第3話 善行の値段
窓の外に、町の灯りが見えた。
アールストンの夜は静かだった。昼間の賑やかさが嘘みたいに、人の声は遠くなっていて、時折馬の蹄の音が石畳に響くくらいだ。ろうそくの光が窓窓に揺れていて、それなりに風情がある。
俺はベッドの端に腰を下ろして、脇腹を軽く押さえた。まだ鈍く痛む。明日には多少ましになるだろうと思いたい。
サークは部屋の隅で体を丸めていたが、俺が動く気配を感じてか、頭を少し上げた。
「……疲れたな」
独り言のつもりだったが、サークが返した。
「ですが、誰かを助けられました」
俺は少し笑った。
「そうだな」
グルックのあの顔を思い出した。泥だらけで、息を切らして、それでも深々と頭を下げた。助かった、と言っていた。
今日一日で起きたことを考えると、ずいぶん盛りだくさんだった。死んで、神様と話して、狼と組んで、別の世界に放り込まれて、いきなり戦闘した。普通に考えれば滅茶苦茶な一日だ。
でも、不思議と悪い気分じゃなかった。
荷物の上に置いてあった本が目に入った。
『善行ポイントについて』。
表紙をもう一度見た。神様が言っていた「加護」の話がここに書いてあるのだろう、とは思っていた。
開いてみた。
文字が並んでいた。当然、この世界の文字のはずだ。でも読めた。意味が頭に入ってきた。一ページ目を読んで、次のページ、またその次と進んでいく。
止まることなく、すらすらと読めた。
「……読める」
思わず声に出た。
サークが軽く首を傾けた。
「言語の加護があるからだと思います」
「そうだよな」俺は頷いた。「でもやっぱり、実際に体験すると少し驚く」
文字が読めることが、これほど当たり前じゃない感覚になるとは思っていなかった。
俺は続きを読み進めた。
内容は、思ったよりわかりやすかった。
要約すると、こういうことだ。
誰かを助けるとか、困っている人間に手を貸すとか、そういった行いで「善行ポイント」が増える。逆に、人を傷つけたり、理不尽な振る舞いをしたりすると減る。マイナスにもなる。貯まったポイントは、スキルの取得や能力の向上に使える。
俺は本を膝に置いた。
「シンプルだな……いいことすれば強くなれるってことか」
「分かりやすいですけど」サークが少し考えるような間を置いた。「……怖くもありますね」
「減る方が、か」
「はい」
確かに。増える仕組みだけなら気楽でいられる。でもマイナスがあるということは、行動に責任が伴うということだ。強くなりたいからといって、でたらめなことはできない。
神様の作ったシステムにしては、なかなか考えてある、と思った。
本の途中に、ポイントを確認できるページがあった。
触れてみると、数字が浮かんだ。
孝雄
善行ポイント:10.02
「……端数?」
思わず数字を二度見した。10ポイントきっかりじゃない。0.02、余計についている。
サークが横から覗き込むように言った。
「さっきの商人さんを助けた分では?」
「……なるほど」
グルックを助けたことが、こういう形で返ってきたのか。大きな数字じゃない。でも確かに、今日の行動が反映されていた。
少し妙な感覚だった。善いことをしたから数字が増えた、というより、数字が増えたことで今日の行動を改めて確認させられたような気分だ。
「サーク、お前のは見えるか」
「確認してみます」
サークが本に触れた。少し間があって、サークが静かに言った。
「……俺の方が増えてます」
「え」
「0.03、あります」
俺の0.02より多い。俺は苦笑した。
「活躍したからかな」
サークはどう反応していいかわからないようだった。耳がわずかに伏せられて、また戻った。
「……俺が、ですか」
「お前がスリープで三匹を一度に眠らせたおかげで、俺は一匹だけ相手にすれば済んだ。それでも苦戦したけど」
俺は脇腹を軽く押さえた。痛みがまた主張してきた。
「お前の方が貢献度は高い。数字の方が正直だな」
本を読み進めると、ポイントの使い方が書いてあった。
スキルの取得に使える。それぞれのスキルには「ランク」と「レベル」があって、ランクは伸ばせる上限、レベルは今の到達点だ。
俺の初期値が書いてあるページがあった。
孝雄の才能
加護魔法 ランク28
各種知識 ランク16
サークが静かに言った。
「後衛……ですね」
「だな」
俺は短く答えた。前衛が向いていないことは、さっきの戦闘で身をもって証明した。棍棒一発でも脇腹にもらって地べたに膝をついたわけだから、疑いようがない。
「前に出たらすぐ死にそうだしな……」
「……否定はできません」
サークが珍しく正直な返答をした。俺は少し笑った。
加護魔法ランク28というのが何を意味するのか、まだ具体的にはわからない。でも高い数値らしいことは字面から伝わってくる。各種知識のランク16も、使いようによっては役に立つのだろう。
