第35話 真実の代償と、逃走の連携
詰んでいる。
どちらに答えても詰んでいると、さっき気づいた。それでも、出口は1つしかなかった。
嘘をついて嘘検知に弾かれれば、その瞬間にこの場での信用はゼロになる。事情を語る機会すら永遠に失う。それだけは避けなければいけない。
「……はい」
声に出してから、場の空気が変わるのを全身で感じた。
波の音だけが残った。ほんの一瞬、誰も何も言わなかった。その静寂は、嵐の前の凪みたいだった。
族長の顔が、変わった。
「貴様らァァァ!!」
怒声が浜辺に響いた。
理屈ではなかった。論理でも打算でもなく、ただ感情だった。娘を失った親の、どこまでも正当な怒りだった。俺はそれを責められない。責める気にもなれない。
族長の全身から、怒りが波のように溢れ出している。鱗が逆立ち、目が血走っていた。それは悲しみが限界まで圧縮されて、怒りという形でしか外に出られなくなったものだと、俺にはわかった。
吟遊詩人は、静かにその様子を見ていた。
何も言わない。介入もしない。ただ、穏やかな顔で状況を眺めている。誘導が成功したと、そう思っているのだろう。
「待ってくれ、話を聞いてくれ――」
「黙れ!!」
族長の声が俺の言葉を叩き切った。
「仇が語るな!!」
一瞬の間もなく、次の言葉が来た。
「殺せ!!」
周囲のマーフォークたちが、一斉に動いた。
「来るぞ、予定通りに」
俺はそれだけ言った。
ハイルセンを出る前、船の中で、ギルドで族長の話を聞いた後に、4人で話し合っていた。交渉が決裂したときのことを。完全に想定外だったわけじゃない。マーフォークは水中が主戦場だ。浜辺なら、走って離脱できる。
リアンが前に出た。
詠唱はなかった。すでに準備していたのだろう、右手を掲げた瞬間、強烈な白光が炸裂した。
シャインフラッシュ。
閃光が浜辺全体を焼いた。マーフォークたちが一斉に目を覆う。叫び声が上がった。
「走れ!」
俺たちは反転した。砂を蹴って、全力で浜辺を駆け上がった。
背後から、水流と雷撃と何かが飛んでくる音がした。
視界が戻り始めたマーフォークたちの反撃だ。早い。一瞬で立て直してくる。
「左!」
サークの声で俺は体を右に振った。直後、左耳のそばを水の刃が通り抜けた。
ドンッ、という衝撃が背中に来た。水塊の直撃だ。肺から空気が押し出された。痛みより先に、足がもつれそうになる。
「タカオさん!」
「走れてる!」
答えながら歯を食いしばった。止まれない。
バルドが俺のすぐ後ろに回り込んだ。盾を背負って構え、後ろから飛んでくる攻撃を受け流している。鈍い金属音が連続した。何発かは盾に弾かれ、何発かはそのまま通り抜けてきた。
「まだ来ます」
サークの声が前方から飛んできた。
「わかってる。もう1段だ」
追撃の音が近づいてくる。足音ではなく、水しぶきの音。浜辺の際まで出てきたマーフォークたちが、水を操って追い打ちをかけてきている。
サークが立ち止まった。振り返り、前足を踏み込んで、正面から構えた。
2発目のシャインフラッシュが、今度は背後の浜辺に向かって炸裂した。
追撃の音が止まった。
悲鳴と怒声が重なり、それからぱたりと静かになった。
俺たちは小高い丘の陰に滑り込んで、ようやく足を止めた。
全員が息を切らしていた。俺は膝に手をついて、肺に空気を押し込んだ。背中の打撲がじくじくと主張し始めている。バルドが腕を押さえているのが見えた。リアンは片手で岩に寄りかかり、胸を上下させている。サークだけが比較的冷静な顔で、来た方向を注視していた。
しばらくして、追撃の音が来ないとわかった。
マーフォークたちは来なかった。陸の深いところまで追ってくるつもりはないらしい。縄張りの意識か、陸上での不利を理解しているのか。理由はともかく、距離は取れた。
「……完全にやられたな」
俺は岩に背中を預けて、空を見上げた。
整理しよう。交渉は失敗した。族長は敵になった。吟遊詩人の誘導は完璧に決まった。俺たちは「族長の娘を殺した仇」という立場を、嘘検知付きの場で確定させられた。
「正面からはもう無理だ」
バルドが腕を押さえたまま言った。感情的な言葉ではなく、ただ事実として。
「そうだな」
否定できなかった。
「でも、おかしい」
リアンが口を開いた。
息はまだ少し乱れていたが、目は冷静だった。こいつはこういうときに頭が動く。
