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第42話 見えない脅威と判断の重み

 湿地帯は、霧の中にあった。

 ハイルセンから東に向かって半日ほど。ニアの背中で飛んでいる間は見晴らしが良かったが、降りた途端に世界が変わった。足元はぬかるんでいて、踏み込むたびに水が滲み出てくる。水たまりが点在しており、どこからが地面でどこからが水面なのか、一見しただけでは判断がつかない場所もある。背の高い草が密生していて、視界が5メートルも続かない箇所もあった。

「視界が悪いですね」

 サークが低く言った。

「奇襲に注意だな」

 俺は答えた。

 霧が地面近くに漂っていた。音が妙に吸収されて、自分の足音以外が聞こえにくい。こういう場所は、気配を読む方が目で見るより頼りになる。


 湿地帯の採取は、地上か浅い水域でしか取れない素材が中心だった。特定の菌類、水辺にしか育たない植物、湿った土の中にいる小型生物の甲殻など。ニアの背中からでは手が届かない。降りるしかない。

「降りるぞ。ニア、周囲警戒を頼む」

「任せとき」

 ニアが低い高度で旋回を始めた。地面には降りず、水面から3メートルほどの高さを保ちながら周囲を見回している。俺とサークは草の合間を進みながら採取を進めた。

 最初の30分は何事もなかった。

 素材の状態は良く、依頼の指定品が順調に見つかった。サークが鼻を使って目標の植物の場所を特定し、俺が手で採取する。効率は悪くなかった。


「……なんか変やな」

 上空からニアの声が降りてきた。

 俺は手を止めて周囲を見た。霧の中に、動くものは見えない。草が揺れているが、風のせいかもしれない。水たまりの表面も静かだ。

「何が変だ」

「なんか、違和感があるんやけど……敵やとはっきりわからんのや」

 サークも周囲に意識を向けていた。気配感知を使っているのだろう。しばらくして、首を傾けた。

「……私も微かに何かを感じます。ただ、はっきりとした敵意はありません」

 ニアの危険感知がレベル9ある。それが「変」と感じているなら、何かいるのは確かだろう。ただし反応がはっきりしないということは、こちらに向かって来ていない、あるいは敵意を出していない状態だということだ。

 俺は前世の記憶を掘り起こした。

 待ち伏せ型の生き物は、攻撃直前まで敵意を見せない。草食動物を狙うワニも、エサを待つクモも、近づくまで気配を消す。魔物にも同じ性質を持つものがいる可能性がある。

「一度、採取を止める」

 俺はサークに小声で言った。

「気をつけながら戻るぞ」

 その瞬間だった。


 足元の水たまりが、突然動いた。

 水の中から何かが来た。俺の足首を掴んだ感触があった。鋭い歯が食い込んできた。引っ張られる力が強い。体が傾いた。

「来たで!!」

 ニアの声が頭上から飛んできた。

 俺は地面を蹴って引き戻そうとしたが、水の中からの力が予想以上だった。足が水面に入りかけた。サークがすぐに俺の横に来て、体を押さえた。

「こっちです!」

 サークが引く力で、俺はギリギリ引きずり込まれずに済んだ。足を抜いた瞬間、水たまりの中で何かが動いた。水が激しく跳ねた。

 レモラだ。

 後でギルドの情報と突き合わせてわかったことだが、この魔物は水面下に潜んで待ち伏せし、目の前に来るまで敵意を出さない。攻撃直前に初めて殺意が生まれる。だからニアの危険感知が反応したのも、あの瞬間だった。

