


 ザックが言い返す。


 ファリスは思わず青ざめた。


「ザック、挑発しないで!」


 ハイデガーは笑った。


 怒らなかった。


 それが、かえって怖かった。


「いいぞ。威勢がいい。だが、惜しいな。今日の目的はおまえではない」


 ハイデガーの人工眼球が、ゆっくり動く。


 その赤い光が、ファリスで止まった。


 ファリスは息を呑む。


 見られている。


 ゾルテに見られた時と似ている。


 でも違う。


 ゾルテの目は、鍵を見る目だった。


 ハイデガーの目は、獲物を見る目だ。


 ハイデガーの胸元で、何かが脈打った。装甲服の下、心臓の位置ではない。もっと深い場所。そこから、黒い赤のような光が漏れた。ファリスの耳に、聞こえないはずの機械音が響く。


 名前を削る機械音。


 血を測る機械音。


 境界を探る機械音。


 ハイデガーの笑みが、さらに深くなる。


「見つけたぞ」


 彼は言った。


「境界適合者」


 ファリスには、意味がわからなかった。


「何、それ」


「知らぬか。まあ、知らされる身分ではあるまいな」


 ハイデガーは車両上で片膝をつき、ファリスを見る。


「おまえの下には、古いものが眠っている。おまえの血には、そこを歩いてきた者たちの名残がある。おまえの名は、普通の記録層から少しずれている。昨夜の落着反応で、ようやく輪郭が浮いた」


「何言ってるの」


「理解せずともよい。運ばれればわかる」


 ファリスの体が冷えた。


 運ばれれば。


 それは、人に言う言葉ではなかった。


 ザックが重機から飛び降り、ファリスの前へ走ってくる。


「ファリスに近づくな!」


 ハイデガーは愉快そうに目を細めた。


「兄か?」


「だったら何だ」


「兄妹ごっこは結構。だが、邪魔をするなら記録ごと処分する」


 ハイデガーが片手を上げた。


 ユニコーン社の警備ドローンが、一斉にファリスへ向く。


 ザックはファリスの腕を掴んだ。


「走るぞ」


「でも家が――」


「家より先におまえだ!」


「ザック!」


「いいから走れ!」


 その瞬間、対キメラ兵器が投入された。


 人型に近いが、人間とは似ていない。全長三メートルほどの岩のような装甲体。腰を落とした姿勢で四肢を構え、肩にはバルカン、腕には捕獲用ネット射出機、背中には魔導抑制器を背負っている。


 YJ参型。


 対キメラ用というには、明らかに過剰な装備だった。


 住民たちが悲鳴を上げる。


 オヤジが怒鳴る。


「ここは戦場じゃねぇぞ!」


 ハイデガーは笑う。


「ならば、今から戦場だ!」


 バルカンが火を噴いた。


 壁が砕ける。


 看板が千切れる。


 住民たちは散るように逃げた。


 ザックはファリスを引っ張って路地へ走る。


「どこ行くの!」


「端だ!」


「端ってどっち!」


「廃ビルの方!」


 ファリスは一瞬、足を止めそうになった。


 鴉。


 昨日、彼はそこにいた。


 ゾルテに狙われていた。


 怪物みたいな二人が向かい合っていた。


 でも、今、ほかに頼れるものがない。


「鴉のところ?」


「誰だ、それ!」


「昨日の変な人!」


「変な人のところに妹を逃がしたくねぇな!」


「でも強い!」


「強い変な人って最悪だろ!」


「兄貴も変な人じゃん!」


「俺はまともな修理屋だ!」


「雨漏り直せないのに?」


「排水漏れだ!」


 こんな時なのに、言い合いが出た。


 それが少しだけ、ファリスの足を動かした。


 二人は路地を抜けた。後ろでは、重機が家を崩し始めている。ファリスは振り返った。


 自分たちの小屋が、ドリルアームで押されていた。


 壁が折れる。


 天井が傾く。


 ザックの机が見えた。


 《ちゃんとした店》のノートが、風にめくられた。


「やだ」


 ファリスは足を止めた。


「ファリス!」


「工具箱!」


「後で――」


「兄貴の工具箱!」


 ザックは舌打ちした。


 彼もわかっていた。


 あの工具箱は、ただの道具箱ではない。二人が生きてきた証拠だった。壊れたものを直し、捨てられたものを拾い、いつかちゃんとした店を持つための、現実的で、汚くて、重たい夢だった。


