第37話 深海の長老と真実の目
岩場は静かだった。
入り江から少し離れた、海側に突き出した岩の陰。波が当たらない窪みに身を寄せて、俺たちは夜を過ごした。見張りを交代しながら、できる限り休んだ。
傷の治療を優先した。バルドの腕はリジェネレーションで完全に塞がった。リアンの脇腹に入っていた打撲も、数回のヒーリングで痛みが引いた。俺自身の背中も、昨日よりずっと楽になった。
「中途半端で行くと全滅する」
夜の前半、俺はそう言って全員の傷を確認した。異論は出なかった。誰もが同じことを考えていた。
魔力の回復も意識した。眠れない間は、できるだけ体を動かさずに呼吸を整えた。ウォーターブリーズは1人に1回分で一定の魔力を使う。4人分を複数回使える状態にしておかなければいけない。
夜明け近く、サークが一度だけ目を開けて言った。
「万全です」
それだけで十分だった。
行動に入る前に、俺は全員を集めた。
「確認する。まず長老に接触する。次に、魔法による異常がある可能性を提示する。そこから再交渉の場を作ることを目指す」
「グリブネス対策は万全にする必要があるわ」
リアンが言った。
前回の轍は踏まない。吟遊詩人がグリブネスを使える以上、センスライがある場は俺たちにとって罠になり得る。では何を根拠にするか。魔法がかかっているという事実そのものを示すしかない。
「最初から"魔法なし"で始める」
俺は言った。
「センスライを使うなら、事前に全員の魔法状態を確認した後だ。吟遊詩人がグリブネスをかけている状態でセンスライの場に入らせない。そこを条件にする」
「長老が聞いてくれれば、の話だけど」
「聞いてもらうしかないわ」
リアンが短く頷いた。
夜明け前の暗い時間に、水音がした。
サークが顔を上げた。俺も気配を探った。敵ではない。昨日と同じ気配だ。
ケルプビアードが岩陰から現れた。
一目見て、状態が前日より悪化していると分かった。傷は塞がっているが、顔色が悪く、動きが重い。眠れていないのか、あるいは別の理由があるのか。
「……急げ」
開口1番に言った。
「監視が増えている。夜明けになれば、動けなくなる」
時間がなかった。
俺はすぐにヒーリングをかけた。ケルプビアードが少し目を細めたが、断らなかった。
「行こう」
ウォーターブリーズを4人分かけた。
魔力の消費を確認する。1人分の付与でポケットを3使う。4人で12。俺の残りのポケットを計算すると、この後に使える魔法はほとんどない。サークとリアンに、いざとなったときに動いてもらうしかない。
それを全員に伝えた。異論はなかった。
海面に入った。
冷たかった。想像より体の芯に来る冷たさで、一瞬だけ息が詰まりそうになった。ウォーターブリーズのおかげで水中でも呼吸はできるが、水の冷たさは別の話だ。体に力が入った。
音が消えた。
水の中に入った瞬間、世界が変わった。波の音も、風の音も、何もかもが遠くなった。代わりに、水そのものの低い音が体を包んだ。視界は月明かりがわずかに届く範囲だけで、少し先は暗い。
ケルプビアードが先導した。
海底の地形は複雑だった。
岩礁が続いた後、海底が急に落ち込んで裂け目のような地形になった。ケルプビアードはその縁を沿うように進み、ある地点で真下に向かって潜り始めた。
水流が変わった。温度も変わった。深くなるほど冷たい。
サークが俺の隣を泳ぎながら、気泡を吐いた。水中では言葉が使えないため、目だけで確認し合う。問題ない、という意味で俺も頷いた。
岩の回廊を抜けた。狭くて、体が岩に触れそうになる箇所もあった。バルドが少し苦労していたが、なんとか通り抜けた。
リアンが俺の袖を引いた。視線で前を示している。
遠くに、光が見えた。
生物の発光なのか魔法なのか、青白い光がいくつか揺れていた。近づくにつれて、輪郭が見えてきた。
「完全に集落だな」
水中では声にならなかったが、俺は心の中で言った。
石と貝で作られた構造物が、海底の岩盤に沿って並んでいた。人工的な形をしている。壁があり、開口部があり、中に光がある。遠くに複数のマーフォークの影も見えた。
ケルプビアードが進路を変えた。集落の方向ではなく、斜め右の方角へ。
「長老は族長とは距離を置いている」
後で聞いた話だが、ケルプビアードはそう言っていた。
集落の主な構造から外れた方向に、別の空間があった。岩盤に削り込まれたような、静かな場所だ。神殿という言葉が頭に浮かんだ。人工物と自然の境界が曖昧な、古い場所だと感じた。
その入り口に、2体のマーフォークが控えていた。
俺たちを見て、即座に警戒の態勢を取った。武器を構えるほどではないが、体の向きが変わった。ケルプビアードが前に出て、素早く何かを伝えた。水中なので俺には聞こえなかったが、ケルプビアードの身振りで意図は伝わった。
護衛の2体は視線を交わし、内側に向かって何かを伝えた。
