第四話 ドリンクバーは、自由の味
次の日の放課後、俺は玲華を連れて商店街の外れにあるファミリーレストランへ向かった。
夕方の商店街を抜けて少し歩いた先にあるその店は、大通り沿いにぽつんと建っていて、駐車場には家族連れの車がちらほら停まっていた。看板の明かりが少しずつ強くなり始める時間帯で、店内からは賑やかな話し声が漏れ聞こえてくる。
「ここが、ファミレスですか」
「はい。安くて、色々食べられる店です」
自動ドアをくぐると、玲華は店内の広さに一瞬だけ目を見張った。
案内された席に着くと、玲華は物珍しそうにメニューを開いた。写真付きの豊富なラインナップに目を輝かせている。ページをめくるたびに、料理の写真を食い入るように見つめていた。
「こんなに種類があるのですか」
「大体どこも似たようなものですよ」
注文を済ませたあと俺はドリンクバーの機械を指さした。
「これ、飲み物が飲み放題なんです」
「飲み放題……一杯ごとに料金がかかるのではないのですか」
「一回払えば、あとは何杯でも自由に飲めます」
玲華は信じられないという顔で機械を見つめた。眉を寄せて何か計算でもするように黙り込んでいる。
「では、これも、あれも、好きなだけ飲んでいいということですか」
「そうです」
その瞬間玲華の目の色が変わった。これまで見てきたどの場面よりも、目に見えて分かりやすい変化だった。
彼女は真剣な顔でグラスを持ち、コーラ、オレンジジュース、ウーロン茶、メロンソーダと一つずつ丁寧に注いでいった。テーブルに戻ってくるたびに律儀に一口ずつ味を確かめている。まるで利き酒でもしているような真剣さで、その様子はもはやドリンクバーというより試飲会だった。
「……これは、糖度が高いですね」
「メロンソーダですからね」
「こちらは、炭酸の刺激が強いです」
「コーラですから」
いちいち真面目に感想を述べる玲華に俺は思わず笑ってしまった。テーブルの上には、いつの間にか五種類ものグラスが並んでいた。
「そんなに真剣にならなくても」
「自由に選べるという経験が、初めてなので」
その一言に俺は笑いを止めた。玲華にとってこれは単なる飲み物選びではないのだと気づいたからだ。
何を着るかもどこへ行くかも誰と会うかも、これまで全部決められてきた。だからこそドリンクバーの一杯を選ぶことさえ彼女には特別な自由に感じられるのだろう。そう思うと、目の前のグラスの数々が、急に別の重みを持って見えてきた。
三杯目のジュースを注ぎに行った玲華がなかなか席に戻ってこないことに気づいたのはしばらく経ってからだった。最初は味の比較に夢中になっているだけだろうと気にも留めなかったが、五分が過ぎた頃、さすがに違和感を覚えた。
様子を見に行くと、ドリンクバーの近くで玲華が知らない男に話しかけられていた。相手は大学生くらいの年齢で馴れ馴れしい態度で玲華の腕に触れようとしている。周囲の客たちは気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、誰も割って入る様子がない。
「ねえ、一人? 連絡先交換しない?」
「結構です」
玲華はにこりともせず、しかし取り乱すこともなく淡々と答えていた。その声には、微塵の動揺も感じられなかった。
「そう言わずにさ。奢ってあげるから」
「必要ありません」
男が更に距離を詰めようとした瞬間、玲華の声のトーンがわずかに変わった。低く、穏やかに、それでいて有無を言わせない響きだった。
「先ほどから、私の腕に触れようとしていますね。それは迷惑行為に当たります。次に触れた場合、店員に通報しますが、それでもよろしいですか」
その言葉には生徒会長として何度も理不尽な相手と対峙してきた凄みがあった。声を荒らげたわけではないのに、男は明らかにたじろいだ。
「……は? なんだよ、その言い方」
「事実を述べただけです」
言い合いが長引きそうになったところで俺は割って入った。
「すみません、連れなので」
男は俺と玲華を見比べ、面倒くさそうに舌打ちをすると、そのまま店の出口へ歩いていった。背中を見送りながら、俺は自分の心臓が思っていたより速く打っていることに気づいた。
俺は近くにいた店員にも一応事情を説明し、何かあればすぐ対応してもらえるよう頼んでおいた。店員は申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。
