第1話 灰色の相棒
天井が白かった。
その白さが、もう戻れない場所の色に見えた。
病院というのはどこに行っても白い。壁も、シーツも、カーテンも。まるで最初から「終わり」のための色に統一されているみたいだ。もっとも、そんなことを考えられる程度には、まだ俺の頭は動いていたわけだけど。
視界がぼやけていた。輪郭がじわじわと溶けて、白い天井と白い壁の境目がわからなくなっていく。音も遠かった。どこかでモニターが鳴っているはずなのに、まるで水の底から聞こえてくるみたいに、くぐもっていた。
手に、温かいものを感じた。
母さんの手だとわかった。形でわかった。節くれだっていて、少しだけ震えていて、それでも強く、離すまいとするように握っている。子供の頃からずっとそうだった。何かあるたびに、この手に引っ張ってもらってきた気がする。
視線だけを動かすと、弟の顔が見えた。
啓介の奴、泣くのを我慢してやがる。目が赤い。口をきつく結んで、顎のあたりがかすかに震えている。あいつがああいう顔をするのは珍しかった。大学を出てから、大企業に入って、何でもそつなくこなすようになったあいつが。
俺は、かすかに笑った。
「……そんな顔すんなって」
声はほとんど出なかった。唇が動いただけかもしれない。でも啓介には伝わったらしくて、あいつは一度、ぐっと目を閉じた。
そのとき、意識がふっと揺れた。
檻の中に、一匹の犬がいた。
小さな、薄汚れた、痩せ細った犬だった。肋骨が浮いて見えるくらい細くて、毛並みもぱさぱさしていて、到底「かわいい」という言葉が似合う見た目じゃなかった。尻尾も振らない。ただ、黙って、じっとこちらを見ていた。
逃げもせず、吠えもせず、ただ見つめてくる。
係員の男が、事務的な声で言った。
「この子は、明日で――」
俺は聞き終わる前に言っていた。
「……この子、連れて帰る」
横で親父が困ったような顔をした。困ったような、でも無下にもできないような、そういう顔だ。親父はいつもそういう顔をしてから、最後には折れてくれる人間だった。
意識が現在に引き戻された。
天井が白い。モニターの音が遠い。母さんの手が温かい。
「ロック……」
呟いていた。自分でも気づかないうちに。
あいつはどうだったんだろう、と思う。俺と一緒にいた十数年間、ちゃんと幸せだったんだろうか。最後の最後まで、俺を待っていた。嫌なことも全部覚えていても、ちゃんと待っていた。
それでも口元が少しだけ緩んだ。
まあ……楽しそうではあったか。
近所を一緒に走り回った。川でびしょ濡れになった。叱っても懲りずにまた同じことをした。名前を呼ぶと必ず振り返った。不格好で、必死で、全速力で駆け寄ってきた。
母さんの声が遠くなる。
啓介の声も、聞こえなくなる。
最後に残ったのは、暖かい日差しの中を走るロックの姿だった。
白かった。
今度は病院の白じゃない。もっと、概念みたいな白さだった。上も下も前も後ろも、どこを向いても同じ均一な明るさで、足元に地面があるのか、俺がただ浮かんでいるのかも判然としなかった。
「やあ」
声がした。
振り返ると、男がいた。歳のころは……よくわからない。若くも見えるし、年寄りにも見える。服装はごく普通の、どこにでもいそうな感じで、特に印象に残らないタイプの顔をしていた。ただ、目だけは妙に深かった。
「驚かないんだね」
「驚く元気もないんだ」
男は少し笑った。
「正直だ。そういうところ、好きだよ」
俺は周囲を見回した。白い空間。音はない。体の痛みもない。あの、詰め込まれたような胸の苦しさも。
「死んだのか、俺は」
「うん」
「そうか」
あっさりしすぎかとは思ったが、これ以上どんな反応をすればいいのかもわからなかった。
「君は優しい人間だった」と男は言った。「お父さんが亡くなってから、大学にも行かず、ずっと家計を支えてきた。誰かのために動くことを、当然のようにやってきた」
「別に、そんな大したことじゃない」
「本当にそう思ってるから、余計すごいんだよ」
男は少しだけ真顔になった。
「もう一度、生きてみないか」
俺は男を見た。
「理由を聞いてもいいか」
「君みたいな人が、必要なんだ」と男は言った。「別の世界の話になるけど……その世界が、少し歪み始めていてね。何か、大きなことが起きる前に、動ける人間がいてほしい」
「買いかぶりすぎじゃないか」
「かもしれない」男は笑った。「それでも、声をかけたいと思った。それだけだよ」
詳しい説明は少なかった。
冒険者として生きてほしい、と男は言った。相棒が一体つく。それから、加護も与える。詳しいことは現地に行けばわかる、とのことだった。
「それだけか」
「だいたいね。後は君次第だ」
「ずいぶん大雑把だな」
「細かく説明するより、自分で体験したほうが早い」男は肩をすくめた。「どうする?」
俺は少し考えた。もっとも、考えたところで、断って元の場所に戻れるわけじゃない。白い空間で永遠に立っているわけにもいかない。
「……わかった」
空間が変わった。
景色と呼べるものが現れた。どこかの草原のような、薄い光の満ちた場所。足元に草の感触があって、風らしきものが頬をかすめた。
「相棒を選んでもらう」と男が言った。「一頭だ」
