第36話 揺らぐ海の民と反転の一手
ケルプビアードと最初に話した入り江に、俺たちは戻っていた。
昼間の喧騒が嘘のように、今は静かだった。波が岩を洗う音だけがある。月明かりが水面を照らし、遠くに島の灯りがいくつか見える。浜辺の方角、族長と対峙したあの場所も、今は暗くてよく見えなかった。
「誰もいないな」
俺は小声でバルドに言った。
「待ち構えている可能性はある」
バルドも同じ声量で返した。
サークが鼻を利かせながら周囲を確認している。リアンは入り江の岩陰に身を潜めながら、魔力の気配を探っていた。敵が潜んでいれば、何らかの反応があるはずだ。
しばらく待った。何も起きなかった。
ここで待つしかなかった。ケルプビアードが動けるなら、最初に接触した場所に来るだろうという読みだ。外れている可能性も十分あった。ただ、他に手がなかった。
時間が経った。どれくらいかはわからない。月が少し動いた気がした。
「……来ます」
サークが低く言った。
俺は息を止めた。海の方を見る。波の音の中に、別の気配が混じり始めていた。
水面がゆっくりと盛り上がり、人影が現れた。
ケルプビアードだった。
だが、昼間と様子が違った。水から上半身を出した姿勢が、どこか重そうだ。鱗の1部が剥がれていた。左の肩口に、切り傷のようなものが走っている。顔色も、わかる範囲でよくなかった。
「無事だったのね」
リアンが岩陰から出ながら言った。安堵と驚きが混じった声だった。
「無事ではないが……」
ケルプビアードは俺たちを見渡してから、短く言った。
「時間がない」
俺はすぐ近くに膝をついた。
「治療していいか」
ケルプビアードが一瞬だけ目を細めたが、頷いた。
リジェネレーションをかける。傷口が少しずつ塞がっていくのを確認してから、俺は口を開いた。
「話を聞かせてくれ」
「族長は……完全に怒りの中にいる」
ケルプビアードは言った。声が低く、疲弊しているのが声ににじんでいた。
「取りつく間もない。お前たちは娘の仇として、完全に認識が固まっている。誰が何を言っても、今の族長には届かない」
予想していた言葉だった。それでも改めて聞くと、重かった。
「あんたはどうして傷を」
「連れてきた責任を問われた。当然だ」
淡々と言った。責める気配がなかった。自分で引き受けていた。
「だが」
ケルプビアードが少し間を置いた。
「……長老が言っていた」
「長老?」
「我々の部族には、族長より長く生きた古老がいる。普段は深いところにいて、表には出ない。その長老が言っていた」
俺は黙って続きを待った。
「あの吟遊詩人が来てから、族長の様子がおかしい、と」
誰も、すぐには口を開かなかった。
波音だけが続いた。
「長老だけじゃない」
ケルプビアードが続けた。
「一部の者たちも、同じ違和感を持っている。族長の怒りが……普通ではない、と。娘を失った悲しみは本物だ。だが、何かに引きずられているように見える、と」
「表立って言えないのか」
バルドが言った。
「逆らえば処罰される。今の族長は、反論を許す状態ではない」
「完全な一枚岩じゃないってことか」
「そうだ」
俺はバルドの言葉を受けて、頭の中で地図を描き直した。
「そこが突破口だな」
「1つ、確認したいことがあります」
リアンが前に出た。
「グリブネスについて調べた時にわかったんだけど、吟遊詩人魔法には他にも使える魔法があるわ。サジェスションという魔法」
ケルプビアードが眉を寄せた。
「どういう魔法だ」
「相手の思考を、気づかれないように誘導する魔法。信頼している相手や、心理的に弱っている相手に対しては、抵抗が難しくなる」
静寂が落ちた。
「族長が操られている可能性があると」
サークが静かに言った。断定ではなく、可能性として。
ケルプビアードは少しの間、黙っていた。
「……実は、長老も同じことを疑っている」
その一言で、俺の中でいくつかの点が繋がった。