 ザックはファリスの肩を掴んだ。


「おまえは先に廃ビルへ行け」


「何言って――」


「俺が取ってくる」


「駄目!」


「五分で戻る!」


「嘘!」


「嘘じゃねぇ!」


「兄貴の五分は三時間!」


「今は本気の五分だ!」


 ザックはファリスを路地の向こうへ突き飛ばした。


「走れ、ファリス!」


 ファリスは転びかけた。


 戻ろうとした。


 だが、その時、廃ビルの方角で爆発音がした。


 地面が揺れる。


 ファリスは振り返った。


 鴉のいた廃ビルが、煙を上げていた。


「……嘘」


 白い爆煙。


 崩れる外壁。


 ユニコーン社の重機が、廃ビルの根元へドリルアームを突き立てている。解体用の爆薬が仕掛けられていたのだ。古いコンクリートが悲鳴を上げ、三階部分が内側へ折れた。


 ファリスの頭が真っ白になる。


 昨日、鴉はそこにいた。


 血を流していた。


 傷ついていた。


 帰る場所はあるのかと聞いたら、答えなかった。


 その場所が、今、壊されている。


「鴉!」


 ファリスは走った。


 ザックが叫んだ気がした。


 でも、もう聞こえなかった。


 瓦礫の粉塵が路地へ流れてくる。口の中が砂っぽくなる。目が痛い。廃ビルの前には、重機が二台、警備員が六人、ドローンが三機。立ち入り禁止を示す赤い魔導帯が張られていた。


『危険区域です。退避してください』


「どいて!」


『危険区域です。退避してください』


「中に人がいる!」


『危険区域です。退避してください』


「いるんだってば!」


 ファリスは赤い魔導帯をくぐろうとした。


 警備員が腕を掴む。


「小娘、下がれ」


「離して!」


「作業妨害で拘束するぞ」


「中にいるの! 黒い服の――」


「廃ビルの不法占拠者なら、退去勧告済みだ」


「してない!」


「記録上は済んでいる」


「記録なんか知らない!」


 ファリスは警備員の手に噛みついた。


 男が悲鳴を上げる。


 ファリスは腕を振りほどき、瓦礫へ飛び込もうとした。


 その瞬間、瓦礫の山が内側から膨らんだ。


 黒いものが広がる。


 布ではない。


 翼でもない。


 夜だった。


 崩れたコンクリート、鉄筋、配管、ガラス片、すべてを押しのけるように、黒衣が広がった。重機のドリルアームが黒に触れた瞬間、先端から音もなく裂けた。


 瓦礫の中から、鴉が立ち上がる。


 白い顔に埃がついていた。


 肩の傷は開いている。


 黒衣の一部は裂け、そこから赤黒い血が落ちている。


 それでも、生きていた。


 ファリスは息を吐いた。


 吐いた途端、膝が抜けそうになった。


「鴉!」


 鴉は彼女を見る。


 そして、最初に言った。


「なぜ戻った」


「何でそれなの!」


「逃げろと言った」


「言ってない!」


「今言った」


「遅い!」


 ファリスは怒鳴った。


 自分でも驚くくらい、声が出た。


「助けて」


 鴉は何も言わない。


「お願い、助けて」


 ファリスの声が震える。


「ここは、あたしのホームなんだ」


 鴉は、廃ビルの外へ視線を向けた。


 崩される小屋。


 逃げ惑う住民。


 警告音声。


 白と銀の企業車両。


 ドローン。


 対キメラ兵器。


 武装警備員。


 ハイデガーの笑い声。


 そして、燃えるような目でこちらを見るファリス。


 鴉は静かに言った。


「今ここで追い払っても、次が来る」


 ファリスの顔が強張る。


「ここに残れば死ぬ」


「じゃあ」


 ファリスの喉が熱くなる。


「じゃあ、どこで生きろって言うの」


 鴉は答えなかった。


 答えられなかった。


 ファリスは続けた。


「ここしかないんだよ。兄貴がいて、オヤジがいて、屋台の爺さんがいて、うるさい隣の婆ちゃんがいて、雨漏りして、排水漏れして、変なテレビが勝手について、でも、ここなんだよ」


