第9話 往路の再現と精霊の牙
二日後の朝、グルックの馬車に乗り込んだ。
布陣は前回と同じだ。グルックが御者台で手綱を握り、俺が荷台後方で後ろを見張り、サークが前方の気配を鼻で追う。
城門を抜けながら、同じ道を逆に辿るのだと思った。五日かけて来た道を、また五日かけて戻る。同じ道で、同じ布陣で、でも今回は一度経験している。
狼に干し肉が通じることも知っている。夜の野営でゴブリンが来ることも、焚き火が多少の抑止になることも知っている。
前回より気が楽だった。それ自体は事実だ。
ただ、楽になった分だけ油断しないようにしようとも思った。経験は武器だが、慢心にもなる。
ハイルセン周辺は穏やかだった。
農地と集落が続いて、衛兵の詰所が要所に見える。前回の往路と同じ景色が逆向きに流れていく。二日目も問題なく村に着いた。
宿で夕食をとりながら、グルックが言った。
「山越えの件、まだ解決していないそうです」
「そうか」
「行方不明者の話は続いているようで。何者かの仕業なのかどうかも、まだ分かっていないと」
俺は頷いた。正体がわからないものに近づく理由はない。今回も迂回だ。
三日目、街道から外れて迂回路に入った。
木立が深くなる。空が細くなる。音が変わる。前回と同じ順番で景色が変化していくのを、今度は少し落ち着いて眺めることができた。
「前回と同じ道ですが、匂いの感じは少し変わっています」サークが言った。
「どう変わった」
「森の奥が……前よりさらに落ち着いていない感じがします。うまく言えませんが」
「頭に入れておく」
俺は後方への警戒を上げた。
前回と同じあたりで、サークの耳が立った。
「前方右、群れです。前回と同じくらいの数だと思います」
「わかった」
俺は干し肉の袋を取り出した。
グルックが自然に馬車の速度を落とした。前回の経験で、俺が袋を取り出したら何が来るかを察しているのだろう。
群れが木立の縁に現れた。十数匹、前回と同じくらいだ。
俺は一切れ目を投げた。
狼の耳が動いた。
二切れ目、三切れ目と続けて投げた。前回と同じ場所に、同じ散らし方で。群れの意識が肉の方に向いていくのが、動きの変化でわかった。
「グルック、ゆっくり進んでくれ」
「はい」
馬車が狼の群れの横を通り抜けた。前回と同じだった。最後の一匹がこちらを見た。俺は動かなかった。狼は視線を外した。
群れの後方に抜けた。
「通れました」サークが言った。
「ああ」
前回は綱渡りをしている感覚があった。今回は、手順を踏んで再現した感覚だ。知識が実戦で通用することを、改めて確認した。
四日目までは順調だった。
野営も問題なく終えて、五日目の朝に出発した。あと半日ほどでアールストンに着く予定だった。
昼前、サークが静かに言った。
「タカオ様、前方に何かいます」
「狼か」
「違います。数が……十以上います。動き方がゴブリンです」
俺は立ち上がった。
「グルック、速度を落としてくれ」
グルックが手綱を引いた。馬車が徐々に遅くなった。
「待ち構えています」サークの声が低くなった。「こちらに気づいている様子です」
俺は状況を整理した。
十以上のゴブリンが前方にいる。こちらに気づいている。回避できる地形かどうかを確認したが、道の両側に草むらが続いているだけで、大きく迂回できる余地はない。
「戦うしかないな」
前方百メートルほどの地点に、ゴブリンの群れが見えた。
数えると十一匹だ。道幅いっぱいに広がって、棍棒や粗末な短剣を持っている。前回の街道遭遇の二倍以上だ。
「グルック、馬車を止めてくれ。荷台の下に入って待機してほしい」
「わかりました」
馬車が止まった。グルックが素早く御者台から降りた。
俺とサークが前に出た。
「サモンエレメンタルを出してくれ」
「はい」
サークが魔力を集めた。光が丸くなって、直径五十センチほどの球体が浮かんだ。ギルドで試した時と同じだが、今回は戦闘だ。
俺はサークに向けてブレスを発動した。パスワードを口に出すと、淡い光がサークの体を包んで消えた。
それから、精霊に向けてもブレスを使った。
サークが少し振り返った。
「精霊にもかけるんですか?」
「どうなるかわからないが、試す価値はある」
精霊を包む光が、サークにかけた時より少し長く留まった気がした。確証はない。でも何かが変わった感触はあった。
「行くぞ」
サークが低く唸った。
スリープの一発目。ゴブリンの群れのうち三匹が崩れ落ちた。
続けてもう一発。さらに三匹が倒れた。
六匹が地面に転がった。残りは五匹だ。
五匹が一斉に動いた。
精霊がその方向に向かった。サークが命令を出したらしい。俺は地面に転がっていた石を一つ拾って、サークに向かってくる一匹の手前に投げた。当たりはしなかったが、ゴブリンが一瞬ひるんだ。サークがその隙に体当たりをかました。
俺は自分の担当に集中しながら、精霊の動きを横目で追った。
速かった。
