第38話 真実の剥離と黒幕の名
海底の広間は、静かだった。
岩盤を削って作られたのか、あるいは長い年月をかけて自然に形成されたのか、判断がつかない空間だった。天井が高く、壁に沿って発光する何かが等間隔に並んでいる。青白い光が水中に揺れて、その場にいる全員の輪郭を曖昧に照らしていた。
長老派のマーフォークが左側に並んでいた。族長側の者たちが右側に。その対面に俺たちが立っている。そして広間の中央よりやや前、族長の隣に、吟遊詩人がいた。
昨日の浜辺と違って、今度は完全に囲まれた空間だ。逃げ道はない。
俺は息を整えた。
「始める前に、条件があります」
俺は族長に向かって言った。族長は俺を見た。目の奥に、まだ怒りがある。当然だ。娘の仇という認識は、まだ変わっていない。
「今回は、全員が魔法のかかっていない状態で話し合う。それを確認してから始めたい」
族長側がざわついた。数体のマーフォークが低い声で何事かを話している。吟遊詩人は無言だった。ただ、わずかに表情が固まったのを俺は見た。
長老が前に出た。
「……よいだろう」
その一言で、場が静まった。
長老が目を閉じた。詠唱はなかった。ただ、周囲の水が微かに震えた。俺の肌が、じわりと何かを感じた。魔力が広間全体に広がっていく感覚だ。目には見えないが、確かにそこにある。
アナライズマジック。
リアンが言っていた。ディテクトマジックより上位の魔法で、隠匿を無効化する。かかっている魔法を正確に特定できる。
水の揺れが少しずつ落ち着いた。
長老がゆっくりと目を開いた。
「人間側に異常なし」
長老の声が広間に響いた。
俺たちの方を見て言った言葉だ。俺、サーク、リアン、バルド。全員に魔法はかかっていない。それが確認された。
族長側のマーフォークたちが、視線を交わした。
長老の視線がゆっくりと移動した。族長の方へ向いた。
沈黙があった。
その沈黙の長さで、何が起きているのかを全員が悟った。
「……族長に魔法がかかっている」
広間がざわめいた。
族長自身が、わずかに体を動かした。自分の体に何かがあると、今初めて知ったような動きだった。
「何の魔法だ」
族長が長老に向かって言った。声が、かすかに揺れていた。
「思考誘導系だ」
長老が答えた。
リアンが前に出た。
「サジェスションの可能性が高いです。信頼している相手からかけられると、気づかないまま思考が誘導されます。怒りや悲しみが増幅されることもある」
族長の視線が、吟遊詩人に向いた。
吟遊詩人は、黙っていた。
表情が硬直していた。昨日まで保っていた穏やかな笑顔が、消えていた。唇を強く噛んでいる。何かを言おうとして、しかし言葉が出てこないでいるようだった。
場の空気が、変わっていた。
昨日の浜辺では、吟遊詩人の言葉には不思議な説得力があった。族長が信頼し、場を支配していた。今は違う。信頼の土台が揺らいでいた。
「解除する。よいか」
長老が族長に向かって言った。
族長は一瞬、動かなかった。
周囲のマーフォークたちの視線が、族長に集まっていた。長老の目が静かに見ていた。吟遊詩人が何か言おうと口を開きかけた。
「……やれ」
族長が短く言った。
長老が再び目を閉じた。
今度の魔力の動きは、さっきとは違った。広がるのではなく、1点に向かって収束していく感じがした。族長の周囲の水が、ゆっくりと渦を巻くように動いた。
魔力が剥がれていく。
そんな感覚だった。目には見えないが、族長の体から何かが離れていくのがわかった。
族長が目を見開いた。
大きく息を吸った。乱れた呼吸が、水中でも伝わってきた。片手を胸の前に持ってきて、何かを確かめるような動作をした。
「……何を……」
小さな呟きだった。