 涙は出なかった。


 まだ出なかった。


 怒りの方が先に来ていた。


「帝都の上の方から見たら、汚い場所かもしれない。記録が曖昧で、違法で、危険で、邪魔なのかもしれない。でも、ここで朝ごはん食べて、工具持って、店を持つって兄貴が馬鹿みたいに言って、それをあたしが馬鹿にして、それで明日も同じだと思ってたんだよ」


 鴉の黒い瞳が、ファリスを見ている。


「あんた、帰れって言ったよね」


「……言った」


「ここが、帰る場所だったんだよ」


 鴉の指が、わずかに動いた。


 黒衣が足元で揺れる。


 ファリスは叫んだ。


「助けてよ!」


 その言葉は、廃ビルの瓦礫にぶつかり、路地に散った。


 鴉は目を伏せた。


 長い一瞬だった。


 その一瞬で、彼は何かを諦めたように見えた。


 あるいは、何かから逃げるのをやめたように見えた。


「下がっていろ」


 鴉は言った。


 ファリスは息を呑む。


「下がれ、ファリス」


 名前を呼ばれた。


 そのことに、こんな時なのに胸が詰まった。


 鴉は、瓦礫の上から歩き出した。


 警備員たちが一斉に武器を構える。


『未登録高位存在反応を検知』


 ドローンの合成音声が変わる。


『危険度再評価。対象分類、妖魔または違法義体。制圧レベルを引き上げます』


 対キメラ兵器の肩部バルカンが鴉へ向く。


 鴉は止まらない。


 黒衣が、地面を引きずるように広がる。


 ハイデガーが遠くで笑った。


「ほう!」


 その声に、鴉の目が向く。


 ハイデガーは装甲車両の上で両腕を広げた。


「来たか、黒衣の化け物!」


 バルカンが火を噴いた。


 弾丸の嵐。


 普通の人間なら、形も残らない。


 鴉の黒衣が前へ出た。


 弾丸が黒に沈む。


 金属音すらしない。


 ただ、夜が弾を食った。


 次の瞬間、鴉は消えていた。


 いや、速すぎて見えなかった。


 対キメラ兵器の背後に、黒い影が立つ。


 鴉の右手が、硬質な爪のように変わっていた。白い指先から、黒い刃が伸びる。彼はそれを、兵器の背部制御炉へ突き立てた。


 青い火花。


 制御炉が沈黙する。


 巨体が膝をつく。


 鴉はその肩を蹴り、次の重機へ跳んだ。


 ドリルアームが振るわれる。


 鴉は避けない。


 黒衣が絡みつき、ドリルの回転軸をねじ切った。火花が散る。重機の腕が根元から落ち、地面に突き刺さる。


 警備員が魔導弾を撃つ。


 鴉は指先を払う。


 黒い刃が空気を裂き、銃だけを切断した。男の指は落ちていない。だが、銃を持つ手は震え、警備員はその場に尻餅をついた。


 鴉は人間を斬っていなかった。


 武器を壊している。


 重機を止めている。


 ドローンを落としている。


 殺そうと思えば殺せるはずなのに、殺していない。


 ファリスは瓦礫の陰からそれを見ていた。


 圧倒的だった。


 あまりにも強い。


 強すぎて、怖い。


 ユニコーン社の兵器が、まるで子どもの玩具みたいに壊されていく。さっきまで三番街を蹂躙していた白と銀の車両が、黒い影に触れるたび沈黙する。警告音声が悲鳴のように途切れ、ドローンが空から落ちる。


