第1話 黒い鴉とホームの少女
帝都エデンの夜は、眠らない。
眠らない、というより、眠ることを禁じられているような街だった。
高層ビルの壁面には、女帝政府公認の魔導広告が無音で流れていた。巨大な少女の義体が微笑み、白金の光輪を背負って市民へ語りかける。夢殿は揺らがず、ヴァルハラの光は消えず、帝都は今日も安全です――そんな神託めいた宣伝文句が、雨上がりのガラス壁に幾重にも反射していた。
空中軌道を走る魔導列車が、青白い尾を引いてビルの間を抜ける。軌道の下では、配送ドローンが赤と緑の誘導灯を瞬かせ、さらに下では、夜間営業の屋台、裏カジノ、魔導薬局、違法義体修理屋、信仰グッズショップが同じ通りに並んでいた。
ホウジュ区。
旧横浜の商業圏を呑み込んで膨れ上がった、帝都エデンの喉元。
表では観光客がネオンを浴びて笑い、裏では血と金と名前が売買される。帝都政府はこの街を整備された商業区と呼ぶ。裏社会の者たちは、もっと率直にこう呼ぶ。
入口。
明るすぎる楽園へ入るための入口であり、暗すぎる奈落へ落ちるための入口。
そのホウジュ区の上空を、一羽の黒い影が駆けていた。
ビルの屋上から屋上へ。
空中軌道の支柱から広告塔の鉄骨へ。
黒い外套が夜風を噛み、裂けた雲のように広がる。男の足が薄い魔導足場を踏むたび、靴底に青白い光の波紋が散った。人間離れした速さだった。けれど、その動きには機械のような正確さではなく、生き物の嫌悪に似たものがあった。
追われている。
男の背後から、三つの影が跳んだ。
それは獣ではなかった。
獣の骨格に、人間の腕が縫い足されていた。頭部には犬に似た顎があり、背には金属の補助肢が四本。筋肉の隙間から、企業製の魔導チューブが覗いている。全身に刻まれた識別コードは焼き潰され、代わりに胸部だけが不自然に膨らんでいた。
キメラ。
ただし、そこらの裏工房が作った粗悪な合成獣ではない。
魔導実験体に、エス化した人間を混ぜている。
人間の名前を削り、記憶をほどき、命令だけを肉体に残す。血に宿る生命記録を捻じ曲げられたそれらは、まだ人間の指を持っていた。まだ人間の歯を持っていた。まだ、かすかに人間の声を漏らしていた。
「――ア、ズ……」
一体が鳴いた。
それは命令語だったのか、忘れた名前の残骸だったのか。
黒衣の男――鴉は、振り返らなかった。
白い肌。黒い髪。長い外套。夜よりも暗い瞳。
美しい男だった。
しかし、その美しさは、人を安心させる類いのものではない。月明かりの下に置かれた刃物のように、冷たく、整いすぎて、近づけば指が落ちると本能に告げてくる。
鴉は低く息を吐いた。
追跡者との距離を測る。三体。右後方、左後方、上。金属補助肢の出力、跳躍角、反応速度。企業製。癖が同じだ。つまり、同じところで作られている。
彼は足を止めなかった。
むしろ、逃げるように見せた。
曲がる。落ちる。跳ぶ。屋上のアンテナを蹴り、給水塔の側面を走り、崩れかけた旧式広告看板の裏へ身を滑らせる。キメラたちはその後を追ってくる。命令に従うだけの肉は、疑うことを知らない。
鴉は、広い屋上へ出た。
かつては高級ホテルだったビルの屋上庭園。今は閉鎖され、枯れた芝と割れた噴水だけが残っている。足元には雨水が薄く溜まり、魔導広告の赤い光を歪めて映していた。
そこで、鴉は初めて振り返った。
キメラが三体、ほぼ同時に着地する。金属の爪がコンクリートを砕き、白い蒸気が背中の排気孔から吹き出した。
鴉は言った。
「ここでいい」
その声は静かだった。
ひどく静かだった。
次の瞬間、三体のキメラが一斉に飛びかかった。
鴉の黒衣が、翼のように広がった。
布ではない。
影だった。
