第八話 鷹司家から来た迎え
祭りの翌日の朝、店の仕込みを手伝うために家を出た俺の前に、見慣れない黒塗りの車が停まっていた。艶やかな車体が朝日を反射し、周囲の景色から明らかに浮いていた。運転席から降りてきたのは隙のないスーツを着た初老の男性だった。
「笹岡陽翔様でいらっしゃいますか」
「……はい」
「鷹司家の秘書を務めております、宮村と申します。少々、お時間よろしいでしょうか」
嫌な予感がした。喉の奥が急に渇くような、そんな感覚だった。
宮村と名乗るその男性は丁寧な口調のまま、しかし有無を言わさぬ圧を纏っていた。物腰は柔らかいのに、その言葉の一つ一つには反論を許さない重みがあった。
「昨晩、玲華お嬢様が商店街の祭りに参加されていたことは、すでに旦那様の耳に入っております」
「……そうですか」
「お嬢様が、無断で庶民的な場所へ出入りされていること自体も、以前から把握しておりました。今回は、あくまでその確認のためにお伺いした次第です」
宮村の言葉には責めるような色はなかった。ただ事務的に事実だけを告げているような口調だった。その淡々とした話し方が、かえって背筋を冷たくさせた。
「笹岡様には、何の落ち度もございません。ただ、これ以上、お嬢様の行動範囲が広がることは、旦那様としては望ましくないとお考えのようです」
それだけ言うと宮村は一礼して車に戻っていった。エンジン音が遠ざかっていくのを、俺はただ立ち尽くしたまま聞いていた。
俺はしばらくその場から動けなかった。商店街を行き交う人たちの声が、やけに遠く聞こえた。
それから数日、玲華とはほとんど連絡が取れなくなった。
メッセージを送っても返事はなく、商店街に姿を見せることもない。
あれほど楽しみにしていたはずの「普通の時間」は、夏休みの途中で突然途切れてしまった。
商店街を歩けば、祭りの日に玲華が夢中になっていた屋台が目に入る。
あの夜までは、次は何を教えようかと考えるのが当たり前になっていた。
それなのに今は、その「次」が来るのかどうかさえ分からなかった。
☆
夏休みが終わり、二学期が始まった。
学校に着くと玲華はいつも通りの姿で登校していた。
夏休みの間、何度も会いたいと思った顔が、廊下の向こうにあった。
それだけで胸が軽くなるような気がしたのに、玲華の顔を見た瞬間、その気持ちはすぐに消えた。
廊下ですれ違ったとき、彼女の表情にわずかな翳りが見えた。目の奥に、隠しきれない疲労のようなものが滲んでいた。
「鷹司さん」
声をかけると、玲華は一瞬だけ足を止めたが周囲の目を気にするように早口で答えた。周りにいる生徒たちの視線を意識してか、その声はいつもより固かった。
「今は、話せません。放課後に」
それだけ言うと玲華は足早に去っていった。廊下の角を曲がる背中を見送りながら、俺は何とも言えない焦燥感に襲われていた。
放課後、俺は昇降口で玲華を待った。だがいつもの時間になっても彼女は現れない。何度も昇降口の時計を確認し、そのたびに落ち着かない気持ちが募っていった。しばらくして代わりに美桜がやってきた。表情がいつもより硬い。
「玲華、今日はもう帰ったよ」
「え?」
「お父さんから連絡があったみたい。すぐ帰宅するようにって」
美桜の表情はいつもの明るさが影を潜めていた。
「笹岡くん、聞いてる? 玲華、放課後の外出、禁止されたって」
「……知りませんでした」
「スマホも、行動予定も、全部厳しく管理されることになったみたい。祭りのこと、旦那様にバレたって」
その話を聞いて俺の中で何かが重くのしかかった。胃の底が冷えていくような感覚だった。
美桜は少し言い淀んだあと続けた。
「玲華の家、そういうところあるから。本人がどう思っていても、当主が決めたことには逆らえない」
「……そうなんですか」
「うん。玲華自身も、それをよく分かってる。だから、たぶん、無理に会おうとしないと思う」
美桜はそう言い残すと俺の返事を待たずに去っていった。夕暮れの昇降口に一人残された俺は、しばらく動くことができなかった。
翌日から玲華の様子は明らかに変わった。