「何が」
「吟遊詩人が『戦争を煽っているか』という質問に『いいえ』と答えたとき、センスライは反応しなかった」
「ああ」
「でも実際には、族長のところに先回りして、歌で情報を広めて、俺たちを罠にはめた。どう見ても、戦争を煽る行動をしている」
俺も気になっていたことだった。
「嘘をついていないのに、行動は矛盾している」
「そう。嘘をついていないのに、嘘をついているのと同じ結果になっている」
リアンが顔を上げた。
「一旦、ギルドに戻りましょう。少し調べたいことがあるわ」
島のギルドに戻り、リアンは受付の資料棚を借りて魔法の文献を引っ張り出した。魔法収集が趣味というだけあって、こういうときの動きが速い。
俺たちは傷の手当てをしながら待った。俺がヒーリングをバルドの腕にかけ、自分の背中の打撲には手が届かないのでサークに頼んだ。
しばらくして、リアンが文献から顔を上げた。
「あった」
その声のトーンが、答えを持っているときのものだった。
「吟遊詩人魔法、レベル4。グリブネス」
聞いたことのない名前だった。
「どういう魔法だ」
「嘘を真実として通す魔法。使用中は、嘘の発言がセンスライに反応しなくなる」
静かな言葉が、ギルドの中に落ちた。
サークが低く息を吐いた。バルドが天井を見上げた。
「……完全に嵌められたな」
俺は自分の声がひどく平坦に聞こえた。
センスライのある場を提案したのも。族長側の者に使わせることで中立に見せたのも。あの場で自分の言葉に嘘検知を受けたのも。全部、グリブネスがあれば意味をなさない。あいつはあの場で、嘘をいくらついても安全だった。俺たちだけが、センスライに縛られていた。
公正な場のふりをした、完全な罠だった。
「整理しよう」
俺はテーブルに手をついた。
「族長は完全に敵になった。再交渉は正面からは無理だ。情報戦では負けた。このままいけば、マーフォークと人間の間で戦争が起きる」
「そうなります」
サークが静かに言った。感情を抑えた、事実としての言葉だった。
俺は頷いた。わかっている。
それから、ふと気づいた。
「ケルプビアードがいない」
誰も何も言わなかった。
俺たちをあの浜辺に案内した彼は、戦闘が始まった瞬間からいなかった。逃げたのではないと思う。族長の怒りは、俺たちだけに向いていたわけじゃないはずだ。仇を連れてきた者として、責任を問われている可能性がある。
「連れてきた責任を問われているかもしれない」
リアンが言った。俺が考えていたことと同じだった。
「拘束されているか、監禁されているか」
最悪の可能性は考えたくなかったが、それも排除できない。
「……助ける」
俺は言った。
バルドが目を細めた。リアンは黙って俺を見た。サークは何も言わなかったが、反対もしなかった。
「ケルプビアードは俺たちを信じて、あの場に連れていってくれた。結果的に俺たちのせいで、奴は危険な立場に置かれた。それだけじゃない」
俺は続けた。
「あいつは族長の内側にいる。再交渉の糸口があるとしたら、ケルプビアードを通すしかない。外から正面で当たっても、もう扉は開かない」
「危険すぎるぞ」
バルドが言った。反対ではなく、確認するような声だった。
「わかってる」
「マーフォークの縄張りに、敵として認定された状態で入るんだぞ」
「ここで止まったら終わる」
バルドは少しの間、俺を見ていた。それから短く息を吐いた。
「……方法は」
「まずケルプビアードがどこにいるかを特定する。接触できるなら接触する。できないなら、救出する。その後、奴を通して族長に再度アプローチする」
「筋道はわかったわ」
リアンが言った。
「実現できるかどうかは別として、他に手がないのも事実ね」
夜になった。
俺はギルドの外に出て、海を見ていた。暗い水面が月明かりを受けて、ゆるく揺れている。
あの族長は、娘を失った親だ。怒りは正当だ。悲しみも本物だ。俺たちを仇と思う気持ちも、間違っていない。
ただ、そこに嘘をつき込んだ者がいる。
俺たちが正直に答えるしかなかった場を作り、俺たちが仇であるという事実を固め、その怒りをどこかへ向けようとしている。目的はまだわからないが、大掛かりな戦争をあおっているのは確かだろう。
いずれにしても、もう一度、敵地に入るしかない。
今度は助けるためにだ。
波が、静かに砂を洗っていた。