 Dランクの魔物だが、引きずり込んで水中で窒息させるのが攻撃パターンだ。不意を突かれればCランクでも油断できない、と資料に書いてあった意味が今になってわかった。


「上からやない、下や!」

 ニアが叫んだ。

 俺は上を見た。ニアがすでに高度を下げていた。3メートルから1メートル、さらに水面ギリギリまで。翼を折り畳んで低空に入ってきている。

 そのまま水面を覗き込んだ。

 視認スキルを使っているのだとわかった。ニアの視認はレベル12ある。霧の中でも、水中でも、俺やサークより遥かに見える。

「2体おる! 左の水たまりと、正面の草の根元!」

 位置を特定した。

 ニアが息を吸った。ブレスだ。電撃ブレスが水面に当たった瞬間、水が白く泡立った。水の中を電気が走る。水たまりの中で何かが暴れる音がした。

「サーク!」

「います」

 サークがライトニングを放った。水中を電気が拡散する。水面が激しく跳ねた。それから静かになった。

 レモラが2体とも、水の中で浮き上がっていた。


 俺は膝に手をついて息を整えた。足首に歯型の跡が残っている。深くはなかったが、ジクジクする。ヒーリングをかけると、痛みが引いた。

「助かった。今の判断は良かった」

 俺はニアに向かって言った。

 ニアが着地して、翼をたたんだ。

「わいだって考えとるで」

 軽い言い方だった。ただ、その言葉の中身は軽くなかった。

 上空からの警戒という最初の役割を、自分で判断して変えた。低空に入って水中を確認し、位置を特定してブレスで干渉した。指示を待ったのではなく、状況を見て自分で動いた。

 昨日言ったことが、もう出ていた。


 採取を再開した。

 気をつけながら進んだ。ニアが今度は低めの高度を保ち、水面を常に視認しながら移動している。先ほどの経験で自分のポジションを見直していた。

 しばらくして、浅瀬に見える場所に出た。採取対象の植物が水際に群生している。近づいて手を伸ばした。

 サークが先に踏み込んだ。

 1歩目は問題なかった。2歩目で、足が沈んだ。

「っ」

 サークが短く声を上げた。浮泥だ。表面は固く見えるが、中が柔らかい。踏んだ瞬間に体重を受けて崩れる。サークの前足が膝まで沈んだ。

 同時に、水面が動いた。


 今度は別の種類だった。

 平べったい生き物が複数、水中から這い出してきた。リーチだ。吸血する魔物で、数が多い。1体1体は弱いが、群れで来ると厄介だ。サークの体に張り付こうとしている。

「サーク、動くな!」

 俺はブレスをかけた。サークの体に防護の息吹を当てる。リーチが張り付いても、多少は耐えられる状態になる。ただしブレスは完全な防御ではない。サークの足元に這い上がったリーチが、鱗の隙間から血を吸い始めた。

 サークが体を動かして振り払おうとした。足場が不安定で、動くたびにさらに沈む。

 数が多い。周囲の水面から次々と来ていた。攻撃を当てようとすると、足場が邪魔になる。精度が落ちる。サークの目が、俺を見た。

 その瞬間、俺はサークが何かを考えているのがわかった。


 サークが体の動きを止めた。

 攻撃しようとするのをやめた。代わりに、ニアの方を見た。

「ニア」

「わかった」

 ニアがすでに低空に入っていた。サークの体に向かって翼を伸ばし、引き上げる。サークが沈んでいた泥から抜けた。ニアの背中に乗る形で体を安定させた。

 張り付いていたリーチが数匹、そのまま残っていた。サークがそれを引きはがした。

 水面にはまだリーチが群れていた。

「ライトニング」

 サークがニアの背中から放った。水面を電気が走った。リーチが次々と浮き上がった。全滅はしなかったが、大半が動かなくなった。残りは水の中に引っ込んでいった。


 落ち着いてから、サークが俺を見た。

「……もし、防御があれば」

 その一言だった。

「大地魔法か」

 俺は言った。

 サークが頷いた。言い訳でも後悔でもなかった。ただ、ここで実感したのだと思う。バークスキンがあれば、リーチが張り付いた時の被害が減った。足場が不安定な状況での防御の薄さが、今日の戦闘でずっと尾を引いていた。

「攻撃は足りています」

 サークが静かに言った。

「ですが、防御と安定性が不足しています」

「それをどうするかだな」

 俺は答えた。

 答えは出ていた。ただ、すぐに決めさせるつもりはなかった。昨日「一度考えろ」と言ったばかりだ。今日の経験を踏まえた上で、サーク自身が判断することが大事だ。


 採取は完了した。

 依頼の指定品が全部揃った。被害はあったが、素材は取れた。その点は合格だ。

「今日はここまでだ」

 俺は言った。

 ニアが翼を広げた。

「次はもっと上手くやるで」

 悔しそうでもなく、反省しているわけでもなく、ただ前を向いている言い方だった。それがニアらしかった。

 サークが小さく、独り言のように言った。

「……大地魔法」

 霧の中を、俺たちは帰路につきながら飛んだ。足元の湿地が遠ざかっていく。夕方の光が霧の中に溶けていた。

 サークはずっと、何かを考えていた。


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