夜そのものを薄く削ぎ、刃にしたような黒い膜が空気を裂く。右から来たキメラの首が落ちる。左から来たキメラの補助肢が根元から千切れる。上から降ってきた一体は、鴉の手が伸びた瞬間、胸部を貫かれていた。
音は少なかった。
肉が裂ける音より先に、魔導回路が死ぬ乾いた音がした。
赤黒い血と、青い魔導液と、名前を失った誰かの吐息が、屋上の雨水へ混ざる。
一体目は倒れた。
二体目は痙攣しながら再生しようとした。
三体目は、胸を貫かれたまま、それでも顎を開いた。
「ア……ズ、ェ……」
鴉の目が、わずかに細くなる。
怒りではない。
怒りなら、まだ表情に出せたかもしれない。
もっと深い場所に沈んだものだった。長い時間、黒い水の底で腐らずに残ってしまった感情。怒りと呼ぶには冷えすぎて、悲しみと呼ぶには鋭すぎるもの。
彼は指先を捻った。
三体目の胸部で、硬質な何かが割れた。
キメラはようやく動かなくなった。
鴉は膝をつき、死体の胸を開いた。人間の胸骨に似せた人工骨格の奥、魔導炉とも心臓ともつかない場所に、小さな黒いタグが埋め込まれていた。
彼はそれを引き抜く。
黒い金属片。
表面には企業管理番号と、かすれた文字が刻まれている。
UNiCORN SECURITY / BIO-SEC DIV.
その下に、人名らしきものがあった。
だが、半分が削れて読めない。
――シ、マ……
――ユ、キ……
――タ、カ……
鴉はタグを握り潰さなかった。
握り潰せば楽だった。だが、潰してしまえば、そこに残っているわずかな名まで消える気がした。
「また、名前を使ったか」
彼の声は、夜気よりも冷えていた。
「ひどいねぇ」
背後から、甘い声がした。
鴉は振り返らなかった。
屋上の縁に、黒い花が咲いていた。
黒いゴスロリのドレス。レース。リボン。長い黒髪。白い肌。月光を受ける横顔は、少年にも少女にも見える。いや、そういう分類に閉じ込めるには、あまりに意図的で、あまりに完成されていた。
肩には、身の丈ほどもある大鎌。
刃には赤黒い粘液が付着しているが、彼はそれを心底嫌そうに見ていた。
「うわ、やっぱり虫じゃなくても粘る系は最悪。あとで絶対捨てよ、この鎌」
カリン。
帝都裏社会で〈氷の花〉と呼ばれるトラブルシューター。
彼は屋上の縁から軽く飛び降り、ヒールの靴で水たまりを踏まないように着地した。普通なら着地で足を挫く高さだったが、カリンの動きは羽根のように軽い。
鴉はようやく目だけを向けた。
「用がないなら失せろ」
「用ならあるよぉ。ボクもその気持ち悪い子たちを追ってたの。ミナト区の倉庫から逃げたエス化キメラ三体。依頼書には“即時処理、証拠回収、製造元確認”って書いてあったんだけど――」
カリンは倒れたキメラを見て、唇に指を当てた。
「先に処理されちゃった」
「報酬が惜しいなら、死体を持って帰れ」
「それ、女の子に言うセリフじゃないよねぇ」
「おまえは女なのか」
カリンはにっこり笑った。
「綺麗でしょ?」
答えになっていない。
鴉は無視してタグを懐に入れた。
カリンはその仕草を見逃さなかった。
「噂の鴉さん?」
鴉は黙る。
「ほんとに綺麗だねぇ。でも、綺麗すぎるものって、だいたい危ないんだよね」
カリンの声は甘い。だが、目は笑っていなかった。
鴉は歩き出す。
「噂で仕事をするな」
「そうしたいんだけどさぁ。帝都の裏って、噂のほうが公式記録より正確なこと多いんだもん。鴉。黒衣の吸血鬼。企業の実験体を狩る不明存在。人間の血を飲むけど、なぜか人間側についてる変な人。どれが正解?」
「どれも違う」
「じゃあ、本人確認させてよ」
「断る」
「つれないなぁ」
その瞬間、鴉の足が止まった。
倒したはずの一体が、動いた。