完全に我に返ったわけではないのだと思う。記憶が消えたわけでもない。娘を失った悲しみも、俺たちへの怒りも、まだそこにある。
ただ、何かが変わっていた。
頭の中で霧が晴れたような、あるいは長い間聞こえなかった自分の声が戻ってきたような、そういう変化が族長の顔に出ていた。
族長の視線が、吟遊詩人に向いた。
「これで対等です」
俺は言った。
「もう一度、話をしましょう」
吟遊詩人が口を開いた。
何かを言おうとした。しかし言葉が形になる前に、リアンが1歩前に出た。
「1つ確認させてください」
静かな声だった。昨日の浜辺で使ったのと同じ質問だと、俺は気づいた。
「あなた、または、あなたの仲間は、マーフォークと人間の間に戦争を起こそうとしているのではないですか」
吟遊詩人が、黙った。
昨日は「いいえ」と即座に答えた。センスライの場で、光も揺れなかった。グリブネスのおかげで。
今は違う。アナライズマジックの後だ。グリブネスがかかっているかどうかも確認されている。ここで答えれば、嘘か本当かが分かる。答えなければ、それ自体が答えになる。
吟遊詩人は答えなかった。
それだけで十分だった。
昨日まで吟遊詩人の言葉に乗せられていたマーフォークたちが、静かに向きを変えた。信頼の補正が消えていた。言葉の力だけが残って、それだけでは何も支えられなかった。
族長が低い声で言った。
「……捕らえろ」
マーフォークたちが動いた。
吟遊詩人は抵抗しなかった。いや、できなかった。歌と魔法を武器にする者が、力で抗える状況ではなかった。あっけないほど簡単に、両腕を押さえられた。
族長がゆっくりと吟遊詩人の正面に立った。
「何者だ」
答えなかった。
「何をした」
答えなかった。
族長の問いが続いた。吟遊詩人は口を閉じたまま、床を見ていた。サークが俺の隣で低く息を吐いた。
「口を割る気はありませんね」
サークが静かに言った。
そうだ。この沈黙は抵抗ではなく、意志だ。何も言わないことを選んでいる。
族長の怒りが、再燃した。
娘を失った怒りに、騙されていたという怒りが重なった。それは理屈ではなく、もっと根の深いものだった。族長が1歩、前に踏み出した。
速かった。
俺が止める間もなかった。族長の手が動いた。吟遊詩人が血を吐いた。
静寂が落ちた。
吟遊詩人の体が、ゆっくりと沈んでいった。水中だから、倒れるのではなく、漂うように。
その口が、かすかに動いた。
「……お前らは……いずれ……」
声というより、空気の振動に近かった。
「ユリコ様に……」
それだけだった。
誰も動かなかった。
水の揺れだけが続いた。青白い光が、変わらず広間を照らしていた。
ユリコ。
その名前が、海底の静かな空間に残った。
「今の……名前……」
リアンが小声で言った。俺の隣で、声を抑えきれなかった、という感じの呟きだった。
俺は心の中で、その名前を繰り返した。
ユリコ。
これまでの事件を糸で繋ぐと、その先にある名前だ。高波の道具。人魚の噂。吟遊詩人の動き。全部が、誰かの意図の下にあった。吟遊詩人はその手駒の1つだった。
まだ終わっていない。
むしろここから先が、本当の問題だ。
族長が、俺を見た。
怒りは残っていた。娘を失った痛みは、魔法が解けても消えるものではない。それは当然だ。
ただ、昨日とは違った。
昨日の族長の目には、俺たちを見る余地がなかった。仇という1点だけで完結していた。今は違う。怒りの奥に、何かを考えている気配があった。
俺は族長の視線を受け止めた。
逃げなかった。逸らさなかった。
まだ話せる。
その余地が、かすかに生まれていた。
「……続きは、これからだ」
俺は小さく言った。
族長はすぐには答えなかった。ただ、視線を外さなかった。
ユリコという名前が、まだ海底の水に溶けずに漂っている気がした。