学園での立ち振る舞いは以前と変わらず完璧だった。授業でも生徒会活動でもいつも通りの堂々とした姿を見せている。誰が見ても、以前と何一つ変わらない優等生の姿だった。だが放課後になると玲華はすぐに迎えの車に乗り込み俺と言葉を交わす時間もなく去っていくようになった。昇降口を出た瞬間には既に車が待っていて、玲華はそこに吸い込まれるように乗り込んでいく。その光景を、俺はただ遠くから見送ることしかできなかった。
☆
一週間ほど経ったある日、俺は思い切って生徒会室の前で玲華を待ち伏せることにした。放課後の校舎は静かで、生徒会室の扉の向こうから微かに紙をめくる音だけが聞こえてくる。
書類を抱えて出てきた玲華は俺の姿を見て驚いたように立ち止まった。
「笹岡くん……」
「少しだけ、いいですか」
玲華は周囲を確認したあと小さく頷いた。人気のない廊下の隅で俺たちは向かい合った。窓の外に夕日が差し込み、二人の影が長く伸びていた。
「外出、禁止されたって聞きました」
「……はい」
「スマホも、管理されてるって」
「……そうです」
玲華は視線を落としたまま淡々と答えた。感情を押し殺すような、抑揚のない声だった。
「私には、財閥を継ぐ責任があります。父の判断に従うのも、その責任の一部です」
「でも」
「自由ばかりを望むわけには、いきません」
その言葉はまるで自分に言い聞かせているようだった。玲華自身も、その言葉を完全には信じきれていないような、そんな響きがあった。
俺は何と返せばいいのか分からなかった。玲華の立場を俺は本当の意味では理解できていない。鷹司グループを継ぐということがどれほどの重みを持つのか想像すらできなかった。ただ、目の前の玲華が、何かに耐えているのだけは分かった。
「……俺のせいですよね、こうなったの」
「笹岡くんのせいでは――」
「祭りに誘ったのも、庶民体験を提案したのも、俺です」
玲華は何か言い返そうとしたが言葉が出てこないようだった。俯いた視線が、廊下の床の一点に固定されている。
その沈黙が俺には答えのように感じられた。
「……もう、無理しなくていいです」
気づけばそう口にしていた。
「俺と会うために、鷹司さんが家族と揉めたり、立場を危うくしたりするのは、違うと思うんです」
「笹岡くん、それは」
「今まで、色々教えてくれてありがとうございました。楽しかったです」
自分でもその言葉がどれほど身勝手なものか分かっていた。玲華の意思を確認することもせず勝手に「もう無理しなくていい」と結論づけている。言葉にした瞬間、これは正しさではなく逃げだと、心のどこかで気づいていた。それでも止められなかった。
だがこのときの俺にはそれが玲華を守るための精一杯の選択に思えていた。
玲華はしばらく黙って俺を見つめていた。その目には明らかな戸惑いと何か別の感情が浮かんでいた。瞳の奥で、何かが揺れているのが見えた。
「……それは」
「はい」
「もう、会わない方がいいという意味、ですか」
玲華の声がわずかに震えていた。
俺はすぐに否定できなかった。自分でもはっきりとした答えを持っていなかったからだ。喉元まで出かかった言葉が、うまく形にならなかった。
その沈黙を玲華は肯定と受け取ったらしい。
「……分かりました」
短くそう言うと玲華は一礼して足早に去っていった。廊下の向こうへ消えていく背中を、俺はただ見送ることしかできなかった。
残された俺は廊下の隅で立ち尽くしたまま、自分の言葉を後悔し始めていた。夕日が差し込む廊下に、俺一人の影だけが取り残されていた。
玲華を傷つけたくなかったはずなのに、結果として一番傷つけるような言葉を選んでしまった気がした。
その日を境に、俺たちの間にはこれまでになかった距離が生まれた。
教室ですれ違っても玲華は目を合わせようとしない。以前なら一瞬だけでも視線が絡んでいたはずなのに、今は完全に避けられている。生徒会の仕事に以前よりも没頭しているようにも見えた。放課後になると誰よりも早く教室を出て行き、誰よりも遅くまで生徒会室にこもっている。そんな噂も耳に入ってきた。
俺は何度も声をかけようとしたが、そのたびに言葉を飲み込んだ。廊下でその姿を見かけるたびに足が止まり、しかし結局は何も言えないまま通り過ぎることを繰り返していた。
自分が壊してしまった何かをどう修復すればいいのかまるで分からなかった。教室の窓から見える空は、祭りの夜に見た花火の輝きが嘘だったかのように、ただ淡く色褪せて見えた。