首を落とされたキメラの胴体が、あり得ない角度で起き上がる。切断面から肉芽が吹き出し、首の代わりに、複数の口のような器官が開いた。
カリンはため息をついた。
「あー、やっぱり核が別にあるタイプかぁ。嫌いなんだよね、こういうの。切っても終わらないし、服に飛ぶし」
大鎌が回る。
カリンの動きは、鴉とは違う。
鴉が夜を裂く影なら、カリンは黒い薔薇の花弁だった。軽やかで、華やかで、どこか残酷に美しい。大鎌の刃が弧を描き、再生しかけたキメラの胴を斜めに切り裂く。
肉が割れる。
だが、再生は止まらない。
「ほらね」
カリンが頬を膨らませる。
「核、見つかんない」
「左肺の位置だ」
鴉が言った。
「え?」
「人間だった頃の心臓ではない。企業製の生体補助核は左肺へ移してある。喉ではなく、息で命令を読む型だ」
「へぇ」
カリンの目が細くなる。
「詳しいね」
鴉は答えず、黒衣を伸ばした。
カリンの大鎌がキメラの胴をこじ開ける。
その隙間へ、鴉の影が差し込まれる。
小さな音がした。
硝子を爪で弾いたような、軽い音。
次の瞬間、キメラは糸を切られた人形のように崩れた。
再生しない。
完全に沈黙した。
カリンは大鎌を肩に担ぎ直し、鴉を見る。
「君、ソエル関係者?」
鴉は答えない。
ただ、夜空を見上げた。
ホウジュ区の上空、その遥か上。
肉眼では見えないはずのヨムルンガルド結界が、一瞬だけ白く波打った。
帝都エデンを包む、多層封印の蛇。
都市の人々は、ほとんどそれを意識しない。魔導炉の電気が点き、空中列車が走り、温かい食べ物が買えるかぎり、結界は空気と同じだ。あるのが当たり前で、揺らいだ時だけ恐怖になる。
その結界が、今、鳴いた。
音ではない。
世界の皮膚がひきつる感覚だった。
魔導広告が一斉に乱れる。女帝義体の微笑みがノイズで裂け、交通誘導灯が白に変わる。空中軌道を走っていた魔導列車の車内照明が瞬き、遠くで警報が一拍だけ遅れて鳴った。
空から、白い光が落ちてきた。
隕石ではない。
炎を曳かない。質量の落下でもない。落ちる、という言葉を借りた、別の現象だった。
白い槍のような光が、帝都の空を貫く。ヨムルンガルド結界の蛇腹の隙間をこじ開け、無理やり地上へ押し込まれる。光の周囲で都市の記録が乱れた。ビル壁面の広告から商品名が消え、通行人の携帯端末から一秒分のログが飛び、監視カメラの映像に白い穴が開く。
落下地点は、ミナト区と〈ホーム〉三番街の境界。
距離はある。
それでも、屋上の水たまりが震えた。
カリンの笑顔が消える。
「……今の、何?」
鴉は、低く呟いた。
「ゾルテ……」
カリンは聞き逃さなかった。
「ゾルテ?」
問い返した時には、もう鴉の姿はなかった。
黒い羽根のような影だけが、屋上の縁から夜へ散っていく。
カリンは一人、屋上に残された。
大鎌の柄を肩で叩きながら、白い光が落ちた方角を見る。
「ほんと、綺麗なものって危ないなぁ」
風が吹く。
水たまりに浮かんだ魔導広告の赤が、白いノイズに塗り潰されていった。
*
〈ホーム〉三番街の夜は、帝都エデンの夜とは違う。
ホウジュ区の夜は、眠らない。
ツインタワーの夜は、眠る必要がない。
ミヤ区の夜は、女帝の光に見張られている。
けれど、〈ホーム〉の夜は、眠れない。
眠れば盗まれる。
眠れば運ばれる。
眠れば名前を変えられる。
眠れば、朝には別の誰かになっているかもしれない。
帝都の下層にへばりついた居住区〈ホーム〉は、正式な地図には曖昧にしか載っていない。もともとはトキオ聖戦後に流れ込んだ避難民の仮設住宅群だったとも、港湾労働者の違法宿舎だったとも、企業実験施設の廃棄区画に人が住み着いたものだとも言われている。
どれも正しく、どれも違う。
〈ホーム〉は、行き場のないものが積もった場所だった。