 住民たちが、逃げることも忘れて見ていた。


 屋台の老人が呟く。


「何だ、ありゃ……」


 オヤジが壊れたランチャーを抱えたまま答える。


「知らねぇよ。だが、今はこっち側だ」


 こっち側。


 ファリスはその言葉を聞いた。


 鴉がこちら側なのかは、わからない。


 人間なのかもわからない。


 あの黒衣の中に、どれほどの危険があるのかもわからない。


 でも、彼は今、三番街を壊しているものを壊している。


 人間を救うためか。


 正義のためか。


 違う気がした。


 鴉は、たぶん正義の味方ではない。


 たぶん、〈ホーム〉の人たちを愛しているわけでもない。


 彼はただ、死なせたくないのだ。


 目の前で、名前を持つ誰かが潰されるのを、見ていられないのだ。


 それは優しさなのかもしれない。


 でも、優しさというには暗すぎる。


 怒りというには静かすぎる。


 呪いというには、あまりに悲しかった。


 鴉は最後の魔導障壁車両の前に降り立つ。


 車両の前面に、青白い障壁が展開した。


 鴉は右手を伸ばす。


 黒い爪が障壁に触れた瞬間、青い光がひび割れた。


 硝子のように。


 氷のように。


 名前を剥がされた皮膚のように。


 障壁が砕ける。


 車両の上で、ハイデガーが笑っていた。


 逃げていない。


 むしろ、待っていた。


「ガハハハハハ! 素晴らしい! やはり本物は違う!」


 鴉は彼を見上げる。


「ユニコーン・セキュリティ」


「そうとも。都市再整備部門、現場総指揮。ハイデガーだ」


 ハイデガーは胸を張った。


「もっとも、肩書きなどどうでもいい。俺はおまえに会いに来たのだ、黒衣の鴉」


 鴉の顔に表情はない。


 だが、黒衣の端がわずかに震えた。


 ハイデガーの胸元で、赤黒い光がまた脈打つ。


 ファリスはそれを見た。


 人間の心臓ではない。


 機械でもない。


 鴉と似ているようで、違う。


 濁った核。


 誰かの名前の残骸を、無理やり押し込めたようなもの。


 ハイデガーは装甲車両から飛び降りた。


 地面が揺れる。


 彼の身体は大柄な人間の範囲を超えていた。筋肉の膨らみ方も、骨格の重さも、呼吸の音も、不自然だ。首筋には黒い縫合痕があり、そこから赤い魔導線が皮膚の下へ伸びている。


「久しいな」


 ハイデガーは笑う。


「アズェル」


 ファリスの心臓が跳ねた。


 また、その名。


 鴉が低く言う。


「その名を、どこで聞いた」


「移植された」


 ハイデガーは自分の胸を叩いた。


「この核にな。ラエル由来記録核。企業の連中はそう呼んでいた。だが、俺にはわかる。これはただの部品ではない。天から堕ちた者たちの欠片だ。おまえたちの力だ」


 鴉の目が、冷たくなる。


「紛い物だ」


「そうだ! 俺は紛い物だ!」


 ハイデガーは嬉しそうに叫んだ。


「だからこそ、本物を見たかった! 黒衣の鴉。名を剥がされ、地に堕ち、人間の血を欲しながら、人間の側に立つ愚かなラエル!」


 住民たちには意味がわからない。


 警備員たちにも、おそらく半分もわからない。


 ファリスにもわからない。


 けれど、鴉には届いていた。


 届いて、傷になっていた。


 ファリスにはそれがわかった。


 鴉は、ほんの少しだけ首を傾ける。


「目的は何だ」


「この土地の下にあるものを回収すること」


 ハイデガーはあっさり答えた。


「それと、境界適合者の確保」


 彼の赤い人工眼球が、ファリスを見る。


 ザックがどこからか戻ってきて、ファリスの前に立った。手には、工具箱を抱えている。息を切らし、頬に血が滲み、服は瓦礫の粉で汚れていた。


「ファリスに触るな」


 ファリスはザックの背中を見た。


「兄貴……」


「取ってきたぞ」


 ザックは工具箱を彼女へ押しつける。


「馬鹿!」


「おう。馬鹿で兄貴だからな」


 こんな時なのに、彼は少し笑った。


 その笑顔が、ファリスの胸を締めつける。


 ハイデガーは二人を見て、愉快そうに肩を揺らした。


「よい。実によい。守るものが多いほど、戦場は面白い」


 鴉が、一歩前へ出る。


「ハイデガー」


「何だ、鴉。いや、アズェル」


「その子から目を離せ」


「断る」


 ハイデガーの笑みが、獣のそれに変わる。


「そいつは、我々の計画に必要だ」


 鴉の黒衣が広がった。


 ファリスは工具箱を抱きしめたまま、息を止めた。


 朝の〈ホーム〉三番街は、もう朝ではなかった。


 崩れた屋根。


 焼けた屋台。


 壊れた重機。


 逃げ惑う住民。


 白銀の企業車両。


 黒衣の怪物。


 赤い核を持つ男。


 そして、帰る場所を抱えたまま立ち尽くす少女。


 ハイデガーは両腕を広げ、楽しそうに言った。


「さあ、見せてみろ。天から堕とされた本物の力を!」


 鴉は答えなかった。


 ただ、黒衣が翼のように夜の形を取り戻す。


 朝日の下で、その黒はどこまでも深かった。

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