第五話 完璧な彼女の、疲れた横顔
ある日の放課後、駅へ向かう途中で、俺はふと思い出して尋ねた。
「そういえば、お祖父さんはその後どうですか?」
「祖父は先日、無事に退院しました。まだ無理はできませんが、本人はもう仕事に戻るつもりでいるようです」
「元気そうですね」
「ええ。少し元気すぎるくらいです」
玲華と過ごす放課後は少しずつ日常になりつつあった。
とはいえ玲華の本業は生徒会長であり学年首席であり、弓道部の選手であり鷹司家の後継者だ。放課後に俺と過ごす時間は、あくまでその隙間に無理やり作られたものだということを俺は忘れかけていた。まるでこれが当たり前に続いていく日常であるかのように、勝手に錯覚し始めていたのだと思う。
異変に気づいたのは五時間目の授業中だった。
窓際の席に座る玲華が教科書に視線を落としたまま、ほんの一瞬だけ瞼を閉じた。すぐに姿勢を正して何事もなかったように授業を聞いていたが、隣の席の俺にはその一瞬がやけにはっきりと見えた。日差しが窓から斜めに差し込み、玲華の横顔に影を落としていた。普段なら見逃していたであろう小さな綻びが、なぜかその日はやけに目についた。
昼休みも玲華は購買のパンを一口かじっただけで、あとは生徒会の書類に目を通していた。ページをめくる指先には、いつもの丁寧さがまだ残っていたが、心なしか動きが硬い気がした。
「鷹司さん、それだけしか食べないんですか」
「時間が惜しいので」
軽い口調でそう答える玲華に、俺はそれ以上何も言えなかった。教室の喧騒の中、彼女の周りだけが張り詰めているように見えた。
放課後、コンビニに寄ろうと約束していた俺たちは、いつも通り駅へ向かって歩いていた。西日が長く伸び、二人の影を地面に長く映していた。だが改札を抜けたところで玲華の足取りが急に乱れた。
「鷹司さん?」
「大丈夫です。……少し休めば、治ります」
強がる玲華の額には、うっすらと汗が浮かんでいた。俺は玲華を近くのベンチに座らせる。改札前の人混みが、二人の周りをすり抜けていく。誰も気に留めない、けれど俺にとっては見過ごせない光景だった。
「お昼、あのあと何か食べました?」
「……いいえ」
「その前は」
「……朝食は、時間がなくて」
言い訳めいた沈黙のあと、玲華は観念したように目を伏せた。俯いた拍子に、長い黒髪が一房、頬にかかった。
「ここ数日、生徒会の議案と、弓道部の合宿準備と、家庭教師の課題が重なっていて」
「寝てます?」
「……三時間ほどは」
三時間。それを毎日続けていれば誰だって倒れる。
俺はもう駅で電車を待つ気にはなれなかった。
「うち、来てください」
「え?」
「休んでから帰った方がいいです。今の状態で電車乗せられません」
玲華は何か言い返そうとしたが、体を起こそうとした瞬間にまた目眩を起こしたらしく、そのまま黙り込んだ。俺は彼女の鞄を持ち支えながら定食屋まで歩いた。普段は五分もかからない道のりが、その日はやけに長く感じられた。
暖簾をくぐると母さんがすぐに異変に気づいた。
「あら、どうしたの、その子」
「ちょっと疲れが溜まってるみたいで。休ませてもいい?」
「もちろん。奥の座敷、空いてるから」
母さんは事情を深く聞かずすぐに座布団と座椅子を用意してくれた。玲華はそこに座らされると、ようやく肩の力を抜いたように見えた。座布団に体を預けた瞬間、抑えていた疲労が一気に表に出たような、そんな脱力が見て取れた。
「……申し訳ありません。ご迷惑を」
「迷惑だなんて思ってないですよ。ゆっくりしてって」
母さんはそう言うと厨房へ引っ込んでいった。しばらくして湯気の立つ雑炊が運ばれてくる。器から立ちのぼる湯気が、座敷の薄暗さの中でゆっくりと揺れていた。
「胃に優しいものがいいでしょ。よかったら」
玲華は器を受け取り恐縮したように頭を下げたあと、匙を手に取った。一口食べた瞬間彼女の肩がわずかに震えた。
「……美味しい、です」