鉄板をつぎはぎした屋根。雨水を貯めるタンク。魔導炉の排熱パイプ。違法改造された発電機。壊れた機械人形の腕を看板代わりに吊るした修理屋。女帝ヌルの古い祈祷札と、反女帝派の落書きが同じ壁に貼られている。
その路地を、ファリスは歩いていた。
片手に古いランプ。
もう片方に、工具の入った布袋。
年齢は十四、あるいは十五ほどに見える。癖のある髪を首の後ろで雑に結び、上着は兄のお下がりで袖が少し余っている。靴は左右で修理痕が違う。背は高くないが、歩き方には〈ホーム〉の子ども特有の用心深さがあった。
目だけは、まっすぐだった。
「ファリス、また行くのか」
路地の屋台から、焼き油の匂いと一緒に声が飛んできた。
老人が、片目だけで彼女を見ている。昼は違法部品を売り、夜は謎のスープを売る屋台の主人だ。
「ランプ直しに行くだけ」
「どこのランプだよ。そっちは廃ビルしかないぞ」
「廃ビルにも暗いところはあるでしょ」
「暗いから廃ビルなんだよ」
ファリスは答えず、手を振った。
老人は舌打ちする。
「ザックに言いつけるぞ」
「兄貴なら今、南のジャンク市。帰ってくるの明け方」
「だからって、夜に一人で行くな。最近は変なのが出る」
「変なのなら、ここには元からいっぱいいる」
「口だけ達者になりやがって」
ファリスは少しだけ笑った。
けれど、足は止めなかった。
屋台の明かりが遠ざかる。
人の声が減る。
代わりに、排熱パイプを流れる魔導蒸気の音が大きくなる。
〈ホーム〉三番街のさらに端、ミナト区との境に近いところに、その廃ビルはあった。地上六階。外壁の半分が剥がれ、窓ガラスはほとんど残っていない。かつては小さな物流会社の事務所だったらしいが、今は誰も使っていない。
誰も、ということになっている。
三日前、ファリスはそこに男を見つけた。
黒衣の男。
最初は死体だと思った。
瓦礫の間に座り込み、壁に背を預け、目を閉じていた。血の匂いがした。けれど、近づくと呼吸があった。息は浅く、熱はなく、肌は死人のように白かった。
ファリスは逃げるべきだった。
〈ホーム〉で生きる子どもは、倒れている大人に近づいてはいけない。死体なら厄介事だ。生きているならもっと厄介事だ。まして、それが見たこともないほど綺麗な男なら、絶対に関わってはいけない。
綺麗なものは、高い。
高いものには、持ち主がいる。
持ち主がいるものに触ると、指か命か名前を取られる。
それが〈ホーム〉の常識だった。
なのに、ファリスは逃げなかった。
理由は、自分でもよくわからない。
男が美しかったからではない。
怖かった。
実際、怖かった。
死にそうなのに、近づくなという空気だけは刃物みたいに鋭かった。目を開けた時、彼はファリスを人間ではなく、食べ物でも見るように見た。いや、食べ物を見ている自分を嫌悪するような目だった。
それが、放っておけなかった。
死にそうな人間は、〈ホーム〉にいくらでもいる。
死にそうな怪物も、たぶんいる。
けれど、死にたがっているように見える怪物は、初めてだった。
ファリスは廃ビルの入口へたどり着いた。
ランプを掲げる。
炎ではない。小さな魔導光だ。ザックが古い誘導灯を分解して作ったもので、普通のランプより長持ちする。ただし、接触が悪い。強く振ると消える。湿気にも弱い。つまり、かなり役に立たない。
「……よし」
ファリスは自分に言い聞かせるように呟き、瓦礫を越えた。
一階の床は抜けかけている。壁には古い企業ロゴが残っていたが、塗装が剥げて読めない。奥の階段は崩れているので、非常用はしごを使う。三日前、ファリスが見つけた時、男は二階にいた。昨日は四階にいた。今日は――。
「来るなと言ったはずだ」
声は、上から降ってきた。
