第七話 夏祭りと、初めての浴衣
夏休みに入って数日が過ぎた頃、商店街に「夏祭り」の提灯が飾られ始めた。アーケードの天井に赤や黄色の提灯が連なり、夕方になると柔らかな明かりが商店街全体を包み込む。その光景を見るたびに、俺はもうすぐ夏が本格化するのだと実感していた。
「食事処ささおか」も毎年この祭りに屋台を出している。今年は父さんがたこ焼き、母さんが冷やしあめを担当することになっていた。
「陽翔、今年も手伝ってね」
「分かってる」
朝の支度をしながら母さんに念を押され、俺は頷いた。祭りの日は毎年、家族総出で店を切り盛りするのが恒例になっている。忙しさと引き換えに、この日だけは店の売上が跳ね上がるのだと、母さんはいつも張り切って話していた。
☆
その日の午後、商店街の喫茶店で、二人で課題を片付けていたとき、その話を何気なく玲華にしたところ、彼女は意外なほど食い入るように聞いてきた。教科書を閉じる手を止め、こちらに体ごと向き直るくらいの熱心さだった。
「夏祭り、というのは、どのようなものですか」
「普通の夏祭りですよ。屋台が出て、盆踊りがあって、最後に花火が上がる」
「行ったことは、ありますか」
「毎年行ってますけど」
「私は、一度もありません」
あっさりと告げられて俺は少し驚いた。財閥の令嬢という立場を考えれば、そういうものかもしれないと頭では分かっていても、実際に本人の口から聞くと、やはり毎回新鮮な驚きがあった。
「一度も?」
「花火は、自宅の庭からでも見えます。ですが、屋台を回ったり、人混みの中を歩いたりした経験はありません」
自宅の庭から花火が見える、という一言だけで、俺はその屋敷の規模を想像して少し眩暈がした。
その言葉に俺はすぐに提案した。
「じゃあ、今年、来ますか」
「……いいのですか」
「うちの店も出るし、案内できますよ」
玲華は少し考える顔をしたあと小さく頷いた。
「……行きたいです」
その返事はいつもの生徒会長らしい理由づけを挟まない、素直なものだった。「生徒会長として必要な視察」でも「一般生徒の生活実態の把握」でもない、ただの本音。それがどれだけ珍しいことか、俺にはもう分かるようになっていた。
祭りの数日前、この話を聞いた結衣と美桜がなぜか妙に張り切り始めた。
「浴衣、絶対必要でしょ」
「そうだね。玲華、持ってないだろうし」
結衣と美桜は勝手に話をまとめ、玲華に浴衣を用意することを決めてしまった。二人だけの相談で、色から柄まですべて決められていくのを、俺はただ横で見ていることしかできなかった。玲華は最初こそ「そこまでしていただく必要は」と遠慮していたが……
「服装は、機能性を優先すべきでは?」
「玲華、夏祭りに機能性持ち込まないで」
美桜が苦笑する。
「では、浴衣の選定基準は何ですか?」
「かわいいかどうか」
今度は結衣が即答した。
「……それだけですか?」
「それだけ」
玲華はしばらく二人の顔を見比べていた。どうやら彼女の中には「かわいいだけで選ぶ」という発想そのものがなかったらしい。
結局、二人の勢いに押される形で、最終的には了承していた。
「玲華、遠慮するだけ無駄だから。あたしたち、こういうの一度決めたら止まらないの」
結衣がそう言い切ったとき、玲華は諦めたような、それでいてどこか嬉しそうな顔をしていた。
☆
祭り当日。
俺は先に商店街へ行き店の準備を手伝っていた。父さんはたこ焼きの鉄板を温め母さんは冷やしあめの氷を用意している。忙しく動き回っているうちにあたりはすっかり祭りの雰囲気に染まっていた。提灯の明かりが灯り始め、遠くから太鼓の練習の音が聞こえてくる。
「陽翔、ちょっと店番代わって。私、様子見てくるから」
母さんに言われて店先に立っていると少し離れた場所から結衣の声が聞こえた。
「お兄ちゃん、こっちー!」
振り返った瞬間俺は言葉を失った。
浴衣姿の玲華が結衣と美桜に挟まれて立っていた。淡い紺地に朝顔の柄が入った浴衣はいつもの制服姿とはまるで違う雰囲気を纏わせていた。長い黒髪は緩く結い上げられ、うなじがのぞいている。祭りの明かりに照らされたその姿は、学園で見る生徒会長とはまるで別人のようで、俺は一瞬、目の前の人物が本当に玲華なのか疑ってしまったほどだった。
「……どう、ですか」
玲華は珍しく落ち着かない様子で俺の反応を窺うように尋ねた。両手を浴衣の帯の前で軽く重ね、視線がわずかに泳いでいる。
「似合ってます、すごく」
考える前にそのまま言葉が出た。
玲華の頬がわずかに赤く染まる。
「そう、ですか。ありがとうございます」
「結衣たちも、いい仕事したね」
「でしょ。あたしの見立て、完璧だったから」
結衣が得意げに胸を張った。美桜も満足そうな顔をしている。
「じゃ、私たちはこの辺で。あとは二人で楽しんできて」
美桜がそう言って結衣を連れて去っていく。気を利かせたつもりらしい。結衣が去り際に「頑張ってねー」とわざとらしく手を振ってきたのが、地味に恥ずかしかった。
残された俺たちは、少し気まずい空気の中祭りの通りへ歩き出した。屋台の煙と匂いが入り混じり、太鼓の音と人々の笑い声が耳に心地よく響いていた。
