第2話 灰色の背中
空は高かった。
病院の窓から見ていた空よりも、ずっと広い気がした。雲の形がはっきりしていて、風が動くたびにゆっくりと形を変えている。匂いも違う。草と土と、どこか遠くの木の匂いが混ざり合って、肺の奥まで入ってくる感じがした。
俺は街道の上に立っていた。
隣に、サークがいた。
遠くに町が見えた。建物の輪郭が地平線のあたりに浮かんでいる。近いのか遠いのか、この世界の距離感がまだよくわからない。
「……本当に来ちゃったな」
思ったことがそのまま口から出た。
サークがちらりと俺を見た。
「はい」少し間があった。「……これから、よろしくお願いします」
声は真面目だった。真面目すぎるくらい真面目で、どこか緊張しているのが伝わってきた。俺も大概だけど、こいつも大概だな、と思った。
「俺もよろしく頼む」
返すと、サークは小さく頷いた。
それから、二人で黙った。
ぎこちなかった。昨日会ったばかりの相手と、見知らぬ世界の街道を歩いているわけだから、ぎこちなくて当然ではあった。歩みに合わせて草が風に揺れる音だけが続いた。
遠くの町を目指して、俺たちは歩き始めた。
叫び声が聞こえたのは、それからしばらく経った頃だった。
最初は風の音かと思った。でも違った。人間の声だ。しかも一度じゃない。続いている。
視線を向けると、街道の先から人影が走ってくるのが見えた。必死な走り方だった。転びそうになりながら、それでも足を止めずに駆けてくる。中年の男で、背中に大きな荷物を背負っていた。
その後ろに、小さな影が五つ。
緑色だった。
背丈は俺の腰くらいしかない。でも走るのは速かった。短い足をめちゃくちゃに動かして、わめきながら追いかけてきている。手に粗末な棍棒を持っていた。
ゴブリン、というやつだろうと思った。
俺はサークを見た。
「サーク、助けよう」
迷いはなかった。気づいたら言っていた。
サークは一瞬だけ目を細めて、頷いた。
「わかりました」
サークが走り出した。
速かった。俺が一歩踏み出す前に、もう半分以上の距離を詰めていた。そのまま商人とゴブリンの群れの間に割って入るかと思ったが、そうじゃなかった。
ゴブリンの群れの前で、サークが立ち止まった。
低く唸った。
次の瞬間、何かが空気を揺らした。音じゃない。光でもない。でも何かが起きたのははっきりとわかった。ゴブリンの群れのうち、三匹がぐらりと揺れた。一匹が棍棒を落とした。もう一匹が膝をつく。そのまま全員、地面に崩れ落ちて、動かなくなった。
眠っていた。
三匹まとめて、ぐっすりと。
俺は一瞬、呆気に取られた。
でも残り二匹は眠っていなかった。眠った仲間をちらりと見て、それから俺たちに向き直った。目に怒りの色があった。
「タカオ様、右を!」
サークの声で我に返った。
右からゴブリンが来ていた。棍棒を振り上げて、真っすぐに突っ込んでくる。
俺は腰の剣を抜いた。
神様に支給してもらった剣だ。重さはそれほどでもない。でも持ち方がよくわからない。剣なんて握ったことがない。小学校の頃に竹刀を持ったことがあるくらいで、本物の刃物をこういう場面で使うのは生まれて初めてだった。
ゴブリンが踏み込んできた。
振られた棍棒を横に跳んで避けた。避けられた、と思った瞬間、もう次の一撃が来ていた。対応が一手遅れた。棍棒が左腕を掠めた。鈍い痛みが走った。
やばい、と思いながら剣を突き出す。狙いも何もない、ただ押し返そうとしただけだ。ゴブリンは器用にそれを躱して、またこちらに向かってくる。
素人だとすぐにバレた。向こうはちゃんと知っていた。弱い相手をどう料理するか、知っている目をしていた。
一方で、サークの方を見る余裕はほとんどなかった。
ちらりと横目で確認できたのは、サークが残り一匹を相手に必死に立ち回っているということだけだ。体格差はさほどなかったが、サークは正面から押し返そうとせず、細かく動いて牽制を続けていた。技術があるというより、足を止めないことで凌いでいるように見えた。
根性だな、と思った。
自分の方に意識を戻す。
ゴブリンがまた踏み込んできた。今度は下から棍棒が来る。躱せなかった。脇腹に当たった。痛かった。骨が折れた感じはしないが、しばらく息が止まった。
地面に膝をついた。
まずい、と思った瞬間――。
灰色の影が割り込んできた。
サークだった。
いつの間にか自分の相手を追い払って、こちらに駆けつけていた。体当たりをかます勢いでゴブリンに横から突っ込んで、体ごと押し飛ばした。ゴブリンはたたらを踏んで後ずさり、仲間を一瞥してから、踵を返して走り出した。
残り一匹も後を追った。
あっという間に、二匹の姿が草むらの向こうに消えた。
眠っている三匹は、まだ地面の上で仲良く転がっていた。
俺は膝をついたまま、しばらく息を整えた。
「タカオ様、大丈夫ですか!?」
サークが顔の前に来た。目に本気の心配が浮かんでいた。
「……ああ、大丈夫だ」
立ち上がった。脇腹がじんじんと痛かったが、動けないほどじゃない。左腕の擦り傷も、たいしたことはなかった。
「サーク、助かったよ」
俺は言った。本心だった。
サークは少し目を伏せた。照れているのか、それとも別の感情なのか、まだよく読めなかった。
内心、俺は苦笑していた。
こいつ、全然弱くないじゃないか。
三匹を一度に眠らせて、自分の相手を追い払って、こちらに駆けつける。あの速さで判断して動ける。どう考えても俺の方が守られている。