ファリスは顔を上げる。
三階の吹き抜け、折れた梁の上に、鴉が座っていた。
黒衣は夜の一部のように梁から垂れ、白い顔だけがランプの光を受けて浮かんでいる。傷は増えていた。肩口に裂け目があり、袖が血で固まっている。血は乾いて黒くなっていたが、その下でまだ肉が完全に閉じていないことが、ファリスにもわかった。
「うわ、ひど」
思わず声が出た。
鴉は眉一つ動かさない。
「帰れ」
「言われたけど、聞くとは言ってない」
「子どもが夜に歩く場所ではない」
「ここにいる大人が言う?」
「私は大人ではない」
「じゃあ、何?」
鴉は答えなかった。
ファリスは肩をすくめた。
「ほら、そういうとこ。答えないなら、こっちで決めるよ。夜に廃ビルで血まみれになってる変な人」
「正確だな」
「でしょ」
ファリスは割れた床を避けながら、慎重に階段跡を上がった。途中で足元の板が沈み、思わずランプを振る。光が大きく揺れた。
鴉の視線が、彼女の喉元へ落ちる。
ファリスは気づいた。
空気が変わる。
廃ビルの中が、急に狭くなったような感覚。見えない何かが、首筋に触れている。牙。そう思った瞬間、背筋が冷えた。
鴉は目を逸らした。
「近づくな」
さっきと同じ言葉だった。
でも、今度は意味が違った。
ファリスは足を止める。
怖い。
体の奥が、逃げろと叫んでいる。
それでも彼女は、布袋を掲げた。
「工具、持ってきた。あと、ランプの予備部品。昨日、暗いって言ってたから」
「言っていない」
「顔が言ってた」
「私の顔を読むな」
「読まれたくないなら、もっと普通の顔して」
鴉はわずかに目を細めた。
怒ったのか、呆れたのか、ファリスにはわからない。
ただ、彼は彼女を追い返そうとしているのに、本気で追い払う気はないようにも見えた。いや、本気で追い払いたいのに、やり方が下手なのかもしれない。
ファリスは梁の下まで来ると、布袋を床に置いた。
「降りてこないの?」
「必要ない」
「じゃあ、投げるよ。受け取らなかったら工具が壊れる」
「おまえの物だろう」
「兄貴の」
「なら、なおさら大事に扱え」
「受け取ればいいだけじゃん」
鴉はしばらく黙っていた。
そして、音もなく降りてきた。
本当に音がしなかった。
黒衣が一度ふわりと広がり、次の瞬間にはファリスの前に立っている。近くで見ると、やはり異様に綺麗だった。肌に血の気がなく、唇の色も薄い。目の奥だけが、深い井戸のように暗い。
ファリスは布袋を差し出す。
鴉は受け取らない。
「怪我、見せて」
「不要だ」
「必要かどうかは、見てから決める」
「医者なのか」
「修理屋の妹」
「人と機械は違う」
「知ってる。でも、切れた線と裂けた肉は、どっちも放っておくと駄目になる」
「乱暴な理屈だ」
「生きてればだいたい乱暴でしょ」
鴉は、今度こそ少しだけ表情を変えた。
笑ったわけではない。
でも、ほんのわずか、目の奥の冷たさが揺れた。
ファリスはその隙に、彼の袖へ手を伸ばした。
瞬間、鴉の手が彼女の手首を掴んだ。
冷たい。
氷よりも、夜の鉄骨に近い冷たさ。
ファリスは息を呑む。
鴉は彼女を見下ろしている。
その目が、また喉元へ落ちた。
ファリスは動けなかった。
怖かった。
けれど、彼の手が震えていることに気づいた。
噛みたいのではない。
噛まないように、震えている。
「……あんたさ」
ファリスは、喉がからからになりながら言った。
「自分のこと、嫌いなの?」
鴉の指が止まる。
「何を言っている」
「だって、そんな顔してる」
「どんな顔だ」
「お腹空いてる犬が、ごはん見て、自分を殴りたいみたいな顔」
「たとえが悪い」
「じゃあ、自分でうまいたとえ考えて」
「帰れ」
「またそれ」