小さな声だった。それだけで涙腺が緩んでしまいそうな響きがあった。
玲華は無言で雑炊を口に運び続けた。俺はその様子を少し離れた場所からただ見ていた。声をかけていいのか分からなかったからだ。座敷の柱時計の音だけが、やけに大きく響いていた。
器が半分ほど空いたところで玲華がぽつりと口を開いた。
「私は、迷惑をかけてばかりですね」
「そんなことないですよ」
「体調管理も、時間配分も、私の責任です。それを他人に頼るのは、甘えだと思っています」
「今日みたいに倒れかけるまで頑張るのは、完璧とは言わないと思いますけど」
少し強い口調になってしまった。玲華は驚いたように顔を上げる。その表情には、これまで見たことのない、剥き出しの戸惑いがあった。
「……笹岡くんに、そんな風に言われるとは思いませんでした」
「思ったことしか言えないんで」
玲華は匙を置き俯いた。膝の上で重ねられた両手が、かすかに握りしめられていた。
「……昔から、人に弱いところを見せるのが苦手なんです」
俺は何と返せばいいのか分からずしばらく黙っていた。座敷の窓の外では、夕暮れの光が商店街の屋根を橙色に染めていた。
そこへ母さんが空いた器を下げに来た。玲華の顔色を見て何かを察したのだろう。あえて何も聞かず、ただ湯呑みにお茶を注いだ。急須から立つ湯気が、座敷の空気を少しだけ和らげた。
「高校生のうちは、無理しちゃだめよ。倒れたら、周りが困るんだから」
その一言に玲華の目にじわりと涙が浮かんだ。
「……すみません」
「謝ることじゃないでしょ。ゆっくりしていって」
母さんはそう言ってまた厨房へ戻っていった。玲華はしばらく俯いたまま肩を小さく震わせていた。座敷の畳の目を見つめる視線が、どこか遠くを見ているようにも見えた。
「鷹司さん」
「……すみません、少し、待ってください」
声を絞り出すように言う玲華に、俺はそれ以上何も言わなかった。ただ隣に座って彼女が落ち着くのを待った。時間の流れが、いつもよりずっとゆっくりに感じられた。
しばらくして玲華が顔を上げた。目の縁が赤くなっていたがその表情はどこか晴れやかだった。何かを堰き止めていた壁が、少しだけ崩れたような、そんな表情だった。
「……こんな風に、人前で泣きそうになったのは、初めてです」
「そうですか」
「みっともないところを、見せてしまいました」
「みっともなくなんかないですよ」
俺は自分でも意外なくらい真っ直ぐな声で言っていた。自分の言葉が、こんなにすんなり出てくるとは思わなかった。
「鷹司さんは、いつも誰かのために頑張ってる。迷子の子どもを助けたり、生徒会でもずっとみんなのために動いたり。それだけ頑張ってたら、疲れて当然です」
「……」
「少なくとも、俺の前では無理しなくていいですよ」
玲華はしばらく黙って俺を見つめていた。座敷に差し込む夕日が、その瞳の中で小さく揺れていた。それから小さく、本当に小さく頷いた。
「……そう言ってもらえると、少し、楽になります」
その声は学園で聞く生徒会長の声とはまるで違う、ただの十七歳の少女の声だった。
夕暮れの座敷に静かな時間が流れていた。玲華は残りの雑炊を今度はゆっくりと味わうように食べ終えた。匙を動かす手つきにも、先ほどまでの張り詰めた様子はもうなかった。
帰り際、玄関先で玲華が振り返った。夕焼けの光が逆光になり、その表情ははっきりとは見えなかった。それでも声の響きだけで、彼女が微笑んでいることは分かった。
「今日のこと、忘れません」
「たいしたことしてないですけど」
「たいしたことです。私にとっては」
そう言って頭を下げる玲華の表情にはもう疲れの色はなかった。ただ、どこか安心したような柔らかい笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見ながら俺は思う。
この人の隣にいることは、思っていたよりもずっと大切な意味を持ち始めているのかもしれない。