「犬はいないのか」
「残念ながら」
俺は少し黙った。そうか、と思った。ロックのことを少し思い出した。
「この世界では、狼になる」
前方に、二つの影が現れた。
一頭は、鮮やかな銀色をしていた。
名前はグレイシャと言った。
大きかった。引き締まった体つきで、毛並みはつやつやと光を受けていた。立ち姿が違う。一目見ただけで、この個体は別格だとわかる、そういう静かな迫力があった。
銀色の狼がゆっくりと一歩前に出た。
地面を軽く蹴った、と思った次の瞬間、距離がほぼ消えていた。音もなく、予備動作もなく、ただそこにいたかと思えばもう目の前に立っていた。
空気が張り詰めた。
冷たい目が俺を見ていた。
「あなた、本当に使えるの?」
声は低く、冷静で、感情の温度を感じさせなかった。ぞんざいではなかった。ただ、ひたすら合理的だった。自分には相応しい相手としか組まない、という確固たる意志を持った目だった。
少し遅れて、もう一頭が前に出た。
名前はサークと言った。
灰色だった。銀色と比べると、一回り小さかった。毛並みも地味で、体格も特に際立ったところがない。銀色の狼が横にいると、余計に目立たなかった。
グレイシャがちらりと視線を向けた。それだけで、灰色の狼は一歩後ずさった。
だが、下がったのはそこまでだった。
踏みとどまって、前に出てきた。足がわずかに震えているのがわかった。それでも、まっすぐに俺を見た。
「俺を、選んでください」
声が少し掠れていた。
「どんなことでも、やります」
間があった。沈黙が広がった。
灰色の狼は少し目を伏せて、それから絞り出すように言った。
「俺……群れの中では、いらない奴でした」
風が吹いた。
「でも……一度でいい、誰かの役に立ちたいんです」
神様の男は何も言わなかった。
ただ少し離れたところで腕を組んで、見ていた。
俺は二頭を交互に見た。
銀色の狼。強い。自信がある。合理的だ。一緒にいれば心強いだろうと、そういうことは一目でわかる。
灰色の狼。小さい。頼りない。隣の個体に目を向けられただけで後ずさった。
俺は少し迷った。
「強くなりたいのか」
灰色の狼に聞いた。
サークは少し間を置いた。
「……はい」
小さく、だがはっきりと言った。
「強くなりたいです」
その言葉を聞いた瞬間、何かが胸の奥でかすかに動いた。
脳裏に浮かんだのは、保健所の檻の中だった。あの、痩せ細った犬の目だ。逃げもせず、吠えもせず、ただじっとこちらを見ていた。「このままだと処分される」という言葉を聞いたとき、胸の中で何かがざわついた。親父に頭を下げて頼み込んだ。
全部を救えるなんて思っていない。
そんなのは傲慢だとわかっている。
でも――。
目の前にいるやつくらいは、見捨てたくなかった。
俺はサークを見た。姿は全然違う。犬じゃなくて狼だし、色だって違う。でも、その目は。
同じだった。
あの時と同じ、縋るような目だった。
俺は小さく息を吐いた。
「……似てるんだよ」
サークが戸惑ったように俺を見た。
「昔、犬を飼ってた」
俺はゆっくりと言った。
「そいつも、どうしようもない状況でさ。放っておけなかった」
一歩、前に出た。
「俺はさ、別に立派な人間じゃない。大したことを成し遂げたわけでも、誰かを助けてきたわけでもない」
俺はまっすぐにサークを見た。
「でも――目の前で困ってるやつを見過ごせるほど、器用でもない」
間を置いた。
「だから、お前を置いていかない」
サークが小さく息をのんだ。
「俺と来るか、サーク」
サークは信じられないというふうに俺を見た。
その体が、ごくかすかに震えていた。
「……本当に、俺を?」
「ああ」
少し離れたところで、グレイシャが一瞬だけ目を見開いた。すぐに元の表情に戻って、興味を失ったように視線を外した。
「……まあいいわ」
踵を返しながら言った。
「もっといい相手を探すから」
歩き去る直前に、肩越しに一言だけ投げてきた。
「その選択、後悔しないことね」
声に嫌味はなかった。事実として言っているような、そういう口調だった。その背中が白い光の中に溶けていった。
光に包まれた。
目が眩んで、足元の感覚がなくなって、それから――。
風の音がした。
草の匂いがした。
目を開けると、空があった。病院の天井じゃない、本物の、広い空だ。雲が流れていた。遠くに、山の稜線が見えた。さらに遠く、町らしき建物の輪郭が地平線に浮かんでいた。
俺は街道の上に立っていた。土を踏みしめた道で、轍の跡がついていた。
隣に、灰色の狼がいた。
サークは少し戸惑ったように辺りを見回してから、俺の顔を見た。
「……本当に、俺でよかったのですか?」
俺はサークを見た。
「ああ、勿論だ」
サークは少し黙って、それから小さく鼻を鳴らした。返事の代わりなのか、それとも別の意味があるのか、まだよくわからなかった。
俺はもう一度、遠くの町を見た。
どんな場所なのか。どんな人間がいるのか。何が待っているのか。何も知らない。でも歩けば近づくだろうし、近づけばわかるだろう。
さて、と思った。
始めるか。
そのとき、風に乗って声が聞こえた。
遠い。でも確かに聞こえた。
人間の声だった。
悲鳴だった。