ファリスは少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
鴉は手を離した。
「私は、人間のそばにいていいものではない」
「じゃあ、あたしは人間じゃないかもね」
「くだらないことを言うな」
「〈ホーム〉じゃ、戸籍が怪しい人間なんて山ほどいるよ。あたしだって、帝都の偉い人から見たら、いるかいないかわかんないようなもんだし」
「存在の話をしている」
「だからしてるじゃん」
鴉は黙った。
ファリスは、黙った相手に勝った気になって、布袋から消毒布と細い金属ピンセットを取り出した。
「傷、見せて。縫うのは無理だけど、変な破片くらい抜けるかも」
「普通の破片ではない」
「じゃあ、変な破片でしょ。言ったじゃん」
鴉はため息をついた。
人間らしい仕草だった。
そのことに、ファリスは少し安心した。
彼の肩口の傷は、ひどかった。
布を裂くと、黒く焼けた肉の奥に、白い細片が刺さっている。骨ではない。ガラスでも金属でもない。ランプの光を受けると、細片の周囲に文字のようなものが浮かんだ。
ファリスは眉をひそめる。
「何これ」
「触るな」
「もう見えてる」
「なら、忘れろ」
「無理」
白い細片が、微かに鳴った。
声ではない。
それでも、ファリスの耳には、遠くで誰かが自分の名前を呼び間違えたように聞こえた。
ランプの光が、揺れる。
次の瞬間、外から低い振動が伝わってきた。
遠くで何かが落ちた音。
さっきホウジュ区の上空から見えた白い光が、〈ホーム〉三番街の端へ届いたのだ。
廃ビル全体が軋んだ。
天井から埃が落ちる。
ファリスのランプが大きく瞬き、消えた。
「あ」
暗闇。
完全な暗闇ではない。壁の隙間から、遠い帝都のネオンがわずかに差し込んでいる。それでも、足元の穴も、折れた鉄筋も、鴉の顔も見えなくなった。
ファリスの胸が跳ねる。
〈ホーム〉の暗闇には、音が多すぎる。
遠くの怒鳴り声。排熱パイプの蒸気。ドローンの羽音。どこかで割れる瓶。誰かの笑い声。誰かの泣き声。見えないものが多すぎる夜は、人の形をした危険をいくつも隠している。
「動くな」
鴉の声がすぐ近くでした。
「見えない」
「知っている」
「ランプ、叩けばつくかも」
「動くなと言った」
「でも――」
足元が崩れた。
ファリスの身体が落ちる。
声を上げる間もなかった。
黒衣が広がった。
落下の感覚が、ふいに消える。
ファリスは誰かの腕の中にいた。
鴉が、彼女を抱えていた。
黒い外套が翼のように二人を包み、瓦礫と鉄筋と暗闇の間を滑る。床の抜けた吹き抜けを、階段のない空間を、彼は迷わず降りていった。
ファリスは、息を止めていたことに気づく。
「……飛んでる?」
「落ちていないだけだ」
「それ、だいたい飛んでるって言うんじゃない?」
「言わない」
「言うよ」
「黙れ」
ファリスは黙らなかった。
「ねえ」
「何だ」
「あんた、名前は?」
「鴉」
「それ、本名?」
「人がそう呼ぶ」
「じゃあ、本名じゃないんだ」
鴉は答えない。
暗闇の中、彼の横顔だけが近い。冷たい肌。薄い唇。血の匂い。それから、かすかに乾いた土のような匂いがした。墓地の匂い、とファリスは思った。行ったことはないけれど。
「ファリス」
彼が言った。
ファリスは驚いて目を上げる。
「え」
「おまえの名だろう」
「……知ってたの?」
「昨日、屋台の老人が呼んでいた」
「ああ」
「名を、軽く扱うな」
鴉の声は低かった。
叱っているようで、どこか祈っているようにも聞こえた。
ファリスは、なぜか返事ができなかった。
鴉は彼女を抱えたまま、廃ビルの一階へ降りた。入口の崩れた壁から、外の光が差している。遠くで警報が鳴り続けていた。白い光が落ちた方角の空だけ、奇妙に明るい。