今の俺には、戦うより支える方が向いているということか。
本の該当ページに、スキル取得の手順が書いてあった。
加護魔法のスキルをレベル1にするには、善行ポイントを5消費する。
俺は手を止めた。
今持っているのは10.02だ。5使えば半分以上が飛ぶ。さっき貯まったばかりで、もう半分。
「いきなり半分使うのか……」
声に出ていた。
サークが言った。
「タカオ様なら、またすぐ貯められます」
根拠があるのかないのか、わからない言い方だった。でも不思議と否定する気になれなかった。
「……だな」
俺は本のページに手を当てた。
何かが変わった感じはしなかった。でも数字が変わっていた。
10.02→5.02
そして、別のページに項目が追加されていた。
加護魔法 レベル1
文字を見た瞬間、頭の中に何かが滑り込んできたような感覚があった。知識、というより感覚に近い。まだ使い方はわからない。でも確かに、何かが変わった。
「取れた」
「おめでとうございます」
サークの声は静かだったが、悪くない響きがあった。
「サーク、お前のステータスも確認してみるか」
「わかりました」
サークが本に触れた。少し間があった。俺からは数字は見えない。サークにしか確認できないらしかった。
サークが静かに読み上げた。
「属性魔法、炎、ランク19、レベル2。属性魔法、光、ランク25、レベル3。近接戦闘、ランク9、レベル3。鋭敏感覚、レベル5。気配感知、レベル3」
俺は黙って聞いていた。
やっぱり、という気持ちだった。
群れの中でいらない奴だった、と自分で言っていた。でもこのステータスは、どう見てもそうじゃない。光魔法のランクが25。炎のランクも19ある。近接戦闘のレベルが3で、気配感知と鋭敏感覚まで持っている。
俺の方がよほど戦力として心もとない。
グレイシャを選ばなかったことを後悔する気はまったくなかった。でも、サークを選んだ判断が正しかったことは、改めてはっきりした。
「……やっぱり、全然弱くないじゃないか」
思わず口から出た。
サークが少し黙った。
「俺、役に立ててますか?」
声が少し小さかった。
俺は迷わず答えた。
「今日だけで十分すぎるくらいだ」
少し沈黙が続いた。
本のページをめくる音だけが聞こえた。
「タカオ様」
サークが言った。
「ん?」
サークは俺の方を向いていた。
「……相棒に選んでくださって、ありがとうございます」
俺は少し驚いた。改まった声だった。いつもの、どこか緊張したような口調とも違う。
「どうしたんだ、急に」
サークは本を開いたまま、ページの一箇所を指でそっとなぞった。
「ここに、はっきり書いてあります」
俺は覗き込んだ。
「才能の上限を上げる善行ポイントを貯められるのは、転生者か、その相棒だけ」
サークは一呼吸置いた。
「タカオ様が俺を選んでくれたから……俺は、上限を上げられるようになりました」
声は静かだった。でもわずかに、震えているのがわかった。
「……俺、今までずっと」
言葉が少し詰まった。
「どこにいても、これ以上強くなれないって思ってました」
ほんの少しだけ顔を上げた。
「でも、今は違います」
俺は黙って聞いていた。
胸の中で、何かがゆっくりと落ち着いていく感じがした。
ああ、そうか。
こいつにとっては、「強くなれる」こと自体が、救いなんだ。
強くなりたい、と言っていた。あの時、俺はそれを聞いてロックを思い出した。でもサークにとっては、それはもっと切実な話だったのかもしれない。上限が決まっていて、どれだけ頑張っても届かない天井があって、それを当然のように受け入れてきた。
俺は軽く頭をかいた。
「大げさだな」
でも声は、自分でもわかるくらい柔らかくなっていた。
「これからだろ」
サークを見た。
「強くなるのも、役に立つのも」
サークははっきりと頷いた。
「はい」
その声は、さっきより少しだけ大きかった。
本を閉じた。
今日一日で覚えることが多すぎた。善行ポイント、スキル、才能値、ランクとレベルの違い。まだ全部は飲み込めていないが、おおよその輪郭はつかめた気がする。
ろうそくを吹き消して、ベッドに横になった。
天井を見た。白くない。木の板張りで、節の模様がある。病院の天井とは全然違う。
脇腹の痛みが、じわりと主張してくる。
でも悪くない、と思った。
「……ちゃんとやっていけそうだな」
サークが言った。
「はい」
今度は間を置かなかった。
部屋の隅でサークが丸まる気配がした。俺も目を閉じた。
明日は冒険者ギルドへ行く。
まだ何も始まっていないのかもしれないが、それでも今日より明日の方が、少しだけ先に進んでいる気がした。