吟遊詩人は族長を誘導した。娘を失った悲しみと怒りの中にいる者に、サジェスションをかけることは難しくないはずだ。そしてグリブネスで自分の嘘を通しながら、センスライの場で俺たちを確実に「仇」として確定させた。
「奴はまだ動いている」
俺は言った。
「今度は何をするつもりだ」
「俺たちを確実に始末することと、その上で開戦を確定させること。それが目的だと思う」
「証拠も消したいのね」
リアンが言った。
「ああ。俺たちがいなくなれば、吟遊詩人がグリブネスを使っていた可能性を指摘できる者も消える。完全に証拠が消えたところで、戦争が始まる」
「……あの男が、そこまで考えているとすれば」
ケルプビアードが低く言った。
「そうなる前に動かなければいけない」
「族長は明日にも動く」
ケルプビアードが言った。
「報復の準備を始めている。戦力を集めている。明日には、動き出すかもしれない」
1日だ。
1日あるかどうかもわからない。
「族長に直接行くのは無理だな」
バルドが言った。現状の確認だ。
「正面は捨てる」
俺は答えた。
正面から交渉できる相手ではない。今の族長に言葉は届かない。それはケルプビアードの話でも確認できた。
「長老だ」
「長老なら話を聞く」
ケルプビアードがすぐに言った。
「ただし、秘密裏に接触するしかない。見つかれば……族長だけでなく、その場にいる全員が敵に回る」
「潜入になりますね」
サークが言った。
俺は頷いた。
「整理しよう」
俺はその場にいる全員を見渡してから、言った。
「ケルプビアードが案内する。海中ルートで長老の元へ向かう。長老に、吟遊詩人の魔法の可能性を提示する。長老が動いてくれれば、族長への再交渉の場を作れる可能性がある」
「グリブネス対策も必要よ」
リアンが言った。
「次は準備する」
「ディテクトマジックがあれば、グリブネスがかかっているかどうか反応するはずよ。サジェスションも同様に魔法として検知できるはず」
「俺もサークも習得している」
「魔法がかかっている証拠を掴めば勝てます」
サークが言った。証拠があれば、嘘検知のある場でも、魔法の影響下にある状態での発言は信用できないと主張できる。
「失敗したらどうなる?」
バルドが言った。感情のない声で、事実を確認するように。
ケルプビアードが答えた。
「……全員、確実に殺される」
入り江に静寂が戻った。
波が岩を洗う音。月明かり。それだけがある。
「それでもやるしかない」
俺は言った。
他に道がないからやる、というのとは少し違う。やらなければ、俺たちは逃げ切れたとしても、戦争が起きる。そこで死ぬ人間とマーフォークの数を思えば、危険を理由に引き下がることは俺にはできなかった。
ケルプビアードが、俺を見た。
「私はすでに裏切り者だ」
静かな声だった。
「族長を裏切り、仲間を裏切った。今さら引けん」
それだけ言って、視線を海に向けた。
その一言で、俺の中で何かが固まった。こいつは逃げ道を持たずにここにいる。自分が失うものを理解した上で、それでもここにいる。
信頼していい。
「準備しよう」
俺は言った。
ウォーターブリーズを全員分確認した。水中呼吸は問題ない。装備は最小限にする。音を立てる可能性のあるものは外す。魔法の構成を見直し、使う可能性の高いものを頭に入れ直す。
ディテクトマジック、リジェネレーション、シャインフラッシュ。優先順位をつけた。
サークが静かに水面を見ていた。
「静かに行きます」
その言葉が、作戦の始まりだった。
夜の海が、目の前にあった。
波は穏やかだ。潜れば真っ暗になる。水中でどれだけ動けるか、どれだけ静かに移動できるか、やってみるまでわからない部分もある。
それでも行くしかない。
「準備はいいか」
全員が頷いた。
今度は――中から崩す。
「長老の場所まで案内する」
ケルプビアードが静かに言い、水面に向かって体を沈め始めた。
俺は一度だけ、島の灯りを振り返った。明日には、あの灯りがどうなっているかわからない。
ウォーターブリーズを発動させ、息を整えて、俺は海へ入った。