しばらく待った。
奥から、気配が近づいてきた。
長老は、小さかった。
族長の大きさを想像していたが、全く違った。体格は細く、動きはゆっくりとしている。鱗の色は白に近い薄い灰色で、長い年月で色が抜けたようだった。目だけが、やけに澄んでいた。深い場所から見ているような、静かな目だ。
「……人間か」
長老が言った。声は低く、水中でも不思議とよく聞こえた。
俺たちを見渡す目に、敵意はなかった。驚きもなかった。ただ、確認しているような目だった。
護衛の2体が左右に控えた。ケルプビアードが前に出た。
「話を聞いてほしい」
「短く話せ」
長老がそれだけ言った。
俺は前に出た。
「高波が発生した海域で、黒いローブを着た者が道具を使って波を起こしているのを目撃しました」
できるだけ簡潔に話した。
「追跡し、交戦の末に死亡しました。倒した後、その者はマーフォークだと判明しました。光線前から体が大きく損傷しており、あちこちで骨が露出していました。後に、それが族長の娘だったと知りました」
長老は黙って聞いていた。
「俺たちが倒したのは事実です。ただ、その状況に至るまでに、意図的に人間とマーフォークの双方を操作した存在がいると考えています」
「吟遊詩人か」
長老が言った。
俺は少し驚いた。長老はすでに、吟遊詩人に目を向けていた。
「はい。ただ、直接的な証拠がない。それを確かめるための話をさせてください」
長老がわずかに頷いた。
リアンが前に出た。
「吟遊詩人が使う魔法の中に、サジェスションというものがあります」
長老の目が、リアンに向いた。
「思考を外から誘導する魔法です。かけられた本人は気づきにくい。特に、信頼している相手からかけられた場合は、抵抗が非常に難しくなります」
長老はわずかに目を細めた。その反応が、俺には答えに見えた。
「族長は吟遊詩人を信頼していますか」
俺は直接聞いた。
「……深く、な」
長老が静かに答えた。
「娘を失った直後に現れ、言葉をかけ、共に悲しんだ。族長にとって、あの者は味方だ」
条件が揃っていた。信頼関係と、精神的な弱り目。サジェスションが最も効きやすい状況だ。
「もう1つあります」
俺は続けた。
「グリブネスという魔法です。使用中は、嘘の発言がセンスライに反応しなくなります」
場の空気が変わった。
護衛の2体がざわついた。長老は無言のまま、しかし目の奥で何かが動いたのが見えた。
「昨日の交渉の場で、吟遊詩人はこの魔法を使っていた可能性があります。俺たちだけがセンスライに縛られ、吟遊詩人は嘘をついても反応が出ない状態で話していた」
長老がゆっくりと息を吐いた。
「確認する方法があるか」
「あります」
俺はリアンに視線を向けた。
「ディテクトマジックでは、熟練者が隠匿すれば見逃す可能性があります」
リアンが言った。
「それより上位の、アナライズマジックが必要です。魔法の隠匿を無効化し、かかっている魔法を正確に特定できます。それを使えば、サジェスションもグリブネスも、かかっているかどうかを確認できます」
長老が沈黙した。
長い沈黙だった。周囲の護衛たちも、何も言わなかった。海底の静けさの中で、長老は目を閉じて考えていた。
俺は待った。急かすことはしなかった。ここで焦ったら壊れる。
やがて、長老が目を開いた。
「……アナライズマジックを使う」
その言葉で、ケルプビアードが小さく息を吐いた。
「その場を用意しよう」
長老が続けた。
「ただし、条件がある。その場にいる全員が無防備状態であること。事前に全員の魔法状態を確認すること。双方が対等な状態で話し合うこと」
「異存ありません」
俺はすぐに答えた。
「族長は、あの吟遊詩人を深く信頼している」
長老がもう一度言った。繰り返したのには意味がある。証拠が出たとしても、族長が受け入れるとは限らない、ということだ。
「わかっています。だから長老に来ていただく必要があります」
長老は俺を見た。何かを測るような目だった。
「だが急げ」
長老が言った。
「族長は既に戦の準備を進めている。時間はほとんどない」
「再交渉の場を作ります」
俺は言った。
「次で決めます」
サークが静かに言った。
次の機会はない。失敗すれば、交渉どころではなくなる。戦争が始まる。
それが全員にわかっていた。
「族長を呼ぶ」
長老が言った。
「その時が最後の機会だ」
その言葉が、海底の静かな空間に沈んだ。
ここで失敗すれば終わり。
俺はその事実を、もう一度自分の中に刻んだ。感情ではなく、事実として。そうでないと、動けなくなる。
長老が内側に向かって何事かを伝え始めた。準備が動き出した。ケルプビアードは壁に寄りかかるようにして、目を閉じた。疲弊しきった体で、それでもここまで来た。
サークが俺の隣に来た。何も言わなかった。ただ並んでいた。
暗い海の底で、最後の機会に向けた準備が、静かに進んでいた。