群れの中でいらない奴だった、とサークは言っていた。でも少なくとも今見た限りでは、俺よりよほど戦力になっていた。グレイシャと比べれば見劣りするのかもしれないが、今の俺なんかより明らかに強い。
俺が弱すぎるとも言えるが。
それが正直なところだった。
「あ、ありがとうございます……! 助かりました……!」
商人が戻ってきた。荷物を抱えたまま、息を切らして俺たちの前に立った。丸顔で、腹の出た、人の良さそうな中年の男だった。頬に泥がついていた。
「怪我はないか」
「は、はい……おかげさまで」男は深々と頭を下げた。「グルックと申します。アールストンで行商をやっております。本当に、命拾いをしました」
「孝雄だ。こっちはサーク」
グルックは改めてサークを見て、少し目を丸くした。狼と人間が一緒にいる、というのは珍しい組み合わせなのかもしれない。でも何も言わなかった。商人らしく、余計なことを口にしない分別があるのだろう。
「しかし」グルックは辺りを見回しながら顔を曇らせた。「このあたりでゴブリンが出るのは、おかしいんですよ」
「おかしい?」
「ええ。このあたりは街道も整備されていて、普段は魔物なんかほとんど出ない安全な道のはずで……ここ最近、様子が変なんです。森の奥からじわじわと出てきているというか」
グルックは言葉を探すように少し黙ってから、首を振った。
「何か、おかしなことが起きている気はするんですが、私にはわかりません」
神様が言っていた言葉を思い出した。
この世界、ちょっと歪み始めていてね。
俺は黙って頷いた。
「あちらの町は、初めてですか?」グルックが聞いた。
「ああ」
「でしたら、礼も兼ねてご案内します。アールストンは私もよく知っていますので」
アールストンは、思ったより大きな町だった。
城壁というほどではないが、木と石で組まれた簡素な門があって、衛兵らしき男が二人立っていた。グルックが顔見知りらしく、軽く挨拶して通り抜けた。俺たちも後に続いた。
中に入ると、人が多かった。
市場らしき通りが続いていて、露店が軒を連ねている。食べ物の匂い、皮の匂い、馬の匂い、それから人の声が重なって、なかなかの賑やかさだった。行き交う人たちの格好は様々で、農夫みたいな人間もいれば、鎧を着けた人間もいる。犬を連れた人もいた。
サークが俺の隣でぴったりと歩いていた。周囲に気を配りながら、少し耳を立てている。
「冒険者ギルドはあちらです」グルックが指さした。「町の真ん中あたりに看板が出ていますので、すぐわかります。冒険者として登録するなら、まず寄ったほうがいい」
「宿は?」
「いい宿を知っています。《麦穂亭》というところで、飯もうまいし、清潔です。相場より少し安くしてもらえるよう、私から話を通しておきます」
「助かる」
グルックは照れたように笑って、荷物を担ぎ直した。
「では私はこのへんで。また道でお会いしたら、よろしくお願いします」
人混みの中に消えていった。
俺はサークと並んで、教えてもらった方向へ歩き出した。
《麦穂亭》は、言われた通り悪くない宿だった。
グルックの口添えが効いたのか、部屋代も食事代もそれほど高くなかった。二階の角部屋に通されて、窓から町の通りが見えた。サークは部屋の隅に落ち着いて、丸まった。
俺はベッドに腰かけて、一息ついた。
脇腹の痛みはまだ残っていた。骨は大丈夫そうだったが、あざになっているだろう。
「サーク」
「はい」
「さっきのあれ、なんていう魔法だ」
サークは少し頭を上げた。
「スリープといいます。対象を眠らせる魔法です」
「一度に三匹眠らせたな」
「……範囲に入った相手を、まとめて眠らせることができます。ただ」サークは少し言いよどんだ。「一レベルの魔法なので、効くのは弱い相手だけです。強い魔物や、人間の冒険者には通じないと思います」
「なるほど」
万能じゃない、ということか。でも今日みたいな場面では十分すぎるほど役に立った。それを素直に伝えた。
「サーク、強かったな」
サークは少し黙った。
「……俺は、タカオ様を守ります」
真剣な声だった。冗談を言っているわけじゃないのがわかった。
俺は苦笑した。
「守るつもりだったんだけどな、こっちが」
「……すみません」
「謝るなよ」俺は笑った。「助かったのは本当だ。ありがとう」
サークはまた少し黙って、それから小さく鼻を鳴らした。
「そういえば」サークが言った。「タカオ様、荷物の確認はしましたか?」
「してないな」
「加護について、確認できるものが入っているかもしれません」
言われて思い出した。転移してきた時から、背中に荷物があった。戦闘やら何やらでそのままにしていた。
荷物を下ろして広げた。
中に入っていたのは、着替え一式、簡素な革の小手と胴当て、さっきも使った剣、それから小さな革袋だった。革袋の中に金貨と銀貨が入っていた。数えてみると、百ゴールドだった。
それから、本が一冊あった。
表紙に文字が書いてあった。
読めた。
一瞬、おかしいと思った。この世界の言葉を俺は知らないはずだ。でも読めた。意味も理解できた。
「……言語の加護か」
「そうだと思います」サークが言った。「話せているのも、きっとそのおかげです」
なるほど、と思った。確かに転移してからずっと日本語で話していた気になっていたが、グルックとも普通に会話できていた。気にもしていなかったが、そういうことだったのか。
表紙の文字を見た。
『善行ポイントについて』
「……読むか」
俺は本を開いた。