射的の屋台に差し掛かったところで玲華が足を止めた。
「これは、どういう遊びでしょうか」
「コルクの銃で的を落として、当たったら景品がもらえるやつです」
玲華は興味深そうに屋台を見つめると迷わず参加を申し込んだ。店主から銃を受け取り狙いを定める姿はどこか弓道の構えに通じるものがあった。背筋が伸び、呼吸を整える所作にまで、日頃の鍛錬が滲んでいた。
パン、と軽い音が響き狙った景品が見事に落ちる。
「当たりました」
「すごいですね」
二回目、三回目と玲華は次々と的を撃ち落としていった。
「お嬢ちゃん、もうその辺で勘弁してくれない?」
「まだ弾が残っていますが」
「ルール上はそうなんだけどね……」
「では、続行します」
「鷹司さん、店主さんの顔見てください」
店主が困った顔をするほどの成功率だった。周囲で見ていた小さな子供たちが「すごい、すごい」と目を輝かせて拍手を送っている。
「お客さん、上手すぎるよ……」
「弓道をやっているので」
「なるほど、それは強い」
店主は苦笑しながらも景品を渡してくれた。玲華は嬉しそうに、それでも冷静に景品の缶バッジを鞄にしまう。景品を選ぶときの真剣な顔つきは、まるで生徒会の議題を吟味しているときのようだった。
その後、俺たちは金魚すくいや輪投げを回った。玲華はどれも真剣に取り組み、時に成功し、時に悔しそうな顔をした。学園では決して見せない年相応の表情だった。金魚すくいのポイが破れた瞬間、玲華が本気で悔しがる姿は、俺にとってちょっとした発見だった。この人にもこんな顔があるのか、と思うたびに、胸の奥が温かくなった。
「もう一回、挑戦します」
「もう四回目ですけど」
「次こそは、必ず。攻略法は理解しました」
「三回目も同じこと言ってましたよ」
「今回は検証結果があります」
「夏祭りを研究発表にしないでください」
その執念には、店主のほうが根負けしそうになっていた。
通りの端に髪飾りを売る小さな屋台があった。玲華がちらりと視線を向けたのを俺は見逃さなかった。
簡素な紐と小さな朝顔の飾りがついた五百円ほどの安いものだった。玲華の家柄からすれば買おうと思えば何十個でも買える程度の値段だろう。
だが玲華は財布を出さなかった。ただじっとそれを見つめていた。視線を向けては、慌てて目を逸らす、その動作を三度ほど繰り返していた。
「ちょっと、待っててください」
俺は少し離れた射的の屋台に戻り、財力ではなく根性で挑むことにした。何度も失敗し店主に呆れられながらも、最終的にその髪飾りと似たデザインの景品を手に入れる。財布の中身を気にしながらの挑戦だったが、あの表情を見た以上、後には引けなかった。
「はい、これ」
髪飾りを差し出すと玲華は驚いた顔で受け取った。
「これは……」
「気になってたでしょう」
「……見ていた、とは、言っていません」
「そういう反応、隠れてないですよ」
玲華は言葉を失ったように髪飾りを見つめていた。それからゆっくりと顔を上げる。祭りの明かりに照らされたその瞳には、これまで見たことのない、素直な喜びが浮かんでいた。
「……鷹司家の財力を使えば、こういうものは何でも手に入ります。ですが」
「ですが?」
「これは、初めて、誰かに選んでもらった贈り物です」
その声には値段では測れない喜びが滲んでいた。
人混みが増えてきた頃、俺たちは屋台を離れ花火が見える場所を探して歩いた。祭りの熱気に押されるように狭い通りで人々がひしめき合っている。
ふいに後ろから人波に押され俺と玲華の距離が引き離されそうになった。
「鷹司さん――」
声をかけようとした瞬間玲華の手が俺の袖を握った。
「……はぐれたくありません」
小さな声だったがはっきりと聞こえた。
俺はその手をそっと自分の手で握り返した。
「もう離しません」
玲華は何も言わなかったが握った手に力を込めた。
人混みを抜け河原に近い開けた場所に着いたとき最初の花火が夜空に咲いた。
どん、と重い音が響き玲華が小さく息を呑む。夜空を彩る光の粒が、水面にも反射して二重に揺れていた。
「綺麗……」
その横顔は花火の光に照らされていつもよりずっと柔らかく見えた。うっすらと開いた唇や、光を映す瞳の輝きに、俺はしばらく見入ってしまっていた。
俺たちはしばらく無言で夜空を見上げていた。手はまだ繋がったままだった。
「笹岡くん」
「はい」
「今日は、ありがとうございます」
「まだ帰るには早いですよ」
「そうではなく」
玲華は花火に視線を向けたまま穏やかに続けた。
「私に、こんな時間があることを、教えてくれて」
その言葉には今日一日だけでなくこれまでの全部への感謝が込められているように感じられた。
俺は何か言おうとしたがうまく言葉にならなかった。夜空に咲く光と、隣にいる玲華の横顔と、繋いだ手の温かさ。全部が一度に胸に押し寄せてきて、言葉がまとまらなかった。
結局、花火が終わるまで俺たちは、ただ手を繋いで夜空を見上げ続けた。
告白の言葉は、まだどちらの口からも出なかった。