最初の一匹を体当たりで弾き飛ばして、サンダーを一発撃った。弧を描いた雷がゴブリンを直撃して、ゴブリンが吹き飛んだ。それだけじゃなく、まだ動いていた。次の相手に向かって、また体当たり。さらに次の個体を押し込んだ。
サークが一体と正面からぶつかり合っている間に、精霊が三体を無力化していた。
俺は少し眉を寄せた。
ギルドで試した時より、動きが鋭かった気がした。ブレスをかけたのが関係しているのか、それとも戦闘状況が違うだけなのか、判断はつかなかった。でも明らかに、想定より強く動いていた。
残った五匹はすぐに片がついた。
逃げようとした二匹をサークが追って、一匹を転倒させた。もう一匹は逃げ切った。精霊が倒れた個体の方に向かった。
俺は気づいた。
精霊が、眠っているゴブリンに近づいていた。
「待て」
声に出したが、精霊は止まらなかった。眠っているゴブリンを攻撃し始めた。
俺は精霊に向かって走りかけた。でも間に合わなかった。二体目に手をかけたところで、精霊の輪郭がぼやけた。光が散って、消えた。
時間切れだった。
地面に、眠ったままのゴブリンが四体残っていた。精霊が処理したのは二体だ。
俺はしばらく黙って立っていた。
サークが静かに言った。
「倒せと命令しただけです」
声に感情はなかった。正確な事実を述べているだけだった。
俺は何も言えなかった。
精霊に倫理はない。命令に従って動く。倒せと言われれば、眠っている相手も倒す対象だ。それだけのことだ。間違っていない。命令した俺が考えていなかっただけだ。
眠っている四体を確認した。
縄で縛ることも考えたが、前回とは状況が違う。今回は最初から待ち構えていた。護衛の対象であるグルックを狙った可能性が高い。逃がすのが正しいのかどうか、今回は判断がすぐには出なかった。
起こした。
四体とも目を開けた瞬間に走り出した。縛られていなかったことに気づく間もなく、草むらの中に消えていった。
俺は耳を確認した。
地面に倒れたままの二体から、右耳を取った。
第六話の夜みたいな葛藤は、今回は少し薄かった。理由は自分でもはっきりとはわからない。経験が積み重なったのか、状況が違うからなのか。どちらにしても、手が止まることはなかった。
グルックが馬車の下から出てきた後、少し落ち着いてから本を確認した。
タカオ:6.62。
前回の6.22から増えている。
サークも確認した。
「0.55になっています」
「前が0.43だったな」
俺は数字を見たまま少し考えた。
今日の戦闘では、精霊がゴブリンを二体倒した。眠っていた相手も含めて。それでも増えている。
前回ゴブリンを逃がした時も増えていた。今回殺した時も増えた。
基準がわからない。護衛を達成したからか、干し肉で狼を回避したからか、それとも別の何かか。増える条件と減る条件が、まだ俺には読めていない。
善行とは何か、という問いが、また頭の隅で動いた。
ただ今は、答えを出すより先にやることがある。
アールストンに着いたのは夕方だった。
グルックの商会に荷を届けて、報告をした。
「ゴブリンに遭遇しましたが、問題なく対処できました」
「そうでしたか」グルックが少し表情を硬くしたが、すぐに和らいだ。「無事で何よりです。お疲れ様でした」
報酬を受け取った。
翌朝、冒険者ギルドに向かった。
アールストンのギルドは、ハイルセンと比べるとずっと小さく見えた。数日前まではここが基準だったのに、目が変わるのは早い。
護衛完了の報告書を出した。合わせて、ゴブリンの右耳を袋から出して受付に並べた。
「討伐報酬ですか」と受付の職員が言った。
「二体分だ」
計算して、シルバー貨幣を20枚渡してくれた。ゴールドで0.2枚分だ。護衛報酬に加えると、今回の往復は悪くない結果になった。
金額よりも、形になってきた、という感覚があった。
ギルドの片隅で本を開いた。
数字が変わっていた。
加護魔法のレベルが3になっていた。ポケットが4に増えている。
前回がレベル2でポケット3だったから、一段階上がったことになる。
「また上がった」
サークが覗き込んだ。
「早いですね。やはり加護の影響だと思います」
「可能性はある」俺は頷いた。「ただ確証はない。試せることでもないしな」
レベル3になった。4になれば2レベル魔法が解禁される。
サークが4になった時に、2レベル魔法のサモンエレメンタルを習得した。同じ仕組みが俺にも来る。
「あと1レベルで2レベル魔法か」
「どれを取るか、考えておいた方がいいですね」サークが言った。
「ああ」
エイド、ディテクトマジック、アーマー。前回検討した候補が頭に戻ってきた。状況が変わったことで、優先度の見え方も少し変わっているかもしれない。
今日のところはまず休む。明日にはグルックとシルバムへの出発を確認して、その後で考えればいい。
アールストンの夜は、ハイルセンより静かだった。
麦穂亭の灯りは金羊亭の十分の一も灯りがないが、それが今はちょうどよかった。




