第6話 灰色と獣の境界
一日目は、拍子抜けするほど穏やかだった。
街道は整備されていて、行き交う馬車も何台かあった。ゴブリンどころか、怪しい影一つ見当たらない。サークも特に異常を報告せず、俺も後方を見張りながら、ただ流れていく景色を眺めていた。
日が傾き始めた頃、村が見えてきた。
村、とグルックは言っていたが、シルバムとハイルセンを結ぶ街道沿いにあるためか宿は思ったよりずっと大きかった。
馬を繋ぐ柵が広く取ってある。馬車が何台も並んでいて、荷物の積み下ろしをしている男たちの声が聞こえた。
アールストンと比べれば質素だ。石造りの建物はほとんどなく、木材と土壁が中心だった。でも旅人を受け入れることに慣れている空気がある。冒険者らしき装備の人間も、商人風の格好をした人間も、ごった煮で宿の前を行き来していた。
「交易路の宿場です」グルックが御者台から言った。「ここから先は村がしばらくありませんから、旅人が集まるんです」
安全な場所だ、と感じた。同時に、ここを出たら先はそうじゃない、ということもわかった。
宿に落ち着いてから、グルックが顔見知りの商人たちと話し始めた。俺とサークはその近くのテーブルに座って、耳を傾けた。
話題は自然と山道のことになった。
「山越えを使った人間は最近どうなんですか」とグルックが聞いた。
同業者の一人が首を振った。
「遭遇したという話は聞かない」
「ということは、帰ってきていないのか」
男が少し口をつぐんだ。
「そういうことだろうな。出会った連中が戻らないから、遭遇談も出てこない」
テーブルに沈黙が落ちた。
別の男が続けた。
「迂回路もあまり安心できないぞ。狼の群れが出る」
「狼か」グルックが眉を寄せた。「前からいたか?」
「いたにはいたが、最近は数が増えた。十匹以上の群れで動いているという話だ。ゴブリンより厄介だ、素直に逃げられない」
俺はサークを横目で見た。サークは静かに聞いていた。
商人の一人が、俺の隣にいるサークに気づいて目を細めた。
「その狼、でかいな」
「相棒だ」
「相棒……魔物使いか」男はサークをじっと見た。「普通の狼じゃないな。サイズが違う」
確かに、その商人が言う通りだった。宿の外に繋がれている馬の世話をしていた少年が小さな犬を連れていたが、サークはその犬と比べると二回り以上大きい。
「迂回路の狼と戦うつもりか?」と男が聞いた。
「できれば避けたい」
「賢明だ。ただ、相棒の狼はかなり大きいサイズに見えるが」
俺はサークに目をやった。
「サーク、同じ狼なら威嚇することが出来るか?」
サークは少し考えてから言った。
「……わかりません。俺は、自分より小さい狼というものを見たことがないので」
男が少し不思議そうな顔をした。
「普通の狼を知らない?」
「俺のいた群れは、全員が言葉を話していました。魔法も使います」
テーブルの空気が少し変わった。
隣の席にいた冒険者風の男が口を開いた。ベテランらしい、落ち着いた声だった。
「それはダイアウルフだ」
「ダイアウルフ」
「魔狼とも呼ぶ。普通の狼とは完全に別の種族だ。言葉を使い、魔法を扱い、知性がある。一般の狼とは格が違う」
男がサークを見た。
「あんた、知らなかったのか、自分の種族を」
サークは少し間を置いた。
「……知りませんでした」
その声は静かだったが、何かが揺れているように聞こえた。俺は何も言わなかった。
夕食を終えて、部屋に戻る前に俺は少し考えた。
迂回路に十匹以上の狼の群れ。戦闘は最終手段にしたい。サークのスリープは範囲内なら複数に効くが、十匹以上を相手にできるほど万能じゃない。
俺の脳裏に、前世の記憶が浮かんだ。
狼は肉食獣だ。腹を空かせていれば、餌に意識が向く。知性の低い動物であれば、食べ物を投げることで注意をそちらに引けるかもしれない。
ダイアウルフは知性があると言っていた。でも迂回路の群れは普通の狼だ。なら、効く可能性がある。
サークに聞いた。
「お前は肉を食べるか」
「はい」
「腹が減っている時に、目の前に肉を投げられたらどうする」
サークが少し首を傾けた。