席に戻ってから玲華はいつも通りの落ち着いた様子で椅子に座った。だがテーブルの上に置いたグラスを持ち上げようとした手がかすかに震えていることに俺は気づいた。細い指先が、コップの縁に触れる直前で小さく揺れている。
「鷹司さん」
「……何でしょうか」
「大丈夫ですか」
「もちろんです。あの程度、対処できないほど弱くはありません」
言葉は強気だったが手の震えは止まっていなかった。強がる横顔と、震える指先のちぐはぐさに、俺は何も言えなくなった。
俺は何も言わずに立ち上がり、ドリンクバーで温かいほうじ茶を注いで戻ってきた。
「これ、飲んでください」
「……結構です」
「飲んでください」
少し強い口調で言うと、玲華はしぶしぶといった様子でカップを受け取った。両手で包み込むように持ち、湯気の立つ表面を見つめている。
しばらくして玲華の手の震えが少しずつ収まっていった。湯気が細く立ちのぼる様子を、玲華はただじっと見つめ続けていた。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
「怖かったですか」
「怖くは、ありません」
「震えてましたけど」
「……少しだけ、驚いただけです」
強がる玲華に、俺はそれ以上追及しないことにした。誰だって知らない相手に馴れ馴れしくされれば動揺する。それを認められないところが玲華らしいといえば玲華らしかった。
窓の外を見ると、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。店内の喧騒がふいに遠く感じられる瞬間があった。
「鷹司さんは、いつもああやって、自分で何とかしようとするんですね」
「……そうする以外の方法を、知らないので」
その一言に俺は何か引っかかるものを感じた。ほうじ茶のカップを両手で包んだまま、玲華は視線を落としている。
玲華は誰かに頼ることを最初から選択肢に入れていない。困っている人は助けるのに、自分が困ったときは一人で抱え込んでしまう。その姿勢は、頼もしさであると同時に、どこか危うさも孕んでいるように見えた。
「頼ってもいいと思いますよ、たまには」
「……検討します」
素直じゃない返事だったが、それでも玲華の表情はさっきよりも柔らかくなっていた。頑なさの角が、ほんの少しだけ取れたような気がした。
残りのドリンクバーを飲み終える頃には、玲華はもういつもの調子を取り戻していた。何杯目かのメロンソーダを注ぎながら真剣な顔で味の違いを分析している。
「三杯目より、こちらのほうが炭酸が強い気がします」
「気のせいだと思いますよ」
「いいえ、明確に違います」
真面目に言い張る玲華を見ながら俺は思った。
この人は誰かを守るためなら恐怖すら押し殺して前に出られる。それでいて、たった一杯のジュースの違いには、こんなにも真剣になれる。
強さと危うさが同じ人の中に同居している。
その両方をもっと知りたいと思った自分に、俺は少しだけ戸惑っていた。窓の外を見つめる玲華の横顔を眺めながら、この気持ちに名前をつけるのはまだ早い気がして、俺はそっと視線を逸らした。
店を出て駅へ向かう道すがら玲華がぽつりとつぶやいた。
「今日は、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「……次も、よろしくお願いします」
夕焼けに照らされた横顔はいつもより少しだけ無防備に見えた。街灯の明かりがぽつりぽつりと点いていく帰り道を、俺たちはしばらく無言のまま並んで歩いた。
☆
ファミレスに行った数日後の放課後。
俺と玲華は、また商店街を並んで歩いていた。
前を通りかかった惣菜屋から、揚げ物の香ばしい匂いが漂ってくる。
そこで玲華の足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「鷹司さん」
「何でしょう」
「前から気になってましたよね、ここのコロッケ」
玲華は一瞬だけ目を見開いた。
「……覚えていたのですか」
「そりゃ、あんなに分かりやすく見てたら」
「見ていません」
「見てました」
「……少しだけです」
結局認めるらしい。
店先には、揚げたてのコロッケが並んでいた。一個百円ほどで、注文すると店のおばちゃんが紙袋に入れて渡してくれる。
「せっかくだし、食べてみます?」
「ここで、ですか?」
「買い食いってやつです」
玲華の表情がわずかに固まった。
「買い食い……」
「そんな悪いことするみたいな顔しなくても」