鴉はファリスを地面に下ろす。
「帰れ」
「また?」
「今夜は本当に帰れ」
「理由は?」
「危険だからだ」
「いつも危険じゃん」
「今夜は違う」
ファリスは口を開きかけた。
だが、言葉は出なかった。
廃ビルの出口に、人が立っていた。
白い光を背負った男だった。
帝都のネオンではない。
魔導広告の光でもない。
その男の背後だけ、夜が白く焼けていた。細身の体。長い髪。上質な白い衣服。顔立ちは人間に似ていたが、人間の骨格に収まりきらない均整があった。美しい。鴉とは違う美しさだった。
鴉が黒い傷なら、その男は白い毒だった。
男は微笑んでいた。
「久しいな、アズェル」
ファリスは、その名を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
アズェル。
知らない名前。
けれど、それは鴉へ向けられていた。
鴉の空気が変わる。
さっきまでの冷たさではない。もっと古い。もっと遠い。廃ビルの床も、〈ホーム〉の路地も、帝都の夜も、一瞬で消えてしまうような気配。
彼は、ファリスの前に出た。
黒衣が、彼女を背後へ押し隠す。
「その名は死んだ」
低い声だった。
ファリスは、鴉の背中を見上げた。
この人は、自分の名前を死んだと言った。
名前は死ぬものなのか。
それとも、殺されるものなのか。
白い男は楽しそうに笑った。
「死んだ名で振り返るとは、相変わらず律儀だ。リンボウの泥にまみれても、そこは変わらぬか」
「ゾルテ」
鴉がその名を呼ぶ。
ゾルテ。
ファリスは、その響きを覚えた。
覚えたくなかったのに、耳の奥に刻まれた。
ゾルテは鴉の背後にいるファリスへ視線を向けた。
見られた瞬間、ファリスは身体が動かなくなった。
綺麗な目だった。
けれど、その目の奥には、誰かを見る感情がなかった。人間を見る目ではない。人形を見る目でもない。鍵を見る目。器を見る目。使えるかどうかを測る目。
「それが、今のおまえの鎖か」
鴉の黒衣が、わずかに広がる。
「この子に触れるな」
「この子」
ゾルテはその言葉を噛むように繰り返した。
「アズェル、おまえが人の子をそう呼ぶのか。面白い。実に、堕ちた甲斐があったというものだ」
「黙れ」
「人間を守るラエル。飢えを抱え、名を失い、裁きの門を恐れながら、それでも人間の子を背に庇う。ああ、これは喜劇だ。天界の裁定者どもに見せてやりたい」
ファリスには、半分も意味がわからなかった。
ラエル。
裁きの門。
天界。
アズェル。
知らない言葉ばかりだった。
でも、ひとつだけわかる。
ゾルテは、鴉を傷つける言葉を選んでいる。
鴉は動かない。
ファリスの前から、動かない。
ゾルテは白い指を軽く広げた。
その瞬間、廃ビルの外壁に残っていた古い企業ロゴが、音もなく剥がれ落ちた。地面に落ちる前に、文字が消える。金属板そのものは残っているのに、そこに何が書かれていたのか、ファリスは思い出せなくなった。
背筋が凍る。
名前を消された。
そう直感した。
ゾルテは、微笑んだまま言う。
「ならば、死者がどこまで人間の子を守れるか見せてもらおう」
鴉の黒衣が、夜の翼になる。
ファリスはその背中の後ろで、工具袋を握りしめた。
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
けれど足が動かない。
自分の前にいる二人が、人間ではないことだけはわかった。
帝都の夜よりも深い黒。
帝都の光よりも冷たい白。
二人の怪物の会話を、彼女は何も理解できないまま聞いていた。
ただ、鴉の背中が、自分と白い男の間にある。
それだけが、今この夜で、ファリスにわかる唯一のことだった。