「……食べると思います。何かあれば無視するかもしれませんが、特に脅威がなければ」
「普通の狼なら、それで気を逸らせるかもしれない」
「知性の低い動物なら、効くかもしれない、ということですか」
「そうだ」
サークは少し考えてから言った。
「試す価値はあると思います」
宿の主人に干し肉を売ってもらえないか交渉した。快く応じてくれて、手のひらに乗る程度の量を銅貨で買えた。
袋に入れて、荷物に加えた。
使うかどうかはわからない。でも持っておく方がいい。それだけのことだ。
翌朝、村を出ると空気が変わった。
街道から外れて迂回路に入ったのは昨日と同じだが、今日の道は昨日より木立が深かった。道の両側から木が覆いかぶさるように伸びていて、空が細長い帯になった。木漏れ日が道に斑点を作っている。
音が変わった。
街道では風と馬蹄の音が混ざり合っていた。ここでは木の葉が揺れる音と、自分たちの馬車の音だけが聞こえる。鳥の声もない。
サークが荷台の前方に陣取って、ひっきりなしに鼻を動かしていた。耳は立ったまま、わずかに前後を向いていた。
俺は後方を見ながら、サークの様子を横目で追った。
「タカオ様」
サークの声が低くなった。
「何だ」
「前方、右の森の中。かなりいます」
「数は」
「……十、以上です。正確には数えられません」
「ゴブリンか」
「違います。匂いが違う。動きが速いです」
俺は即座にグルックに声をかけた。
「グルック、ゆっくり進んでくれ。止まるな」
「わかりました」グルックの声がわずかに緊張していた。
俺は干し肉の袋を取り出した。
前方の木立から、影が現れた。
一匹、二匹、三匹。数えているうちに増えていった。灰色と茶色が混じった毛並みの狼が、道の前方に横並びになった。十数匹は確かにいた。
サークより明らかに小さい。でも十数匹が揃っている。
馬が怯えて足踏みした。グルックが手綱を抑えながら低い声で「止まりますよ」と言った。
「止めてくれ」
馬車が止まった。
狼たちは動かなかった。こちらを見ていた。鳴き声もなく、唸り声もなく、ただ見ていた。
俺は立ち上がった。
荷台の後部から前に移動して、幌の外に顔を出した。狼たちと距離がある。十数メートルはある。
袋を開けた。
干し肉を一切れ取り出して、群れの手前に投げた。
狼たちの耳が動いた。
もう一切れ投げた。今度は少し横にずらして。
先頭の一匹が鼻を下げた。
俺はもう二切れ、続けて投げた。群れから少し離れた位置に、散らばるように。
先頭の狼が一歩前に出た。肉の方に向かって。
後ろの数匹もそれに引きずられるように動き始めた。群れの意識が、道をふさぐことから、地面の肉に向かっていた。
「グルック、ゆっくり進め。急ぐな」
「……はい」
馬車がじりじりと動き出した。
狼たちは肉に集中していた。馬車に向かってくる個体はいなかった。俺は残りの干し肉を道の端に投げながら、馬車が群れの横を通り抜けていくのを見守った。
最後の一匹が肉から顔を上げた。こちらを見た。俺と目が合った。
三秒ほど、そのままだった。
狼は視線を外して、また肉の方に向かった。
馬車が群れの後方に抜けた。
「止まらないでそのまま進んでくれ」
「はい」
グルックの声が震えていた。
森を抜けたのは日が暮れる前だった。
開けた場所に出ると、全員が少しずつ緊張を解いた。グルックが手綱を緩めて、深く息を吐くのが聞こえた。
野営の準備をグルックが始めた。慣れた手つきだった。石を並べて火床を作って、乾いた枝を組んで、火打ち石で火を起こす。十分もかからずに焚き火が安定した。
「火は魔物避けになりますよ」グルックが言った。「近づきにくくなる」
「全員が嫌うわけじゃないだろう」
「そうですね。でも、ないよりはましです」
そういうものか、と思った。完全じゃないけど、何もしないよりいい。それで十分だ、という考え方だ。
焚き火を囲んで夕食を食べた。グルックが用意してきた干し肉と堅焼きパンだった。味は地味だが、腹に入れば同じだ。
「交代で見張りをしよう」俺は言った。「俺が先に見張る。次にサーク」
「俺の方が夜は得意です」サークが言った。