「ですが、食事というものは本来、決められた場所で落ち着いていただくものでは」
「じゃあ、公園で食べましょう。それなら座れますし」
「……それなら、まだ」
どこかほっとした顔をする玲華がおかしくて、俺は笑いをこらえながら二つ注文した。
近くの小さな公園まで歩き、夕暮れのベンチに並んで腰を下ろす。
紙袋を開けると、まだ熱の残ったコロッケから湯気が立った。
「熱いので気をつけてくださいね」
「分かっています。以前のたこ焼きの失敗は繰り返しません」
「失敗扱いなんですね、あれ」
玲華は慎重にコロッケを持ち、小さく一口かじった。
さくっ、と衣の割れる音がした。
次の瞬間、玲華の目が少しだけ大きくなる。
「……美味しいです」
「でしょう?」
「衣がこんなに軽いのですね。それに、中は思っていたより――」
真面目な顔で分析し始めた玲華だったが、二口目を急いだせいか、急に口元を押さえた。
「あつ……」
「全然学習してないじゃないですか」
「今回は、少し油断しただけです」
涙目になりながら言い訳する姿に、俺は思わず吹き出した。
「笑わないでください」
「すみません。でも」
そこで俺は、玲華の口元に小さくソースがついているのに気づいた。
「鷹司さん、口の横」
「え?」
「ソースついてます」
玲華の手がぴたりと止まった。
「……どこですか」
「もうちょっと右」
「こちらですか」
「逆です」
何度か見当違いの場所を拭うので、俺は笑いながら自分の頬を指さした。
「ここです、ここ」
ようやく場所が分かった玲華は、慌ててハンカチで口元を拭った。
その頬が、夕焼けのせいだけとは思えないくらい赤くなっている。
「……先に言ってください」
「言いましたよ」
「もっと早くです」
理不尽だ。
それでも玲華は怒っているわけではないらしく、残ったコロッケを食べながら、どこか楽しそうにしていた。
「どうです、初めての買い食い」
「公園で座っているので、正確には買い食いと言えるのか疑問があります」
「そこ気にします?」
「ですが……」
玲華は紙袋を膝の上に置き、小さく笑った。
「こういうのも、悪くありませんね」
その一言だけで、連れてきてよかったと思えた。
コロッケを食べ終えたあと、駅へ戻る途中で玲華が一軒の店の前で足を止めた。
大きな看板には、目立つ文字で「100円ショップ」と書かれている。
「ここは……」
「百円ショップです」
「名前の通りなのですか?」
「だいたいの商品は百円ですね。最近はそれ以上のもありますけど」
玲華は店内を見つめた。
「……入ってみても?」
「もちろん」
店に入った瞬間から、玲華の視線は忙しく動き始めた。
文房具、食器、収納用品、掃除用品。棚いっぱいに並んだ商品を一つずつ確かめていく。
「これも百円ですか」
「はい」
「こちらも?」
「それも」
「このノートも?」
「百円です」
玲華はとうとう立ち止まり、真剣な顔で棚を見つめた。
「この価格で、どうやって利益を出しているのでしょう」
「やっぱりそこ考えるんですね」
「当然です。これだけの商品数を、この価格帯で揃えるには流通や仕入れに相当な工夫が――」
「今日は経営分析しに来たんじゃないですよ」
俺が遮ると、玲華は少し不満そうな顔をした。
文房具売り場へ行くと、玲華はシンプルなシャープペンシルを手に取った。
「学校でも使えそうですね」
「その辺なら普通に使えますよ」
「では、これを」
俺も隣にあった同じシリーズの色違いを手に取った。
「じゃあ俺も買おうかな」
玲華がこちらを見る。
「同じものを?」
「色違いですけど」
「……そうですか」
それだけ言って玲華は棚に視線を戻した。
けれど、なぜかさっきより少しだけ機嫌がよさそうに見えた。
会計を済ませて店を出ると、玲華は買ったばかりのシャープペンシルを袋から取り出した。
「百円でも、じゅうぶん使えるものなのですね」
「値段が高ければ何でもいいってわけじゃないですから」
「勉強になります」
「庶民体験らしくなってきましたね」
「そうですね」
玲華は自分のシャープペンシルと、俺が持っている色違いの一本を交互に見た。
「……学校では、使わないのですか」
「使いますよ。せっかく買ったし」
「そうですか」
また、それだけ。
でも今度は、明らかに嬉しそうだった。
夕暮れの商店街を歩きながら、俺はふと思った。
コロッケ一つ。百円のシャープペンシル一本。
俺にとっては何でもないものばかりなのに、玲華と一緒だと、なぜか少しだけ特別なものに見えてくる。