「だから後半を頼む。俺が起きられなくなる頃が一番危ない」
サークは少し考えてから頷いた。
グルックは「お願いします」と言って、毛布にくるまった。疲れていたのだろう、すぐに寝息が聞こえてきた。
俺は焚き火の側に座って、周囲に目を配った。
静かだった。
風が草を揺らす音。遠くで何かが鳴く声。焚き火が爆ぜる音。それ以外は何もない。
干し肉の戦術は上手くいった、と思った。狼が肉に食いついてくれたのは運もあるが、知っていたから試せた。前の世界での知識が、この世界で使えた。
ただ、それは普通の狼だったから通じた話だ。
もっと知性の高い相手には効かない。
俺は自分の手を見た。剣を持つには慣れていない手だ。
サークに交代して、横になった。
眠れるか半信半疑だったが、体が疲れていたのか、気づいたら落ちていた。
「タカオ様」
サークの声が低かった。
俺は即座に目を開けた。
「来てるか」
「三体、北の方から。足音の感じからゴブリンだと思います」
「スリープは使えるか」
「木の陰に隠れながら動いています。視界に入らないと撃てません」
制約がある、と改めてわかった。スリープは目視できる範囲に使う魔法だ。障害物の向こうには届かない。
「グルックを起こす」
グルックの肩を叩いた。状況を短く説明すると、今度は昨日より早く起き上がった。一度経験しているから、体が覚えていたのかもしれない。
「馬の手綱を持っていてくれ。もし俺たちが手こずるようなら、馬車で逃げる準備をしてくれ」
「わかりました」グルックが頷いた。
俺は剣を抜いた。
サークの隣に立って、北の方角を見た。木立の暗がりに、何かの気配があった。
動く影が見えた瞬間、サークが唸った。
空気が揺れた。
三体のうちの一体がぐらりと揺れて、地面に崩れた。残り二体が方向を変えようとした。
だが速かった。
俺とサークに気づいて、二体は反転して走り出した。草を踏む音が遠ざかっていった。
静寂が戻った。
地面にゴブリンが一体、眠っていた。
ゴブリンの右耳を取れば、ギルドの討伐報酬になる。それはわかっている。
俺はゴブリンを見た。
緑色の皮膚、縮こまった体格。眠っていると、ただ小さい。粗末な革の服を着ていて、縫い目が雑だった。誰かが縫ったか、あるいは自分で縫ったのか。
耳を取る、ということは殺すということだ。
戦闘中なら話が違う。向こうが来て、こちらが対応する。でも今のこいつは眠っている。無抵抗だ。
俺は剣を収めた。
「縛る」
サークが少し間を置いた。
「……わかりました」
縄でゴブリンの手足を縛った。しっかりと、でも折れないように。
縛り終えてから、ゴブリンを起こした。
ゴブリンは目を開けた。
次の瞬間、身を縮めた。目に恐怖がはっきりと浮かんだ。声にならない声を出しながら、縛られたまま体を引こうとした。
逃げようとしていた。
怖がっていた。
俺は縄を解いた。
ゴブリンは一瞬だけ固まった。それから、這うように起き上がって、暗がりの中に走って消えた。
グルックが静かに言った。
「また誰かを襲いますよ」
声に責める色はなかった。ただ、事実として言っていた。
「わかってる」
「それでも逃がしたんですね」
「……ああ」
グルックはそれ以上何も言わなかった。
焚き火が低くなっていた。俺は枝を足した。火が少し大きくなって、周囲を照らした。
サークが俺の隣に座った。
「タカオ様は、間違っていたと思いますか」
俺は少し考えた。
「わからない」正直に答えた。「逃がして正しかったとは言い切れない。でも眠っているやつを殺せなかった」
「俺は……タカオ様の判断を、おかしいとは思いませんでした」
「そうか」
「でも、グルックさんの言葉も正しい」
「そうだな」
どちらも正しい。だから割り切れない。
ゴブリンが誰かを傷つけるかもしれない。でも眠っている相手の耳を取ることが、俺にはできなかった。
善行とは何か、と頭の隅で誰かが聞いていた。
ポイントが増えるようなことをすればいいのか。誰かを助ければいいのか。でも今夜俺がやったことは、果たして誰かの善行になるのか。
焚き火が静かに燃えていた。
答えは、すぐには出なかった。




